愛の別れ
鈴木 三郎助
1
宮沢健二は医師と向き合う姿勢で腰かけていた。医師はパソコンの画面に目を向けて、怪しげな病巣を指して説明をしていたが、健二の心は、不安と恐怖に震えていた。
「この、やや黒くかすんでいる部分が癌で、かなり大きくなっています。これが切除できればいいのですが、あいにく厄介な処に部位があるので、手術には一大決断がいりそうです。この件につきましては後日、ご家族さまをまじえてご相談することにしましよう。気を落とさないでください」
眼鏡をかけた、やや大柄な初老の医師は、厳しい眼差しを和らげ、いつもと変わらない声で、そう言った。そして手短に、今後の日程を告げた。
健二は両足に足枷を付けられたような身の縛りを覚えた。呆然として腰を上げ、先生に一礼して、その部屋を出た。部屋の外には診察を待つ患者がたくさん椅子に掛けていた。
健二はエスカレータで階を下り、会計の順番を待つために、長椅子の端に腰かけた。
精算をすまして外に出ると、健二の目にまわりの風景がこころにくいほどまぶしく映った。雲一つない空から五月の光が、あふれんばかりに降り注いでいた。高いビルの窓ガラスが光り輝いて見えた。時刻は午後一時を過ぎていた。彼は朝食抜きで早く出て来たのだが、胃袋からの合図は全く起こってこなかった。
かすかに魚の臭いのする築地魚市場の前を通り、小さな食べ物店がびっしり詰まった商店街を通過し、築地本願寺の正門の前に来ると、健二は歩みを止めた。何度かそこを行き来していたが、境内に入ったことはなかった。
健二は立ち止まったまま、異国情緒のただよう仏閣が厳かに立つ正面を見渡した。広々とした境内の片隅には、小型の車と観光バスが二台止まっていた。本堂の前の石段を上がって行く者や、下りてくる者の姿を眺めながら、彼はそこを訪れる参拝者の身の上のことに思いをはせているようであった。
彼は寺院の境内の様子を、ちょっとのぞいてみようかと思ったのか、門の内に足を数歩踏み入れた。だが、何を思ったのか、すぐ歩道に引き返した。彼の顔は蒼白く、とてもだるそうに見えた。このまま電車に乗って家に帰る気がないらしく、進行方向を変え、勝鬨橋の方へ向かって、彼は歩き出した。
大通りを横断し、川の上に架かった橋の大きなアーチ型の鉄骨の袂に来た彼は、土手に出て空いているベンチを探したが、誰かしらがそこに座っていた。男が寝転んでいるベンチの端っこに、彼はとりあいず腰を下した。
たくさんの車が数珠つなぎになって走っている橋の上とは違って、眼下には波立たない静かな大河があった。
白い遊覧船が、音を立てずにゆっくり通って行く。その傍を二羽のかもめが水面すれすれに通過して、急に斜面を登るように舞い上がり、彼の視界から消えた。やせ細った中年の男が、白い小柄な犬を連れて、岸辺の歩道を心もとなく歩いていく。
見慣れた平凡な日常の風景が、そこにあったが、彼の心は他のことに引き裂かれているようである。何かを探しているのにそれが見つからず困惑する時のように、彼は自分にふりかかってくるだろう、あるものを考えているようだ。死の方に気持ちが傾いていくと、心の闇が濃くなっていく。生の方に思いを傾けていくと、心に淡い光が射してくる。彼の内面はゆれていた。心の中を光と闇がうねっている。彼はその乱れた心の底を見つめていた。
その時、呼びかけるような小声がした。彼は我に返りあたりを見回すと、椅子に寝転んでいた男が上半身を起こして、自分の方を向いて何か言いたそうな表情をしていた。
目が合うと、男は口を開いた。
「今、何時ですかね」
健二は腕時計を見て言った。
「丁度、二時になるところ」
男はそんな時刻かとつぶやいた。そしてわが身を前に乗りだすようにして
「旦那、なにか悩みごとでもおありで。先ほどから気になっていたが……」
と、親しげに言った。
見知らぬ男から唐突に言われて、健二は戸惑った。
「あなたは、どなた?」
「おれかね」
男は含み笑いを浮かべた。
「四、五日前から野宿している、この川べりでね」
「ホームレス?」
健二は確かめるように訊いた。
