渓流と紅葉
鈴木 三郎助
四十を過ぎた頃から、彼の作品が世の注目を浴び始めた。世の注目と言っても、作品がベストセラーになるような華やかなものではなく、ごく限られたひとたちの間での、地味な評判という感じである。
彼の名は栗原陽一という。彼はカメラマンである。主に山河の美景と、そこに生息する動物や植物などを被写体として写真を撮って来た。彼は口に出して言わないが、自然、つまり山河の写真家と自称していた。
彼は商売のために写真を撮る、いわゆるププロのカメラマンではない。彼は写真を撮るけれども、それを売るという考えは、写真を始めた頃から彼の脳裏には全くなかった。
では、彼は何のために写真を撮るのか。彼自身、それは、正直言ってよく分からないと言っている。人から問われれば、好きだから撮るとか、撮りたい衝動にかられるから撮るのだ。そんな月並みなことしか言わない。
ある有名な登山家が「あなたはなぜ山に登るのか」と質問を受けたとき彼は
「そこに山があるから」と答えたそうだ。
山自体のもつ神秘的な威容が、登山家の純粋な魂を揺さぶり魅惑するのだろう。そのようなことは、栗原陽一にも言えた。自然が彼の心に呼びかけるのだ。彼はその呼びかけに素直な心で応じて長年、写真を撮り続けて来たのであった。
だが彼が写真を撮り始めたのは、二十代の後半、三十に近い歳だった。それまで彼は何をしていたのだろう。彼は自分の出自について黙して語らない。彼の故郷はどこなのか、どんな家族構成のもとで幼少期を送ったのか。親がどんな人で、父はどんな仕事をしていたのか。人から訊ねられても、彼はまともに答えることがなかった。
「父も母も普通の人で、暮らし向きも普通だ」
いつもためらい笑いを浮かべて、彼はあいまいな受け答えしかしなかった。
実際、彼は裕福な家に生まれたわけでないし、親が名の知られた人でもなかった。父はサラリーマンで、よく転職する人であった。どこで何をしているか分からない親父であった。そのため母は生活に困って、スーパでパートの店員として働き、三人の子供を育ててきたのであった。
長男は勉強の好きな子で、成績も優秀であったので、大学に進学し、そして公務員になった。顔立ちが可愛く、明るい性格の妹は高校を卒業すると、難なく銀行に就職ができた。二人にとって生きることは、当然のごとく愉快なものであった。勉強をし、友だちをつくり、学校という生活環境に順応していく活力があった。物事に対して真面に考える現実的な感覚を持っていた。自分に見合った職業に就き、母を喜ばせ、安心させた。
ところで、陽一はどうだったのだろう。
兄や妹のように物事が順調に進むようにはいかなかった。
彼は生きることの辛さを身に強く感じながら生きていく、そんな重荷を背負った類の一人であった。少なくとも、彼がカメラとの出会いがあるまでは、惨めな、茨の人生を生きてきたのであった。
それは、彼に何か肉体的な障害があったわけではなかった。五体は満足であった。外見はなんら普通の子供と変わらない。ところが、彼は並はずれた人間嫌いの子供であった。赤ん坊の頃から人見知りが激しく、他人に抱かれたりすると、火が付いたように顔を真っ赤にして泣いた。だが、母親の腕に戻されたとたんに機嫌をとりもどし、小さな涙顔に満ち足りた安らかな笑みを浮かべた。そんな母親べったりの児であった。
しかし、二年後に妹が生まれた。そのことで彼は、母から引き離されることになった。それは彼にとって、小さな出来事ではなかった。彼にしてみれば、いつまでも母の懐の中にいたかったのだ。幼い彼の心は母を独り占めにしたかったのだ。だが、まわりの力が彼を母から引き離そうとした。彼は全身で嫌だと、泣き叫んで抵抗したけれども、それは叶えられなかった。
彼が小学四年の時であった。授業態度が良くないと叱られ、放課後に残されたことがあった。
「なぜ真面目に勉強しないのか」
担任の男の先生が彼に訊ねた。
「退屈だからです」
「何が退屈なんだね」
「面白くないのです」
「授業か?」
「いいえ」
彼は頭を横に振った。
「教室に閉じ込められていることが我慢できないのです」
「君は勉強が嫌いなのかね」
「……」
「君が一番好きなの?」
「母親です。でも母はぼくを追い出しました。妹が生まれて、ぼくは母から引き離された。ぼくは楽園を追い出されたのです」
先生は思わず声を出して笑った。
しかし先生は、彼の真意を見抜いてくれなかった。
幼児の陽一の感覚は異常に鋭敏であった。母の温もりをいつまでも体に保持したかったのだ。それが叶えられなかったことが、心の傷となって、あと後まで痣として残ったのである。
彼は友だちのいない少年期を送った。中学校でも高校でも、これといった親しい友人をつくれなかった。彼には軽い吃音症があった。そのため、しゃべるのにいつも勇気が必要だった。仲間たちの中に入るよりも、仲間の外にいる方がずっと気がらくだった。他の子供たちが教室などで面白そうにしゃべっているのを見ても、また放課後校庭で楽しそうに跳んだり、走ったりしているのを見ても、羨ましいと思う気持ちが起きなかった。
むしろ彼は、一人でいる方が気らくだった。誰からも邪魔されない時間こそが、彼の天国だった。自分自身と対話ができることが、彼にとってこれに優る喜びはなかった。
彼は空想を楽しむ少年だった。空想の世界が彼の遊び場であった。
そこには山があり、野原があり、川があり、田圃があり、花畑があった。彼は歩きながら時々、無言の笑いを顔面につくることがあった。ある人がそれを見て、何がおかしいのだろうと不審そうな顔をして通り過ぎた。またある人は、彼がいつも独りぼっちでいるのを目撃して、この子には友だちがいないのかしらと、気の毒そうな顔をした。
人好きのしない彼は、中学生になっても相変わらず話し合える友がいなかった。勉強は面白くなく、身が入らなかった。
彼は背丈が高くはないが、体がやせ細っているので、見た目には背高に見えた。顔色は冴えず、つやのない顔だった。厚みのある額のわりに鼻は短く、濃い眉毛と大きな目は、一度見れば、脳裡に刻まれた。その容貌にはいつもうす雲がかかったように、憂鬱そうな色がただよっていた。誰もそんな彼に近寄ってこなかった。
彼にはどこか、石のような冷ややかなところがあった。独りだけ異質な存在だった。それが目障りになって、まわりからはいやな目で見られた。時には蔑視の標的にされた。陽一は自分が蔑まされ、嘲笑されているのを強く身に感じると、もう我慢ができなくなって、その場から身を消したい強い衝動にかられるのだった。そして、彼は蛇に狙われた蛙のように脅える自分を哀れに感じた。そしてここは、自分のいるところでないと暗い思いに駆られるのだった。
クラブ活動は放課後にあったが、他の者と行動を共にするのが苦手な彼は部活には入らなかった。彼は単独行動をとっていた。
本を読むのが苦にならない彼は、多くの時間を図書室で過ごした。図書室は広く、たくさんの書物が書棚に並んでいた。閲覧室に机が並んでいるがそこで読書をしたり、勉強をしたりしている生徒は多くなかった。閲覧室には、時が止まったような静けさがあった。彼の席はいつも決まっていた。そこは庭に面した窓際の席であった。
そこで、彼は書物の世界に没入することができた。その空間は、彼を蔑むような者も、彼を邪魔扱いする者もいない、別天地の自由な世界であった。目に見えない著者の声だけが彼に語りかけてきた。彼はその声に耳をかたむける。彼の心を引き付ける著者に、彼は親近感を覚える。彼はそこに彼だけの友情を感じた。書物は彼の心を愉快にさせ、自由にさせてくれるものであった。美味しいものを食べた時のように、彼の心を満たしてくれるのだった。また書物は彼の視野を広く、大きくさせてくれた。
図書館は現実世界から脱け出せる場所だった。彼の隠れ家でもあった。そのような隠れ家が、もう一つ、彼にはあった。
それは森であった。近くの山には、雑木林があった。杉やブナの木の、こんもりした森があった。他人との関わりの苦手な彼は、時々現実生活に失望して、ひどい嫌悪感に駆られることがあった。追い詰められ、いたたまれなくなると、彼はいつも森の中に逃げた。森は彼の錯乱した心を鎮めてくれた。そのようなことのない時も、森が呼びかけているかのように、彼は森に誘われるのだった。
彼は地元の高校を卒業すると、家を出た。勉強には飽き飽きしていたので、大学に行く気はなかった。彼が向かったのは東京だった。東京にはいろいろな仕事があって、働き口が容易に見つかると、彼は考えた。また、自分が家を離れれば、母の負担が減り、少しでも母を楽にしてやりたかったからだった。
家を出る時、母は一か月分の生活費を彼にもたせた。母は彼の性格をよく知っていた。社交性のない息子が大都会の東京で、どんな苦労が待っているか、だいたい予測できた。だが一方で母は、内気な子は世間に出て、もまれてみるのも悪いことではないとも考えていた。それで、「しっかりやりなさいよ」と激励して、息子を見送ったのだった。
電車が上野駅に着き、下車した彼は改札口を出て、西郷さんの銅像の立つ公園に向かった。上野に着いたら、まず西郷さんを見なさいと、母から言われていたからであった。彼は土鳩が数羽、よちよち寄りくる銅像の前に立って、銅像を見上げた。
目の大きな、体格の頑健な男が、着流しで堂々と立っている。目は正面を真直ぐ見据えている。その思いは遠大で測り知れない。左手は脇差しを握り、右手は足元に寄り添う犬の紐を持っている。
彼は西郷さんに田舎のおっさんを立派な人物につくり変えたような印象を持った。強く感動したわけでなかったが、違和感は全く覚えなかった。
公園の端から彼は、高い建物の立つ都市の薄灰色ににじんだ空を見上げて、田舎の空がどんなに清澄であるかを痛感した。それから目を地上に下ろすと、幅の広い道路を車が行列をなして行き来しているのが見えた。都会の騒音が、舞い上がる土煙のように、彼の鋭敏な、無垢な耳にひびいてきた。都会の匂いが彼の鼻を突き、軽いめまいに似た恐怖を覚えた。こんなところで自分は生活して行けるのだろうかと、不安の影が胸をよぎった。
公園の中には樹木の茂みがあった。彼は桜の木の下のベンチに腰かけた。急ぎ足で通り過ぎる者がいるかと思えば、ぶらぶらしている者もいた。若い者もいれば、杖を突く年寄りもいる。制服姿の女学生が男の子と手をつないでいく。何か落ち着かない。雑多な雰囲気が周りにただよっている。
これからどうしたものかと、彼は一思案した。東京には知り合いがいなかった。母が勧めてくれた遠縁のおばさんのところに行く気にはならなかった。自分にはおばさんは他人である。その他人に会いに行ってどうするのだという思いが、彼にあった。
彼は半ば途方に暮れていた。ベンチの端には、先ほどから背広を着た、小柄な男が腰かけて新聞を読んでいた。五十を過ぎた、会社員風の男である。
その男に
「何を考えているんだね」
と、呼びかけられたので、栗原陽一は驚いて、顔を向けた。
男は彼の服装や、持ち物を見て、好意のこもった声で言った。
「田舎から出て来たのかね」
「ええ」
栗原は反射的に応えた。
男の日焼けした顔には、やさしい表情があった。ずるそうな悪い人ではなさそうだ。栗原はそう思ったが、警戒心をゆるめてはいなかった。その時母の言葉が頭をよぎったのである。東京には、とんでもない悪者がたくさんいるから気を付けなさい。そんな奴らにひっかかったらどうなるか分からない。家を出る時に母からそう注意されていたのだった。
「これからどこへ行くのかね」
栗原の不安そうな顔を見て男は訊ねた。
「今晩、泊まる宿を見つけなければと思っているのです」
