序
ふたがさびついたドロップの缶。
鍵をなくした宝石箱。
ほこりをかぶった庭の物置。
だれも住んでいない古いアパート。
星影を映す夜の校門。
遠い旅に出た叔母の部屋。
母が帰ってくるはずの玄関。
閉ざされた心の扉の内で、小さいけれども、触わればやけどをするような灯がともります。今まで気づいたことがなかった熱い火種は、ゆっくりと呼吸するように薄暗がりのなかで明滅しています。
それはせせらぎに沈む木の葉のように、やがて風のながれに消えていくのでしょうか。
それとも、折しもの突風にかきたてられて、わが身を燃やし尽くそうとするのでしょうか。
いまはまだ。
そのすきまからもれてくるのは、なま焼けの白い果実の吐息だけ。
どうしてまだ始まらないのだろう。
どうして? どうして君はいつもこどもみたいに待てないんだ? 三色キャンディが口のなかで溶けてなくならないと、あの夢は始まらないって知っているじゃない。
ちいさな家
古都観音崎市にある喜多原美術館は、明治の豪商喜多原伝蔵が、絹製品の貿易で築いた財を傾けて集めた西洋絵画を収蔵するぼく立美術館として有名だ。生前はスキャンダルに事欠かない派手な人生を生きた成金が、今ではだれも振り返らない二流の画家の、なんでこんな古色蒼然とした絵ばかりを集めたのか、ぼくは理解に苦しむところがあり、めったに館内に入ることはなかった。
だけど、建物はじつに面白かった。和洋折衷もここまで度を越せば、アバンギャルドと呼んだほうがいい。相当才能のある建築家を起用し、各方面の腕のある職人を動員したものとみられるが、デザインの基本は、喜多原伝蔵その人が、口角泡を飛ばしながら、自分の思いつきの発想を無理やり形にさせたとしか思えない。
ただ残念なことに、美術館を最後に訪れた18年前でさえ、歳月は、その奇矯ぶりをすっかりおとなしく飼いならしてしまっていた。古びて摩滅したという意味ではなく、折々修復するたびに、角が削られ、トゲが抜かれていったのである。そして5年ぐらい前に、美術館が全面改築されるという報に接したような気がするが、それで美術館へのぼくの関心は完全に蒸発してしまった。その後どうなったのか、知ろうと思ったことは一度もない。いかなる歴史的文化財の格式にあてはまらない建物は、だれの目にも心地よいのっぺりした現代建築に改築されたに違いない。
じつは、かつてこのあたりを散策する愉しみは美術館のほかにもあった。そのことを思い出すと、白髪の店主が無愛想な顔で一心不乱に入れる珈琲の香りが、鼻の奥をくすぐるような気がしてくる。
そのカフェの名前はホルバインと言った。名の由来は、美術館が所蔵する目玉の作品の画家にあり、来館者が流れてくるのをあてこんで付けたものに違いない。店は美術館に隣接する古い石造建築の一画にある。美術館とこちらの建物がどういう関係にあるのか定かではないが、建築の石材はベージュ系の花崗岩で、両者よく似ているので、同時代の建造かもしれない。ひょっとして建築家も共通かもしれないが、フォーマルな新古典様式からして、喜多原伝蔵の息がかかった建物ではなさそうだ。
ホルバインも8年ほど前に閉店してしまったことを知人から聞いている。だからもはや、喜多原美術館のあたりを散歩してみたいという気分になることもない。ただ、なんのみれんもない界隈についてくだくだと書いている理由はひとつだけある。
とうの昔に煙草を止めてしまったぼくが、捨てられずに机の引き出しの奥に取っておいたたったひとつのマッチ箱が、ホルバインのマッチ箱だった。捨てずにいた理由は、アルファベットで書かれた店名の下に印刷された写真がえらく気に入っていたからだ。写真は、「ちいさな家」としか呼びようのないちいさな家だった。ホルバインのどの絵のモチーフともかかわりがなさそうだし、カフェのある石造建築ともつながりがない。
カフェのオーナーがなぜこんな写真をマッチ箱に使ったのかということは、最大のなぞなのだが、ぼくは、まじめに詮索してみようと熱意をもったことはほとんどない。
切妻屋根のまことにシンプルな平屋で、幼児が、家というものを画用紙にはじめて描いてみたとき、十中八九こんな家を描くだろうと思われる、“家”というものの原型のような形だ。正面中央に頑丈そうな玄関扉があり、その左右に、十字に格子が入った同型の窓が一対ある。
マッチ箱を手にするのはごくたまで、机の引き出しの中をかたづけているときに、文房具などの下からひょっこり現れたようなときに限られている。そうしたときでも、何か特別な懐かしさがこみ上げてくるというわけでもない。なぜなら、なんの変哲もないこのちいさな家の像は、18年の歳月を耐えて、少しも鮮明さを失わず、ぼくの心のなかにしっかりと居場所を占めているからだ。
ぼくはそれを、ただちいさな家としか呼ばないが、その像がぼくの心に刻まれたままになっているのには二つの理由がある。
ひとつは、幼児でも描ける家の原型的なイメージではあったにせよ、屋根のこうばい、窓や扉の大きさ、それらの配置が、手の加えようのない完璧さをもっていたこと。
ふたつ目は、窓枠と格子の色と形、そして窓に見える光景のことだ。それらは少し太めの木の部材で組まれているが、窓のアクセントという任に甘んじず、ガラスをしっかりと支え、どんな風にもささやき声ひとつ上げないように見える。何度も塗り重ねたのか、ペンキがごわごわとした凹凸をつくっている。
写真の中のガラス窓は、家の中が薄暗いために、もっぱら外界を写したタブローとしてあり、枠と格子は年季の入った額縁をなしている。ガラスのキャンバスには、家の向かいに立つ電柱と、その横から腕を伸ばす何かの広葉樹の枝、空に浮かぶふんわりとした雲が描かれている。
ただ、窓に見えるのはそれだけではない。ゆがんだ円を組み合わせたような何かのシルエットがある。電柱や木の枝にくらべて、輪郭があいまいなために、ぼくは家の中にいるだれかではないか、と推測している。電柱のうしろを通過する歩行者とも言われるかもしれないが、どうも遠近感のつじつまがあわない。どうでもよさそうなことだが、マッチの図がイラストや絵ではなく実写だということから、どちらなのかという好奇心はいやおうなく増幅されてしまう。
