休日
鈴木 三郎助
小鳥が庭に来ているらしい。小さな鳴き声がする。床の中でその可憐なひびきに耳をすましていた。妻はその横で背を向けて、長い脚を縮めるような恰好をして、低いいびきを立てている。
陽がカーテン越しに射しこんでいる。白いレースが淡い赤みをにじませて輝いている。
目が覚めたのだが、まだ身体は寝不足のようだ。手足に小さな重りを吊るされたようなだるさがあって、床の中が心地よい。
妻は、背を丸くし、いかにも気持ちよさそうに眠っている。顔を彼女の後ろ髪に近づけて、そっとうなじに唇を寄せた。初めは淡くやさしくだったが、そのうちに蛭のようにしつっこく吸いついたのである。
その一瞬後である。妻が大きな悲鳴をあげ、全身を波立たせたのだ。
ぼくの唇は跳ね飛ばされたが、とっさに妻の角張った肩に、ぼくは手を伸ばし、こわばった彼女の身体を抱きかかえた。ところが、妻はぼくの腕を強く払いのけ、ぼくの方へ顔の向きを変え。
「こわい夢でも見たのか」
寝室の淡い光の中に、妻の脅えたゆがんだ顔が見えた。妻は茫然とし、口元をひくひくさせている。目は大きく開かれ、なにかを確かめる様子である。
「あなたなの」と、妻はぼくの手を握って言った。
「おれだよ」
ぼくは彼女の両手を握りしめた。
「大きな声を出していたよ」
「だれが? あたしが」
「そうだよ、きみだよ。びっくりするほどだった」
ぼくはやや誇張して言った。
「やっぱり」
妻はそうつぶやくと、瞼を閉ざした。妻の白い小づくりの顔を、ぼくは絵を見るように眺めた。彼女には耳もとに小さな黒子がある。ぼくはそれを確かめるように視線を注ぐと、髪の垂れ間にそれが見えた。
「とても怖くて、変な夢だったの」
彼女は顔をしかめた。
「いったいどんな夢なんだ」
妻はその夢に完全に縛られているようだ。
「悪夢なら、はき出すべきだ。楽になるよ」
ぼくはいたわる気持ちで言った。
「だめよ、語るなんて。できっこないわ」
妻は強く拒んだ。
「だめなら、仕方がないなぁ」
ぼくは妻の反応をうかがった。
「世の中には嫌なことがたくさんあるけれども、その中でも、一番いやらしいことなのよ」
「なんだい、その一番いやらしいことって」
「あたし、絶対に許せない夢よ」
「そうか」
ぼくはこれ以上夢のことで、妻を問いつめることの、無意味さを知ってあきらめた。
その日は日曜日であったが、二人にとっても休日であった。私たちは共働きで、日曜日でも仕事が入ることがあって、日曜日に共に休みになるのはそう多くない。
ぼくは食卓の椅子に腰かけて、朝刊を広げて見ている。その間に、妻は食事の用意をしている。朝食は大体いつも決まっている。パンと目玉焼きと野菜サラダとヨーグルト、食事のあとに、ぼくはコーヒーを、妻は紅茶を飲む。
妻は食べ物に好き嫌いがないのだが、朝食にはコーヒーではなく、紅茶と決めている。妻が食卓に着くと、ぼくは新聞を閉じて脇に置く。
妻は指でトーストをつかむと、それにマーガリンをぬる。さらに、その上にイチゴジャムを厚くぬって、頬張るようにして食べる。それが妻の食べ方であるが、ぼくはトーストにバターを薄めにぬって食べる。
平日は二人が食卓に向かい合うことはほとんどない。看護師の妻は早番もあれば、遅番もあり、一か月に数回は夜間勤務があって、食事の時間は不規則である。ぼくは午後からの勤務なので、朝はいつも遅く起きる。
食事中の私たちはあまり喋らない。妻もぼくも、味覚の楽しみを味わっているからかもしれない。無言のひとときは、二人にとって気詰まりにはならない。むしろ心を和ませてくれる。
しかし、食後には軽い会話を交わす。ぼくはコーヒーをすすりながら、どちらからともなく言葉が飛び出す。
その日の朝の食卓ではこんな会話があった。