栗原はそう言って、さらに、東京に来た事情をそれとなく語った。
男は親切な人だった。不案内な彼に、安く泊まれるビジネスホテルがあるから、それを見つけて泊まればいいと言った。仕事の件については、求人雑誌を買って探してみたら、いいと教えてくれた。
「都会には、夢を抱いて地方から出てくる若者がたくさんいる。君も頑張りなさい。きっとうまくいくと思うよ」
彼はそう言って、立ち去って行った。
栗原は、小さな光が灯ったような気分になった。
彼は歩きだした。公園の石段をおりて、人出で賑わう街道に出た。商店街に入ると、人波で溺れそうになった。こんなにも大勢の人がどこから集まってくるのだろうとあっけにとられた。もの珍しさに駆られて彼は人波をかけ分けていく。田舎の道であるなら、風の感触を受けるのに、ここには風の動きがまったく感じられない。いろいろな臭いの混合した変な空気が立ちこもっている。人の吐く息のにおい、焼き鳥を焼くにおい、中華料理のスープのにおいなどが、彼の嗅覚を刺激した。嫌なにおいであったが、そのうちに気にならなくなった。
全く見知らない人たちの中を彼は歩いている。歩きながら驚いている。この人たちの誰が自分の存在に気を留める者はいるのだろうか。
そんなことを思いながら歩いていた彼は、はたと足を止めた。後ろを振り返り、また前方を見渡した。人のうごめく通りをおれはどこへ行こうとしているのだろう。彼は人ごみの中で迷子のようになっていたのだった。彼はもと来た道を引き返して電車に乗った。
頭に宿のことを抱えた彼は池袋駅で下車した。それには訳があった。兄が在学中に豊島区に住んでいた。その兄から池袋の界隈のことを聞いていたからである。全く不案内な土地であったが、兄がそこで生活していたと思うと、他のところよりも身近な感じがした。
彼は駅の地下道から表に出たが、何が何やらさっぱり分からず、しばらく立ち止まったまま街の景観を見回した。彼は森を歩くような気分を出して、とにかく歩いてみようと思い、車道に面した繁華街の方に向かって歩き出した。賑やかなところはほんの一部で、どこか沈んだような街に感じられた。灰色がかった裏の方に行くと、線路沿いのところにいかにも安そうな、古びた建物を見つけた。ビルとビルに挟まれるように建てられた五階建ての、ビジネスホテルであった。彼は受付で空室があるか、聞いた。
「あります」
若い男は無愛想に答えた。
「三日、泊まりたいのですが」
「いいですよ。何日も泊まっている人もいますから」
係りの男は栗原に部屋の鍵を渡した。三階の端の部屋であった。ひとり部屋で、窓際にベッドがあり、中ほどにバス、トイレがあった。狭い空間である。栗原は吐息をはく。疲れもあったが、一人になれた安堵感が大きかった。ここには都会の喧騒はない。部屋には自分しかいない。栗原は妙な自由感を覚えたのである。勿論、それは彼の好んだ森の中の自由感ではなかった。森には生きものの世界があった。だがここは、密閉されたただの空間でしかない。自分が家族からも離れ、他の人々からも離れ、一人でいることの、気安さのような感じがあったが、同時にわびしいような不安が、忍び寄るのであった。
彼の上京には特に決まったプランはなかった。何かになろうという強い意志も、何をしたいのか、はっきりした目的も抱いていなかった。東京に行けば、食べていけるくらいの仕事にはありつけるだろうと、彼は軽く勝手に考えていた。仕事は何でもよかった。ただし、自分ができるもの。人との会話が苦手な彼は、口を使わない仕事が見つかればいいと、漠然とした思いで上京したのだった。
生きるということ。それはどういうことなのか、彼は思考を怠っていた。彼の関心事は仕事に就き、衣食住のある生活をしていくだけの資金を稼ぐことしか頭になかった。
次の日から栗原の仕事探しが始まった。コンビニで簡易な求人情報誌を手に入れた。ページをめくって住み込みで働ける職場を探した。パチンコ店や新聞販売店があった。パン工場や町の製作所にも、寮の設備あり、とあった。所持金の乏しい彼は当分の間、住み込みの可能な仕事場でなければならなかった。そこで彼は履歴書に必要事項を書いて、最初に出向いたのはパチンコ店であった。
店は私鉄の駅前の繁華街にあった。店は繁盛しているようだ。恐る恐る彼は、受付の者に求人広告を見てきた旨を告げた。彼は個室に案内された。しばらくしてそこに現われたのは、やや腹の出た、四十前後の店長らしい男であった。三分がりをした頭が馬鹿に大きく見えた。
男は栗原の履歴書に目を通すと、顔をあげ、鋭い眼差しで栗原の顔を見つめ、ジャンバーを着た、彼の細長な身体を眺めた。厚い唇の隅を、ちょっとゆがめたが、かすれ声で訊いた。
「住まいはどこなの」
「ビジネスホテルに泊まっています」
栗原は緊張して、言葉を出した。
「ここで働きたいのかね」
「ええ、そう願っています」
男は納得するかのように顔を和らげた。
面接はそれで終わった。従業員のための部屋が空いているから、住まいのことは心配しなくてもいい。明日から店に出てくれと言われた。仕事は簡単だ。店内を見回わり、お客が困ったことがあれば、相談に乗ってやればいい。働き方については、係りの者に話しておくから、あとで聞くといい。その男はそう言って、部屋を出て行った。
栗原は驚いた。こんなにも難なくことが運ぶとは思っていなかった。一日で仕事が見つかったのである。彼は店員として務まるかどうかなど忘れて、うれしさで胸が熱くなった。
彼はビジネスホテルに戻り、予約をキャンセルした。預けていた持ち物を持ってビジネスホテルを出た。
栗原の住まいは、店からそんなに遠くない場所にあった、民間のアパートの一室であった。六畳ほどの広さに、キチンとトイレがついた部屋である。
「なかなかいい部屋だよ」
と、彼を案内してきた店の係りの若い男が言った。
そう言われると、彼は汚れのない感じのよい部屋に思われた。通りの裏手にあるので、静かなところだ。
「君は料理できるのかい?」
係りの男が訊いた。
「できません」
「まあ、初めは誰だってできないよ。炊事器具はそろっているから、煮炊きはできる。お湯を沸かせば、インスタントラーメンぐらいは食べられるよ」
人相に似ず親切な人である。栗原はそう思った。
それから男は、店の仕事の内容のことを説明した。直ぐなれるよ。彼はそう言って、こう付け足した。
「一か月、我慢する。次に二か月、辛抱してみる。六か月頑張ったら、あとはうまくいくよ。あせらないことだ」
「分かりました。頑張ります」
栗原は素直に答えた。
その日の夜、彼はカツ丼を食べて、早めに床に就いた。明日から仕事だと思うと、なかなか寝つけずいたが、そのうちに寝たらしく朝までぐっすりと眠れた。朝の目覚めは爽快であった。
ところが、朝食を終え、お店に出かける時刻がくると、とたんに不安が彼を襲った。彼は逃亡の衝動に駆られた。だが、ここは田舎ではないのだと、彼は自分を制し、鼓舞し、平静を取り戻した。彼は仕事用の洋服を着てお店に向かった。
開店は十時であった。栗原はその三十分前に出勤して店内の掃除をしたり、他の職員と開店の準備をしたりしなければならなかった。
店の前には、早くも常連客の列ができていた。朝早く来る者は当たりのいい器械を先取りしたいために来る。彼らはパチンコを楽しむために来るのではなく、ここが彼らの仕事場なのだ。彼らは稼ぎに来るのだ。彼らには生活が懸かっているのだから、そのことを頭に置いておくことだ、と昨日係りの男から聞いたのを、栗原は思い起こした。
午前中はところどころに空いた器械が見えたが、午後の時間になると満席になった。店内は煙草の煙が立ち込め、パチンコ玉の賑やかな音が充満して、さらに軍艦マーチが鳴りひびき、栗原は目がくらみそうであった。
初日はなんとか無事に終わった。部屋にもどると、どっと疲れが出た。仕事は単純だったが、座らず立っていなければならないのが辛く、身にこたえた。その代り夜はとろけるように眠った。
仕事に就いて二週間ほど経った。店長に何度か注意を受けたが、自分のことを気にかけてくれる店長の言葉はむしろ有難く感じた。身体は仕事に慣れ、前より疲労感が少なくなったが、店内の雰囲気はどうも好きにはなれなかった。仕事もつまらなかった。といって仕事をやめるわけにはいかなかった。
彼は我慢しなければならなかった。転職を考える前に、働いてお金を貯めなければならなかった。一年間は我慢しなければならないと、彼は心に決めた。
一年が経った。彼は決心した通りにパチンコ店を辞めた。店長は、彼の性格と仕事ぶりから、彼が店員には不向きなのを前から知っていた。いろいろな人を見てきた店長は、こんな単純な仕事がろくにできないようでは路頭に迷うことになるだろうと案じて、彼を解雇せず大目に見てくれていた。栗原の方はいつ、首になるかと不安が絶えなかったが、お金を貯めるために我慢に我慢を重ねなければならないと自分を鼓舞し続けた。
仲間と距離をつくって、遊ぶことのなかった彼は、無駄な浪費をしなかったので、お金は少しずつ貯まっていった。当分、衣食住には困らないと思うと憂いのかけらのひとつが剥がれ落ちた。
彼は店長がいい人であることが分かっているだけに、別れはさびしく辛かった。
「君は間抜け者だが、根性はねじれていない。それが君のいいところだ。大変だろうが、頑張って生きて行くことだ」
別れの挨拶の時、店長はそう言って、彼を励ましたのだった。
パチンコ店の寮を出た栗原は、アパートの部屋を借りた。そうして独り立ちを目指して新しい生活を始めたのである。だが、その後の彼の人生はたいへん惨めなものであった。世の中は複雑であった。それに対して彼はあまりにも単純であった。
世間との対応力の乏しい彼は、仕事に就いても長続きすることは難しかった。待遇のいい会社に就職しても、数か月の見習い期間をどうにか経て、正社員として認められるのであるが、一年足らずで会社を辞めてしまう始末であった。辞める理由はさまざまであったが、その主なのは二つあった。
一つは会社からの解雇であった。会社のためになっていないというのが、その理由であった。彼特有の消極的な働きぶりが、一丸となって仕事に励んで利益を得る会社の経営方針を逸脱しているとみなされた。しかし、会社は雇った者を簡単には辞めさせられないので、あれこれと口実を並べ、やわらかに婉曲表現を使って解雇した。栗原はそのやり口に文句を言わず、叱られた幼児のように素直にそれを受け入れた。彼は辞めて後悔することはなかった。会社の方針に適応できない自分が悪いと思っていたからである。
もう一つは、自分から嫌になって辞めた仕事もけっこう多くあった。彼はいつもジレンマを抱えていた。他人の援助を断り、自活して行くには、生活費は自分で働いて手に入れなければならない。それは人間社会の鉄則である。ところが、彼はそれに違反してしまうのであった。仕事と職場の雰囲気に嫌気がさしてきて、それが次第に彼の心を痛めつけていくと、我慢できなくなって後先を考えずに仕事を放棄するのだった。
仕事を放棄した先に窮乏が待ち構えているのはいつものことであった。彼はそれを知らないわけではない。彼は自分を責める。死ぬのは嫌だ。餓死するのも嫌だ。彼は仕事上での障害や苦しみよりも、空腹の辛さの方がはるかに恐れた。都会には、いろんな職種がある。選り好みをしなければ、なんとか生きて行かれるのが都会である。彼はいろいろの仕事を見つけて働いた。しかし、なぜか彼は仕事に耐えられなくなって辞めてしまうのだった。
転職に転職を繰り返し、いつも貧しく、いつも、心のバランスを失っていた彼は、自分が惨めな、愚か者と思っても、どうすることもできなかった。