「つまり、そういうこと」
「それはお気の毒だ」
男は五十位の小柄な体をしていたが、顔立ちがよく、眼差しは優しそうであった。労働着を来ていたが、さっぱりしていてホームレスのようには見えなかった。
健二は同情の目を彼に向けた。
男は健二の青ざめた顔を見て、
「お身体がわるそうだね」
男はまた訊いた。
そのしつこさに、健二はちょっとむっとしたが、
「医者から悪い知らせをうけたので……」
と、健二は正直に医師からいわれたことをかいつまんで彼に伝えた。
彼は頷くように聞いていた。
「あなたはどうして、ホームレスに?」
健二は彼に訊ねた。
男は卒直な男だった。彼は十分ほど自分の身の上のことをためらわずに他人事のようにしゃべりだした。健二は半ば妙な気持ちで耳を傾けていた。彼は話を終えると何の未練もなさそうにベンチからすっと腰を上げて
「失礼しました」
と、言いかけて去って行った。
妙な男だと思いつつ健二は、遠ざかって行く男のわびしげな後ろ姿を眺めていた。
帰りの電車の中で、健二は内にこもる重い気持ちを払いのけて、先ほど川辺で会った男について思いめぐらしていた。
突然、未知の男から話しかけられたことはべつに意外ではなかったが、自分が悩みを抱えているのではないかと相手から言われたことは、意外なことであった。だが、それよりも、初対面の男が自分にいとも容易に、わが身上をしゃべったことの方が、健二にはさらなる驚愕であった。
男の話の中で、特に健二の印象に残ったのは、時々彼の口から繰り返えし出る「人生は、何が起るか分からない」という呻きのような言葉であった。
彼はだいたい次のようなことを語った。
「おれは三十一の時だった。好きな彼女ができて、その女の方も愛してくれていたので結婚した。田舎から上京して独り暮らしをしていたおれには、結婚はとても有難いことだった。都会育ちの彼女は、明るい性格で、物事をてきぱきとこなしていく積極性があった。そのお蔭で、貧しいながらも楽しい生活だった。やがて女の児が生まれ、幸せな家庭だった。ところが、その十年後に妻に不幸が起こった」と男は言った。
彼の妻が白血病なって、一年後に亡くなったのだった。
「いい妻だった。神が本当にいるものなら、なんと残酷なお方だと思ったものだった」
彼はそういって、さらに悪いことが起こったことを話した。
小学四年の娘が、友だちと出かけて行った海水浴場で溺死したことだった。泳ぎが得意であった娘が、海難事故で死んでしまうなんて全く考えられないと、彼は目を潤ませた。
「妻と娘を奪われたおれは、完全に孤独になり、侘しく、もぬけの殻のようになり、仕事もやる気をなくし、転々と職を変えながらなんとか生き長らえてきた。機械の部品の製作所に就職し生活も安定し人並みの生活を送れるようになったと喜び、安心していたところ、今度はその製作所が倒産した。社員寮をわが家としていたおれは、突然そこを追い出された。職を失い、住所の無い放浪の身になった」
そのようなことを、男は健二に語った。そして、男はこう続けたのだった。
「妻を亡くし娘を亡くし独り身になり、その上、仕事も住居も失くした者のことを考えてみたことがありますか」
健二は言葉が出なかった。
その時、男は声を出して笑った。
「自分の身近にそんな人がいなければ、それは無理なことだ。一番わかるのは体験者だからだ。おれは悩んだ。なぜわが身にこんな悪いことばかりが起こるのかと、自分の不運を嘆いたり、罵ったりしたものだった」
男はそう言って、
「人生はなるようにしかならないのさ。その境遇に耐えるしかないのさ。どうなるかはその時に吹く風のような運次第だ。一寸先に何が起こるか誰にも分からん。それが人生というものさ」
男はそう断言した。そしてベンチから腰を上げると、立ち去って行ったのだった。
健二は妙な男に出会ったのだった。男が味わったような悲劇的というべき不幸は、健二の、六十五年の人生にはなかった。
