東と西
鈴木 三郎助
「よく気づきましたね」
原次郎は青年の顔に、穏やかな眼差をなげて言った。
「すぐ分かったわけではありません」
青年の声は青葉のようにさわやかだった。
「でも、たまたまです。ぼくにも不思議なことです。あなたに似た後姿が目に入ったからです」
原は、まだ頭の中で疑っていた。この男が高石浩一なのか。たしかにその姿形には見覚えがあるようだ。だが、なにか別人に会っているような感じがした。
十四、五分前のことだった。本屋のあるビルから街路に出た原は、駅ビルの方角に向かって歩いていた。夕暮れ時の、人足が増えて道は混雑していた。
原は横断歩道のところに来て、立ち止まった。信号機が赤に変わったのだ。並んでいた車がいっせいに走り出した。その時、原の背後から呼びかけるような声がしたのである。原が振り返ると、
顔と頭の間に、親しげな眼差をした青年の顔があった。一瞬見覚えのあるような気がしたが、名前がでてこなかった。
すると、その青年が
「原次郎さんですね」
と、声を弾ませて言った。
「ぼくの名前を覚えていませんか。高石浩一です」
原は、青年の多少東北訛りの声音を忘れてはいなかった。
その奇遇に、二人は驚いた。
二人は、駅に近いビルの二階の喫茶店に入り、窓際に座ったばかりであった。
「お元気そうで」
高石はあらためて原の、白髪頭を見て言った。
「なんとかおかげ様で……」
原は謙虚に、笑みをうかべた。
「でも、このごろ歳を感じますね。目が悪くなるやら歯が抜けるやら、困ることが多くなりました。つい十日前に、わたしは七十五になりました。昔の人はうまいことを言いました。じつに光陰は飛ぶ矢のごとく過ぎ去るものです。あなたはおいくつになりますか」
「もう直ぐ二十九になります」
「二十九になりますか」
高石の容貌に、目を据えながら言った。
原は内心驚いていた。目の前の男が、自分の知っている高石とはなかなか結びつかなかった。原の脳裏に刻まれていたのは、陰鬱に沈んだ不気味な印象であった。目の前の彼はまるで別人のようである。そのアンバランスに驚いていた。
原が高石に会ったのは、七、八年ほど前のことだったろうか。
当時、原は長年勤めた会社を定年でやめたあと、以前から気にかけていた青少年の問題に取り組み始めていた。自分の若い頃と比べて社会の様子が変わり、生活が便利になり、物があふれるほど豊かになった社会状況にあって、若者たちの生きる姿に活力が不足しているのでないかと、原は若者を見るにつけ案じていた。彼らは彼らなりに生きているのかもしれないけれど、ほんとうに心から楽しく生きているのだろうかと、そんな思いが原の脳裏をしばしばかすめるのだった。
郊外に住んでいた原は、たびたび都心の繁華街に出かけて行った。そして若者たちを観察して歩いた。街角などでたむろしている若者を見つければその中に入って、彼らの話を聞いたり、質問したりした。原は若者と話すのが好きだった。公園で独りベンチに座ってさびしそうな若者を見かけると、その人の隣に腰を下して会話を交わすのだった。たいていの場合、原の行動は初めいぶかしげな気色で見られるのであったが、しだいに気軽に言葉を交わしあっているうちに、親しみの情が湧きおこってくるのだった。時には話がはずんで、若者は自分の悩みごとなどを、原に打ち明けたりするのだった。
原は若者を三つのタイプに分類して考えることにしていた。一つは自分の将来を見据えている若者。このタイプの多くは、自分のやるべきことを知っているので、時間を自分のために使い、人生の道草を食うようなことは無駄なことだとみなす。物事を能率的に、合理的に考え、時間を無駄にするのを嫌う、そんなタイプである。
次は、享楽的な若者。このタイプの多くは、将来のことは将来のこととして、何よりも今を大いに楽しめという若者たちである。仲間をつくり、異性と熱く付合い、大いにしゃべり、大いに食べ、大いに飲み、大いに歌い、過ぎ去る若さを謳歌しょうとする、そんなタイプである。
三つ目は、これといった目標がなく、自分から進んで人と交わろうとすることも、なにかを思い望むということもない、一言でいうならば、無気力な若者。そして、ぼんやりとした不安を身にまとい、その影に脅えるように生きているような若者たちである。
