冬の色
白い自動車がわたしのはくしろいいきのむこうではしっていた。フロントガラスの向こうでしごとにむかうひとびとがしっかりとハンドルをにぎっていた。眼鏡もクリアーに見つめていた。月の初めの水曜日のことだ。
今朝は落ち葉舞う道で美少女を見かけて額にうっすらと汗をかいて歩いた。秋が深まった初冬の風景をようやく見た。
わたしは自宅にもどって、
「柿がうれたろう」といったら妻はキッチンをゆびさして
「高かたのよ」
「ちがうわたしはそとのかきのことをいったのに」
「あーそれことしはみのらないみたい、ところでこの通帳のおかねはどうなってるの」
「たぶんつかったやつでむだなものにはつかってないよ」
「だからなににつかったの」
「がざいぐらいだけど」
まどからうらをみたらかきのみはなっていました。
「実はなっているよ」
「だからわたしのかきはあっち」
私はたまらず部屋のベッドに逃げ込んだ。
私は数年前に大病にかかってしまい、ある日突然病院のベッドにいたわけだ。
三途の川はこれかと思った。いきができないのはなんでなのかとおもった。わたしがめがさめたらくらいへやでねていた。立てるだろうと思ったら腕にチューブがあってわしは便所にも行けないとおもったが、幸い病院のスタッフに助けられて廊下で伝い歩きができたので何とか生きているのかと思った。私はもう社会生活は無理なのか好きな絵は描けなくなるのかと思ったが、その後のリハビリ生活で病院をいちどうつってからながいせいかつでなんとかつえであるいてかいだんものぼりおりができるようになって、スケッチも一日一枚をつづけてなんとかはなしもできて、自宅にもどることができた。私は感謝、の心はこういうものかと思った。
私は、リハビリに励んで、一日を穏やかに過ごしていたい。
冬の空は夜空に月が浮かぶ。秋はもう終わったのか。虫の声が亡くなってしまった。こどもの声がグランドの空に響く。
テレビに出た病院で闘病中の子供の目をみて、私たちの子供の病気がどうなるかと、
「あの目、脳の腫瘍はきになるね」
「仕方ないけど本人も気にしてるから余計なこと言っちゃあだめ」
私はそれもそうだが、私の家系かと頭をよぎった。父も私も頭にきた。怒ったわけじゃないがさすがに頭にきた。本当は怒りたいが、それをやったら負けと心得ている。これから反省の無い一日を送ってみたい。
「仕事に行くのが面倒くさい、3連休なのに休みがないあんたはどうするの」
わたしが散歩で歩き切きって、車いすに座ったとたんに、妻が言った。またか、
「すみません」
私はそれしか言えない。私は道に落ちた枯れ葉と木の実が落ちているのを見つめていた。
これが毎日一度は聞かなければならない生活。
「死ぬる」
君はそんなにつらいのか。わたしはできることはやっているが、これいじょうのことはできそうにない。それにしても、経済も心配だ。
「まあ、どうにかなるさ」
それしか言えない、サラリーマンではないが、植木等になろう。
「私まったく人間不信。何をやっても怒るのよ、ねえ聞いているの」
「それはいろいろなひともいるしいちいちきにするな」
私はそういうしかない。
「そろそろ別な職種に」
「できることをやってみてくれればいい。わたしが、なにかやろうか」
「馬鹿言うな」
「言っても仕方ないけど言っただけよ」
「馬鹿は仕方ない」
「いきたくない」
今朝も妻はそういった。
「ゆっくりいい仕事を探したら、わたしはでかけられないようだから、ごめん」
「いってもしょうがないけど、聞いて」
これが毎朝のことだ。
その朝私は病棟で目を覚ました。
又悪い夢を見た。背中にびっしょり汗をかいていた。きょうは食事ができるらしい。食べて大丈夫なのか、わたしは箸がもてるのか。
その日、食事が何だったか覚えてないが、そこから私のリハビリが始まった。食事のために、1時間座ることもつらい毎日だった。廊下を伝い歩きよろよろだったができたので歩くことぐらいはできるのかと思った。病室で、これから暮らすのかと初めて実感した。生き残ったみたいだ。感謝するしかない。
わたしはそれからあしかけ2年病院暮らしで、不自由なく過ごせた。階段昇降とか、歩行もなんとかできるようになった。理学療法士の女性のアドバイスがわかりやすく助かった。きがついたらせかいはコロナの世界になっていた。病室で様々な人に出会えたことがうれしかった。
「あさめがさめてわたしはどうかしたのかとおもってナースコールをなんどかおしたみたいで、
「いいたくないけど」
若い看護師さんが泣きながら
「わたしの父が先日80をこえて亡くなってしまって、わたしあまやかしてしまった。人生の先輩に言うのは悪いけど、もっとしっかりしてください」
「ごめんな。まだここになれてなくてしっぱいしてしまったんだよ、アルコールじゃないよ、水を飲んでトイレに行っていいかな」