そのことも含め、この家がどこかに確かに存在したのだという思いが、ちいさな家についての心の残像をどんどん強めてしまったように思えてならない。
ところで、夢というのは不思議な力をもっている。たとえば、どうしても解けなかった数学の難問の解法が浮かんだり、発明のアイディアを思いついたり、作曲家に旋律のインスピレーションが現れたりとか。要するに一途に思い続けていたもやもや事に、ふっと打開の光明をともしてくれるということが、夢にはあるのだろう。といっても、夢に超自然の力があると信じているわけではない。打開の光明とは、もともと自分のなかに眠っていた何かで、それがある日ふとしたことで目覚めるということなのだろう。
それがぼくに訪れたのは三日前のことだった。前日はよんどころのない用事でK町とT市を徒歩で二往復半しなければならなかったその夜で、妻のはき古したストッキングみたいに疲れ果てて、夕食もとらずにベッドにもぐりこんでいた。
その夜、ちいさな家の十字の格子はくっきりとした影になっている。窓の向こうに光が灯っているからだ。もちろん、あのゆがんだ円を組み合わせたようなシルエットにも光は注いでいる。
そうだったのか、とぼくは納得する。すぐに確かめてみなければならない。
ぼくは飛び起きて仕事部屋へ行き、机の引き出しの中を引っかき回してみる。気がつけば、机の上で、書類や小物をなんども積み上げて、またなんども横に積み直している。
しかし、どこへ行ってしまったのやら、ホルバインのマッチ箱はどうしても見つからない。
穴
沿岸であさりや小エビを漁りする猟師や中高年のウインドサーファーたちが、ランドマークにしていた毛島海浜公園の展望台も、コンクリートがすっかり削げ落ちて鉄骨だけを残すいまとなっては、だれも登ることはできない。温かい海風が吹く緑鮮やかな芝生の広場には、犬を引く散歩者ひとりいない。
初夏の日ざしを満喫しようという気まぐれを起こしてみたものの、だれもいない海というのは退屈なものだ。しかたなく、公園から砂浜に降りてみる。どこまでも続く渚の黒い帯は、ゆるいカーブを描いて見渡す限りの果てまで続いている。
水平線がかすかにけむる海を左に、ぼくはもうずいぶん長い距離を歩いている。海岸に沿って走るK3C線のかぐら浜海水浴場駅まで、800メートルという案内をどこかの看板で見て歩くことにしたのだが、もう小一時間も経っている。舗装道だったらもう4キロは歩いているはずだ。もっとも、一歩一歩くるぶしの下まで砂にはまりながらの歩行なので、まだいくらも歩いていないのかもしれない。
そうかもしれないが、右手は、高さ5メートルはある堤防が延びていて、駅への案内表示もあたりの地図も何も掲示されていないので、とうに目的地点を行き過ぎてしまったのではないかという心配もある。壊れかけたプレートであっても、どこかへの表示があれば、試しに堤防の上に登ってみようという気にもなる。とはいえ、今まで歩いた道程には堤防に登るための階段もはしごも見当たらない。
そのことに気づくと、この堤防は公共建造物として恐ろしい欠陥があるということに思い至り、にわかに胸の中が怒りと不安にざわめいてくる。もしも、突発的な天候現象によって大波が沸き立ち押し寄せてきたらどうなるのか。そのとき砂浜で遊んだり歩いたりする人がいたら、コップの底で歩きまわっている蟻の上に、いきなり水を注ぐようなものではないか。
そんなことを考えながら、堤防の方を改めて眺めてみると、まるで人間をきっぱり拒絶しようというかのように、上方が反り返った無慈悲な形状であることに気づく。仮に腕力のある者が、コンクリートの割れ目に指を入れながらよじのぼっていったとしても、最後に上辺で仰向けにされて力尽き、体を支えきれずに背中から落下することになるだろう。
とは言うものの、今は見渡す限りこのあたりにはぼくしかいない。ここにぼくがいるというのはぼくなりの動機があり、ここにいない者たちには、いないというそれなりの理由があるはずだ。個人的ないらだちを、あたかも人類と共有しているかのような物言いにすりかえることはいかがなものかとも思い、気を落ち着けることにする。
歩き始めたときよりも、風がだいぶ強くなってきた。ときおりつむじ風に巻き上げられた細かい砂が、チョコレートケーキにシュガーをまぶすように、体に降りかかってくる。
ぼんやりと太陽の輪郭を透かしていた薄曇りの空は、水に浸したパンのようにふやけはじめている。その白い肌の、水平線近くの一画が腐ったように影を帯びて黒ずみ、それがみるみるふくらんで、中天に向かって仁王立ちしようとしている。しばらく前まで、なめらかな海面に銀箔片を散らしていた海は、あちらこちらで褐色を帯びた筋を泡立たせはじめている。
早く堤防の上に登らなくてはならない。
しかし、乾いているはずの砂はいつのまにか粘度を上げて、一歩踏み出すために砂から引き抜こうとする足に、どんどん過剰な力を求めるようになってきている。
腐った魚介の臭いのする廃油のような水が足元まで迫ってきたときは、もう走ることはおろか、一歩の足をねばねばした砂から引きぬくこともできず、膝まで汚水に浸るにまかせようと、半ばあきらめの境地にまで心はすさみはじめている。
だから、堤防の壁面に、一畳ほどの大きさのトタン板が立てかけてあったのを見ても、はじめは、どこからか流れついた貨物船の投棄物ぐらいにしか思わない。だが、よく見ると消えかかったペンキのなかに、「COPT方面」という文字が読み取れる。そんな場所は聞いたこともなかったが、どこかこの堤防の上の方にあって、どこかに吊るしてあった案内板が風に飛ばされてここまで落下してきたのだろう。
