冬花
「浮気もしない、離婚もしない」
自分にそう言い聞かせるようにつぶやいて、涼子はカラオケボックスの固いソファーに蹲った。
静まりかえった暗い部屋で、モニターの蒼い光が冷たくチラつく。ほのかな甘い香りが、僕の脳のずっと奥のほうを微かに刺激する。
そのまま僕によりかかるように横になった涼子の頬をそっと撫でてみた。細く白いうなじが、少し短めに切ったストレートの髪の間からのぞいている。
眠ってしまっているのだろうか。瞳を閉じた涼子の口元から、小さな息が小刻みに伝わってくる。
数日前、忘年会にかこつけてひとしきり同僚と呑み、ホームで解散した。
鞄に入れたケータイをとりだしたとき、ずいぶんと久しぶりに来た涼子からのメールに気が付いた。
─会える?─
中学の同級生で集まって新年会をやることになっていた。事務的な連絡の最後の行に添えられていた言葉だった。
─すぐに?─
そうかえしたメールに彼女が連絡をしてきた。
僕たちは週末に渋谷で待ち合わせをして、飲むことにした。
何年かぶりに会った僕たちは、混み合う街の隙間に佇む居酒屋やバーを飲み歩き、互いの近況を断片的に話した。
何件目かの店で少し重い酔いを感じていた。
どちらからともなく席を立とうとしていたときだ。
「カラオケに行きたい」
涼子がそういいはじめた。
「カラオケ?」
涼子がカラオケに行くなんて思ってもいなかった。
「歌いたい曲があるのよ」
近くのカラオケボックスに転がりこむと、彼女は立て続けに二曲を歌った。
ふーっと大きく息を吸ってモニターの画面から目を離した涼子は、わけのわからないつぶやきを残して、あたりまえのように僕の隣で横になっている。
眠たかっただけか……。
涼子のそんな奔放な行動には慣れているつもりだった。
あの時も、唐突な連絡からだった。
僕はふっと、最後に涼子と会った時のことを思い出していた。
その日僕は大学の授業を終えて中央線を新宿に向かっていた。電車の窓越しに見える冬色の空は、まだ就職先も決まっていない僕にふさわしいグレーをしていた。
高円寺をすぎた頃、ズボンのポケットの中でケータイが振動した。
涼子だった。高二の夏以来だ。
高校を卒業して、彼女は美大の日本画科に通っているはずだった。
昔の仲間から、彼女が大学の講師と婚約したと聞いていた。
その話を聞いた時、特に心に湧いてくる感情らしいものがなかったのが自分でも不思議だったのを覚えている。
メールには涼子の父親が倒れて病院に入院しているとの知らせが書かれていた。
涼子の父は東京でも数少ない筆職人だった。そして、小学生のころ、僕は毎日のように涼子の家に通い、おじさんの姿を見ていた。
「あのおじさんが」
おじさんは僕にとって、ヒーローのような人だった。
涼子の家は、僕たちの家族が住む家から通りを挟んで商店街の角を二軒奥まったところにあった。
大きなガラスの引き戸を開けて入ると、獣の毛のすえた匂いがした。入り口のわずかなスペースに商品棚があって、色も大きさも違った筆が綺麗なかたまりになって置かれている。その先のガラス戸の向こうが作業場だった。
おじさんは黙々と仕事をしていた。僕は恐る恐るだけど、そのおじさんの姿を遠巻きに見ているのが好きだった。リズミカルに筆の毛先が整っていく様子は魔法だった。
僕らは家族で親しくしていた。学校から帰ると、塾のない日はどちらかの家にいってゲームや宿題をすませていた。
そんな風に中学に入るまではあたりまえに行き来していた。
今にして思えば、小学校も高学年にもなれば、それなりにませてきて、少しは気まずく感じていても不思議ではなかったと思うのだけど、僕らにはあたりまえの日課だった。