その頃、原にはある持病があった。若い時に交通事故に遭った、その後遺症が定年後になってとくに腰から膝にかけてしびれるような症状となって現われていた。そんなこともあって、彼は毎年一回、秋の終わりごろになると、人里離れた山奥の温泉地に出かけることにしていた。温泉は彼の身体を癒してくれるのだった。
高石浩一に出会ったのは、原がたまたま宿泊していた温泉旅館であった。
ある日の夕暮れ、食事前の時刻になると、いつものように浴衣姿に着替えて、原はタオルを提げて、一階の浴室に出かけた。客がいなく、原は湯壺につかっていた。鼻歌でも歌いたくなるようないい気分になっていた。しばらくして入口のドアーがそうと開けられる音がした。人の気配に、原は閉じていた目を開いたら、湯けむりの立つ中に人影が見え、痩せた若者のようであった。男は原の視線をさけるように、細長い腕で顔を覆う仕草をした。そして音を立てず、肉の落ちた胸を恥じらうように湯の中に身を沈めた。
原の目には、湯壺に浮かぶ若者の後頭部しか見えなかった。それでも、原は一声かけてやろうと思った。だが、喉から声が出なかった。何か人を拒んでいるような雰囲気がそこに感じられた。原は再び目を閉じた。
原は湯から上がり、ちょっと風変わりな若者だと思いながら部屋にもどってきた。そして湯上り後の習慣として窓際の肘掛椅子に腰を下した。眼前に迫る紅葉の、いくぶん盛りの過ぎかかった山並みが、山の背に沈みかけた太陽の斜光を浴びている。山間がうすい闇につつまれる前のかすかな静寂の音が聞えてくるようである。原はそんなひと時が好きであった。
食事は階下の広間であった。料理の盛られたテーブルが七つあった。五つのテーブルでは食事が始まっていた。原は自分の名札の付いた席に着いた。
しばらくして、若者が入ってきて原の隣の席に座った。原が湯壺で会った男である。ほかの客は浴衣姿であったが、その男は紺の厚手のセーターにジーパン姿で、ほっそりして背が高かった。顔色がわるく、虚ろな目をしていた。原は冷たい風にふれたような感じを受けた。彼はのろのろと喰い始めたが、その食べ方が、いかにも口に入れるのが面倒くさそうである。原の目にそう映った。
翌日、原はコンビニに食糧の買い物に出かけたが、その帰り道に旅館の近くを東西に流れる渓流のほとりを歩いてくると、捨てられたミカン箱に頭を下げ、かがむように座っている男の姿があった。
昨日、湯壺で会った彼である。原は男のそばまで来ると足を止めて、
「気分でも悪いのですか」
と、声をかけた。
若者が病気持ちのように見えたのである。応答がなかった。そこで、原はもう一度話しかけた。すると、若者は顔を原の方にかたむけたが、その目の奥に
「おまえになんの関係があるのか」という蔑視の色がにじんでいた。だが、そんなことは若者にはよくあることだ。原は大人と同じように若者にもいろいろな表情のあることを知っていたので、いつものように平静な態度で、優しいほほ笑みをうかべた。そして、沈黙の中で寛いだ気持ちになっていた。
若者は原に関心がないようであったが、原は若者に関心があった。
五分ほど経った。
「あなたは誰です?」
若者が頭を下にかたむけたまま、つぶやくような声で言った。
原は若者が声を出したのに驚いた。だが、ほっとした。原は自分の名前を告げた。そして、自分が温泉旅館に来ているわけを短く話したあと、
「からだでも悪いのですか」と、ふたたびたずねた。
若者は頭を下げた姿勢で、口を閉ざしている。しばらく原も問いかけず黙っていた。
野鳥の鳴き声がした。赤褐色の葉をつけた桜の梢で鳴いているようである。原は小鳥の囀りに耳を傾けながら、若者が口を開いてくれるのを願っていたが、
「あなたはどこからおいでになりました」と、言葉づかいていねいに聞いてみた。
すると、若者は答えた。
「東京です」
「東京のどこですか」と、原はきいた。
「井之頭公園の近くです」
原は学生の頃、ひと時その近辺に住んでいたことを話した。そして、自分が岩手県の生まれであること、実家は農家であること。アルバイトをして大学を卒業したことを話した。
若者は相変わらず、顔を足元の枯草にかたむけたままである。