ある日、彼が職場で血を吐いて倒れた。救急車が来て、病院へ運ばれたが、胃に穴が開くほどの重い胃潰瘍であることが判明し、即刻入院することになった。
それまで彼は医者にかかるのを恐れ、病院が嫌いだった。それには理由があった。それはお金のことだった。いつもぎりぎりの生活をしていた彼は、医療代がもったいなかった。しかも彼は国民健康保険を持っていなかったのである。ところが、救急車で運ばれた時はたまたま勤めていた食品製造会社が、彼を正社員として採用していたので、彼は健康保険を持っていた。それは幸運であった。
彼の暮らしは貧しかったが、全然貯金していなかったわけではなかった。確かに彼の生活は、気の毒なほど惨めだった。食べるものを食べず、孤独で、わびしいものであった。彼は遊び仲間をつくらなかった。また、彼にはこれといった遊びや、また彼を夢中にさせる快楽もなかった。そんな彼は、他人の目には、けち臭い、無口な若者に見えたであろう。だが、彼はいつ、どんな目に遭うか分からない不安につきまとわれていた。それで彼は、給料の一部を貯金するようにしていた。それが彼の本能的な自己防衛策であったようだ。
田舎から東京に出てきて、すでに六、七年が経っていた。その間、彼は仕事を変えながら働いてきたが、その背後にはいつも、影のように困惑がついてきた。こんな生活がいつまで続くのだろう。いっそのこと人生にけりをつけようかと暗い衝動にかられたのは、一度や二度ではなかった。そのたびに彼は絶望の中から希望の光を見つけて、堪え忍んできたのであった。
彼は大病をしたのは初めてであり、また入院したのも初めての体験であった。
彼の入院は母を驚かせたが、母は彼の身体よりも、お金のことを心配したようだ。彼はお金のことは心配せずともいいと伝えたが、退院後しばらく温泉に行って、静養したらどうかと、母は手紙をよこした。そして必要なお金は送ってくれるというのだった。
彼の入院生活は四週間ほどであったが、その間彼は、病気の治療を受けただけでなく、都会生活で積もり積もった心の傷も、少しずつ和らいでいった。病院は彼にとって、漂流して着いた、静かな小島であった。人生の苦しみを忘れさせるところであった。毎日顔を合わせる看護婦さんのやさしく、自分に向けられる微笑は、彼の心の薬であった。同じ部屋の患者に対しては、軽く挨拶するだけであったが、その身のことを思い、同情の思いが多少であるが、彼の心の中に頭をもちあげてくるのであった。
「あなたの病気はひどいストレスが原因なのです。だから、これまでと同じような生活習慣を繰り返すならば、再発の可能性があります。あなたに適した仕事を見つけることが何よりも大切ですね」
医師は彼にそう言った。
医師の言葉はもっともなことだと、彼は思った。彼自身も同じようなことを考えなかったわけではなかった。
退院して、アパートの自分の部屋にもどって、また、無意味な仕事をして生きなければならないと思うと、すべてが灰色に見えてきた。彼はひどい自己嫌悪に陥った。ある時は深い憂鬱に襲われた。
「生きるべきか、それとも……」
ベッドに身を横たえて、彼は四、六時中、自問自答した。
「もう俺のような奴は、生きて行く意味なんてないんだ。残された道はこの世から、さっさと逃げ出すことだ。それが最後の、俺自身の解決策なのだ」
彼は絶望の海に溺れかかっていた。
そんな時であった。彼のもとに母の手紙が届いたのである。その内容は次のようなものだった。
「おまえは病気になって、自分の将来のことで、あれこれと思い悩んでいるのではないかと、お母さんは心配しています。でも、いくら悩んでみたところで、人生問題は容易には解決できないでしょうね。悩めば悩むほどいっそう悩みの深みにはまって行きますよ。くよくよと悩むのは止めなさい。病気になって、おまえが一番に感じたことは何でしたか。それは言うまでもないことでしょう。身体が丈夫であること、つまり健康こそがどんなに有難いことか実感したことではありませんか。おまえの先々のことは、それはそれとして、まず身体を大事にしなさい。その他のことはどうにかなるものよ。おまえは都会生活で神経がひどく傷ついてしまっているのよ」
さらに母の手紙は、当分温泉地で静養しながら、今後の生活のことを考えた方がいいと書かれていた。お金のことは、どうにかなるから心配しないでとあった。彼はそこに母の大きな心を見つけたのだった。目頭が熱くなった。涙があふれ出てくるのだった。
その数日後、彼の心は晴れやかな気分に満たされていた。彼は都会から離れることを決断したのだった。
それから一か月後、彼は東北のとある温泉郷の、賑やかな中心部から離れた、ひなびた温泉宿に来て、静養生活を送っていた。
その辺一帯は、高い建物はなく、同じような簡素な湯治旅館が数軒あるだけで、あとは街道に沿うって昔ながらの平屋造りの家屋が建ち並んでいる。そして、田圃と畑が点在していて、近くを川が流れていた。両岸には堤防が築かれていた。西側は山地で、雑木林の山があり、こんもりとした森が見えた。
宿での彼の部屋は、二階の東側寄りの、蒲団が三つくらい敷けるほどの広さの部屋であった。旅館の若い女将が、彼に炊飯器を貸してくれた。またお米も、自家製のものがあるからと言ってなにかと気をつかってくれた。
この宿の鉱泉は神経痛や胃腸の病気などに効能があるといわれていた。農閑期には近郷近在の農家の人や海辺の方からも、夫婦で来て日頃の労苦を癒すのであった。なかには遠方の客も来ていた。しかし、小規模の個人経営の温泉旅館なので、お客がいるかどうか分からないほどしつそりとしていて、長閑な雰囲気があった。
階段を下りて、旧館の廊下の奥に浴室があった。入口は男女が別であるが、その中はやや大きめの浴槽が一つしかなかった。中央に仕切りのようなものがあるだけであった。つまり、混浴の浴場である。室内は絶えず湯けむりが立っているので、すりガラスに映るようにぼんやりと、人影の動きが見え隠れするのだった。
栗原は朝、昼、夜に、人のいない時間を見計らって浴室に下りて行くようにしていた。
人のいない湯壺で、気兼ねしないでのんびりと湯につかっていることが、どんなに心地よいものかを知った。そして自分の都会生活がどんなに味気ない、つまらない、無味乾燥なものであったかと思われてくるのであった。
鉱泉は彼に効能があった。彼の体調はかなり良くなった。気持ちにも落着きと安らぎが見られるようになった。余計なことを考えて不安に陥ることもなくなり、心に余裕ができてきた。
田舎は都会とちがって夜が早い。太陽が山の稜線から姿を消すと、まわり一帯が暗闇と静寂に包まれてしまう。山も田圃も川も眠りに入る。家屋のほのかな光が闇の中に、星のようにぽつりぽつり瞬いている。
夜は、九時頃になると、戸外にも館内にも物音が絶える。彼はいつものように床の中に入って、しばらく本を読むが、いつの間にか眠りの世界に入っている。山間の深い静寂が人々の眠りを深くしてくれるのであった。
翌朝はおのずと目が覚める。心地よい目覚めである。身体には新しい命が宿ったように清々しい。頭脳はすっきりして、やわらいでいる。清らかな空気を吸ったようにすっきりして、やわらいでいるのだ。
朝食をとった後、彼は日課として散歩に出かけることにしていた。近くを流れる川があり、その土手に上ると、まわりの田園風景が一望に見えた。上流には山々が肩を寄せ合って聳えている。そのふもとの川沿いの一画に温泉郷ができているのであった。下流を見渡すと、平地が開け、秋には黄金の稲穂が実る水田が流域沿いに広がっていた。
晩夏の季節であったが、もう野山や川辺には秋風が吹き始めている。彼はいつものように半袖のシャツにジーパンの恰好で散歩に出かけた。青空に白雲がたなびく、穏やかな日であった。
彼の散歩コースは二つあった。一つは川原の見える土手の方面に行くコースと山の方面に行くコースであった。その日、彼が向かったのは山の方であった。
彼は街道から野道に入り、雑木林の山道を歩いていく。子供の時から森の好きな彼は、静寂のこもる林道を歩くことに解放感に似た快さを覚えるのだった。そこでは独りであるという寂しさはなかった。孤独であることがむしろ、心地よく意識に上ってくるのであった。彼は山間にただよう霊気に、自分が溶けこむような、空想的な気分になった。子供のころ読んだ世界の童話集の中に、森にすむ妖精の話があった。彼はそれを思い出した。人と会うことの珍しい山道を歩いていると、心が妙にそわそわするのだった。
ややしんみりとした杉林の道を通り過ぎると、見晴らしのよい農家の畑の脇の道に出る。
畑の一画に、雑木林の小山がある。そこが離れ小島のように見える。その小山をちょっと登ったところに、古びた小さな社が忘れられたように、ぽつんと建っている。彼はときどきそこに行って、ひと休みすることがあった。
しかしその日の彼は、別のところに足を向けた。一週間ほど前に知り合った人の家に立ち寄ってみようと思ったのである。その人とは、小山のその小さな社の前で出会った。
彼が休んでいる処に、その人は山道を下りてきたのであった。その人は社の前で石に腰かけている栗原に気づき、近づいて来た。右の足首を気にしていた彼の様子を見て、
「足をどうかしました?」
と、声をかけた。
栗原はその人を見上げて言った。
「登ってくるとき、木の根っこにつまずいて、ちょっと足首を痛めたようです」
「捻挫ですか?」
「いいえ、大丈夫です」
実際それは、心配するほどの傷ではなかった。しかし、見知らぬ人からそう声をかけられたことが、彼にはうれしかった。
その人は彼の脇に腰を下した。
背は高くはないが、丈夫そうな体つきをした老人である。多い髪の毛に白髪がまじっているが、やや日焼けした顔貌は、色つやが良く、どっしりした鼻と、しきしまった口もとは、いかにも真面目で、うちに芯の強いものが隠されているようであった。だが一方、陽気で鷹揚な雰囲気が、その仕草から感じられた。
栗原は、初対面の、その人に妙な親近感を覚えた。心の中でこの人は何者なのだろうと思った。
「この山の上にも、小さな社があります」
と、老人は彼にやさしく語りかけた。
「どんな人が建てたのか知りませんが、昔は、村の鎮守の森であったのでしょうね。今では忘れられて、このようにひっそりしています。物好きな人がたまに来るようです。わたしには、ここは居心地のいい場所で、ひと汗かきにくるのです。あなたもそうですか」
そう訊かれて、栗原はちょっと戸惑った。彼には、そんな気持ちがなかったからである。
「この近くにお住みですか」
「わたしですか。そうです。あなたは?」
「ぼくは山下にある温泉宿で湯治している者です。散歩の途中に、ここに立ち寄ることがあるのです」
二人の間で、しばらく雑談が続いた。栗原は、自分の堅苦しさが少しずつほぐされていくような、楽しい気分になっていた。その人には、彼の心を引き付けるものがあった。
一方その人も、栗原の性格からただよってくる何かを感ずるところがあったのだろう。
帰り際に彼は
「もしよかったら、今度うちに遊びに来ませんか」
と言った。
「ここから二十分ほどの処に老夫婦で住んでいます。もてなすほどのものはないけれども、気軽に、ゆっくりとお話できますよ」
彼はそう言うなり、紙切れに自宅までの略図を書いてくれたのであった。
栗原は略図を頼りに、所々に見え隠れする人家を眺めながら、佐竹という老人の家を探して歩いて行くと、通りから離れた、まわりを畑に囲まれた、いかにも農家をほうふつさせる広い庭と、家屋があった。そこが、その老人の住む佐竹家にちがいないと栗原は思った。そこで、彼はやや緊張し、やや好奇心に駆られて木々の立つ屋敷の入口を通って、正面に見える昔風の母屋の方に歩いて行った。