いずれにしても、そんな案内のメッセージなど、ここから脱出するためには何の助けにもならない。それよりも、この砂浜を歩行するために体力の限りまで消耗していた今は、ほんのわずかでも休息が欲しかった。トタン板を引き倒して、ぬかるんだ砂の上に敷けば、棒杭のようになった足を投げ出して少しは休むこともできるかもしれない。
振り返れば、互い違いに刻まれた点の平行線がどこまでも果てしなく延びている。砂をなめる波によってところどころかき消されているものの、ぼくの過ぎ去った時間が確かにそこに残されている。それがぼくのすべてだということだ。ぼくの未来にはまだ何もない。
馬鹿笑いの歯並びのような長大な堤防は、ぼくの過去の方にも未来の方にも延々と連なり、いつまでも嘲りはやまない。でも、ほんの少し気を取り直したぼくは、もう未来の方には向かわない。再び持ち上げた重い足を、こんどはトタン板の方に向かって一歩一歩踏み出していく。
やっとのことでトタンの端に手が届くと、ためらうことなくこちらの方に引き倒す。そのやり方が前後の見境いがなかったために、板は自分の方に覆いかかってくることになる。それでもなんとか、体ごと泥砂の上に倒れこんでしまうのには耐えて、肩と頭でなんとか板を支える。そんな風に一人でギャグコメディのような悪戦苦闘をしていたが、板がたてかけてあった方の壁にふと目がいくと、腹の底から怒涛のごとく笑いがこみあげてくる。号泣と紙一重の爆笑だ。
笑いはスコールのように、襲来とおなじく前触れもなく消えてしまう。
それは通路というよりも、洞窟への暗い入路のように見えた。入り口の縁の部分は、ぼろぼろに崩れている。そのために、建築の造作でつくられたものか、原始的な道具で掘られたものか、風雨の侵食で生まれたものか、ほとんど判別しがたい。
背後には広大な海原があり、見上げれば果てしない空があったが、まるで魅入られたようにぼくはここまでやってきてしまった。穴の中から漂ってくるえもいえない腐臭が、強く鼻をつく。それだけでも、穴はぼくをはっきりと拒んでいるように思えたが、この得体のしれない暗い穴しか、もはや選ぶ道は残されていない。
穴に一歩入ると、地面は乾いたコンクリートになる。それだけでも溺れかけた底なし沼から救い出されたような気分になった。数歩歩くと道は右にカーブしはじめていたために、目が馴れる間もなく背後からの光は閉ざされてしまう。はらわたのなかをまさぐるように、ぬるぬるとした壁を手で伝いながら前に進むことを余儀なくされる。
穴に入る前にはとても耐えがたいと思った腐臭はいつの間にか消えている。腹に力をためて大声で「あーー」と叫んでみるが、パンクしたタイヤが最後の空気を放出するときの「ぷすっ」という情けない音しか残らない。地面にかかとをぶつけてみても、上質のカーペットをスポンジでたたいたほどの音もたてない。ここがまっすぐな通路だということは、歩を進める足と、壁を確かめる指が教えてくれたが、手がかりはそれしかない。自分がここに在るということはほんとうに確かなことなのだろうか。
そもそもここはいったいどこなのだろう。あの腐臭が失せたことは幸運だと思うが、土の匂いでもカビの匂いでもいいから、ここが現実の世界だということを示してくれる確かな何かがほしい。砂漠で水を求めて砂のなかに頭をつっこむ者のように、いきなりぼくは壁に顔をこすりつけ、大きく口を開けて舌を出して、まるで乳房を口で愛撫するように、ぬるぬるとした壁面をなめまわしている。しかし、舌にはねばねばとして湿り気がこびりつくだけで、味も匂いも残らない。
でも、ぼくはここに閉じ込められたわけではない。ただ前へ前へと足を進めればよかったのだ。足を止めるという意思的な行為そのものが、ぼくにちょっとしたパニックを起こしたのだ。
暗黒には、おそらく匂いの闇があり、音の闇もあるのだろう。闇のなかでの想像の時間は、溶けた飴のようにどこまでも延びていく。こうして妄想としてふくらみはじめていた時間は、5分か6分のことだということがわかっている。 なぜ断言できるのか。砂浜で足を取られて歩いていたときは、その歩みを一刻でも早く終わりにしたいと念じてばかりいたので、歩数をずっとカウントしていた。公園から砂浜に降りてこの穴にたどりつくまで、18,343歩を砂に刻み、穴に入る前にぼくはその数を心に銘記した。
穴に入ると、暗いために歩幅が不規則になることを予期し、自分の呼吸を数えることにした。そして、右側の壁の先にぼんやりとした明るみを感じて、安堵の深い吐息をした今、217回をカウントしたところだ。
その深い呼吸とともに、新しい臭気、花とか樹木とか魚介の腐敗臭ではない、もっと薬物の無機的な臭いが、鼻腔をくすぐっている。なんだろうか。好きになったことは一度もないが、妙に気持ちを落ち着かせる何かがある。
通路の先に、蛇口を止め忘れた浴槽のように、どこか上方から流れてくる光があふれている。ぼくは小走りになってそのなかに飛び込む。ぼくは光の氾濫のなかで、さっきぼくを窒息寸前にまで追い詰めた闇のことを、思慮の浅さから生じた思い違いのように思っている。光のなかでようやく五感が解き放たれてみると、いまはただ、鼻の粘膜をなでているあの臭いの正体をどうしても確かめたいという、渇望といってもいい一念にとらわれている。
そこは立方体の透明な水槽のような、闇からくっきりと隔離された光だまりだった。壁も天井も床も真新しくつややかなコンクリートで塗り固められている。してみるとここから別天地になるのだろうか。ここまで現代建造物として完成されたが、その一歩手前、ぼくがいままで手探りでたどってきた道は、未完成の工事途上の部分なのか、掘削したまま工事が途中で放棄されてしまった部分なのか。いやそんなはずはない。そんな風に思わせるよう、視覚があざむいているだけで、ずっと感触をたどり続けてきたぼくの手のひらは、連続したひと続きの通路であることを訴えている。