中学生になると、互いにクラブ活動に熱中していた。それでも休みの日は変わらない付き合いが続いていた。
あの頃からおませだったな、涼子は。
ふいにそう思って隣に眠る涼子を見た。
「うーんっ」
寝返りをうつ涼子の口元が少し笑っているように見えた。
そばに脱ぎ捨てていた僕のコートをそっと涼子にかけた。
「あったかい」
涼子はそう寝言のようにいうと、コートを肩のほうまでひきよせてくるまった。
中学を卒業して暫くして、僕たち一家は東京から少し離れた千葉の団地に引っ越した。父は家業の靴屋をやめ、大手流通チェーン店でサラリーマンをするようになっていた。僕らは別々の高校に進学し、暮らす場所も違っていた。それでも涼子と遠く離れた気がしなかったのは毎日入ってくる涼子からのメールのせいだった。
時折、時間をやりくりして休日を一緒に過ごす事もあったが、それは小学校の頃からの遊びの延長みたいなものだった。家族同士のつき合いも変わる事なく、僕が涼子の家をいつ訪ねても変わる事なく迎えてくれた。
そんな涼子が最初に僕の前からいなくなったのは高校二年の夏休み、花火大会の夜だった。
花火大会には子供の頃から二人で何度も通っていた。
その夜のゆかた姿の涼子はすっかり大人びていた。
小学生の時、涼子のつけていた髪飾りを奪いとって、人ごみのなかを追いかけっこしていたなんて嘘みたいだった。
その夏、陸上をしていた僕は次の年にある最後のインターハイ予選に向けて走り込みを続けていた。涼子は美大の日本画科をめざして、新宿にある美術の予備校へ通い始めていた。
練習を終えて、部室にもどり着替えを済ませるとメールをチェックするのが僕の習慣になっていた。
メールには他愛のない涼子の日常の報告と
─がんばれ─
の一行。
─ありがとう─
そう返す。そのくり返し。それでよかった。必要な時は、涼子からすぐに電話がくる。それがあたり前の繰り返しだった。
でも、ある日そのメールが来なくなった。
Tシャツを頭からストンと着る。
バッグの中にあるケータイをがさがさとさぐる。
涼子から連絡が来なくなって三日目だった。
やっぱりこちらから連絡をとらないとダメかな。そう思った。忙しいだけだろうと気にもしていなかったが、その日だけは妙にそう思った。
メールを打とうとした。
─元気?─
それでいいのかな。僕は言葉に迷った。
そういえば少し前のメール、気にもとめていなかったけど、通いはじめた予備校に慣れない様子とデッサンに自信をなくしたみたいなことが書いてあった。でも、平気って言ってたから……。
│がんばれ!│
これじゃいつも涼子が送ってくるメールそのままだ。
│どうしてる?│
何か変だ。
│元気か│
思い直していつものように短いメールを送った。
一週間後、涼子からのメールがあった。
─メールしなくてゴメン。今度の週末、隅田川の花火いつものように会おうね─
元気なんだ。その頃になるとメールが来ないことも僕には普通のことに感じるようになった。
─OK─
僕はいつもの返信をして、シューズのひもを締めなおした。
花火大会の日、涼子はいつになくはしゃいでいた。心配した僕が損をしたみたいだ。予備校が大変なら、何かたのしませなくちゃ、と本気で思っていたのに。
涼子は彩られた大玉の花火が上がる度に、手に持った団扇を空にむけて大きくあおいで楽しんでいる。まったく女の子はめんどうなものだ。