何か大きな悩みを抱えていることは、若者の様子から感じていた原は、若者が口を開いてくれるのを願いながら、心を和やかにして待っていた。
しばらくして、原は声を聞いた。つぶやくような小声である。
「いやだ、いやだ」
両手で頭髪をかきむしろうとする仕草に原は、この男は何に脅えているのだろうと、静かに考えた。
それから若者は自分のことを語りだしたのであった。原の問いかけに子どものような素直さで応えた。自分は福島県の山村に生まれて、実家は製材業を営み、裕福であるということや三人兄弟の末っ子で、甘えん坊あったことを話した。父親は自分が学問したかったのに、それが叶わなかったから、子供たちには大学に行って広い教養を身に付け、立派な人になって欲しいという願望があった。長男も次男も勉強ができ、大学を出た。十歳離れた上の兄は家業を継ぎ、次の兄は市役所に勤務していた。自分は幼少の頃体が弱く、直ぐ風邪をひく子であった。親は兄たちにたいして厳しかったが、自分には甘かった。とくに母が無理なことをさせないように気配りをしたので、自分は気の利かない、気ままな少年になっていた。自分が東京の大学に入ったのは、自分の意志で選んだのではなく、親や兄の勧めであり、経済学部に入ったのも他からの勧めであった。大学はつまらないところだと決めつけて、親や兄の反対に耳を傾けることなく、二年足らず退学したことを、原に語ったのである。
原は先ほどから感じていた。自分が語りかけることにたいして若者が嫌がっていないことを。話す相手がいて、むしろほっとしているようにも見えた。彼は時々頭をあげた。顔を原の方にむけて話した。
だが、彼の顔は沈鬱であった。その顔は蒼白で、死相ともとれる忌まわしいものをにじませているのであった。
原は、この男は何かを企んでいるな、と直感した。背筋を氷が滑って行くよう痛苦を覚えた。話が途絶えた。原は目を閉じて、心を和ませようとした。まず自分の中から先入見を捨て、心を白紙にしなければならないと考えた。これは原がそれまでの若者との間で学んだことであった。
しばらくして原は言った。
「死ぬことを考えていますね」
若者は直ぐには返答しなかた。頭を下げたまま、足元の枯草を見ていた。
「なぜ?」
と、原は問いつめた。
「もう生きているのが嫌になりました」
若者は低い声で、雫が垂れるようにぽとりといった。
原は驚かなかった。多分そうだろうと思っていたからである。だが、事が重大だ。若者の苦悩をもっと聞かなければならないと考えて、原は温泉旅館の自分の部屋に来ないかと誘った。彼は拒絶した。けれども原は心からその男と語り合いたかった。男は仕方ないといふような気乗りのしない顔をして原の後ろについてきた。
二人は部屋に入り、座卓前に腰を下した。原は何か飲むかとたずねた。若者はいらないと言った。
原はやさしく
「何でも話してください」と、言った
若者は相変わらず腑に落ちないような態度をしている。原はそれを苦にせず、おおらかな気持ちで彼が口を開くのを待った。
しばらくして若者は観念したように顔を和らげた。それから自分が大学をやめた後、自分がしたことや自分に起こったことをしゃべり始めたのであった。
その話の内容はこうであった。
事の始まりは、彼が恋をし、失恋したことであった。彼が大学をやめたのは、それが大きな原因だった。
田舎から上京した彼の心には、憧れと劣等感が同居していた。都会の女が美しく見え、彼の単純な心を悩ました。大学一年の時、彼は国文科の女の子と知り合い、お互いに好きになった。都会育ちの彼女は目のぱっちりした可愛い子で、陽気で華やかな性格をしていた。彼が恋心をおずおずと打ち明けると、彼女は困惑することなく、いとも率直に受け入れてくれた。彼はその度量の広さに吸い込まれたのだった。二人は懇ろになった。ともに食事をし、ライブにも出かけた。夜の公園でキスをした。彼は恋の甘味に酔った。ところが、月日が経つうちに、彼女には数人の恋人らしい男がいることが耳に入ってきたのである。恋にひたむきであった彼には、悩みの種であった。彼女は自分一人だけのものでなければならないと考えると、彼にとって彼女の行動は許されるべきものではなかった。