光は上方に向かう階段の上から降り注いでくる。階段には中央と左側に、スチール製の手すりが据え付けられている。ということは、この通路は地層調査のような目的で臨時に造られたものではなく、脚の不自由な人を含めた不特定の公衆のために作られた公共建造物だということだ。階段の中央に手すりで、往路と復路を仕切っているということは、相当の人間がこの通路を利用しているということも示している。
階段の脇の壁には、大貫海岸ロックフェスティバルの大判ポスターが貼られている。日付からすれば今週の金曜日の開催ではないか。大貫海岸はぼくがずっと歩いてきた海岸だが、人っ子一人見かけなかったあの砂浜にどんな風にして人が集まってくるのだろうか。壁はごく最近塗り替えられたようで、クリームホワイトのつやつやした光沢を保っていたが、解読不能な書体の落書きがすでにあちこちにペイントされて壁の真新しさをあざ笑っている。 階段を昇りきると、さきほどの恐ろしげな暗雲はどこへやら、澄みわたった空のもとで棕櫚の葉がゆっくりと揺れている。日没前の少し赤みを帯びた陽を受けて、木々や電柱が長くくっきりとした影を路上に伸ばしている。
そのちいさな家の板壁は、重厚さを出すために塗り重ねられたり、削り取られたりしたキャンバスの画肌のようだ。十字の格子で仕切られた大きな窓は頑丈な木製の扉をまたいで二つある。窓ガラスはいくぶん凹凸に波打っていて映しだされた空が静かな海面のようだ。扉は家のサイズからして妙に大きく、塗られたばかりのように見える濃紺と水色のストライプが、古びた壁板とちぐはぐに鮮やかにきわだっている。ぼくはこの家をどこかで見たような気がしている。ここに来るのがはじめてだとすれば、この家の主が建てるとき、雑誌のイラストか何かからデザインをパクったのかもしれない。
あの薬物の臭いの出元は間違いなくこの家だ。扉のデザインからして、人家ではなく何かの店なのかもしれない。でも、看板もマークもないために、何の店か見当がつかない。洗濯屋だろうか、それともパティスリーだろうか。どちらもぼくには用のない場所だ。でも、臭いの元が何であるか確かめたいという動機は、どんな場所にでも入っていける口実になるとぼくは思う。
重い扉を力いっぱい引き開けると、ちいさな家の中は思いもかけない光景だった。
壁も天井も冷たい白一色に統一され、天井を走る何本もの長い蛍光灯による過剰なほどの光によって、白そのもののまばゆさが増幅されている。正面の奥に小さなすりガラスの窓があり、その向こうで女らしき影が忙しそうに立ち働いている。壁際に、腰を載せるためだけのパイプ椅子が三つ並んでいる。私は奥にどう声をかけていいかわからず、とりあえずその一つに腰をおろす。来客があるのをどうして知ったのか、だれもぼくの顔を見ることなく、どこかに隠されたスピーカーから「お待ちの方、三番ドアにお入りください」とのアナウンスがある。
椅子の向かいの壁に、ドアノブだけがある扉が三つ並んでいる。右端が3なのか、左端が3なのかわからないまま、ままよと、右端の扉に入ってみる。なかはどの扉から入ってもひとつの大部屋で、それぞれの扉の前にカーテンで仕切られたブースのような小部屋がある。左端も中央もカーテンは閉めきられているので、ここでよかったのだと納得する。
ブースの中央に、背もたれてと首あてを少し倒した大きな椅子が置かれている。頭上には可動式照明器具、椅子の左サイドには口内洗浄用器具が取り付けられている。
カーテンの向こうで、カチャカチャと金属やガラスが触れ合うような音が聞こえる。ぼくはどうしたらいいかわからず、ただ立っている。
「どうぞおかけなさい」
中年男のぶっきらぼうな声だ。命令というほどではないが、かと言って、背を返してここから出て行くことまではためらわせる指示だ。しかたなく、椅子に腰をのせ、背もたれに体を預ける。
「まぶしいから目を閉じたほうがいい」
指示に従うと、いきなり強い光が顔を照射し、まぶたの裏が燃えるような色に変わる。カーテンが引かれだれかが現れる気配。仮にいま目を開けても、まぶしさで何も見えないことを知っているので、ぼくは目を開けない。
だれかは何も言わず、私の下唇に二本の指をそっと添える。それが「口を開けよ」、という言葉にはしない命令だということは即座にわかる。
強い光の向こうにいるだれかは、先端の丸い金属の棒と指先で、ぼくの口のなかをあれこれと調べている。指がさらに奥の方にさしこまれて、口はもっと大きくこじ開けられる。金属棒で奥歯をたたく音が、耳の奥にキン、キンと響いたあと、指の動きがふと止まる。息が吹きかかり、野菜の腐ったような臭いが、鼻をかすめる。だれかがぼくの口の中を覗き込もうとしているのだ。
そのとき、あのトンネルの出口付近でぼくの嗅覚をそばだたせ、ぼくをここまで引き寄せてきたあの臭い、あの正体が何であるかを、はっと思い出した。
好きでもないあの臭いをかぐために、かつてぼくは保健室の前を何度もうろうろしたことがある。その正体がヨード液という名前だと知ったのは、小学校2年の2学期だ。ヨード液が怪我を治療するためのクスリだと教えてもらったのはもっとあとで、そのときぼくは苦痛のありかに目印をつけるための液体だと理解し、その認識はいまにいたっても変わっていない。
好きでもないその臭いだが、頭近くのだれかのたまらない口臭を払拭するために、その臭いを鼻いっぱいに吸い込みたいと強く思っている。
「ずいぶん大きな穴だ。ふかい」
口内をひととおり検分しただれかは、ぼくの耳元で低く太い声でつぶやく。
「不快。腐海」
ぼくはだれかのつぶやきをリフレインし、いろんな字をあてはめている。
「深い。ハエが一匹もぐりこめるほどだ」
「どうしてわからなかったのだろう?」
「それがねえ。ガムの包装紙のかけらのような、薄い紙がぴったりとふさいでいたんだ」
「ひょっとして、その紙にはCOPTという字が印刷されている?」
「さあ? ふん、そうも読めるな」
ぼくの恐怖はにわかに高まり、背筋が痙攣をはじめる。
