その夜はなにもかもがちがっていた。月がまん丸く美しく、いつもと同じ遅い時間の帰り道なのに気持ちが晴れやかで楽しかった。上ばかり見上げ、月を見つづけていた。声をかけられたのはそんなときだった。とてもかぼそい声だった。
「あの…」
瞬間、美しい人をイメージした。でも、そうではなかった。美しくはなかったが、ぼくはその人に恋をした。沙耶子という名前だった。沙耶子はその時行き迷っていた。どこに行ったらいいのか、自分で判断できないでいた。
深くは聞くまいと思った。聞いてはいけない、聞いてしまったら消えてしまう。これは淡い幻なのだ。ぼくの中の別の人物がそう強く念押しし、ぼくはその言葉に従った。
その日以来彼女はぼくの部屋にいた。
二年間、いっしょに生活した。結婚はしなかったがまるっきり夫婦だった。仕事をし、お金を渡し、セックスをした。沙耶子は文句を言わず、ただぼくに感謝した。そしてある日突然いなくなり、しばらくして子供を連れて戻り、またしばらくして今度は子供を置いていなくなり、それっきり戻らなかった。
かなりの間ぼくは途方に暮れ、耶歩と名付けた赤ん坊の世話に追われた。耶歩という名前は沙耶子の耶とぼくの名前渉から字を取ってつけた。ぼくはいなくなった沙耶子のことを思ってときどき耶歩が憎らしくなったが、それ以外はおおむねかわいがった。とくに寝ながら腕を挙げる動作がかわいく、それをさせるために何度も何度もベビーベッドの上から顔を出しては引っ込める動作を繰り返した。
二年前の自分を思い出すのがいやで恐ろしくなるほど、ぼくは変わった。八時間みっちり働き、仕事の帰りに耶歩を預かってもらっている友人夫婦の家に駈けつけ、夜泣きする耶歩をあやしながらうつらうつらし、会社でやり残した仕事をこなした。さぼってばかりいた自分、仕事の愚痴ばかり言っていた自分が跡形もなく消え、ただ目の前の耶歩のことだけしか考えなくなった。
十六年が過ぎた---。長い十六年とも言えたし、アッという間とも思えた。耶歩はぼくを非難する存在に変わり、ぼくは耶歩の非難にただただ耐えるしかなかった。
「何かしたに決まってる!」
「そうよ、そうでもなけりゃお母さん……」
沙耶子がいなくなったのにはぼくに原因があると責めつづけ、挙げ句は一か月も口をきかなかった。これにはずいぶんと参った。何を言ってもむだだった。作れば食事は食べてくれたが、食器が壊されていたことが何度かあった。言い訳はいっさい通じず、言葉をかけても返事はなかった。
耶歩の言うようにぼくは鈍いのかもしれない。いくら考えても沙耶子がいなくなった理由が思い当たらず、自分のどこが悪いのかも分からなかった。耶歩を殺して自分も死ぬことばかり考えつづけ、十六年前にやめた酒ものんでみたがこれはすぐ吐いてしまった。
耶歩がいる部屋に帰りたくなかった。どうしたらいいのか、どこまで戻れば修正ができるのか、何度も考えたが解決が見当たらなかった。自分を最低だと責め、いつの間にか耶歩の目で自分を見ている自分に気づいた。息をするのが苦しく、自分で自分が許せなかった。もっと別の生き方があったのではないか。
悔恨は果てしなく身をさいなみ、ぼくは最初の場所、沙耶子と出会った公園の前に来ていた。月がまん丸く美しく、ぼくは上ばかり見上げ、月を見つづけた。何も起こらなかった。起こるわけがなかった。何を期待しているのだぼくは? もう一度沙耶子に会いたかった。沙耶子にもう一度出会えればすべてが変わる。そう信じようとしていた。そんなことがあるわけはない。月が丸いのも、美しいのも、空気が澄んでいるのも、何の助けにもならない。ぼくはひとりで自分が変わったと思い込もうとしていただけだ。依存心の強いくだらない男だぼくは。耶歩の言うとおりだ。きっとぼくは沙耶子にひどいことをしたのだ。しかもそれに気づこうとさえしない。こんな奴いないほうがいい。
死を考えたのはこの時が初めてだった。底なしに落ち込み、自分をどうやって傷つけようかと考え、どれも実行に移す勇気がないまま、ただ頭の中だけがせわしなく動いている。何も手につかず、気持ちだけが急く。こんな自分をおかしいと思う余裕もなく、それだけよけいにぼくはおかしくなっていく。このままではいつほんとうに耶歩を傷つけるかわからない。いや、殺してしまうかもしれない。自分がおそろしく、そういう自分をコントロールできないことが何よりも一番おそろしい。
「もうおしまいだ」
汗ばんだワイシャツが体にはりついて気持ち悪い。ここ三日、下着から替えていない。このまま死にたくない。変な潔癖さが出て思考が止まる。帰らない、帰りたくない。でも着替えたい。夏に死にたくなかったとまで心が言い出し、どこまで他人のせいにすれば気が済むのだ、夏のせい、季節にまで悪態をつく自分がばかばかしく、くだらない。死の間際までだらしがない。
家は暗かったが耶歩はいた。耶歩は耶歩で一人の中で迷い果てていた。「もうやめよう」と言いそうになったが、そういった言葉がとても軽々しく感じ、口にのぼせることができなかった。キッチンの隅で耶歩は暗く座り、まるで何かを口から吐こうとしているかのようにテーブルの上の皿の上の方に顔をつき出していた。ぼくは自分の部屋で着替え終わると、そこで目覚めたように動きを止めた。
「ところで…」
気の利いたことを続けて言おうとしたが言葉が出なかった。耶歩に動きはない。