近くにあがった強い花火の光りが、一瞬あたりを昼間のような明るさで包む。その度ごとに浮かぶ涼子のシルエット。その姿に僕は一瞬とまどう。涼子が、自分とは違う時間の流れの中にいる人に思えた。紺色に朝顔と金魚の絵柄が半分程に描かれた浴衣姿の涼子。まわりにいる高校生らしい女の子たちは派手な帯やじゃらじゃらとした飾りをつけて無邪気にはしゃいでいる。涼子はそんな子たちとは関係ないみたいに、一人だけキリっとした姿で明るく振る舞う。そんな戸惑いに気が付いてか、
「本当の下町の娘はこんなときは、ピンとしてるものよ」
涼子は笑顔で振り返って、喧騒にまぎれないよう、大きく澄んだ声でいった。
「ここにいると普通のしゃべりかた忘れるね。ずっと大声でしゃべっちゃう」
「花火なんだからあたりまえだろう」
「そうだよね、少し歩こう」
そういって涼子は人ごみのなかを歩きはじめた。
「待てよ、わかんなくなっちゃうよ」
僕はあわてて後を追った。
ひとしきり大玉の花火が打ち終わったのか、仕掛け花火が軽快な動きを演じはじめていた。
人ごみをぬって僕はようやく涼子に追い付いた。
「隆、メールすぐにくれなかったね」
僕に気がついた涼子は前を向いたまま言った。
「悪かった」
「寂しかったな、少し」
「ゴメン」
「でもいいの」
「ごめん」
「ごめんばかりよ」
「だから……」
「いいんだって」
軽く笑顔でそういうと、涼子は少し足を早めた。
僕たちはそのまましばらく黙って横に並んで歩くことに集中した。
大勢の人が動く黒い影と、時折花火色に明るく照らされる街並をかいくぐるように進む。
どれだけの時間歩いたんだろう。気が付くとさっきまで満員電車の中を歩いているようだったのに、人影はすっかり減っていた。
「ずいぶん歩いたね」
僕はなんだか気まずいまま言葉にしていた。
「そうね」
少し先に、地下鉄の駅の灯りが見える。
「もう、会えないの」
涼子がポツリといった。
「えっ」
「もう会わない」
突然の言葉に僕はとまどった。何をいってるんだろう。
「本当はね、私つらかった」
僕の動揺に気が付かないかのように涼子は話しはじめた。
「みんな、すごく上手くて。当たり前よね、はやい人は一年の時からやってるんだもん。でも私、全然ダメで、鉛筆が動かなくて……」
「しょうがないよ、最初から上手くいくやつは天才さ」
「違うよ。私はダメだったの」
少し語気を強めた涼子のことばが妙にささってくる。
「ゴメン、わからなくて」
「いいの、でも私ほんとうにダメだったみたい。イライラしてた」
「でも、涼子なら大丈夫だよ」
「そうね、そうであってほしいわ」
そうさっぱりといいきると、
「私ね、講師の先生と……」
「えっ」
涼子の横顔がなんだか急に遠い人のように見えた。
「びっくり、だよね。寂しかったの。先生、私のいいところは描いてる線が柔らかいところって、ちゃんとわかれば大丈夫だって教えてくれた。先生が見てくれるのが楽しくて、でも不安で。誤解しないで、先生はちゃんとした人よ。私がダメになったとき、ちゃんと傍にいてくれた人なんだもの」
「好きなの?」
「うん。たぶん」
「今でも?」
「だって、隆、メールもくれなかったでしょ」
「えっ」
「大丈夫よ。怒ってないし、ただちょっと寂しかったかな。いいの、でも、もう隆とは会わないことにする。悲しくなっちゃいそうだから」
「だってそれは……」
僕には、何を考えているのかさっぱり分らなかった。どう答えていいかも。ただ何かおいてけぼりをくらってしまっている自分がいる。だからって僕が何ができるわけでもないことも分かっていた。
「さようなら、先に行くね」
涼子はそういいのこして地下鉄の入り口にむかって歩きはじめた。
「また、メールするよ」
涼子の背中に向かって僕はそう叫んだけど、涼子に聞こえていただろうか?