光の向こうのだれかは、ガラス台の上で小さなビンを開ける。ふっとあの臭い、ヨードの臭いが鼻をつく。ピンセットでつまんだ脱脂綿が瓶につっこまれ、引き出されるとそれは茶褐色に染まっている。
ぼくは再び目をつむる。あの刺激臭がぼくの鼻先をかすめ、口の中に入り、また出て行く。上の歯列の左最奥部のどこかに柔らかい塊がぎゅうぎゅうと押し付けられている。
あの暗い大きな穴はきっともうふさがれてしまったに違いない。そう思うと背筋の痙攣はゆっくりと収束していく。
スノーホワイト
ぴちっ。
額の上で冷たい何かがはじけた。指先でそのあたりをまさぐってみる。でも何だかわからない。漆黒の闇の中にいるんだ。
ぴちっ。
いやそうじゃない。二滴目のしずくが、額のほぼ同じあたりではじけたとき、ぼくははっきりとわかる。目をぎゅっと閉じて、夢も見ない深い眠りの中にいただけだ。
目を開くと、晴天の夜空に満月がこうこうと輝いている。砕け散ったガラスのようなきらめきが、天空を埋めつくしている。してみると、あのしずくはいったいどこから落ちてきたのだろうか? 覆いかかる枝もないし、回りの木々はすっかり葉を落としてしまっている。
ぼくの身体は、なかばその落ち葉に埋まっている。ということは、長い間、何日もここに寝ていた、ということなのか。
すっかり目をさますと、水滴はあれ以上落ちてはこない。
葉の間からみえるぼくの身体は、一張羅の紺のスーツを着ている。ワイシャツにゆるんだネクタイをまだ締めている。ポケットの中をまさぐって紙キレを引っ張りだすと、居酒屋とコンビニの領収書だ。札入れも携帯もどこかへ行ってしまった。でも、どんなやつだったか、色も形もまるで覚えていない。
右の太ももと右の上腕部、肋骨のあたりがひどく痛む。筋肉痛とかでなく、何かで打ったのか、たたかれたのか。頬とおでこもひりひりするところがある。何より不可解な傷は、首を一周しているようにみえるミミズ腫れだ。
耳にかすかに声が聞こえる。虫でもない、小動物でもない、明らかに人がうなるような声だ。それも複数の。雨粒が戸板をたたくような音。トントト、トントンというリズムカルな拍子で。
なんだろうと、頭をその方に傾けてじっとしていると、暗闇にだんだん目が慣れてくる。木々に囲まれた平地の方で、うっすらとしたあかりが踊っている。影が交じり合い、光が光を追いかけている。
明らかに人間だが、ほんの15センチほどの背丈しかない者たちが、五六人ぐらい火の回りで、踊りながら歌っている。木片を叩いている者もいる。細い茎を吹いているものもいる。
全身のひどい痛みのために、まだこのまま横たわっていたかったが、彼らをもっと見たいという好奇心の方がまさった。身体を起こすときに細心の注意をはらったはずだが、それでも、もはや自分の身体ではない穀物袋のような異物を動かそうとすると、ガサリと大音響を立ててしまう。たちまち、音は止み、平地の方の動く影はどこかへ消えてしまう。
ぼくは取り返しのできないことをしてしまったという後悔の念にさいなまれながら、半分やけくそで立ち上がる。もうあの者たちはどこにもいないだろう。いるはずがない。それでも身体を引きずるようにして、平地の方に足をはこんでいく。
ようやく、森が平らに開けたその場所にたどりついて、小枝を集めた小さな火の回りに彼らが円陣を組むように腰を下ろしているのを見た時、意外な思いというよりも懐かしい光景に出合ったような喜びがこみあげてきた。こびとであることを別にすれば、まるでどこかの村人たちの夜の集会のようにも思えたからだ。
七人は、つぎはぎだらけの上衣をぼろぼろの綱を巻いて前で結んだ出で立ちは共通だが、それぞれ色とりどりの頭巾をかぶっている。ある者は、すねに手をまわして膝の間に顔をうずめている。ある者たちは、手を背後にやって体を支え放心したように天を仰いでいる。さっきの陽気な馬鹿騒ぎはどこへやら、彼らはたいそう疲れ果て、うちひしがれているように見えた。
ぼくはどう声をかけたものかわからず、栗の幹で体を支えながら立ち尽くしている。ぼくがここへたどりついたのは知っているのに、恐れるどころか、よそ者への冷淡さを露わにして、それぞれの世界にこもっている。
ただ、赤紫の頭巾の人のよさそうなひとりが、ぼくの方をながめて、ぼんやりした微笑みを投げたように見えた。赤紫頭巾は、そのまま頭をぼくと反対の方向に向け、遠くに眼差しを投げたので、そちらの方にぼくの関心を引こうとしているようにも見えた。
たき火の逆光で見えにくくはあったが、50メートルほどのところに、コッペパンのような、饅頭のような、丘にしては不自然な土の盛り上がりがあった。ぼくは彼らにひと言も言葉をかけることもできず、たき火のある平地を大きく迂回して土饅頭の方に向かっていく。
それは何かの動物のすみかではなく、明らかに人の住居だった。いったいどうやって造ったのかはよくわからない。大きな土饅頭を作ってその真中を繰り抜いたのか、木造で柱と壁を組み立て、その上に土を盛ったものなのか。あたかもそれらしく家をつくるのではなく、通りすがりの者には、ひと目では人の住まいとは見えないように隠蔽するためにこんな造形物をつくったようにも見える。天辺や側面には草が生え、ところどころ木の枝を差してまるで樹木が生えているように見せかけている。煙突も太い樹木の切り株のように見える。
しかし、正面だけはしっかりと人家だ。大きな二つの窓と頑丈そうな木の扉がある。窓には十字に格子が入り、塗られたばかりなのか濃紺のペンキがつやつやとしている。壁面は不揃いの板をたくみに張り合わせてあり、すき間は土か漆喰を詰めてふさいである。
そのときぼくはそんなふうにその家を冷静に眺めていたわけではない。ようやくのこと、這うようにして扉の前にたどりついたときには、生きるか死ぬかの状態だ。最後の力をふりしぼって、ぼくは扉をたたいた。何度も何度も。扉は固く錠がかかっている。
「だれかいませんか、・・・だれかいませんか、・・・だれかいませんか、・・・」