と、そのとき母屋の玄関のガラス戸が開いて、人が庭に出て来るところであった。その人は彼が会いに来た老人、その人であった。
「あら、あなたですか。よく来てくれましたね」
栗原に気づいた老人はそう言って、彼を快く迎えた。
彼は応接間に通された。テーブルの両側にソファがあり、壁には書物の詰まった本箱が立っていた。窓から陽が差し、長閑な感じが室内にただよっている。
老人は冷蔵庫からオレンジジュースのビンを取り出してきて、コップに注いだ。そうして言った。
「今日はゆっくり寛いでください。妻は街の美容院に出かけています。離れには息子夫婦が住んでいるけれど、出かけています。居るのはわたしだけなのです」。
そう言われて、栗原の心が多少安らいだ。
しばらく雑談した後、老人は栗原の寛いだ顔を見ながら、どうして湯治に来ているのかと訊ねた。私的なことを語らない栗原であったが、老人と打ち解けた話をしたい思いが心の中に湧き起っていた。
そこで栗原はためらうことなく、自分の生い立ちのこと、東京での根なし草のような生活のこと、そして病気になり、胃潰瘍と診断されて入院していたこと、都会生活を断念して、自分の人生をやり直そうと考えたことなどをかいつまんで話した。
老人は彼の、月並みでない性格とその生き方に心を痛めて耳を傾けていた。そして胸の中で、若い頃の自分も、生きる意味のことや仕事のことで悩んだ時期があったことを思い起こしていた。
語りおえた栗原は、わが身を振り返って、それを語ることで、自分を再認識したような気持ちになった。他人の肌に触れたような感覚を覚えた。
「わたしも若い頃は、都会で生活をしていました。大学を出ると、貿易関係の商社に入り、そこで十数年間勤めました」
そう云って老人は、自分がたどってきた人生の一部を話してくれた。
「日本の経済が高度成長期にあった時で、物質的に豊かになっていく段階でした。仕事ははなはだしく忙しかったが、会社の景気は良く、給料は鰻登りに上がってゆく。それは愉快でした。わたしたちは一丸となって、会社のために額に汗を流して働いていました。一年に五、六回は世界の国々を駆け回っていましたね。今思い返すとぞっとします。自分の人生など考える暇などなく、ただやみくもに動き回っていましたからね。その頃は、若さがあり、健康と力に満ちあふれていました。戦争に敗れた日本は、世界の一等国を目指して、陸上競技のランナーのようにライバルと競い合い、経済大国と云われるまでに発展していきました。旧い建築物は壊され、そこに新しい建築物が建設され、それが、都会の到る所で、同じような花が一斉に咲き出すように行われていました。日本は明治の時代もそうでしたが、今も同じように到る所で突貫工事が続けられているのです。これが日本という国なのです。こういうことに気づいたのは後のことでした」
老人はそこで話をやめて、話が横道にそれていくことに気づいたような表情をして、
「自分の身に起こったことをお話ししましょう」
そう云って、話を始めた。
「三十二、三の頃でした。一家の大黒柱であった父親が、突然病気で亡くなったのです。農家の長男として生まれた父は、先祖の土地を守り、子供を育てあげ、夫婦二人で農業を真面目に営んできました。父がなくなり、年老いた母が独りになりました。広い畑を所有していたわけではなかったが、母が独りでやっていくことは無理なことで、さあどうするかとなりました。後継ぎであった兄は、二十六歳の時に、交通事故で亡くなり、姉と妹は結婚して家を出ていました。そこで実家の問題に関しては、自分が関わらなければならないと考えたものでした。
母には母の意見がありました。自分が元気なうちはどうにかやって行けるから、実家のことを心配などしないで、おまえは自分の人生を生きて行くべきだという考えを持っていました。母の云うことは、もっともだと思いました。
そんな母が二年後に心筋梗塞を起こして急死してしまったのです。これには驚きました。全く予想しない出来事であったからです。
それがわたしの転機でした。わたしは人生から難題を課せられたのです。わたしは商社マンとして働き、その仕事にやり甲斐を覚え、それなりに充実した生活をしていたのです。ところが、母の急死によって、改めて自分の人生に思いをはせて、思慮しなければならない羽目になったのです。今後、自分は商社マンとして生きて行くか、それとも、父母の眠る田舎に帰り、畑を耕して生きるかという人生の岐路に立たされたのです。しかし、都会生活になれ、農業については全く知識のないわたしが、田舎で生きて行けるかどうか、とても不安でした。わたしは人生の岐路に立たされて、途方に暮れていました。
そんな矢先のことでした。わたしと同期に入社した友人が突然、亡くなったのです。真面目で、穏やかで、仕事のできる有能な男でした。彼は無断で二日ほど会社を休んだので不審に思った会社の者が、彼のマンションに行ってみたら、首をつった状態の彼を見つけたのです。それは内密にされて、表沙汰にならなかったが、それを知らされたわたしは矢で心を射されたような痛みを感じました。彼がなぜ自殺したのか、その真相は分かりませんでしたが、大きな衝撃でした。友人の不可解な死が、自分たちのやっている仕事に影を落としました。
仕事は大変だが、それなりに面白く、給料も悪くはなかったので、順調に人生を歩んでいるんだと思っていました。大手の会社なので潰れることはないだろう。自分が会社に大損をかけるようなことがなければ、結婚して安泰な人生を送れると考えていました。だが、友人の死が契機となって、人の命がこんなに脆いものなのか。命のはかなさを強く思わされました。自分たちがやっていることは社会にとって必要なものかもしれないが、自分にとってはどうなのか。わたしは真面目に自問自答をしました。仕事は生きる手段とはいえ、その時わたしの胸の中に、なにか物足りないような、侘びしいような感情が湧き起って来たのです。今思うと、それは雇われの身の、将来に対する不透明な不安であったのです。
翻って、全く農作業には無知なわたしが、田舎に帰って父母の後を継ぐことは、はたして可能だろうかと考えこみました。そこで改めて人生と働くということを真剣に考えました。
人間は、生活をしていけるに足る収入が得られるものならば、そして仕事に対する技能を習得することができるなら、職業には優劣をつけるべきでないはずだ。農業という仕事も、技能を身に付けていくならば、やっていけるのではないか。そう自分に言い聞かせると、たちこめていた霧に太陽の光が注ぎ込んだようなあらたな気持ちになったのです。
わたしは会社を辞めて、自分の故郷の山村に帰って来たのです。都会の生活に馴染み、忙しく活動していたわたしにとっては、田舎の緩やかな自然のリズムに体をなじませるには時間がかかりましたが、ここがわが生きる世界だと思うと、それまでのわたしの生活全般が、なにか借り物のような、宙に浮いた生活に思われ、未練がなくなりましたね。
行動的な性格のわたしは、間もなく農業のことについて土地の者に教えてもらったり、講習会に出かけて学んだり、農業に関する書物を読んで基本的な知識を身に付けていきました。畑を耕して、種を播き野菜を育て出荷できるまで、三、四年はかかりましたね。わたしは一人の農夫として生きて行くという人生の目標ができました。都会では失われてなくなってしまったものが、この山村にはまだ多く残されていることに気づきました。
この新たな、わたしの認識は、単純には語られるものではないのですが、要約するなら大体こういうことです。
東京やニューヨークのような大都市は、巨大な風車のような歯車がいくつもあって、中小の形をした無数の歯車とかみ合い、休みなく活動している。その中で人間が、後れを取られまいと必死に相呼応して、忙しさを忘れ忙しい生存を余儀なくされている処に思われます。
都会人の頭から、太陽が欠落してしまっているのです。都会人には、太陽の有難さを肌で感じて、喜ぶ者がどのくらいいるでしょうか。都会の労働者の多くは、太陽を見ることもなく一日が暮れていくのです。都会生活をしていたときは、わたしはそうでした。
ところが、ここでの生活は、太陽がめいめいの胸の中に入っているのです。これは田園で生活する者に与えられた特権なのです。仮に都会人と田舎人との根本の違いは何かと問われたら、太陽の有無の感度ですね。つまり、一方は、太陽が頭から全く欠落させて生活している人々。他方は、太陽の存在に親近感を覚え、今日も良く生きようと思う人々です。日の出は、活力を与えてくれますし、日没は一日の終わりを告げてくれます。そこでわれわれは自足するのです。
ここに住んで四十年近くなりますが、大地に生きている、天地に生存しているという感覚がようやく定着してきました。これは自然に囲まれた田園に定住しているから、そう思われるのであって、もしも自分が都会で生活していたら、日々実感することは不可能でしたね。
そこで、ここに人生のひとつの教訓が隠されているのです。人は二つの神に仕えることはできないという言葉がありますが、そのように二つの道を行くことができないのです。
これはどういうことかと申しますと、一つを選び取るということは、その他の可能性を捨てなければならないのです。わたしが四十年前に人生の岐路に立たされて、都会でのサラリーマン生活を辞めて、田舎に帰ったわけです。都会生活は嫌いではなかったが、わたしは田舎での生活を選び、そして今、自分が天地に生きているのだと、実感できるのは幸せなことだと思っています。
人生は選択だ、と確信しています。無数の選択があります。われわれはその中から、一つを選び出しているのです。生き方を決定する大きな、あれかこれか、の人生の岐路の選択もあれば、日々のこまごまとした習慣化した行為もあります。
ところで、あなたは今、どんなことで悩んでいますか。こんな質問は不躾なこととは承知ですが、わたしが初めてあなたにお会いした時、あなたは何か心に悩みごとを抱えている人だと感じました」
突然、そう訊かれた栗原は困った顔をした。
しかし、臆することなく
「自分は人生の岐路に立っているのです。何をどうしたらよいのか決めかねています。こんな場合、どうしたらいいのでしょう」
栗原は正直に心のうちを打ち明けた。
「あせらないことですね。そして、待つことです」
「何を待つのですか」
「めぐり合わせです」
「ぼくは今、特に悩んでいるわけではありません。これから何をしたらよいか、全く白紙の状態なのです」
「それは、よろしいことではございません。心を濁らせて考えことをしても、いっそう心を濁らせます。そんな時は何も考えず、自然の美しさを眺めていればいいのです」
老人はそう言って、やさしい目で彼を見つめた。
栗原はその後、散歩のついでに、たびたびその老人宅に立ち寄った。老人は彼の訪問を嫌がらず、仕事中でない時は、お茶を出して彼と語り合った。青年のように生きいきした心を持っていた老人とって、人生に対して悲観的な思いの強い栗原に生きるヒントのようなものを与えてやりたかった。
老人はこんなことを話すのを、栗原は心に留めていた。
「生きる課題のうちで、重要なことの一つは自分が何者かを知ることです。よく云われることだが、自分自身を深く掘り下げて知ることはそう簡単ことではないですがね……。人は自分を知っていると思っていても、それは全体の一部のことであり、しかも皮相な理解に留まっている場合が多いものです。真実の自分は何者か、それは謎のようなもの。その謎が明らかになるのは、最後の審判が下される時かもしれません。つまり、その人の命の尽きるときなのです。