その夏以来の連絡だった。
新宿をすぎて乗客がまばらになった中央線の列車のなかであらためてメールを見た。
─だめかも─
続いて書かれていた涼子のお父さんの病状は最悪のものだった。
急におじさんの匂いと声が鮮明に蘇った。
小学生の頃の遠い記憶。
その日、先生の都合で学校が早く終わった。小学校の校門を飛び出ると、いつものように涼子の家の大きなガラス戸へむけ走って帰っていた。
少し重いガラス戸を両手でやっとのことあけた。ちょっと薄暗くてがらんとした感じで、涼子がまだ帰っていないことが分かった。
「よー。隆ボーか」
奥で作業をしていたらしいおじさんが、太くしゃがれた声で呼んでくれた。
「はいっ」
小さな頃から知っているおじさんだけどやっぱりどこか恐い。
「涼子はまだだよ」
やっぱり怒っているみたいだ。
「こっちに来るか」
驚いた。作業場に呼ばれたのは初めてだった。
「はいっ」
ランドセルを入り口の板の間に置いて作業場に入った。
「見るかい?」
「はいっ」
おじさんは作業をそのままつづけていた。
筆先になる毛がおじさんの手の中でさっと平らに延ばされる。それをくるっと小刀のような道具で丸める。それを揉んでまた平らにする。それをまた同じように丸める作業を繰り返しているときれいな筆の先ができた。
しばらく黙って見ていた。
「面白いか」
突然手をとめておじさんが話しかけてくれた。
「うんっ」
すると机のうえに置かれた毛をさして、
「これは豚の毛、こっちはテンって動物の毛なんだ」
「テン?」
「この茶色いほうのだ、狐みたいな動物、知らないかい?」
少しお酒の匂いがする。僕はごくんと唾をのみこんだ。その音が部屋に鳴り響いたみたいだった。
目をまるくしていたにちがいない。
「ハッハッハッハッ」
豪快な笑い声が部屋中に鳴り響いた。
「それはいい」
そういっておじさんはまた作業をはじめた。しばらく黙って見ていた。
ゴロゴロゴロ。
戸が開く音がした。
「ただいまー」
涼子の声だった。
「隆くんがいるぞー」
「分かってる。カバンおいたら、そっちにいっていい?」
「ああ」
涼子はそのまま自分の部屋にいき、すぐに作業場に来て僕の横に座って一緒におじさんの仕事を見ていた。
その日以来、僕はときどき一人でおじさんのところに行って作業を飽きることなく眺めていた。気が向くとおじさんは筆のことや書道のことを僕に教えてくれた。
あのおじさんが……。
お茶の水の駅で降りて、ケータイのアドレスから涼子の電話番号を探してコールした。通じるだろうか? 何回か呼び出し音がしたあと涼子の声がした。
「あっ、隆?」
微かな雑音のむこうから涼子の声がした、
「もうすぐ病院だから、通じなくなるの、もうダメみたい。昨日父さんが隆に会いたがったから連絡したの。迷惑だった? 迷惑だよね。でも、もし出来るなら父さんに会いにきて。お茶の水医大病院。1010号室。よかった、間に合った。お願いね。じゃ」
一気にしゃべって切ろうとする。以前と変わらないな。
「ちょっと待ってよ」
「何?」
「いや、急だったから」
「ずっと悪かったみたいなのよ。ごめんなさいね。こんなことで」
「いいんだ……。大丈夫なの」
「無理ならいいの、元気だったって伝えておくから」
「平気だから、これからすぐ行く」
「ありがとう、先に行っているから」
「うん」
その後僕はどこを通って辿り着いたんだろう。気が付くと病院にいた。
診療の時間が終わった病院は馬鹿みたいに静かだった。同じような部屋に迷いながらようやく病室にたどり着いた。
こじんまりとした清潔な病室に一人、涼子のお父さんはベッドに横たわり、呼吸器をつけていた。あんなに大きな人だったのに、今はベッドの上で細くなっている。
「隆くんありがとう」
「おばさん」
久しぶりなに会う涼子のお母さんはやつれていた。白髪が少し多くなり、しわも目立っていた。
隣に涼子がいた。長い髪を後ろで軽く束ねている。
その右隣に知らない男性がいた。この男が婚約者?