「明日という日、本当にあるのかしら?」
妻が妙なことを、ぽつりと口にした。
「どうしたんだい、突然」
ぼくはその言葉の真意を問いただした。
しかし、妻は相手にせず、
「明日という日は、みんなにも本当にあるのかしらねぇ」
と、同じようなことを繰り返したが、今度は「みんな」という言葉が入っていた。
妻は何を言おうとしているのだろう。ただの、でまかせではなさそうだ。彼女の問いかけにぼくが答えてあげればいいのだ、と気がついた。そこで、心を新たにして穏やかに言った。
「明日はみんなにあるとも」
「なぜそう言えるの」
妻は不満そうに言った。
「そう考えなければ、みんなが困るよ」
ぼくは答えた。
「あなたに明日があって、あたしになかったら、それは悲劇だわね」
妻はそう言って笑った。
「当然だろう。きみに明日があって、ぼくになかったら、それは大変なことだろう」
「……」
「だから、みんなにあると、考えなければならないんだ」
妻は紅茶を飲み、ぼくはコーヒーを飲んだ。
「でも、なにかおかしくない」
妻は花模様に入ったカップを唇から離し、それを置いた。
ぼくはコーヒーカップを手にもったまま、妻の顔を見つめた。
「何が」
「だって、自分たちに困るから明日があるなんて、それって単なる願望じゃない」
「もちろん、そうさ」
ぼくは頷いて見せた。
でも、心の中では妻の悪い癖がまた始まったのかと、ちょっとうんざりした。妻は可憐な顔をしているのに、執念深いところがあった。
「明日って、本当はだれにもないのよ」
妻は語気を強めて言葉を吐いた。
「どうしてそう思うの」
ぼくは言葉を荒たてずに言った。
「だってそう思うからよ」
妻はぼくをからかっているとは思えなかった。それは彼女の目を見れば明らかだ。その目は不安そうにうるんでいるのだ。
「あなたはあると思っているの」
「明日があるかないかなど、これまで考えたことなかったよ」
「あなたって、ずいぶん鈍感ね。よくこれまで生きて来られたわね」
「平気でいられるもなにもないさ。私たちが思うと思わずにかかわらず、明日はあるのさ。太陽が昇るのをやめないかぎり、明日という日は巡ってくるのさ。こんなことは小学生でも知っているよ」
「それはあたしだって分かるわよ。日はめぐる……。でもあたしが知りたいのは、それとは違うことなの。つまり、あたしのいのちのことなのよ」
「命のことは、ぼくだって解からない。だれにも解からないことさ」
「そうよ」
妻はあまりにもあっさりと納得した。
二人の会話はそこで終わった。
その日の夜、夕食をすませた妻とぼくはテレビの歌番組を見ながら、ソファーに座っていた。ぼくはビールで上機嫌になっていた。酒の飲めない妻は、それでも付合いにちょっと口にしただけで、もう目元がほんのりと赤らんでいる。
妻との休日の一日が終わる。明日からはそれぞれの仕事が始まり、離ればなれの生活がまた繰り返される。結婚して五年の歳月が経っているのに、私たちの家庭生活はゆとりがない。妻は子供を産むのを避けている。ぼくと妻は同じ歳だが、来年は三十になる。このままの状態で、歳だけとっていくのだろうか。
ぼくはベッドの中で、そんなことを考えていた。淡い紅色のパジャマを着た妻は、ぼくに背中を向けて文庫本を読んでいる。電気スタンドの明かりが本のページを照らしている。寝つきの悪い妻は、睡眠薬の代わりに書物を読むのである。
ぼくはぼんやりと、朝食のあとに妻の言った言葉を思い起こしていた。どうして妻はあんな言葉を言ったのだろう。妻の心はさておき、ぼくはあの妙な言葉の中に隠された意味を考えてみようと思った。