誰もが皆、同じような生き様に見えることがあるけれど、実は一人ひとりは、皆違った心理で生きているのです。だから、人間の運命は独自なものと認めなければならないのです。これが人間の不思議な点なのです。
ヤドカリは自分の身体に似あった貝殻を見つけて、わが宿とします。貝殻が窮屈になれば、その貝殻を抜け出して、もっと大きな、自分に合った貝殻を探して、仮の宿とするのです。人間にも、そのような性質があります、自分の心理に似あった生き方をしているのです。自分が何を思い、何を考え、どんな生活をしているかを、注視するならば、自分がどんな人間であるのか、およそ判断できます。自己存在の意識はまず、そこが出発の拠点になるのです。
人生には自分を忘れさせるような多忙な時があれば、退屈でたまらないような時もあります。心にぽっかりと穴ができたような時です。そのような閑暇な時が、自己を省みる絶好の機会なのです。人生の転機はそんな時に起こることがよくあります。自分自身に向き合って、人生を考え巡らしてみるのも、またとない機会なのです。人生は複雑多岐であるように見えるが、それは自分の頭がそう描いていることで、実の人生はそんなものではないのです。人生はあなたに常に助言しています。大切なのは謙虚になって、それに耳を傾けることです」
老人の話は、人生の岐路の立場にある栗原の心にひびいてくるものがあった。彼は老人に親しみを感じていた。これまで人間社会の中で脅え、不安を抱え、生きる意味をもてない生き方しかできずにきた彼には、老人は人生についての確かな手がかりを教えてくれる人生の教師ともいうべき人であった。
のちに栗原は自分の人生を回顧して、その時にあの老人との出会いがなかったら、どんな人生を歩むことになったか分からない。わたしが今日の自分になることができたのは、老人からの感化が大きいと、胸のうちを打ち明けていた。
彼の温泉宿での生活は、彼の精神を落ち着かせていった。体調は改善に向かっていた。気持ちも明るくなり、歌でも歌い出したくなるような気分になることもあった。
ある日の午後、お湯にとっぷり浸かって部屋に戻って来た栗原は、窓際の肘掛椅子に身を委ねていると、三味線の音色が階下の部屋から聞こえてきた。二、三日前から昼を過ぎたある時刻になると、きまって三味線の音が響く。彼は、どんな人が奏でているのだろうと思いながら、聞くともなく、その哀調をおびた響きに聞き入るのであった。
女将さんによると、毎年この時節になると湯治にやって来る、元旅芸人の老夫婦であるとのことであった。
音が絶えると、話声が聞えてくる。歯切りのいい、やや甲高な声は女の方で、聞き取れない低い声は男の方である。時折笑い声があがった。女の明るい笑い声である。本当のことは分からないが、仲のいい夫婦だと栗原は思った。
自分の老後の生活などまったく考えてみたことのなかった栗原にとって、三味線を奏でながら寛ぐ元旅芸人の存在に心惹かれるものがあった。生きるために仕事をし、仕事に従事しながら、人間は老いていく。老いの時間を知らない若者は、老いの時間を生きている老夫婦に思いを寄せる自分に、栗原はこれまで感じたことのない、しみじみとしたものを覚えるのであった。
それから二日後のことであった。散歩から戻って来た栗原は、旅館の庭先に止まっているタクシーから降りたばかりの、あの老夫婦の姿を見た。
街に出て買い物をしての帰りであろうか。
派手な洋服姿の女は、片手に買い物袋を持っていた。一方の手は不確かな足どりの男の腕を握っていた。色柄のワイシャツを着た男は中背のやや痩身で、足取りが不確かなのは、視力の衰えが原因であるようであった。男は高齢であった。小太りの、丸顔の女は、栗原が話し声から想像していたように陽気な感じのきれいな人であった。
栗原は三味線の音色が聞えてくると、あの老夫婦の面影を思い浮かべて耳を傾けるようになった。
栗原は午前の一、二時間を読書することにしていた。老人から貸してもらった本も混じっていた。今、彼の読んでいるのは『森の生活』という書物であった。ソローというアメリカの思想家の著作であった。
ソローという著者は、都会生活が彼の本性に合わなかったようだ。彼は都会生活を放棄し、森の中の池のほとりに粗末な小屋を建て、そこで自給自足の生活をはじめる。文明人よりも、野性人を生きるスタイルとして、簡素な生活をしながら、読書と自己観察と思索をしたことが記録風に書かれていた。
栗原は人里から離れた森の中で、自分自身をよりどころにして、自分の生活を試みた、その勇気ある行動に自分の胸が熱くなっていることに気づいた。これまで感じたことのない喜びが心の奥から噴き上がるのを覚えた。
同時に栗原はこれまでの自分がいかに貧相であったかを改めて知ることになった。おれは喰うために生きてきたつまらぬものだった。自分が望む生き方を本気で考えたことがなかった自分を痛恨した。
生きる意欲を持たなければならないと、栗原は自分に問いかけた。これまで自己不在のような生活を省みた栗原は人生について、真剣に思考を巡らすようになった。
そして、ある日彼は自分に向かって、宣言するようにこう叫んだ。人生は自らの力によって築き上げるべきものだ。どんな時にも、どんな事にも、自分を否定的ではなく、自分を肯定的にとらえて、前向きに生きて行くこと。それが自分の生き方の基本でなければならないと、覚悟したのであった。
自分が本当に何をしたいのか、それを見きわめなければならないと考えたが、それは直ぐに、簡単に心に浮かんでは来なかった。そこで彼は、とりあえず当分の間は、自分の生活を意識し、自覚して生きて行こうと心に誓った。
ある時、彼はそのことを老人に話した。
老人は、快くこう言った。
「それは、たいへん結構なことですね」
そして、語を継いで云った。
「自分を肯定的にとらえることは、当然なことですが、若い時にはなかなか大変なことです。自分を損ねたり、自己否定的にとらえたりしがちです。それは、若い時は自分が何者だか、つかむことができずにいるからですが、もう一つの要因は、人間の特性から来ていると思います。人間はまわりの状況に合わせながら、あるいは反抗しながら、自分自身を形成していくという特性があるということです。したがって、人間はその生き方によってさまざまに変化していく存在なのです。人間の苦悩の一つは、自分を知らないままに生きなければならないことなのです。分かっているようで、実は何も分かっていないのです。自分を知ることはそうたやすくできるものではありません。苦難や苦労を避けて通ることはできません。一種の通過儀礼のようなもので、仕方がないことです。人は、ある職業に就くと、それが自分の進むべき道だと思いがちですが、現代社会からは、天職という言葉が消されてしまいました。天職だと思える仕事に就いている人は幸せです。
あなたは意識的に自分自身を探し出そうとしています。探し出しなさい。きっと見つけられるでしょう。大切なことは、そう云う意志を失わないことです。それは直ぐには見つからないかも知れません。求め続けることです。それまでは辛抱です。まず、手頃な仕事を見つけて、生活の糧を得なければなりません。生きることは働くことです。働くことが喜びになることです。それには嫌な仕事はやらないことです。仕事をいやいやながらやるならば、死んだ方がどんなにいいか知れません。人の喜ぶような仕事をしなさい」
栗原は心の友を得たのであった。
身体はすっかり元気を取りもどした。心にはわずかな希望の光が灯った。栗原が、その後どういう風な人生をたどったのか。そして、彼が自分の天職と認めたカメラマンにどのようにしてなっていたのか。それは興味をそそることである。だがそれを詳しく述べるとなると、長い物語になるのでここではあらましだけを記すことにする。
彼の泊まっていた旅館は、主人夫婦の外に先代から働いてきた老人が一人いた。その老人が持病の腰痛がひどくなって働けなくなって辞めたので、旅館の主人は困っていた。女将さんからそのことを聞いた栗原は、自分の事情を話し、この近くで仕事を探していることなどをちょっとほのめかしたことがあった。
ある日のこと、宿泊の最後の日が近づき、
栗原はどうしょうかと考えあぐんでいたところに、女将さんが彼の部屋に来て、彼にこう伝えたのだった。
「この前の件のこと、主人に話したところ『家で働いてもらったらいいのではないか』と云われました。秋の半ばごろから冬にかけて忙しくなる時期なので、あなたに手助けしてもらえればと、その返事を聞きたいと思って……」
それは思いがけないことであった。
仕事と云っても、難しい仕事ではなく、いわば雑用の類のものであった。
「考えてみます」
栗原はそう云った。
彼は畳の上にごろりと横になって、しばらく考えを巡らした。
行く当てのない栗原にとって、住み込みで働けることは、有難いことだった。食事のことや住まいのことで心配しなくてもいいだけでなく、ここは彼にとって心のやすまる場所のように思われたことだった。ここには自分の好む風景というものがあった。
栗原はこの温泉宿でしばらくの間働くことに決心した。ところが、彼はそこで三年余りも過ごすことになったのである。
その旅館の坂本さんの家族は、夫婦と小学三年の息子と、七十を越えたおばあちゃんの四人であった。
あるじの照雄さんは、おおらかな人柄で、親近感の持てる人であった。中背でやや痩身である彼は、学生の頃にサッカーをしたおかげで体は丈夫であった。しかも根っからの音楽好きで、歌をうたい、ギターを弾いた。仕事に関しては真面目で、堅実な人であった。
彼は東京の大学を出て、十数年間故郷を離れて生活をしていた。ところが、父が脳梗塞で倒れるという予期しないことが起こった。その頃、彼は都会でのサラリーマン生活に限界を感じていた。行く末がこの連続であると思うと、人生があまりにも味気なく覚えてくるのだった。強制されて仕事をするような生き方に疑問を持ち始めていた彼は、帰郷して父の後を継ぐことを決断したのだった。
都会育ちの女将さんは、都会を離れることに恐れと不安を抱いていたけれども、その気持ちもなくなり、今では田舎の慣習にも慣れて夫を支えともに働く日々を送っていた。
女将さんは思いやりのある、明るい、さっぱりした人柄なので、内気な栗原は神経質にならずにいることができた。家族と同じような待遇をうけ、食卓は家族と一緒であった。
栗原は数週間もしないうちに、自分がしなければならない仕事の要領を覚えた。息子の勉強の面倒を見るのも彼の役割の一つであった。音楽好きのあるじは、家業を大事に取り組みながら、一方で地元の若者と素人の楽団を結成していた。
この町も過疎化の影響があって、若者は郷里を出て行って、さびれかけた町になっていた。その町に少しでも活気を取り戻そうと、照雄さんは自ら先に立って仲間を集め、音楽活動に情熱を注いでいた。栗原は加入を勧められたが、それは断った。その代りその準備などの手助けを引き受けることで、仲間に入れてもらった。春と秋にその楽団のイベントが公民館で開催された。その他に介護施設をめぐって老人の心を慰めたりしていた。
栗原は温泉宿の仕事をし、また、楽団の仲間と接して行くうちに、以前持っていた人間嫌いの、人から離れていたいという心の煩いが気にならなくなっていた。彼は自分が素直な人間になっていることに驚いた。周りの者は優しく、実直である人たちであったので、栗原は心を閉ざさずに、素直な気持ちになれた。彼なりに周りの人と楽しみを分かちあえるようになっていった。