「はい」
そのひとはなみだをぬぐってかいほうをしてくれた。私のリハビリの約半年が始まった。
そして朝になって、一日のスケジュールをホワイトボードで確認して食事が始まる前にラジオ体操がなかなか大変で場所取りがあわただしくて居場所に困ってどうしようかと思った。
そのあとようやくトイレにもいって、部屋に戻ってホッと横になったとたんにリハビリの時間がはじまった、わたしは一日が、あっというまにすぎるようにかんじるようになっていた。困ったことが時間と曜日と、季節が分からなくなったことだ。私はようやく備え付けの新聞を見つけて、それを読むことにした。自宅から本も数冊持ってきてもらい、スケッチブックと鉛筆も持ってきてもらい、いちにちのすごしかたがもとにもどってきたとおもった。問題はいつも半日パソコンの前にいたことが亡くなってしまったことだ。
病室から感じる世界は、どこか自分の住んでいる世界ではない気がしたが、しばらくたって病院のそとをあるくことができて、やっと、いきかえったきがした。
リハビリがはじまった朝、美人のじょせいがいきなりむかえにきてどうするのかとおもったらベッドからくるまいすにのりかえることをなんどもくりかえした。そのことを続けてトレーニング室には車いすに押されて向かい、大きなベッドで基礎トレーニングらしいのでからだの状態をみていただいて、ベッドのうえでようやくからだをうごかすようになってベッドからおきあがるように手をもってくれてうながされてたつことをくりかえした。そのあとで向かい合って手をもっていただいて数メートル歩いて、わたしたちはおもわずかおをみあわせてこえをだしておなじタイミングでわらった。わたしはこのひとならあんしんだしんようしてついていこうとおもった。
「こんにちは」
新しい人がリハビリの時間に来てくれた。
「これからせいかつのどうさとからだのうごきと注意力のトレーニングをします」
「どうしたらいいですか」
「もうつえであるけますか」
「せんじつやったばかりです」
「では、ベッドからおりるところからみせてください」」
この女性ともこの日から長くお世話になった。
そして、もう一人個性的な女性が私のリハビリの担当をしてくれてこの二人で、仕事に向けての必要なリハビリとして作業療法と、知能の回復のトレーニングをしてくれた。
ある日私にノートをもってきていちにちなにをしたかかきとめてもってくるようにいった。そしていくつかの問題を解く時間が長く続いた。文章の間違い探しやつながりの確認など1時間必ず座っておくしゅうかんをつけてくれた。
「これはテストですよね」
疲れた私は聞いた。
「それはそうですが、少しづつよくなっているのですから」
私はちょっと疲れて問いただすように聞いたのが恥ずかしくなった。
歩行の練習をしているとき少しバランスを崩した時、
「大丈夫ですよ、全力でささえますから」
「重い体重ですよ、ごめんなさい」
「楽しいですね」
といったように微笑んでくれた。
そして彼女は時々病院の外に私を連れ出してくれて、身内の話をするように、になってマラソンの練習をしていると楽しそうに話してくれた。
「向こうの標識で折り返して」
「暖かいね」
「歩数を数えて、二つのことをできるようにして」
「がんばってください」
まちのひとがこえをかけてくれる。
私は街の中にきたのだと実感できた。
「どこまで行こうか」
「私が車いすを置いてくるのでそこまで」
車いすを運んでいたとは思わなかった。私は汗をかきながら歩いた。
季節は秋になっていた。私はノートに歩数を書くようになった。
季節は春になっていた。
わたしはかぞくのことがきになっていた。
ほかには、バランスの練習で輪を器具にかけたり、おてだまをしたり、電気信号で筋肉をうごかすことなど、笑ったことに、トイレに入って、汚れがうんちに見えて、私は、思わず。
「うんちまみれ」といってしまった。
そんな生活が続いていた。
ある日息子が来て、最近連絡が取りにくいのはなぜかと聞いたら、
息子が、はじめてかなしいかおをして冷静に聞くようにいってわたしはかくごをきめて聞いた。
「ママは入院している。乳がんが、見つかって治療中」といってくれた。
そしてわたしがおちついたのをみて、わたしはケータイでありがとうとれんらくしようとしたら、みつからないのであせっていそいで玄関まで車椅子で行って、あせって事情をはなしたら、「許可を取ったのですか」といわれたのでわたしはあせって、
「いいえ」
「それでは、ではフロアーの看護センターに連絡しますので、そちらで確認してください」と言われて私は焦って自分の部屋のあるフロアーにもどったら看護師さんが部屋で一緒にさがしてくれたらベッドの布団にかくれていたのでわたしはほっとしてむすこにれんらくしたら、「おちつけしっかりしろといわれた」その日の夕方、妻から事情を聴いたと電話があって私はようやく気持ちが落ちついって夕飯が食べられると思った。