ある日、彼は彼女を問いつめて、こう言ったという。
「ぼくが君を愛している。それを分かっているのかな」
「わたしはあなたが好きだわ」
彼女は答えた。
「では、他の男と別れてくれないか」
「それがあなたの命令なら、受け入れられないわ」
「なぜ?」
「わたしは命令されるのが大嫌いなの。わたしたち、命令で動いているわけでないでしょう」
「でも、ぼくは君だけを愛したいので、君にもそうして欲しいのだ」
「わたしは自由でありたいの。わたしは独占されるのも、独占するのも嫌なの。青春を鳥のように羽ばたいていたいの」
彼は恋の翼を自分で切断して、落下したのだった。大学はまるで墓場のようになってしまったのだった。
彼は大学をやめた。失恋の屈辱を払いのけようと彼は酒を覚えた。酒は頭を麻痺させたが、逆に心を目覚めさせた。楽しかった日のことが細かく浮かんできては彼を苦しめるのだった。彼は酒に溺れるのをやめた。次に始めたのは仕事であった。アルバイトをした。コンビニの店員、清掃、郵便配達、日雇いなどを転々とし、肉体を疲れさせた。しかし、心の傷は深かった。
彼は仕事をやめ、部屋にこもり始めた。そうして、毎日が雨模様の部屋の中で、心の窒息にあえぎながら過ごしていた。食欲がわかず、身体は日に日にやせ細っていった。あるとき、そんな彼を見た大家のおばさんに、
「あなた、どこか悪いのではないの。病院に行かなければならないわよ」と言われたというのだ。彼はしぶしぶ近くの病院に行ってみた。医師は彼を躁鬱病と診断した。かなり重症なので直ぐ精神病院に入院しなければいけないと言われた。紹介状を書いてやると言う医師の勧めを彼は断り、三週間分の処方の薬だけをもらって帰った。
彼は明暗の日々を送った。欝の時は何も食べず床の中にもぐっていた。躁の時は晴れた日のように気分が爽快になった。この世に不可能なことなどありえないと全身で感じるほど高揚した気分になって、酒を飲み始めるのだった。
彼はとうとう自分に決断を下した。自分の病を救ってくれるのは生きることを断念することだ。それ以外にどんな手段もない。
彼はその場所を探し求めてきたのだった。
原次郎は若者の話すのを、口をはさまず耳を傾けていた。
原は若者の話に驚きを示さなかった。このような悩みを抱えた若者は少なからずいることを知っていた。これまで原は深刻な若者と出逢って、アドバイスをしてきた。しかし、こういう類の問題は励ましやアドバイスをこえるものだと、原は考えるようになっていたのである。体の奥の心に深手の傷を負った者を、人は真に癒やしてやれるものだろうか。それは自分の力の及ぶものではないことに原自身は気づき始めていた。
原はその時、若者にこう言って、別れたのだった。
「人の命というものは不思議なものです。自分がどうして生まれたのか分かりません。母が産んでくれたのは分かります。しかし、子供を産んだ母はなぜ生んだのか、実は分かっていないのです。人の運命というものも、同じように不思議なものです。あなたが恋した女に出会ったのは一つの運命です。他の選択などありません。あなたの人生は起こるべきして起こったのです。それが人生の現実です。あなたが死にたいと思っているようですが、人の命は自分だけの思いでとげられるものではありません。何事にもそうなる時というものがあるのです。あなたが死ぬつもりでもその道のりで、あなたがどんな運命に出会うか、分かりません。あなたはわたしに自分の苦悩を打ち明けてくれました。あなたはこんなことがあると考えてみましたか。わたしはあなたにどんなアドバイスもできません。わたしはあなたに出会えたことをうれしく思います」
原次郎は若者にそう言った。
翌朝、若者は原に何も告げることなく、姿を消したのだった。
原次郎は若者の顔をじっと眺めていた。顔色が良く、目は生き生きして、活気に満ちている。人生を善く生きているなと思った。
原は彼と会った時のことを思い起こして、彼のその後のことが知りたくなった。
「あなたは、あの時たしか自殺をほのめかしていましたね。わたしと会った翌日、あなたにもう少し話をしょうとしたら、あなたはすでに出かけていましたね」
原が話題にしていることが、二人があった時のことであることを受けとめて、高石は言った。