こうして二年の月日が過ぎて行った。この間に、彼の将来に影響を与えることとなる人との出会いがあった。
彼は折に触れ、自分の人生を考えるようになっていた。彼の目に周りの人たちの姿が、それぞれに生活を楽しんでいるように見えた。彼らは自分の仕事を持って、暮らしを支えていた。金持ちはいなかった。欲望に心を奪われているような人もいなかった。会う人の多くは素朴で、善良な人たちだった。暮らしの辛さはお互いさまで、当たり前のこと。だから苦しいことや悩み事を抱えていると、お互いに助けあうのは自然なことであった。彼らには心のゆとりともいえる落着きがあり、無邪気な笑顔があった。栗原は彼らの生活が羨ましかった。意見の食い違いやいざこざがあっても、それを根にして恨むということはなく、気性がからっとした人たちであった。
栗原自身、心の持ち方に変化が起こっていた。それまでわが身にまとわりついていた漠然とした不安がなくなっていた。それと連動して物事や人間に対しての不信の念も薄れていった。栗原は地に足の着いた生き方をしたいという思いが日に日に強まっていった。
ある日、散歩のついでに山のおじさんと呼んでいた佐竹さんのお宅に立ち寄って、いつものようにお茶を飲み、雑談をしていた。
「生活のための仕事だけでなく、自分が生きるためにしたい仕事を考えているのですが、なかなか思いつきませんね」
と、栗原は胸のうちを打ち明けた。
唐突と思われる彼の言葉に、老人は彼の顔に目を据えた。そして、言った。
「食うために働くことは当然なことだが、それだけでは人生はさびしい。仕事以外のことで人とのつながりを持つことはとても大切なことです。例えば趣味を持つとか。趣味を通して人間関係がつくられていくことは人生を楽しく豊かにしてくれます」
「そうです。ぼくはそういうことを今考えているのです。何かありませんか」
老人は笑った。
「それは自分で見つけることですよ。わたしはあなたではありませんからね」
栗原は苦笑した。
その夜、栗原は何かを始めなければならないと思って、なかなか寝つけなかった。
それから十日ほど経ったある日の午後、街に用事で来ていた彼は公民館で、写真展が開かれているのを知った。時間があったのでちょっと軽く覗いてみる気が起こった。
二階の展覧会場は、がらんとした感じで、観客が数人いて、静かに写真を眺めていた。写真同好会の会員の写真が壁に飾られていた。いろいろな写真があった。日常生活のなにげない風景。人の顔や道端の草花や、うろつく猫の姿など、様々な写真があった。栗原が特に心を引かれたのは、日の出を浴びた雪山の光景写真であった。また、紅葉に包まれた渓流の写真であった。
見惚れていた栗原のそばに、一人の男が近づいて来た。
「いかがですか」
と、言葉をかけられた。
穏やかな顔をした、六十代位の白髪の人であった。
栗原は山岳の風景写真が気に入りました、と率直に答えた。
「写真はお好きですか」
と訊かれ、
「写真はいいですね。でも写真展を見るのは初めてです」
と、答えた。
その男の人はこの会の主催者の一人であった。宮下次郎というその人は、栗原が心を引かれた写真の撮影者でもあった。
その人はその写真を撮影したときの気持ちなどをしみじみと話してくれた。その話は面白く、栗原はその人と山に同伴しているような気持ちになった。
そんな自分の心の微妙な変化に、栗原は驚いた。
「写真って、素敵なものですね」と、栗原は思わず声を発した。
「自分で撮ってみると、いっそうその素晴らしさが実感できますよ」
その人は好意をにじませた目を栗原に向けて云った。
栗原は帰宅途中、心を躍らせながら展示された写真を思い出し、宮下次郎という写真家のことを考えながら宿に帰ってきた。
それから数週間、各部屋を掃除している時も、夜間浴槽を掃除している時も、写真のことや宮下さんの人柄のことが頭にちらちらしてはなれなかった。
山のおじさんにそのことを話すと、それはいい兆候だ。ぜひやってみたらいいと、勧めてくれた。そこで栗原は写真をやってみようと決心した。そして彼は、宮下次郎の「写真同好会」の会員になることができた。
写真のこと、その技術のことなどの手ほどきを栗原にしてくれたのは、宮下次郎であった。
そんな契機があって、栗原は写真を撮ることに興味を深め、喜びを覚えていった。これまでにない生きる張り合いを生活の中に見出した。彼は暇なときは戸外に出て、心の趣くままにシャッターを切った。その行為が彼をわくわくさせ、彼の心を潤してくれた。夜は日中に撮ったものを自分でプリントした。
ある時、野山を巡り歩いた後、栗原は佐竹さん宅に立ち寄った。
老人はにこにこしながら、栗原が生きる楽しさを見つけたことを喜んでくれた。
「あなたは心の支えを写真に見つけたことはとても良いことですよ。人間は内面に支えるものがあれば、どこにいても、生きる目的はあります。あなたは写真を通して、自然や社会や人と出会うことが可能なのです。あなたの撮った写真はきっと人々を喜ばせるでしょうね。そのような写真が撮れるようになりなさい」
老人はそう云って、こう付け加えた。
「だが、今後の暮らしはどうするのかね。写真を売って食べていくのかね」
「とんでもありません。写真は売り物にはしません。生活のことは別に考えています」
「あなたには資産がないというなら、手に技術を付けることですね」
「そう考えて、今、近くの植木屋さんのところで週に一回見習をしています」
「それはまあ、庭師ですか。あなたには適した職業かも知れませんね」
老人は栗原の職業に関しては異論をはさまなかった。
三年余り温泉宿で暮らした栗原は、そこを離れる時が来た。彼は温泉宿のあるじの照雄さんをはじめ、お世話になった人々の情愛に涙を流し、別れを惜しんだ。
栗原の新しい旅立ちである。写真撮影と放浪の旅が始まったのだった。それについて事細かに叙述したら長い物語になるのでここでも、彼が人生を彼独自のものにしていく邂逅と彼の心の成長を述べていくことにする。
カメラは彼の第一の人生の友となった。いつも同伴できる友人で、彼の生きる大事な支えとなった。彼は生まれて初めて生きる目的を見つけたのだった。それは光が彼の心に灯ったことでもあった。
彼は中古車を買った。それをキャンピングカーに改造した彼は、勝手気ままな全国の旅に出かけた。春も夏も秋も冬も、彼は旅を続けた。そしてその途中で珍しい風物に出会うと、それをカメラに収め、また山や川、野、森林、そこに生息する小動物や高原の草花に感動すると無心にシャッターを切った。日が暮れると車の中で撮った写真をフリントした。
彼にとって生きることは、写真を撮ることであった。それが第一であった。その他のことは二の次ぎである。寝泊まりの多くは車の中でした。その窮屈さは気にならなかった。食事は質素であった。彼は好んで自炊した。彼は山菜や木の実を食べた。農家の人から余った野菜などを分けてもらうこともあった。魚を釣って食べたりもした。
生活費がなくなると、彼は行き先でアルバイトを見つけてした。彼の本職は庭師であった。その仕事があれば、庭師として働いた。一定の稼ぎができれば、彼はまた、山間に戻り、自然の風物の中に自分を置いた。そこが彼の居所であった。そこでは孤独ではなかった。自然に魅了され、自然界に没入している自分自身があった。それが彼には幸せな時であった。そこには彼の自由と生活があった。
彼の生活は放浪、つまり住所不定の移動の中にあったので、彼のような生活者に山間の林道を歩いている時、たまたま出会うことがあった。理由はさまざまだが、単独で歩く人たちであった。
ある年の夏の終わり頃であった。彼は高さが七、八百くらいの山を下り、渓流の岩に腰かけておにぎりを食べていた。渓流沿いの小道を彼のいる川上の方に向かって歩いて来る男の姿があった。
やがてその男が彼の近くに来て、傍の岩に腰を下した。彼は日焼けした顔をしていた。彼よりも二十位年上のように見えた。
栗原はおにぎりが一個残っていたので、どうですかと、考えることもなくその男の人に声をかけた。彼はそれを断ったが、その顔に浮かんだ笑みは感じが良かった。穏やかで気品があった。
「写真の撮影ですか」
彼のそばに置かれた機材を見て、その人は訊ねた。
「ええ。自然を撮っています」
栗原は快く答えた。
自然を撮る、と彼の口から自然と出るようになっていた。
「自然ですか」
相手は感嘆したようである。
「あなたは?」
栗原はやや風変わりな、その人に訊いた。
「わたしは俳句を作っています」
そういわれれば、俳人のように見えた。
栗原はその人に心ひかれた。親和力のようなものが働いた。
寡黙な栗原と違って、その人は話し好きな性格のようであった。その人は栗原に一人の人間を感じたらしい。彼には自分と同じような情緒が心の底を流れているように思われたのである。初対面にもかかわらず、彼は心を開いて話した。
その人がどんな人なのか、その輪郭が見えてきた。彼は次のような話をした。
「わたしが一大決断をしたのは五十歳の時でした。つまり、これまでの社会生活を放棄したのです。そして、単独者として生きて行く道を選んだのです。
それまでのわたしは役所の事務員として三十年近く働いてきました。結婚して二人の子宝にも恵まれ、苦労もあったが、子供が成人して家を出て行きました。妻と二人になりました。ところが、最愛の妻が交通事故に遭い、四十五の誕生日の三日前に亡くなりました。わたしより二歳下の、自分にはもったいないよくできた妻でした。妻の突然の死は、噴火口の中に足を滑らしたような衝撃でした。わたしの人生の地図が黒色で塗りつぶされました。わたしは一年間、半ば死人のような生活でした。そんなある日、昔の親友がひょいと訪ねてきました。そしてすっかりやつれたわたしを見て驚きました。わたしは妻の死を話すと、彼は涙を浮かべて同情してくれました。
『いつまでも悲嘆に浸っているのは良くない。何か趣味でも始めてみたらどうか。君はこのままでいくと死んでしまうぞ』
と、友人が云いました。
『死ねるものなら、一刻も早く死にたい』
『死んだら、おしまいだぞ』
彼は声高に云いました。
『死んだらおしまいだ』という言葉がわたしの胸に突き刺さりました。彼は妻の死を悲しむな、そう忠告するように言いました。
『死は誰にも来るものだ。万人、回避不可能だ。しかし、死者は生き返るものなのだ』
彼は云いました。
『それはどういうことです?』
栗原は腑に落ちなかった。
『死者は生者の内に甦るのだ。君が死んだら奥さんは本当に死んでしまうのだ』
その時は、友人の語ったことがよく分からなかったが、時が経つにつれて納得できるようになりました。
「それは追憶するということですか」
栗原は訊いた。
「たんなる想い出ではありませんね。妻はわたしに寄り添っているという感覚なのです。わたしは彼女に語りかけたり、彼女がわたしに語りかけたりするのです。ひとさまには信じてもらいないと思いますが。でも、幽霊ではありません。まさに妻は永遠の人になって甦って、わたしと一緒にいるのです」
その人はそう云った。
栗原はただうなずいただけであった。彼はさまざまな人生があることを実感させられたのだった。
また栗原はあるところで、徒歩旅行している若者に遭ったことがあった。見晴らしのいい峠の茶屋で休んでいた時であった。店は老夫婦がやっているようで、四、五人の登山客が出て行った後に、客は若者と栗原の二人だけになった。席が近くであったので、栗原の方から声をかけた。彼は民俗学を専攻する大学生であった。大学を休学して彼は全国の山村を巡り歩き、そこに伝わる民話や風習を土地の人から聞きだすことをしていた。