明日という日があるのか、ないのか、普通われわれは、そんなことを口に出すことはない。明日という日は、今日という日があるように当然あると思い込んでいるからだ。明日がないのではないかと、恐怖に駆られる者は悪い精神病に苦しんでいる者か、それとも、今、生死の一線をさまよう瀕死の者を見守る近親者であるかもしれない。
太陽が昇り、そして沈むという宇宙の運行が絶えない限り、物理的な時間が存続する。だが、「生」を担っている「生命」の観点に立つならば、明日という時は、本当に存在するのであろうか。明日という時は確実に保障されるだろうか……。ぼくはそんなことを、天井を見ながら考えていた。妻は相変わらずぼくに背を向けて本を読んでいる。
その時、ぼくはクリスチャンの友人がしゃべった聖書の言葉をひょいと思い出した。こんな言葉だった。
「たった一匹の雀でさえ、神の思し召しなしに、この地上に落ちて息絶えることはない。まして人間は……」
友人はこの言葉を、こう説明してくれた。
ただの、虫けらのようなものも、神に見守られている。ちっぽけなものでさえ、神の意志なしには世に在ることはできない、ということであると。
キリスト教徒でなくとも、命が授かったということは理解できる。神からでもいいが、そうでなく親からでもいい、自分のいのちが与えられていることを否定する者はいないだろう。
生命の本体は目に見えず、手で触れて分かるものではない。
でもわれわれは、生命が持続していると思っている。そして明日はあるのだと予知している。だが、もしかしたら、それは勝手にそう思っているだけのことではないだろうか。
生命は時間の流れのように見えて、実はそうではない。時間の枠内では把握できない不思議な存在なのでは……。つまり、生命は今という瞬間の点的存在であり、さらに突き詰めるならば、時間の不連続性こそが、生命の本質であるということだ。だからわれわれのいのちが、明日あるかどうかは、われわれの認知外にあるのだ。
「明日また会いましょう」と言って別れた友人が、その夜に死ぬこともある。これは決して不条理なことではないのだ。
妻は本を閉じて、ぼくの方に向きを変え、眼差しを天井に注いだ。
「何を考えていたの」
妻は小声で言った。
「何だと思う?」
「分からないわよ」
「今朝、食事の時に、きみが言ったことを覚えている?」
「なにかしら」
妻はあの言葉を忘れているようだ。
「明日あるかと言わなかった?」
「それがどうしたの」
「それが分かったんだ。明日という日はだれにもないと、考えるのが正しいのではないかと考えていたのだよ」
「あなたは明日という日はあるといったでしょう」
「言ったけれど、実は明日という日はないんだよ」
「では、どうしたらいいの」
妻の顔が急に蒼白になるのが見えた。
「まま、別にどうもしなくてもいいよ。これから眠るだろう。そして朝に目が覚めて生きていたなら、また今日という日がはじまるのさ。分かるかな」
「もしも、目が覚めなかったら、自分には明日という日はないということね。とても怖いことだわ。朝、あたしが目を覚ました時、あなたが目覚めなかったらどうしよう。鳥肌のたつ話だわ」
妻はそう言って、全身をふるわせた。
「ぼくだって、きみが目を覚まさなかったら、ぞっとするだろうな。だから、心ある人は、謙虚に明日がありますようにと、お互いにお祈りしているのさ」
「でも、明日がないなんて言われると、ぞっとするわ」
妻が全身をふるわせているのが、ぼくの肌に伝わってきた。
妻はぼくの胸もとに、顔を寄せてきた。ぼくは彼女の長い髪を撫でながら言った。
「きみはいい仕事をしているから、大丈夫だ、きっとそうだよ」
「もっと強く抱きしめて……」
妻がささやく。
ぼくは力をこめて、妻の柔らかな肌を抱きしめだ。そして、朝がた目覚めた時と同じように熱いキスをした。
終わり