「はじめまして、酒井真也です」
僕は軽く会釈をした。
「隆、ホントありがとう」
涼子が続く。
「いや、知らなくて、遅くなって…」
「昨日はまだ少し話せたのよ。そしたら隆ボー、隆ボーに会いたいって」
涼子の説明をさえぎるようにおばさんが話しかけてくる。
「隆くんが来てくれた日はいつも楽しそうだったのよ、うちの主人は。中学を卒業して、遠く離れる事になって一番寂しがってたのは主人だったのよ。涼子なんてサバサバしたものよ。話せなくてもメールがあるし、会えない時は写メでしょって。そんなんじゃないのにね。隆くん一家が行ってしまった日は、一晩中どこかで呑んでいて、帰って来たのは朝方だったのよ」
「母さん、こんな時になによ。真也さんだっているっていうのに」
「いいじゃないの。隆くんがこうして会いに来てくれたのよ。父さんも喜んでいるわ」
そういいながら、おじさんの手をさすっていた。
「話しはいつも涼子さんから聞いています。思った通りのひとだ」
ただ、突っ立っていた僕に気をきかせてか酒井さんが話しかけてくれた。
「真也さんは画家さん。もちろん大学で教えているけど。涼子のことずっと面倒にみてくれているのよ。予備校の頃から」
おばさんが慌てたように紹介してくれた。
「よろしく、お願いします。僕は│」
「いやだ、いいのよ、そんな堅苦しい挨拶は。せっかく来てくれたのにね。もっと近づいて主人に話しかけてやって」
そういいながらおばさんは僕をおじさんの傍へ引き寄せてくれた。
「おじさん。隆です」
「…………」
「おじさん、長く会いにこれなくてごめんなさい」
「…………」
「おじさん、早く元気になって、いつものかっこいい仕事、また見たいです」
「…………」
「また動物の毛の話や文字のことちゃんと教えて下さい」
「…………」
「かっこいいんだもの、おじさんの仕事」
僕は子供の頃にみた仕事場の風景を思い出していた。
おじさんの手が少しピクッと動いた。
「父さん、仕事してるの」
涼子が声にならない声でいった。
「父さん」
おばさんがそっとおじさんの手先を握しめた。
「父さん、今は仕事はいいのよ。今まででもりっぱな筆は出来たわ。もういいのよ……、えっ隆さんとお酒を呑んでいるの? バカね、お酒で体をこわしたのよあなた。しっかりしてね」
おばさんの涙が握ったままのおじさんの手の上に落ちているのが分かった。
「す、すみません、変なこといっちゃって」
不用意な言葉でおばさんを哀しませてしまった。僕の気持ちの準備がなかったとはいえ、こんなことしかできない僕があらためて情けなかった。
「ごめんなさい。とりみだしたりして。驚いたのよ。さっきまでみんなで何をいっても眠ったままだったから」
おばさんは着物の裾で涙を拭った。その横で涼子も目をはらしていた。そのまま僕も何もいえないまま時間の流れだけが空気を動かしていた。
「ちょっと外します」
真也さんが止まった空気を動かすようにいった。
「タバコなの?」
涼子がはっと気がついたように訊ねる。
「うん、ちょっとごめん。隆さんもどう?」
「吸うの?」
涼子が驚いたように訊ねた。
「う、うん」
大学に入っても陸上は続けていたので、タバコは吸ってはいなかった。ただ、この場合やはり真也さんにつき合うべきだろうということぐらいは分かった。おじさんもそうしろっていったに違いない。
おじさんの耳もとに近づいて、
「後でまた来ます」
とそっと話した。
閉じた目が少しだけ動いたような気がした。僕だけが気付いたようだった。涼子は真也さんのカバンからタバコをとりだし、おばさんはおじさんの命を繋いでいるチューブの具合をみていた。
「じゃ」
と真也さん。
「ちょっと失礼します」