栗原は感心した。でも、大学を休学してまでするのには、他に理由があるのではないかと思った。
「友だちもできず、授業は面白くなく、大学生活が嫌になってしまったのです。自分が生きているという実感がないのです。親はどこか外国に留学してみたらと勧めてくれた。でもぼくはそんな気が起こらなかった。そこでぼくは日本中歩き回ってみようと思い立ちました。親はしぶしぶぼくの要望を受け入れてくれました。勿論、旅費などの経費は親が出してくれるとの約束をしました」
「面白い民話は見つかりました?」
栗原は訊いた。
「ええ、たまに昔のことをよく覚えているおばあさんに出会うことがあります。でも、ごく希なことです。どの山村も過疎化が進み、若者や子供の姿が見られません。村の人たちはひっそり暮らしているようです。子供たちがいなくなれば、物語の伝達が不可能になります」
「集落を通りかかっても人の気配がないですね」
「淋しいです。若者が都会に出で行くのですから」
「わたしは都会には住めない者なんですが、それで山河のあるところに身を置いて、いろいろな風物をカメラで撮りながら生活している者です。ずいぶん歩きまわっていますが、嘆かわしいことに出会うことが多いです。あなたも同じようなことを感じているでしょうが」
栗原はそう云って、山の木が伐採されて、そこに広範囲のゴルフ場がつくられたり、大きな住宅分譲地がつくられたりしている光景を目撃すると、優しい気持ちが乱され、悲しみの中に憤怒が込み上げてくると語った。
「ぼくも、それは痛感します。経済優先の考え方で美しい自然が壊されているのをそのまま見過ごしていいのかと、じれったくなることがあります。民俗学を勉強していると、古来日本人は、自然を伝統的に大事に守ってきました。自然の中に神々が住んでいるとみなして、自然を崇拝する心を持っていました。どこの町や村にも神への感謝の気持ちをこめて、お祭りがありましたし、鎮守の森がありました。日本人にとって自然は恵みを与えてくれる存在として崇めてきました。山岳には神社があり、鳥居があり、山岳信仰があり、民間信仰として残っています。日本人は海にも大きな鳥居を建てて、自然を崇める心を失わずにいたのです。これは素晴らしい日本人の心だと思います。自然と融和して、時には自然の狂暴さに苦しい目に合うことがあっても、それに辛抱強く耐え、貧困にもめげず、生き抜いてきた知恵が民間にありました。日本人が自然とうまく合わせて、幸せをつくってきました。日本人は人間の力でやたらに自然を変えようとはしませでした。山の木を伐採すれば、植林をしました。
ところが、戦後五十数年たって、日本の自然環境が大きく変容してしましました。林業が衰退して、森は管理されずに荒れ放題ですし、機械の力で簡単に山は切り崩され、自動車道がつくられ、人間の手によって自然は壊されてきました。産業を優先にする役人の心には自然の美観などは二の次なのでしょう。とても残念なことです」
「日本の自然はとてもバラエティーに富んでいますね、諸国を巡り歩くと、それが分かりますね。自然はたくましく生きている。その息づかいが胸に響いてくることがありますが、あなたもそうですか」
栗原は訊ねた。
若者はちょっと思案顔をして言った。
「たまに自分も草木と同じように自然の一部だという意識に目覚めることがあります。そんなとき自然に対する親近感が、どっと湧き起ってきます。自然の声があちこちから聞こえてきます。そんな気持ちになります。自分が自然の中にいる。自然が自分の内部にいるという感覚にはっと驚くことが時々あります」
若者はそんな言葉を残して去って行った。
写真を始めてから十年が経っていた。栗原の腕前は上がった。だが、気に入った写真は少なかった。自然の風物や野生の小動物に出会って、胸をときめかせて撮ったのに、プリントしてみると、全く月並みで、面白味が欠けていた。何故であろうと、自問した。感動して撮った被写体が、単なる形象になっているのはどうしてなのだろうと考えた。直ぐには納得する答えは出てこなかった。
これまで数えきれないほどの写真を撮ってきた。だがそのどれからも、その時の驚きと感動がよみがえってこないのだった。海岸で魅せられて拾った小石や貝殻が、家に帰って見た時にその輝きが消えているという話を、彼は誰かから聞いたことがあった。
自然は美しく魅力的だ。その形象は巧みで変化に富み、見事だと人間に言わしめることには、誰も異議を唱える者はいない。つまり自然は偉大なのだ。人間の能力をはるかに超えた存在なのである。それを写真に撮るなんて不可能なことではないか。彼は人間の能力に絶望した。
そこで栗原は三年年ほど写真を撮るのをやめた。その間、定職の植木職人に戻った。そして余暇のすべてを自己研鑽に努めた。どこかで写真展や絵画展があれば出かけて行った。他者の作品をつぶさに観察し、吟味し、その作品からにじみ出る匂いというのは、何であるかをとことん考えた。また、図書館に行って、芸術や自然に関する書物を読み、著者の思想を研究した。しかし、正直に言って栗原の理解は半知半解を超えることができなかった。唯一判明したことは、自分でもう一度やるしかないということだった。
彼は再び自然の時空に戻った。自然の動きである四季が織りなす景観の中に我が身を投げた。無心なる自分をも捨てた。以前は胸を強く躍らせた被写体や感動を激しく駆り立てられた被写体を夢中でカメラに収めたのであったが、自分の感動はあまり重要でないことが分かった。
芸術において主観性や個性は重要であると言われている。栗原はそれを否定はしないが、しかし、自分はそれとは違った道を行くことを決心した。自然を撮るということは自然の一部を撮ることではなく、自然全体を撮ることでなければならないと、栗原は考えた。自然とは巨大にして遠大な生命体なのだ。それが感じられるようになっていた。
われわれの祖先はそれを直感していた。巨木に出遭えば、その木を神木として崇めたし、奇岩に出遭えば、それをご神体とした。古人は山にも川にも滝にも海にも神を直感し、その荘厳さに驚嘆し、畏怖し、畏敬し、崇め、ご神体として礼拝していたのだ。
自然の美は神の命なのだ。神の命の働きが崇高な自然美を創っているのだ。栗原はそう考えた。そしてそれを信ずる心境になっている自己を自分の中に感じた。マタギが入山の前に山の神に祈るように、栗原も山河に立ち入る時には、自然の神々に祈るようになっていた。
栗原の、このような自然観の変化は、撮る写真に変化をあたえた。写真そのものにおのずと魅力ができて、見る者の心をゆさぶるようになった。言語では言い表せないが、魅力があった。野に咲いた花の一輪にも、白雲を浮かべた山頂の夏の空にも、秋の終わりを飾る紅葉にも、彼の撮ったものには自然の気品がこもっていた。
彼は自分の撮った写真に優劣をつける意識を捨てた。自然の風物には優劣などはないということが分かったからだ。優劣は見る側の主観の判断に過ぎない。しかし、自然を優劣で分断することは、自然の真の姿や働きを見失わせる。それは避けなければならないと彼は考えた。彼は知らずしらずに自然が表現している『真』を撮っていたのだった。
彼の撮った写真が少しずつ人々の目を引くようになった。彼は自分の撮った写真を故意に見せびらかすようなことはしなかったが、彼にはカメラに収めた写真が自分の大切な子どものように思われた。見せてくれと云われて、それならば仕方ないと見せるのだった。彼の写真を見た者は、それぞれに感想を述べてくれた。その中で、「自然って、こんなに美しいとは思いませんでした」「心が洗われたような、なにかすっきりしたわ」「わたしは大切なものを忘れて生きてきたことに気づかされました」「心の中に安らぎがめばえてくるわね」そんな声を聞くと、栗原は胸の中で涙ぐむのであった。
人びとの喜びの声は千金の値があった。自分の心が自然を通して他人につながっていると思うとうれしかった。やっと自分の前途に光が見えてきたのだった。これまでの自分を省みて、孤独をものともせずにやって来られた自分を抱きしめるようにねぎらった。と同時に彼の胸にどっと湧き起ったものがあった。天地万物に対しての感謝の熱い思いだった。この感覚はその後の彼の人生を支えてくれる重要な地盤となった。
流れのままに流されていく浮き草のような受動的な存在、海水にふんわりふんわりと浮かんでいるクラゲのような浮遊的な存在、日光を避けて地中にもぐり込んだモグラのように視力を弱化した独善的な存在、栗原は世のさまざまな生き様を見てきた。人間らしく生きる自分を、彼は長い間探し求めてきたのだった。栗原の生は浮き草のような、クラゲのような、モグラのような存在から脱け出て、今新しい地盤の上に立ち、広い地平を眺望することができるような心境になっていた。
わが道はあった。その道をぼくは歩いて行くことだ。栗原は渓流の脇の岩に腰を下して、水の途切れることなく流れる谷川を眺めながら、思いにふけった。
彼の生活の仕方にも、明らかな変化が起きていた。十数年にわたって諸国をめぐりながら野生の自然を撮影することに身も心も捧げてきたのであったが、その彼が人間の社会の方にも関心が広がっていったことであった。自然への愛が人間の方にもおのずと向けられていったのである。
彼はたんなる写真の熟練者としての自分に満足してはいなかった。自分でも、かなりいい作品が出来たと、会心の喜びに浸ることがあっても、なにか自己存在に不足感を覚えるのであった。
彼は机の上に並べた写真を眺めて、これらは技術的な自分でしかないのではないか、とつぶやいた。
彼の内部で小声をあげていたのは、人間としての自分を生きたいという思いであった。そのころ彼は、生きる上での愛の重要さを悟っていた。山川草木の世界に入り込んだ彼は、そこをわが生きる場として、自然をわが友として愛していた。彼にとって自然は偉大なる母でもあった。自然は厳しく、恐ろしい面もあったが、慈愛に満ちた優しさと美しさがあった。彼はそこから学んだ。そこから教えられたことが、数えきれないほどあった。彼は知らずのうちに人間としての自己成長をしていたのだった。
少年期も青年期も人間嫌いで、人と交わることを避けて、親や兄弟からも離れ、孤立し、孤独な生活をしてきた彼は、唯一彼の心を支えたのは山河の世界であった。半ば夢想家であった彼は、夢の世界で自然の子として生きていた。そこが彼の拠りどころであった。社会から孤立した彼の救いの場であり、憩いの場であった。そんな彼が写真機を持って山河をめぐり歩いて、自然を体験してきたのであった。
また彼は、庭師としての技も板につき、その仕事をすることが苦にならなくなった。顧客もできていた。仕事の依頼があれば、都合を付けて引き受けた。彼の生活費はそこから出ていた。庭はその持ち主の性格を表わすものであった。彼は庭師をしながら世間を知るようになっていった。人間恐怖症はおのずとなくなっていた。彼は人間に対して好意を持てる、心に余裕のある人間に成長していたのだった。
栗原の撮影した写真は、少数であったが、全国にフアンをつくっていた。自由な、気の趣くままの撮影の道中に、その場、その場に居合わせた人との偶然の邂逅があったが、彼はそれを大切な縁と考えていた。
珍しげに彼に話しかけてくる人の中に、彼の人柄や撮った写真に興味を持つ者があった。そのような人との出会いは、そう多くはなかったが、彼の心を温かくしてくれた。彼は仲間ができたように内心に熱いものを感じるのだった。そして写真が欲しいと望まれるようならば、そういう人たちに惜しみなく差し上げた。彼はけっして写真の代金を受け取ろうとしなかった。