かすれた声をなんども上げているうちに、言葉はちぎれ、ただのうめきにしかならない。 たたくこぶしはだんだん血がにじんでいく。
壁を窓まで伝い、中を覗きこんでみる。ガラスもたたいてみるが、まるで透明の鉄板のようで、何の音も立てない。格子のまわりがうっすらと曇っているということは、外よりも部屋の中は暖い、ということはだれかいるはずだ。
ぼくは顔をガラスに押し付けて見る。灯りのない暗い部屋の中央に、白いベッドが見える。そこだけほんのりと光がただよっているかのように。ベッドの上に、白い上掛けをかぶったこんもりとした形が見えてくる。まるでそれ自体が、ゆっくりとほのかに発光しはじめたかのように。こんもりとした形は、若い女だった。肌は冷たく雪のように白く、まぶたから伸びる長いまつげが、頬に薄い影を染めている。ベッドの脇にまで垂れる長い髪は、つややかな白銀色だ。
この家は、白い女の柩なのかもしれない。
ほんのわずかでもいい、飢えをしのげる何かと休息を与えてもらえばよかったのに。だがここは来るべきところじゃなかった。残されたほんのわずかの体力を勝ち目のない博打に空費してしまったように、絕望に襲われる。
ぼくは窓の前から虚しく立ち上がる。ほんの数歩歩き出したところで、天地がぐるぐるとまわり、目の前からなにもかもが掻き消えた。
「お前、死体かい?」
ボリュームを上げたイヤホンからもれるような、きんきんした甲高い声が聞こえる。うす目を開けると赤紫の小さな頭が動いている。うつ伏せに倒れたまま、ぼくの頭は枯れ葉まじりの土の中につっこんでいるらしい。
「……まだ死んではいない。なぜ?」
「近くではじまった戦闘で、お前みたいなやつがこのあたりにごろごろしてるからさ」
赤紫頭巾のこびとはつまらなそうな顔になり、立ち去ろうとする。
「おい赤紫、助けてくれないのか?」
こびとはムカっとしたように叫ぶ。
「おれはピットル。助ける? だって もうすぐ死ぬんだろ」
「いや、ぼくは死なない。だけど、死にそうなほどお腹が空いている」
「わかったよ」
ピットルが向かっていく先に、たき火を囲んでいるこびとたちの集会がある。
ピットルは、黄緑の頭巾をかぶった小太りのこびとの脇でかがむと何か耳打ちしている。 黄緑頭巾がめんどうくさそうに立ち上がる。憂鬱そうな集会者たちは、それぞれのしぐさで物思いにふけっているせいか、だれも気にとめる者はいない。
やってきた黄緑頭巾のこびとはバンズラと名乗る。
「なんか用か?」
「腹が減って死にそうなんだよ」
「よし。じゃあ、おれが問題を出すから答えてみろよ。正解だったら、山ごぼうのパイを二枚やるぜ」
この野郎と思う。バンズラは手を伸ばせば届くところに立っているから、ひっ捕まえて首をねじり、頭から食った方が手っとり早いと思う。でも、なぜかぼくはそうはしない。
「問題ってなんだ」
この小さな生き物の頭に、どう見ても脳みそがいっぱい詰まっているはずなどないと、頭からバカにしているぼくの先入見が、口調にあらわれている。バンズラは、あみだにかぶっている頭巾を少し後ろにひっぱる。現れた目は、ぼくをきつくにらんだが、意外なほど真剣だ。
「狐が野ねずみの燻製を3枚入れて歩いていたんだ。そこへにんじんを3本かかえたウサギが現れた。狐は、野ねずみの燻製を1枚あげるから、にんじん2本欲しいとうさぎに言った。うさぎはいいよと言って、交渉は成立。さて、歩きはじめた狐のかばんには、何がいくつ入っているでしょう?」
「だれが作った問題? 君の学校の先生かい?」
バンズラはむっとする。
「おれは学校なんか行ったことない」
「君が作った問題じゃないよな」
バンズラは赤くなってうつむいている。
「まあいい。たぶん君はその出題者に、狐のかばんには野ねずみの燻製が2枚とにんじんが2本入っていると答えたのだろう」
バンズラは驚いたように目をむく。
「でも、正解じゃないと言われた」
バンズラは、口をとがらせてうつむく。
「じゃ、正解を教えてあげよう。狐のかばんには、野ねずみの燻製が3枚、にんじんが3枚」
「え、そんなはずはないよ」
「君はビジネスというものを知らないね。で答えは、それだけじゃない。あとは首をひと噛みで殺された兎が1匹」
バンズラは目をむく。
「そんな」
「現実とはそういうものだ」
バンズラは首を二、三回横に振ると、後ろを向き脱兎のごとく森へ走って行く。
なんだ、ビジネスに失敗したのはぼくの方だったのか。鼻先でふんと息を吐く。それだけで腹に響き、飢えの極地にいることを思い出す。おれは野ねずみの燻製1枚でもいいんだけど、と思ったとたん口のなかにつばがあふれてくる。
それを飲み込もうとしたとき、バンズラが現れた。でもさっきのバンズラではない。人間の背丈のバンズラだ。しかも、両手で捧げた大皿に焼きたてのパイが重ねられて湯気を立てている。
「いったいどういうことだ」
ぼくはあっけに取られながらも、手はしっかり皿の方に伸びて、大きな口をあけたまましゃべっている。
「ぼくはバリフラ王の料理人のバンズラだ。旅の途中、ここの森で白い魔女につかまり、こびとにされてしまったんだ。魔女は言った。なぞがひとつ、お前に解ければもとにもどしてやる。解けなければ、私の奴隷にならなければならない、と。ぼくは解けなかった。だから、ぼくは魔女の料理人となって、もう3年間もこきつかわれている」
バンズラがたったそれだけを言う間に、ぼくは皿の上の山ごぼうパイを二枚平らげて、べとべとになった指をしゃぶりながら聞いている。
「なあ、それはもうどうでもいいんだけど、お前のパイは塩がききすぎていて、のどがかわいた。ワインかビールをジョッキ一杯飲ませてもらえないか」
「約束はもう終わった。だけど、せっかくだから、タゲルスに声をかけといてやろう」
バンズラは空の皿をかかえて、こびとたちの焚き火の方に歩いていく。
★未完
IKAROS