「あの時は失礼しました。自分のことしか考えられなかったのです」
「あなたは現在、人生に生き甲斐を感じているように見えます。当時は全くそうではありませんでしたね。あなたにどんな変化があったのか聞かせてもらいませんか」
「ぼくは原さんにいつかお会いしたいと願っていました。そして、お礼を言って、自分の身に起こったことを伝いたいと考えていました」
高石はそう言って、次のようなことを話したのだった。
「あのとき旅館を朝早く出たぼくは、電車に乗ったが、頭にははっきりした行き先はありませんでした。ただ電車を乗り継いで降りたのが福井県の、ある駅でした。そこからバスに乗って、日本海に面した海岸近くで下りました。その場所は自殺者の多い場所として知られたところで、ぼくは死ぬつもりで、そこにたどり着いたのでした。
そこは断崖がそそりたった荒涼としたところで、強い風が吹き、空はどんよりとして、まわりには人の姿がありませんでした。ぼくは断崖絶壁に立ちました。そこから身を投げるのだという思いで立ちました。未練なんてありません。どうしょうもない自分から脱け出したかっただけでした。さあいっきに飛び降りようとしたとき、目を下方に向けたのです。すると、自分に異変が起きたのです。頭がくらくらして倒れそうになったので一歩退いて地面にうずくまってしまったのです。ぼくは何度か同じ試みをしました。不思議なことに、ぼくの目の前に透明な壁のようなものがあって、自分の行動をさえぎっているようなのです。荒々しい波が絶壁の下で激しくぶつかり、怒り狂った叫びの声だけが意識に伝わってきていた。そのことが今も、脳裏に刻みこまれているように残っています。実に妙なことです。その後のぼくの人生において、その荒れ狂う波の音が、ぼくを鼓舞するように耳の底から聞こえてくるのです。
崖の縁にしゃがんだまま魂を抜かれたように、ぼくは身動きできませんでした。その時の気持ちは言葉では表せないものでした。十四、五分そうしていたのだろうか。ぼくは身を起こして、断崖の縁から離れ、歩き出したのです。途中道端に座っていると、土地のばあさんが通りかかり、ぼくをじろじろ見つめて、
『おまえさん、お腹が空いているのではないのかね』
と、訊ねたのです。
そう言われてぼくは、朝から何も食べていないことに気づいたのです。
『顔に血の気がなからんな』
ばあさんはつぶやくように言って、ぼくの脇の枯草の上に腰を下したのです。そして、手提げ袋からパンを取り出して召し上がれと言ったのです。ぼくはむしろ水が飲みたかった。水を乞うとボトルに入った水を出してくれたのです。
『旅のものかね』
『……』
『死のうとしてここに来たのとちがう?』
ばあさんはぼくの心を見通していました。
『わしは長年この土地に住んでおって、たいがいのことは見分けがつくもんでな。死の病に取りつかれた者は、その臭いがただよってくるなんだ。この場所は昔から自殺の名所として知られておるもんで、毎年何人か命を落としておる。だがな妙なもんで、ここに死ぬつもりで来ても、そう容易に死ねるちゅうもんでない。死ぬには、自分の心だけではできんというもんだ。人には分からんが、死というもんは、その場所とその時というものがあるものなんだ。他人の死をまねしてはならねい。ここに来る者は、よそもんの死をまねしてやって来るもんが多い。それでは死ねんよ。自分から求めないでも、死の時というもんは、あるもんだ。その時がくるまで、悔いなんかないよう生きるものなんだ。わしは人の死を、多く見てきたもんでなあ。ばあさんがこんなことを言うもんで、地元では馬鹿ババア言われておるんです』
ばあさんは皺顔をゆすぶって、声を出して笑った。
『身体は大事にしとかんと……』
ばあさんはやさしい目でぼくを見つめ、立ち去って行きました。
その後、どう行動したのか思い出せないのですが、ぼくは駅前のビジネスホテルに宿をとったことは確かです。買ってきた弁当を半分残したまま、ベッドに身を投げ出すと朝方まで爆睡したようです。明け方に夢を見ました。昼間の月のように淡い夢でした。でも、夢の中に、幼少期の自分がいて、まだ若かった父と母がいました。自分は庭の柿の木に上り、得意になっている。そんな夢でした。上京以来、親の夢はみたことがなかったので、気になる夢でした。その夢がきっかけというわけなのだろうか、家族が住む故郷が、懐かしく瞼に浮かんできたのです。それまでは全く故郷という言葉が頭から消えていました。