「おいくらです?」
と、問われると
「これは売り物ではございません」
と、彼は断った。
写真を手にして喜ぶ人の心が、栗原には何にもまさる報酬であった。彼の名が知られるようになり、その評判の名の下に集まってくるような人たちと分かると、彼は写真が欲しいと懇願されても
「これは売り物ではございません」
と、かたくなに断った。いくら高値を付けられても彼は断った。自分の写真を物ではないと考える彼は、お金で交換すべきでないという信念を抱いていた。彼の作品は友情の証として、彼の手から相手の心に差し出されるのであった。写真は友情の絆のようなものであると、彼は考えていたのだった。
ある年の、大雨による自然災害の多かった年であった。山崩れがあり、山間の人家が土砂流に呑みこまれ、河川の堤防が決壊し市街が水没するという大惨事が日本列島の処々に起こった。
彼の知人の中には被害に遭った人はいなかった。
その年の秋の中頃であった。
忙しくなる紅葉のシーズンに入る前に、彼はある地方の小都市を訪れ、ある気心の合う婦人の住むアパートに立ち寄っていた。その婦人は脚に障害のある、一人娘と暮らしていた。栗原はその婦人とは六年前に、彼が食事をとるために立ち寄った町の料理店でアルバイトをしていた彼女に出会ったのだった。
昼の時刻を過ぎていたので、その小さな店は空いていた。彼の頼んだカツ丼をお盆にのせて持って来た彼女に、彼は地図を描いた紙切れを出して、二、三の質問をした。それに対して彼女はとても感じのいい受け答えをした。彼が店を出る時、テーブルの後片付けをしながら彼の方に顔を向けて、
「また、いらっしゃって下さい」
と、しなやかな声で言われたのが、彼の頭に残った。
一年後にその店を訪れると、彼女の姿はなかった。店の者に訊くと、彼女は店を半年ほど前に辞めたとのことであった。
「何か、ありましたか」
栗原は訊ねた。
「引越しすると言っていました」
「引越し先は、どこか分かりませんか」
店の者が奥で調理している者に
「ゆきちゃん、引越しはどこだったかね」
「山形とか言っていましたよ、だが、山形のどこかは聞いていなかった」
奥の方からそんな返事が返ってきた。
再会を心待ちにしていた栗原にとって、彼女の不在に落胆したが、カツ丼を食べて店を出た。
その翌年であった。山形市の公民館で栗原の写真展示会が開かれていた。栗原は写真を公開することにはいつも消極的であったが、彼の友人が一切を自分に任せてと言うので、その準備を彼にまかせての一週間の展示会であった。訪れる人は少なかったが、来てくれた人に対して、彼はすまないような,有難いような気持ちであった。客が絶えて、受付の机のところで、栗原はぽつねんとしていた。
その時、入口のところで人の気配がして、一人の婦人が入ってきた。その人は彼の存在を気にせず、すぐに壁に掲げられた自然の風物を撮影した写真を眺め出した。
彼の目にはその婦人の後姿しか見えなかった。
その人が帰る時に、栗原は記帳をお願いした。その人は笑みを浮かべて、素直に応じてくれた。その人の髪の形や容姿に、彼は見覚えのあるような気がした。
記帳に「長嶋由紀子」と記された。
彼はその名を見て、昨年、訪ねて行った料理店の、頭の禿げたおじいさんが「ゆきちゃん」と叫んだ声がふと思い浮かんだ。もしかしたら、あの婦人ではないかと、彼は胸を震わせた。
「失礼ですが、あなたは以前に料理店で働いていませんでしたか」
と、栗原は訊いた。
その婦人はちょっとびっくりしたようであった。
「一年前に、ある料理店で働いていたことがあります」
婦人の口調に、素直さが感じられた。
栗原の予想は当たった。彼が探していた婦人であった。その彼女は、彼の飾り気のない出で立ちをおぼろげに覚えていた。
それ以来、栗原は婦人と知人の仲になった。彼女の住んでいる小都市を訪れた際に、彼はその家に立ち寄ることにしていた。
彼女の娘は若菜という名で、元気な、快活な性格の子であった。母子と栗原は何度か食事をしたりしているうちに、娘はすっかり栗原になつき、彼も娘を自分の子のようにかわいがった。
その日、彼は連絡をせずに、突然訪れたので二人は目を丸くして驚いた。丁度その時、二人はせまいキチンで、四角の食卓に座って夕食をとったあと、寛いでいるところであった。
「栗原のおじちゃん、ずいぶん久しぶりですわね」
若菜は彼の腕をつかんで、あまえるような声で挨拶した。
「わかなちゃん、お土産よ」
栗原は絵柄の紙包みを手渡した。
「何が入っているのでしょう」
瞳を輝かせて、小学二年の若菜はつぶやいた。
包みから姿を現したのは、小熊の可愛いぬいぐるみであった。
「すてきね」
若菜は栗原に抱きついた。
そんな二人を、椅子に座って母の由紀子は眺めて微笑んでいた。
栗原は椅子に腰を下した。
「少し疲れてはいません」
由紀子は、彼の四角な顔がやせ細って見えた。
「特に変わったことはないよ」
彼は快活に答えた。
「一年ぶりですわね」
彼女はほほ笑みを浮かべた。
栗原は旅で出会った面白い話や撮影した写真のことを話した。
由紀子は娘のことや現在スーパで働いていることなどを話した。
栗原はその親子としばらく寛いだあと、いつものように
「また来ますからね」
と、言って別れた。
栗原は四十二歳になっていた。すでに青年の時は過ぎ去り、初老の年齢に達していた。白髪が増え、顔のしわも多くなった。だが彼の心情には、自分の人生を生きているという深い実感がこもっていた。
生きることが若い時のように苦しいとは考えなくなった。強い風にも動揺を見せない樹木のように、彼の心は強く広くなっていた。 苦難に遭遇しても、あわてることはなく、受容の姿勢を崩さず、むしろそれは、のりこえるべき試練とみなした。新しい楽しさの前兆であるととらえた。
悩みごとが持ち上がれば、それは前進の衝動であると考えた。自分が望んだわけでないのに自分自身に起こってくる出来事に出会うと、彼は何かしらの関係が自分にあるに違いないと考えて、好意的な考え方をした。
それは彼の生き方を解放的にしてくれた。窮屈なこだわりの心が洗われて、明朗な気持ちにした。彼はそこから新たな活力が湧き出るのを感じるのだった。
彼はわが人生を回顧して思うのであった。
学生の頃は淋しく孤独な少年であった。人との付き合いがぎこちなく、友だちはできなかった。遊ぶ仲間もいなかった。
高校を出て、上京して就職したが、どの仕事もうまくいかなかった。人生の行く手に絶望していた。そんな自分に希望の光をあたえてくれたものがあった。それはカメラとの出合いであった。
カメラとの出合いがなければ、今の自分がないと思った。
彼はカメラに熱中した。彼の生きる方向は人間社会ではなく、動物や植物が生息する自然界に向けられた。そこには数えきれないほどの面白さがあった。自然界の魅力は彼に人間的な悩み事を忘れさせた。社会の生存競争の枠から抜け出した彼は、自然と向き合うことによって自分の人生に希望の灯りを見出したのであった。
生きることが苦労でなくなっていた。生きることが茨の道ではなくなっていた。自分の人生の地平が開かれ、自分のやっていることに意味が感じられ、自分が望む生き方をしているのだという確信があった。人と競おうとする気持ちが薄らいで、その代わり他者の気持ちに寛大になっていった。自分に対する焦りも少なくなっていった。他人は他人で、自分は自分である。人は他人になることも、他人の道を行くこともできないようにつくられているのではないか。自分は自分以外の何ものでもないのではないか。
その認知は特に珍しいことではなかった。
子どもの頃、母がこう言っていたものであった。
「人は同じように見えるが、実はみんな別々なのよ。あなたはあなた、○○ちゃんは○○ちゃんよ」
自分は自分を拠点として生きることだ。自分をあいまいにしないことだ。誠実に自己を生きることこそ何よりも大切にしなければならない。
それが栗原のたどり着いた確信であり、信念であった。つまり、彼はそこに自分を発見したのだった。
ある年の、そろそろ町や村の秋祭りの始まる日が近づいた頃であった。旅の道中で、栗原が立ち寄ろうと目論んでいたところがあった。
二十数年前に、都会で生活していた彼が重い胃腸の病気にかかり、都会を離れて湯治に来ていた、山間の温泉宿であった。そこは自分に生きる希望をあたえた、いわば心のふるさのようなところであった。栗原はそう胸に銘記していた。
旅館のあるじの照雄さんや女将さん、そして一人息子の晴男君はどうしているだろう。栗原は当時のことを回想しながら、懐かしい山沿いの温泉宿のある方向へ車を走らせていた。
落葉樹が周りを囲んでいる敷地に数台の車が止めてあった。外灯の光が車の屋根を照らしていた。木造建ての旧館の、西隣に建つ木造二階建ての新館の部屋に、明かりが灯っていた。以前とほとんど変わっていないようだ。
すでに日は沈み、広がる闇の海に、処々人家の明かりが灯っていた。道端の草むらで虫が低い音を立てていた。
玄関に出て来たのは女将さんであったが、彼を見て直ぐには、栗原だと判定できずにいたが、
「湯治にいらっしゃって、晴男の勉強を見てくれた栗原さんですか」
と、思い当たったように言った。
栗原はそうですと、うなずいて見せた。
歳月の痕跡が双方の容貌の目元や頬のところに刻まれていたが、話している間に若い時分の面影がうかんできた。
女将さんは玄関から彼を客人用の応接室に案内した。二人はテーブルをはさんでソファに座った。
「何年ぶりでしょうか」
女将さんは初老の顔をした彼を見て訊いた。
「二十二、三年になりますかね」
栗原は答えた。
彼よりも十数歳上の女将さんは還暦に近い歳になっていた。しかし、そんな歳には見えなかった。てきぱきとした若さがその仕草に見られた。温泉宿の女将としての風格が身についていた。
「昭夫さんはお元気ですか」
栗原はご主人のことを訊ねた。
「ええ、ミニ楽団の稽古で公民館に行っております」
「まだ続けていらっしゃるのですか」
栗原は驚いた。
「今も相変わらず楽しんでいるようです。家業の方は息子が受け継いでおります」
「晴男さんですか」
栗原の胸に喜びが込み上げてきた。
「結婚して、二人の子供の親になっています」
「三、四日泊めてもらいませんか」
栗原は突然の訪問を詫びて、言った。
「うまい具合に一部屋空いておいます」
女将さんは快く承知してくれた。
満室であったのが、今朝予約のお客からキャンセルがあったということであった。
女将さんは彼に部屋の鍵を手渡した。
その部屋は、彼が湯治に来ていた時に使っていた新館の同じ部屋であった。木造の座卓が真ん中にあって、あの頃と部屋の感じが全く変わっていなかった。彼は携えてきた荷物を片隅に置いて、窓際の椅子に腰を下した。
椅子は新しいものに変わっていた。ふんわりとして心地よい肘掛椅子であった。夜闇をにじませた窓ガラスは彼の横顔を映しだしていた。ときどき煙のようなものが窓の外をよぎった。かすかな硫黄の臭いがした。
彼の脳裏はしばらく、ここで過ごした若き日の面影を追憶していた。それは過ぎ去った遠い日の出来事ではなく、一年前のようにも、また数週間前の出来事のようにも感じられるのであった。
彼は時の不思議さに胸を強く打たれた。自分は生きてきた。それは自分の存在が時の中にあったのだ。そして、その時の中に自分のすべての体験が刻みこまれていたのである。
栗原は、その新たな感興に浸っていたが、目が覚めたように椅子から立ち上がった。彼は浴衣に着替えると、タオルを肩にかけて浴室へと続く階段を静かに下りて行った。
終わり
(2022/9/9)