健二は、その男とはまるで対照的な人生を生き抜いてきた男だった。若い時は貧困と隣り合わせで、多くの人がそうであったように貧乏学生だった。だが、彼には高い志と夢があった。農家の三男坊の健二は、自分で生きる道を探さなければならなかった。彼は腕に技術力をつけて、人のために役に立つ人間になりたかった。そして目指したのが歯科医であった。学費の大半は奨学資金と叔父からの援助で賄ったが、生活費は予備校の講師をして稼いだ。
三十の時に念願がかなって、大学病院の歯科医師なった。彼は誠実で、優しい人柄で、しかも医師としての腕がすぐれていた。患者から信用され、評判のよい医師であった。
その頃、彼は一生の伴侶となる女性と出会った。彼女の名は晶子といって、同じ病院の看護師であった。彼より二つ年下であった。北陸育ちの彼女は、色白の眉毛の濃い、目鼻立ちのよい顔は人目を引いた。物事に対しての理解と決断は的確で、周りから信頼されていた。困っている人には思いやりがあり、優しかった。それは彼女の人柄からおのずと出で来るようで、その仕草が微笑ましく見えた。彼女には、自分に好意を抱いている男に対して好意を惜しまず向ける明朗さがあった。
彼女に熱をあげていた数人の男がいた。健二もその一人であった。彼女が最後に心を許したのは健二であった。
「あなたが、一番気が合うの。あなたとならやっていけそうだから」
彼女からそう告げられた健二は、自分が愛している以上に彼女から信頼されていることを知って、全身が震え上がるのを感じた。
二人が結婚した後、もちろん順風満帆な良いことだけではなかった。健二が歯科医院を開業するにあたっての資金のやりくりの大変さもあったし、二人の子供の養育や教育の問題も、なかなか大変なことであった。しかし、二人はその難局を共に協力し合って乗り越えてきた。子供たちは大きな病気をせずに育っていたし、妻の晶子は病気という病気をしたことがなかったし、健二も暴飲暴食をせず健康には気を配っていたので、大きな病気をしたことがなかった。
健二一家は、これまで大きな困難や災難に見舞われることなく、平穏な幸せの人生を当然のように思って生きてきたのであった。ところが現在、癌の宣告を受けた彼にとって、また家族にとって、人生の最大の危機に遭遇したのだった。
2
その日の夜、妻の晶子は床の中で眠れずにいた。彼女には眠る前にいつも数十分間、本を読む習慣があった。それが安らかに眠れるひとときと考えて、長年そうしてきた。ところが、その夜はそうでなかった。夫の病気のことが気になって眠むれずにいた。
健二が家に帰った時、買い物に出かけたのか妻は留守であった。彼が妻と病気のことを語り合ったのは、その日の夕食後のことであった。
二人は居間のソファーに座っていた。それまで見ていたテレビが消されて、部屋に物音が絶えた。
健二は改めて医師から言われたことを妻に話した。
晶子は頷きながら聞いていた。
最初に聞いたとき顔色を変えて驚いた晶子であったが、今は少し落ち着きを取りもどしたようであった。しかし、内心の苦痛は隠せなかったようだ。
「もっと早く見つかればよかったのに。とても心配だわ」
彼女は本音をもらした。
「よくステージがどうのこうのと言われるけれど、あなたはどうなの」
「医者はそのことについて何も言わなかった。でも、癌が困ったところにできていると言ったよ」
「困ったところって?」
「どうも手術がやや難しいところにできているんだって」
「お医者さんはどうおっしゃったの」
「今後のことは、家族をまじえて話しましょうといわれたよ」
「かなり大変なのかしら?」
「どうかな、分からない」
歯科専門医の健二は、自分の身体に関して詳しい知識を持っていたわけではなかった。これまでこれといった病気をせずに来られたのは、特別に健康に気をつかってきたからでなく、むしろ丈夫な体質に生まれついていたからであった。健二にとって癌の宣告は驚きであったけれども、それは癌専門医に委ねるしか手はないと考えた。こうなったからにはじたばたせず、事態を冷静に受けとるべきだと、彼は自分を戒めるのであった。
今回健二に、人間ドックを強く勧めたのは妻であった。晶子は去年の終わりごろから、夫の身体に異変を感じていた。どうしたのか、顔がこけて、夫の体の痩せ具合が目立つようになった。
