歴程 ⅔
「大事なのは自分がどう思うか、ということなのです」
───そんなの分かってるよ。
「起こる事はすべてあなたから発しているのです」
───いいから、もうしゃべるのをやめてくれ。
「思いを断たなければずっと続きます」
───何が?
「あなたは知ろうとしていません」
───よけいなお世話だ。
「気づくべきです」
───べき、かよ。べきが出てきたな。
「いいかげん、拒否するのはやめなさい」
───これが俺の生き方だ。文句あるか?
「分かってるんでしょ?」
───クエスチョンマークのやり取りかよ?
「分かりたくないんですか?」
───ほっといてほしい。
最後のひと言は心の底から出てきた。一人でいたかった。話していた相手は一人だったのだろうか。たくさんの人と話していた気がする。一人にしてほしい。ぼくにかかわらないでほしい。よけいなアドバイスはいらない。自然に腐って消えていくのが望みだ。つぶやきも愚痴も残したくない。だって、美しくない。希望も残したくない。一番会いたくない人がじつは一番会いたい人だったという結論は嫌いだ。まるで父のことを言っているようでいやだ。見透かした言い方はやめてほしい。アナタハ、ドレダケ、エライノデスカ? よそう。問うてみても答えが自分にしか返ってこない質問をするのはよそう。そうだよ。その通りだよ。ぼくは死んだ父親に会いたいのさ。それのどこが悪い。会って確認したいのさ。それがそんなにいけないか? 生きているうちにきいておけばよかった。遠慮しすぎた。きいてはいけない、問いただすことになるから。そう思って質問をいつも飲み込んできた。たくさん飲み込んだので喉が詰まり、息ができず、おまけに血までドロドロ、粘性を増した。おまえのせいだ。おまえって要するにぼくだ。質問すればよかっただけ。死んだ父親の顔を見ればよかっただけ。それができなかったおまえの問題だこれは。見なかったおまえ自身を知ればいい。それで済む。いつまでも自分を見ないと鏡が腐る。曇って何も見えなくなる。今のおまえみたいにね。もし会ったらまず何をきくだろう。きっと何もきかない。なぜならすべて分かっているから。答えも質問もみな分かっていて、きかなくていいということさえ分かっている。父親はひどく優しく、ただぼくを受け入れてくれる。希望じゃないよ。希望はすでに捨てた。ただ会いたかった。会って泣きつきたかった。もう死んでしまっている。墓に抱きついてもしょうがない。だからぼくは墓参りをしているのかもしれない。墓じゃない生身の父親に抱かれたい。酒臭くてもいい。酔っ払っていてもいい。声が大きくてもいい。何でもいい。ただ抱いてもらいたい。それだけ。こんなこと言えるはずもない。だから声が詰まってしまい、せめて文にして書くしかない。こんなこと面と向かってしゃべれるはずもない。それだけぼくは大人になってしまい、子供だったときの感覚をしまい込み、周囲を気にし、周りばかり見ている。
「おまえがそのことに気づいたのなら次の課題を授けよう。これから言うことをよく聞くんだ。おまえは父親を殺した。今度はおまえ自身を殺せ。目が覚めてもこの言葉を思い出すよう、おまえの右手の薬指を傷つけておく」
起きたとき指に痛みを感じた。でも、夢に引きずられている暇などなかったのでベッドから起き上がって背広を着た。これが第一のまちがいだった。目をそらそうとしているものがあるため体がひどく硬くなっていて、何度もネクタイを緩めたり締めたりを繰り返した。息が苦しい。父を殺したことがどうして分かったのだろう? 自分しか知らないはずなのに夢が知っていたことがとてもショックだった。走らなくていいのに駅まで全速力で走った。走って走って汗をかき、体の奥から重い汗がにじみ出てくるのをまぎらわそうとした。
満員電車の中でぼくは決意した。夢を殺そう。二度とぼくを苦しめないよう、ぼくは夢を殺す。身体中から吹き出す汗であえぎながら、ぼくは天井の一点を見つめて自分に誓った。このまま夢をのさばらせておいたらろくなことにならない。毎夜毎夜夢はぼくをおどかし、眠りも、起きているときの安らぎも奪うにちがいない。車内広告のビールの美女までがぼくをおどかしている。ぼくは追い詰められていた。
新橋までもたなかった。駅名を確かめる暇もなく転げるように電車を降りて吐いた。やっとのことでベンチのそばまでたどりつき、吐いた。苦い味の液体には血が混じっていて、もちろん自分の血なのだが、半分が父親の血だと思うととても嫌なものをしかも自分の口から吐いているのだと思うとなおさら、気持ち悪く、またいっそう込み上げてきて苦しかった。朝何も食べていないので胃液で喉がピリピリする。涙が止まらない。駅員が少し離れたどころから「だいじょうぶですか」と迷惑そうな声をかける。あやまろうにも声を出せないのでただ頭を大きく振る。朝から吐いている男を見ながら黒い人の群れが通る。もう会社には間には合わない。
体を曲げた情けない姿勢のまま、涙をためてじっとしている。駅員は背中をさするわけでもなくただそばに立っている。ぼくは自分が吐いた液体を見つめる。どろっとした液体の中に混じっている血の線が笑っている人の顔になり、まぎれもなくそれが父親の顔に見え、いかにもあざ笑っているのが憎々しい。父親の支配から逃れるために殺したのに、こうしてどこまでも追ってくる。もういい加減放っておいてほしい。