この部屋に住み着いてまだ二ヶ月とたたないのに、床は足の踏み場もないほどものに占領されている。靴下、食品のトレー、つぶれたダンボール箱、濡れたタオル、レジ袋。キャシーは片付けることが嫌いなわけでも、捨てることがおっくうなわけでもない、と言っている。ぼくがどんなに苦情を言っても聞く耳をもたない。いろんな物がたくさんあるって楽しいじゃない。もうすでに、キャシーとぼくが身を寄せあって眠る、一枚だけのふとんスペースもかなりおびやかされている。
食べて寝て起きて、そのすべてをするためのたった6畳ほどのスペースの、その中央に置かれた食卓の上も、ケチャップで汚れた宅配ピザの箱、 まるめたチラシ、 飲みかけの缶ビール、食べかけのおっとっと、割り箸の袋などによって、バベルの塔がどんどん大きく立ち上がっていく。もしそれが寝ている間に倒壊したらどうしよう。キャシーがいびきをかきはじめても、そのことを考えだすと、どんどん目が冴え渡っていく。
キャシーの男友達はぼくのお母さんをみんなキャシーと呼んでいる。お母さんをキャシーと呼ぶだれかが家に来ると、ぼくは外に遊びに行かなければならない。街を歩いていると、見知らぬ男の人から「キャシーは元気かい」とよく聞かれるので、ぼくもずっと前からキャシーと呼ぶことに決めていた。
なるほどお母さんと呼ぶよりずっといい。だって、たしかにそんな感じがするもの。
キャシーのことは大好きだけども、ぼくはもうこの部屋から出なければならない。ぼくのなかで、そういう思いがどんどんふくらんでいくけど、それでどうしようという考えを持っているわけではまるでない。
お日様はとうに中天にのぼり、爽やかな初夏の風が窓際のカーテンと陽気なサンバを踊っている。 フライパンの油から煙が立ち、鼻歌を歌うキャシーはレンジの前で大きな腰を振っている。
「ヒロシぃ・・・・・・」
キャシーはぼくに何か用事をいいつけたが、今はまるで耳に入ってこない。
食卓の上に置かれた、純白の陶器の皿、それは部屋にある欠けていないたった一枚の皿だったが、その上に卵が一つ載っていた。薄いベージュにところどころ絵の具をぬったような白いまだらがある。けっして美しい配色ではないが、かたちは非の打ち所のない完璧さだった。ぼくはゴミの集積所の救いようのないカオスの中から、なぜこんなものが出現したのか、その不思議さに衝撃を覚えている。
卵は間もなく、熱したフライパンの上空で無残に割れてしまうだろう。
キャシーが卵を早く取ってと叫んでいる。
ぼくは目玉焼きが嫌いだった。
きらいで、きらいで、大きらーい。
目玉焼きを食べないと大きくなれない、ぜったいに大きくなれない。キャシーがかたくなにこだわる、たった一つの自説だった。
ぼくは、 薄いベージュに白いまだらがある卵をつかむと、11階のベランダの方に駆けていこうとした。濡れたタオルがかかとをつかみ、レジ袋が足首にからみ、ぼくがしようとしていることを妨害した。だけど意を決したぼくは負けていない。
ガラス戸のサッシをつかみ、思いっきり足を振って魔物たちを追い散らした。ベランダに降りた裸足の裏にゴミや砂粒がこびりついて気持ちわるい。
だけど、そんなことはちょっとがまんすればすむことだ。
左手でフェンスをつかむ。一呼吸すると、右手に握った卵を思いっきり遠くへ放った。
卵は、向ヶ丘遊園のある丘の上空に向かってまっしぐらに飛んで行く。
ガラス戸が開け放たれたベランダの方から一塵の風が吹き込むと、キャシーの長い髪をかきあげる。思わず振り返った部屋にぼくはいない。ベランダの方にも影がない。
キャシーは金切り声を上げる。
ぼくの耳の底で、イーンという、楽器のトライアングルを叩いた残響のような音が鳴り続けている。ただ、分厚い綿雲のなかを突き抜けるとき、シュワッという水を強く弾いた時のような音が、金属的な残響を断ち切った。雲が幾層にも重なっていると、シュ・シュ・シュワ・シュッというように、歯切れのいいリズムを刻む。ぼくは今まで聞いたこともない不思議な音楽だと思う。
さっきまで着ていたパジャマはどこかに吹き飛ばされたのか、丸裸になってしまっている。肌は長い時間風呂につかっていたかのように、上気して薄桃色を帯びて、少しふやけて柔らかくなってしまったようにもみえる。
膝を折り脚は腹につくほど曲げられ、両腕は胸の前でしっかりとたたんでいる。背中も尻も後頭部も、粘りけのある大きな皮膜にぴったりと密着している。おそろしく窮屈な姿勢にもみえるが、小さなふとんにキャシーと身を寄せあって眠るときよりもずっと、自由で開放的で心地よい気がする。
皮膜は少し不透明で色がかかっていたが、あらゆる方向の景色をぜんぶ眺めることができる。
どのくらいの高度があるのかは想像もつかなかったが、家並みやビルの形はくっきりと見分けることができる。ただ、ひとつひとつの色は消え去って青緑色の濃淡だけに溶け合ってしまっている。地上の景色は、ほとんど止まっているといっていいほど、ゆっくりとしか動いていかない。
でも、ぼくが今まで乗ったことのあるどんな乗り物よりも、恐ろしいスピードで動いていることは、前方の雲の端切れが見えたと思うと皮膜に激突し、瞬時にけちらされて、背後に消え去ってしまうことからわかる。
少し目をあげて眺めることのできる頭上の光景は、周囲や下の方とはまるでちがっている。淡い光を含んだ濃い青が、果てしない広がりと底知れない深さを見せながら、何もかも吸い込んでしまいそうな静けさをたたえている。
ぼくは、いままで体験したことのない心地よさのために、そのまま眠ってしまいたいような気がしている。でも、皮膜の外のすべての世界が、ぼくの頭の中をすっかり支配しているために、お腹が空いたということも昨日見たテレビのことも、どんなことも思い出すことはできない。だから、眠りたいという思考をまとめることなどできはしない。
この丸い皮膜がどこに向かって飛んでいるのかということを、ぼくはずっと前から知っている。それは見つめることを許さないほどにまばゆい灼熱の塊に向かってだ。
丸い皮膜が猛スピードで中空を飛行するためのすべてのエネルギーも、その灼熱の塊から放射されたものであることも知っている。