ある時、晶子は言った。
「あなた、どうしたの」
その時、健二は困った顔をした。
「体重がかなり減っているんだ。ダエットをしているわけでないのに」
「あなた、どこか悪いのではないの。一度人間ドックに行ってみたら」
健二は四月になって検査を受けたのであった。何回か検査を受けた。そうしてその結果が彼に伝えられたのだった。
夫の口から癌だと告げられたとき、晶子はひやりとした。突然心臓に氷をのせられたような嫌な気持ちがした。
晶子の脳裏は混乱していた。夫の話だけでは癌の正体がどんなものか分からなかった。そのため彼女は勝手な妄想にとりつかれ、眠れずに懊悩していたのであった。
3
それから二週間後、健二は肝臓癌の手術を受けた。手術前に健二と晶子と二男の晴彦の三人は、担当医師と面接して手術に伴ういくつかのリスクの説明を受けたあと、手術することに同意したのであった。
晶子は迷っていた。手術よりも抗癌剤の治療の方が安心ではないかという思いを捨てきれなかた。健二と晴彦はリスクがあっても、手術が可能ならば、病巣を摘出してもらいたかった。
手術の当日は、前日降っていた雨は止んでいたが、どんよりとした空模様でやや肌寒かった。待合室で晶子は夫の手術がうまくいくようにと、何度も祈るような気持ちで手術の終わるのを待っていた。
五、六時間が経って、医師から
「手術は無事終わりました。ご安心ください」
と告げられたとき、晶子の目に涙がうっすらとにじんでいた。
健二は一か月余り入院して家に帰った。医師はもう一週間くらいと考えていたようであったが、健二は入院生活にうんざりしていたので、一日でも早く自宅に帰りたかった。これには晶子も困惑した。
健二の療養部屋となったのは、以前次男が使っていた、階下の庭に面した六畳ほどの部屋であった。窓際には新しいベッドが置かれた。庭が硝子戸越しに眺められるので、病院よりもここの方は気持ちが安らぐと、健二は思っているようであった。
手術前の健二は、頬がげっそり落ちていたが、入院の間にいくぶん回復の兆しが見え、体調もよく、食欲も出てきて晶子の心配も少しずつ薄らいでいった。
朝昼晩の食事は、それまでのようにキチンのテーブルで一緒にした。食べる物は、健二の体調具合に合わせて、医師の指示を参考に工夫して、晶子は作るよう心掛けた。
二人はもともと気心の合った夫婦であったが、健二が難しい病気にかかってからは、さらにお互いをいたわる気持ちが深まっていった。
時間感覚に変化が起こっていた。日常生活の、暦にあるような日月の時間とは違うもう一つの時間、つまり命の時間といったらよいのだろうか、そんな時間が二人の心遣いの中に溶けこんできたのであった。
これまで二人の間に、死という観念が入り込むことはなかったわけではなかったが、それは二人の外部における出来事に過ぎなかった。健二は友人が亡くなった時、早すぎる友の死を深く悲しんだけれども、自分も死ぬ時が来るかもしれないとまではあまり考えなかった。それと同じことが晶子にも言えた。病気らしい病気をしたことのない彼女には、死という観念はよそ事のように思われて、自分を脅かすものではなかった。
ところが、癌が身体に見つかって以来、健二は死を意識しないわけにはいかなかった。この世との別れがやがて来るのだという思いが、時々脳裏をかすめるのだった。友達や息子や妻との別離を案じる、もう一人の自分の存在があった。自分が痩せだし、体重が落ちていく身体の異常は癌によるものであり、自分の肉体は侵食され、そのうちに立つことさえもできなくなるだろう。そう想像して健二は自分を苦しめた。
健二はその日、ベッドに横たわって、死についてぼんやり思考をめぐらしていた。
自分が生きている。それは実感できる。食べること、喉が渇くこと、庭の草花を見て美しいなと感動すること、これらのことは生きている証拠ではないか。だが、死んでしまったら、一切の実感は消えてしまう。実感する自分の消滅。それが死というものなのだろうか。
だが、自分の消滅とは?