僕はそういって病室をでた。
喫煙スペースまで黙って僕らは歩いた。蛍光灯の青い灯りが人の命や感情をすいとってゆらめいている。長い廊下を何度か角をまがって素っ気無い喫煙所についた。踊り場の角を事務用のつい立てで仕切っただけのかたちだけの喫煙ルーム。灰皿のスタンドが三本、やせた葉植物の鉢植えが一つ、壁際に長椅子が二本置かれていた。
「座る?」
「いえ」
「そう、一本どう?」
「は、はい」
真也さんがタバコを差し出してくれた。
「本当は吸わないんだろう?」
「いえ、あっ、はい」
「優しいんだな」
そういいながら真也さんはそのタバコを自分の口もとにはさんで火を付けた。
「いえ、でも僕はこれで失礼します」
「いいのか、涼子ともっと話さなくて」
「ええ、おじさんの顔をみたからもう」
「そうか」
「よろしく伝えておいてください」
「優しいんだな」
「そんなわけじゃ」
「そうか、いいよ。二人には上手く伝えておく」
「ありがとうございます」
「何れまた」
「はいっ……」
そのまま僕は病院をでた。
暗い坂道を下りながら見上げた空の星がかすんで見えた。声をだして泣きたいのに、なんでこんなに乾いてるんだろう。涙がまぶたの内側で消えていく。
おじさんの死は新聞の訃報欄で知った。おじさんはちょっとした著名人だった。
お別れはこの前すませたつもりでいた。おばさんや、涼子のことが気になるけれど、また哀しませるだけのような気がしていた。
だけど、本当はおじさんがいなくなった現実を僕は知りたくなかったのかもしれない。
通夜と葬儀には両親が参列した。僕は大学の用事を口実にその場に行くことをさけていた。
葬儀の様子は両親が話してくれた。おばさんや涼子の様子も。涼子の婚約者の酒井さんに会ったことも。
酒井さんはずいぶんと二人のことを支えていたようだった。大人の男ってそういうことなのかなと感心したように話しをする両親の姿をみて思った。
それからしばらくは学校と家とを往復する毎日を送った。
大学に入ってから続けていた塾のバイトは休んだままにしていた。受験シーズンが近いというのに迷惑な話しだったろう。こんなことがいつもきちんと出来ないでいる自分のことが情けない。だけど、僕には時間が必要だった。きちんとするまでには。何故だかわからないけれど。
一か月が過ぎた頃、涼子からメールがきた。
─この前はありがとう。今度会える?─
素っ気無いメールだった。おじさんのことはもう大丈夫なんだろうか?
─うん、ありがとう─
以前いつもしていたようにメールをかえした。
翌日、僕は涼子には連絡を入れないまま昔住んでいた街を訪ねた。おじさんの家に行って、涼子がいなくても線香だけはあげて帰りたいと思っていた。
大きな筆の文字で屋号が書かれたガラス戸を引く。やっぱり相変わらず重い戸。思い出して気が付いたことだけど、涼子はかるがると開けていた。何かコツがあるのかも知れない。それとも、僕の気持ちがいつも重く感じているのだろうか。
「こんにちは」
僕がいいおわらないうちに奥から着物姿のおばさんが出て来た。病院で会った時よりも顔色はいいようだった。髪の白さは増したようだけど、かえって若く見える。
「いろいろ失礼しました」
「いいのよ、そんなかしこまったこと。いやだね、今日来る事知ってたら美容室ぐらいにはいってたのにね。涼子はそんなこと一言もいわないものだから。でも来てくれて嬉しいわ。ありがとう、さあ上がって」
「いえ、すみません。僕がなにもいわないで来たんで」
「いやだ、そうなのね。分かってるのよ。どうせ涼子がメールとやらでもいれたんでしょう。さ、早くあがって。主人に会ってやってね」