その翌日今度はいつものトレーナーが急に休んだ。私は不安になって、代理で来た女性に様子をきいたら、
「マラソンの練習のやりすぎで膝をいためていまうごけないでいる」
ときいてわたしはまた驚いて、あせってしまった。
そのごようやく自宅にもどれそうになったころわたしは風邪っぽくなって、血便出て、しょうがなかった。
わたしが倒れたのは夏の日の風呂だった。むすこのかずきにたすけられたのをおもいだしていた。
私は仕事から帰ってひと風呂浴びて自宅で仕事を整理しようとしていた。たまたましごとのきれめでわたしは風呂に入ろうとしてくずれおちるようにたおれて、立つことができないし、声もでないのかと「和樹、和樹」とよんだ。わたしはなぜ立てないのか、声も出せないのかと思って、バスタブを何度かつかまって立とうとしたのをつかもうとしたのを覚えている
ようやく息子が気付いてくれて、
「じょうだんいうなよ」
といいながら、私を引きづって、部屋まで連れて行ってくれた。
「これは救急を読んでくれ」わたしはそこまでいったのをおぼえている。私はその時親父が以前同じように倒れた時に「わしはゲートボールの時に横になって立てなくて足袋を履きなおそうとしたのができないのか思った」と病室で話してくれたのを覚えている。私はこれがそれか、と思って覚悟を決めた。目が覚めたら暗い病室のベッドの上だった。
私はそのころはまだじぶんがどうなったのかわからなくて、手を動かしてみた。
痛みがあるので神経はあるのかと思った。
私はリハビリ病院に入院中いやなことがあった。夕食のときいろいろな人の愚痴や、自慢話を聞くのが、面倒に思えた。
夕食のテーブルに向かうのに車いすから、杖になって必ずナースの介助をよぶようになっていたのでわたしはこのコールもとまどうことが多かった。配膳のタイミングをベッドでうかがわなくてはいけなかったからだ。これを逃すと、私は一人部屋に残され食事をとれなくなるのだ。
「ヴァージンロードみたいね」
そのナースは、はずかしそうにわたしの手をひいてせきまであるいてくれた。わたしは、「かまいませんか」とこたえるしかなかった。
春になった頃私は夕方に外に向かうとき玄関を振り返って病院の玄関を見る癖がついた。
その頃には、部屋のカーテンが閉まる前に一人大部屋に出てスケッチをするのが日課になった。私はこの病棟のことを記憶しておこうとおもっていた。このじかんが安らぎの時間だった。そのころ目覚めるのが早くなって、ナースセンターに人がくるまえに水を飲んで、うがいをするのが習慣になっていた。一人夜明けの空を眺めたかったのだ。
この生活もあと少しと思うと、私は自宅のことが気になり始めていた。経済のことも気になっていた。
もう一つこの生活で、つらかったのがふろのじかんが午前中だったり午後一番だったりしてそのあとのリハビリがつらかったのだが、退院が近づいて自宅の見取り図を描いたり荷物の整理に妻が来たりしてこのときもちょっと妻と会話がすれ違って、うまく伝わらないので、おもわずむすこにいまのかいわでわたしがわるかったところはどこなんだ、ときいたらむすこは「しょうがないことだ」といった。
それからしばらくして退院だったがわたしはなにかおれいにとおもって、おりがみを3枚折って、スケッチを添えたいと思った。もう一つわがままで特にお世話になった3人の人のスケッチを書かせてもらってお礼に渡せて、退院の日に追った折り紙と、お礼の手紙をサイドボードに置くことができた。ここから私の自宅でのリハビリが始まった。
スケッチで描いた二人の人が私の退院にあたってなんどかじたくにもどって、白い絵のことを眺めたと言ってくれてそういえば私は自宅で本当に暮らせるのだろうかと思ったが、退院の日二人が自家用の車でわたしたち家族を送ってくれて、近所の駐車場から車椅子で、階段まで送ってくれて、階段を昇るのを見てくれて降りるのも何度かやって、自宅の部屋を歩いて暮らせるのを見届けてくれて、いくつかの注意事項を家族に話してくれて私はその間座りっぱなしでトイレに行ってみるのも見てもらい、ふたりがかえっていってからわたしはあたらしくしつらえてくれた、わたしの部屋のベッドによこになってラジオをつけて、クリス智子さんの番組やクラシック音楽をきいたら少し涙が出て、そのまま数分眠ったようだ。
そしてわたしは、窓を見たらグランドが見えたので、朝はラジオ体操をしようと思った。夜も一時間ごとにトイレに起きて、水を飲む習慣がついた。
しばらくして仕事の電話や、見舞いの電話が入って私はなんとかもとの暮らしに戻ろうと思った。
2023/11/15