けれども、灼熱の塊はこちらよりももっと早い速度で飛んでいるらしい。丸い皮膜が力の限りをふりしぼって速力を上げようとしても、灼熱の塊は少しづつ小さくなっていく。
ずっと長い間、明るい外の世界ばかりを見ていたために、この皮膜のなかがどうなっているかなどと思ったことはない。手も足も頭もお腹も、ただこの中にあるということだけを感じていればよかった。
だけど、外の世界がだんだん明るさを失ってくると、それにくらべて、この皮膜の中がゆっくりと明るみを増してきているような気がし始めている。
それと、イーンという音は、オーンという、狼の悲しげな遠吠えの余韻のような声に変わり始めている。
シュ・シュ・シュワ・シュッというように、雲を突き抜けるときの音は、シャオン・プシュ・シャワという、洗濯機が泡を排水口に吸い込むような雑多な音の不規則なリズムになり始めている。
それより、しばらく前からずっと気になっていたのは、体じゅうの皮膚が水分を失ってかさかさになってしまったような気がしていることだ。じっさい、体を少し動かした時、かすかにカサカサという音が聞こえる。
夏の太陽に体を焼いたあと、皮膚がパリパリと剥がれてくる。あの灼熱の光をずっと浴び続けていたために、いまのぼくはきっとそんな感じかなと思っている。それでも、外の世界のすべてに身も心も奪われていたので、自分がどうなっているかなど一度も見てみようとはしなかった。
ところが、皮膜の中が少し明るくなって、目が馴れてくると、お腹や胸のあたりがふと目に入ってくる。その瞬間、それまで思い描いて体の様子とあまりにも違うので、ぼくは思わず、うっ、と声をもらしてしまう。アルミホイルをくしゃくしゃにまるめて広げたような、というか、もう少し青みが入ったにぶい光沢を放つメタリックな表皮。
そうだゲルメドロスのよろいにそっくり。ゲルメドロスは、バルパ星人と戦うタルコール迎撃軍団の隊長だ。
そう思ったことで、皮膚の問題は解決だ。でも、もうひとつ気になり始めていることがある。背中の方に、置いたはずもないのに濡れたタオルのようなふにゃふにゃしたかたまりがあること。それがさっきから少しづつ大きくなっているような気がしてならない。 キモチワルーイ。
ゲルメドロスのよろいは、バーワ銃にもやられないほど頑丈で硬い。だから、ここで身動きするのはムリと思ったけれど、体をよじってみると思いのほか柔軟だ。
それならばと、右手を何とか伸ばして背中の方の異物のはじっこをつまんでみる。やっぱり湿ってぬるぬるしたものは、引っ張るとどんどん伸びてくる。ひものようではなくて、背中全体をこすりながら広がってのびてくるので、やっぱりタオルだなと思う。
その先端がようやく脇の下あたりから見えた時、ぼくはまた、うっ、と声を上げてしまう。
どれくらいの時間がたったのだろう。以前、目をさまして、何かを食べてまた眠ってということをしたあの一日を百万回繰り返したよりも、もっともっと長い時間がたったような気がしている。だけど、今はあの一日というのがないのだから、どれくらい長い時間がたったのかなどということは知りようもない。
でも、一日は一日だとすれば、とてつもなく引き伸ばされた長い一日がどこまでもどこまでも続いているというだけなのだ。
灼熱だった塊は、キャシーのブレスレッドのガラス玉一つ分ぐらいの輝きになっている。それもいつしかオレンジ色になり、今はどんどん赤みを増している。
黒い地平線の端に、ハエの目玉のような赤い粒がのっている。ちょっと息を吹きかければ、黒い地平線の向こうにすぐに転がり落ちてしまうことだろう。いや、息を吹かなくても、もうほんの間もなく赤い粒は燃え尽きてしまうに違いない。
背中から引っ張ってきたものをお腹の上にまでのばして広げているうちに、それはどんどん乾いていき、緑がかった明るい青の光沢を帯びてきている。この色って、多摩川鉄橋の下の鉄骨に止まっていたあの鳥の羽にそっくりだ。キャシーが、カワセミって言うの、と教えてくれた。だけどー、飛ぶと早いけど、カラスにも勝てないんじゃないかな、とぼくはあのときキャシーに言った。
赤い粒はいつの間にか消えてしまった。
皮膜はもうなんの音も立てないし、雲を切るパシュッという音も聞こえない。
皮膜はいつのまにかまっすぐに飛ぶことを止めている。急にグルグル回ったり、逆さになったり。
あるとき道路に腹ばいになってアリをみていたら、キャシーの友達の背の高い男に、いきなり両方の足首をつかまれ、持ち上げられて空中をぐるぐる回されたことがある。やめてー、って何度叫んでもいつまでもやめてくれない。あの感じ、あのいやーな感じにすごく似ている。
ぼくは、あのいやーな感じから逃げるためにどうすればいいか、そのときすっかりわかっていた。だれも教えてくれないのに、どうしてわかったのかはわからない。ぼくがカワセミに石をなげつけたとき、カワセミがどうしたか、そのことが頭に浮かんで、ぴっとひらめいたというだけ。
でも、その前にぼくを包んでいる、この皮膜をどうにかしなければ。
皮膜も今は粘り気を失ってカチカチに固まっている。
ぼくはカチカチの皮膜を何度も何度もげんこつで叩いた。
何度も何度も。
家もビルも木も自動車も、おそろしいスピードでどんどん大きくなっている。
でも皮膜はほんの少しだけヒビが入っただけ。
げんこつの関節は血が出そうなほど真っ赤になっている。それを見たら、涙が突然あふれて止まらない。
もう叩きたくない、と思って目をつむる。
「もうキャシーのことだけ・・・」とつぶやいたが、言った自分でも何の意味かよくわからない。
キャシーが大きな声で呼んでいる。何を言っているかよくわからない。
目を開けると、純白の陶器の皿の上で、できたての目玉焼きが湯気をたてている。
でも、キミが割れて、流れだして、純白の皿をどんどん汚していく。
キャシーはまた失敗した。せっかく・・・。
だから、ぼくはキャシーの目玉焼きが大嫌いなんだ。