僕は奥の仏間に通された。おじさんの遺影が笑ってこちらを見ている。
少しお酒の匂いがしてきたような気がした。
そう感じた僕は静かに手を合わせる事ができた。そばでおじさんが迎えてくれているような気がしたからだ。僕はそうやっておじさんと向き合っていた。
しばらくして奥でお茶を入れたおばさんが戻って来て側に置いてくれた。
「あらっ、涼子気が付いていないのかしら。あの子が呼びつけたのにね。どうしたんでしょう。ありがとうね、いつもあの子のわがままにつき合ってくれて。でも隆くんは家族のようなものなのよ。だからいつでも来てね」
そういいながら、少し丸まった背中をこちらにむけて席をたち、階段に向かい二階に上がろうとした。
「あっ、いいですよ」
思わずそういいかけたが、ひそやかですっとしたおばさんの姿が言葉を止めた。
ほどなく階段の物音に気が付いた涼子が部屋からでてきた。
「お母さん、だめじゃない。階段は危ないから。呼んでくれればいいんだから」
「でも、家のなかで大きな声を出すなんてね」
そういうと、ゆっくりとこちらを振り向いて、
「隆さん、今日はゆっくりしていってね。夕飯を用意するわ。でもまだちょっと早いから少しばかり休ませてちょうだいね。涼子、一時間したら起こしてね。いつものお昼寝をしないと。やっぱり無理は出来ないね。せっかく隆さんが来てくれたというのにね。お話も出来なくて。でもゆっくりしていってね」
おばさんはそう言い残して 奥の部屋に向かった。
それを目で見送りながら涼子はこちらへきて隣に座った。僕もおばさんが部屋に入るのをそっと見つめていた。
僕たちはそのまま座って中庭のほうを見ていた。
大通りの自動車の音はここまでは聞こえてこない。冬の静かな光がゆっくりと時間を刻んでいるみたいだった。
甘い香りがする。ローバイだ。いつかおじさんが話してくれた黄色い花。中庭のどこかにあったはずだ。真冬でも甘い香りを放つローバイは俺のようなもんだとおじさんはいっていた。
「ここじゃないんだ」
僕は思わずつぶやいてしまった。
「えっ」
涼子が驚いたようにこちらを向いた。
「仕事場」
「仕事場?」
「仕事場からきれいに見れるんだ、あの黄色い花」
「あーローバイの木ね。去年は庭の手入れなんてすっかり忘れてたから、思い出さなかったわ。父さん好きだったものね」
「そう、だった」
「ちょうどいいわ、あそこで見せたいものがあるし」
僕たちは向いにあるおじさんの仕事場に向かった。薄ぐらい部屋に冬の日だまりが作業机にできていた。涼子はおじさんの座っていた席につくように僕の腕を引いた。
「お茶を入れてくるから、ちょっとこれ見てて」
涼子はおじさんの仕事机の引き出しから一冊の大学ノートを取り出した。
黄色いローバイの花がかじかんだ日ざしのなかで静かにゆらいでいた。
大学ノートの表紙には『日記』と書かれていた。中を開くとおじさんの字がびっしりと丁寧に書かれていた。仕事のことや、なんだかわからないけれど仕入れの記録のようなものまで、おじさんが日々大切にして来た事柄が几帳面に書かれていた。
所々に「涼子と」と書かれたメモがあった。遠い先、涼子が二十歳を超えてからの年と日付けがかかれたメモのようなものがあった。おじさん、涼子とこんなふうに過ごしたいと思っていたんだろうか。成人式の彼女の姿を想像して書き込んだところもあった。おじさんは彼女に青い地に華やかな梅の絵柄の着物を着せたかったみたいだ、その着物で記念撮影をしたことになっていた。
お茶をいれて涼子が戻って来た。
「変でしょ、お父さん。こんな事考えてたんだね。中学を過ぎると、ほとんど父さとはちゃんと話してなかったから。こんなもの書いていたのね。ちょっと隆くんにみてほしいページがあるの」