親との間に確執がありました。こんな愚かになってしまった自分を父は許してくれるだろうか。家の玄関を跨がせてくれるだろうか。ぼくは考え悩んだ末、心を決しました。親のもとに帰って、心から詫びて、素直に謝ろう。一度死んだと思えば、できないはずがない。そう決心してぼくは帰省しました。ところがぼくが、恐れていたことは起こりませんでした。痩せ衰えてあまりにも変わり果てたわが子を見て、母は涙を流して、『よくもどってきた』と迎え入れてくれました。
ぼくは元気を取りもどしました。躁鬱病はどこかへ消えていきました。家業の製材業を手伝うようになりました。今ではその社員として働いています」
高石はそういうことを原に話したのだった。そして、彼は
「仕事のことで東京にきている時に、こうしてお会いできて、うれしいかぎりです」
と、もう一度繰り返した。
原も同じような気持ちであった。こんなことは多くあることではなかった。全く稀なことだった。人生に絶望して、死の妄想に取りつかれた若者が、今元気に活動をしていることは、原にとって喜ぶことであった。だが、高石が自分をこんなにもありがたく思っている理由を、原はまだ納得できずにいた。
「ちょっと聞きたいのですが」
そう切り出して、原が訊ねた。
「わたしは温泉宿であなたと会って、衰弱していたあなたが気になって、あなたに話しかけたのですが、その時あなたはどんな気持ちでいたのか、わたしにはよく分かりませんでした。あなたがその時わたしをどう思ったのか、話してくれますか」
「ええ、そのことをお伝いしたかったのです」
高石はそう言って、語を続けた。
「ぼくは何か月も部屋に閉じこもっていたので、人から話しかけられるということは全くなかったのです。ぼくには他人がいなかったのです。ぼくは孤独でしたが、その孤独という意識もなくなった変な生き物になっていいたように、今になってそう思うのです。ぼくは救いを漠然と求めていたようです。その一方で、自分という存在から逃げたいという強い気持ちもあって、もういたたまれなくなって部屋を飛び出したのです。そうして、たどりついたのがあの温泉旅館でした。そこでぼくはあなたにお会いしました。初めは誰にたいしてもしていた拒絶反応でした。おれにたいしてかまってくれな、という気持ちでしたが、あなたはぼくの心に何か呼びかけているようでした。ぼくは少し心が和らぐように感じました。それまで忘れていた感覚が目覚めてきたような気持ちになり、自分のことを素直にしゃべられるようになったのです。ぼくはあなたに自分自身を打ち明けました。あなたは真面目に聞いてくださったことで、身体にへばりついていたものが溶けるようになくなったように感じられたのです。だが、翌朝になってぼくは何かに追い立てられるように旅館をでて、電車に乗りました。そしてたどり着いたのが、断崖絶壁でした。ぼくは死ぬつもりだったのです。ところが、死ねなかったのです。死の方がぼくを拒んでいることに気がついたのです。土地のばさんに出会いました。あの時、なぜあのばあさんに出会ったのか、不思議なことです。出会いというものにはつながりがあるということが分かりました。もしもぼくが原さんにお会いしなかったら、そして、自分の心の内を語らなかったなら、ぼくはあのばあさんにも合わなかっただろうと思いました。ぼくが行くべきところは生まれ故郷であることを示唆したのは、ビジネスホテルで見た朝方の夢でした」
原は高石の語るのを穏やかな気持ちで聞いていた。あのとき、命の不思議、運命の不思議のことを、この若者に語ったことを思い出していた。人と人の出会いが、その人の運命に介入していく、この真実は古来変わらないものなのだと、改めて原は思った。彼は恋する相手に出会って、失恋した。そこから彼の人生が始まったのだ。彼は失恋の地獄に迷い込んでしまったのだ。しかし、そこから彼は出ることができたのだ。原は喜び、出会いの奇妙な意味をかみしめていた。
(おわり)