涼子はノートを数ページめくって、
「あーこれこれ、ここよ」
二〇〇七年一月二二日
今日、隆くんと涼子と三人で酒を呑む。こうして隆くんと飲める日が来たのはうれしい。二人が婚約してくれた。隆くんは筆をつくりたいという。厳しいが、彼ならやっていけるだろう。
涼子が示した箇所にはそう書き込みがあった。
「僕たちに結婚するみたいだね」
「そうね。それからこっち」
二〇〇八年四月一五日
涼子の結婚式。湯島天神で。隆くん、涼子を頼む。また呑もう。
「私たちすっかり夫婦ね」
「知ってたの、このノートのこと」
「知るわけないでしょ。仕事場にはほとんどこなかったもの」
「そうだったんだ」
「父さんが死んでから、仕事場を整理していたら出てきたの。母さんよくいってたのよ。酔って帰ってきたのに、仕事場にこもったまま大丈夫かしらって。きっとこれを書いてたのね」
「そう。真也さんは見たの、これ?」
「ううん、見せるわけないわ。変でしょ、こんな事書いてたなんて」
「うん」
僕はつぶやくようにうなずいた。
ローバイの枝を小鳥が揺らした。
涼子は僕の傍に寄り添うように座って、僕の肩に頭を添えてきた。僕はそっと涼子の腰に腕をまわした。
「大丈夫?」
「うん」
「寒くない?」
「うん」
涼子は僕の体温を確かめるみたいにじっと呼吸をしていた。
コトンッ。
玄関の戸の音が家中に大きく響いた。驚いた僕たちは思わず離れて振り向いた。 誰も来た様子はなかった。
外の道に反射した光が静かにガラスを照らしている。
「怒られたかな、父さんに」
「春の光りにやいただけだよ、お父さん」
「そうかな」
僕たちは違いに顔を見合って笑った。
「おばさんが起きる前に帰るね」
「うん」
「じゃ」
「さようなら」
涼子にはその日を最後に会っていなかった。
あれから涼子は婚約を解消して、大学も止めたらしい。大手の広告代理店でバイトをしているらしいと聞いたこともある。そこで出会った男性と結婚して世田谷で幸せに暮らしているとも。
僕のほうは、なんて事ない普通の大学生活を送り、卒業して中堅の商社に就職していた。五年目の今は、それなりのスタッフをかかえている。結婚はしていない。それなりにつき合って来た女性もいた。今も時折部屋に来てくれる留美がいる。そのまま結婚してもやっていけそうな気もしている。だけど今はその時じゃない。そう思っている。
涼子はどうなんだろう。今僕のとなりで酔ってカラオケボックスで寝込んでるなんて。
幸せなんだろうか?
そんな事、考えてみることもなかった。
どちらにしても、幸せのかたちは誰にも描ききれないことのような気がする。
涼子が鈍く体を持ち上げた。
まだ半分ひらいてない目をこちらに向けながら、澄んだ声のかたちができあがってないまま話しかけてくる。
「嬉しかった。そばにいてくれて、あの時」
「えっ」
「父さんが死んで、一度家にきてくれたでしょ。覚えてるでしょ。あのときのこと」
「うん。でもあの時は前の彼もいただろ?」
「そうね、……」
涼子はそのままどこか遠くを見ているようだった。
「バカみたいなこと聞いたね」
そう、つまらないことだと思う。
同じ時のことを考えていたなんて。
「今日、楽しかった。コートありがとう。温かかったわ」
そういうと涼子は酔いをさますように一度背伸びをして立ち上がった。
カラオケボックスを出ると夜が終わろうとしていた。
フッと吐いた息が軽く白く広がって消えて行く。
朝の訪れをゆっくり確かめるように歩いていた僕らは地下鉄の入り口に着いた。
「ここら辺で」
「うん」
「じゃ、元気で」
「元気で」
動き始めた地下鉄の音が、遠く浅い記憶をかき消しくれる。