自分が、この世でなしてきたこと、築き上げてきたすべてのことが、自分から切り離されて消えていくとは、なんと恐ろしいことではないか。健二は思った。自分の人生には、他人から責められてもおかしくないことが多多あった。ただそれが表に現れてこなかっただけのことではないか。もしも自分が生きてきた様子をつぶさに鏡に映しだしたならば、善いことも悪いことも数えきれないほどあるに違いない。それが人生だと思う。それらの全てのものが消滅してしまうのであったら、一体何のために自分は、この世に生まれてきたのだろうか?
死とは本当に自分自身が無となることなのだろうか?
健二は思考を元に戻した
その時、部屋に晶子が入って来た。
「あら、そんな真面目な顔をして」
彼の顔を見て、彼女は驚いた表情をした。
「何を考えて?」
晶子は半ば冗談に訊ねた。
「ちょっと重いことを……」
「重いこと?」
「地球の重さのことさ」
健二は本心を隠して、そううそぶいた。
「地球って、重さがあるの」
「形あるものなら、みな重さはあるさ」
健二は笑った。
「ところで、気分はいかが?」
「今日はいい方だ。頭が働くからね」
健二はそういって、それまで死ということ
について考えていたことを告げた。
「なにもかも無くなるなんて信じられないわ」
晶子の目は潤んでいた。
「あなたがわたしを愛してくださったことも、わたしがあなたを愛したことも全部なくなってしまうなんて……」
「ぼくはまだ元気だから、こうして君としゃべっていられる。だが、ぼくがいなくなったらどう、君はどうするのかね」
晶子はしばらくして口を開いた。
「わたしは、心の中であなたと会話ができると思うけれど。あなたはどうなの?」
そう訊かれて、健二は困惑した。
「死後の世界って本当にあるのかね。天国とか、極楽浄土とか、地獄とか」
健二はつぶやいた。
「昔の人はあると信じていたようね」
「君はどうなの?」
「わたしは信じる方よ。あなたは」
「ぼくはよく分からん」
「こんな話はよしましょう」
晶子はそういった。
「お庭をご覧になったら」
彼女は硝子戸のところに行って、戸を開けた。
光りを含んだ外気がさっと部屋に入って来た。
「今、バラがとってもきれいよ」
庭には、いろいろな草花が植えられ、見事な花冠を付けていた。なかでも真紅や黄色や白のバラの花が、ひときわ庭を華やかにしていた。
「あんなきれいなバラの花に、なぜとげがあるのかね」
視線を庭に向けて、健二はつぶやいた。
「なぜでしょうね」
晶子の頭は、そんなことを考えたことがなかった。
「バラは自分を美しいと思っているのかね」
健二はぽつんと言った。
「たぶん思っているかもね。バラにも人間のように意識があるなら」
「植物だって、ちゃんと意識があるよ。喜んでいる時もあれば、悲しんでいるときもあるさ。そう思わないかね」
ここで健二は、知ったかぶりをしているのではなかった。病床生活を始めてから、健二の感性が鋭敏になっていた。草花を見ると、草花が自分に話しかけるように感じられたり、自分の方から話しかけたりするようになっていた。これは彼には妙な体験であった。
「バラの棘は、わが身を守っているのさ。そうでないと、誰かが来て持って行かれるからね。つまり、自己保身ということ」
健二はそういって、笑った。
「そういう理屈はいいとして、わたし、心配なことがあるの」
晶子は言った。
「なんだい?」
晶子は言い出せず、涙ぐんだ。
「ぼくの身体のことで、悩んでもどうにもならないよ」
健二はやさしくつぶやいた。
晶子は涙を拭いて、部屋から出て行った。
4
健二は生きたいと思った。死んではならないと自分を励ました。のどの渇きを覚えると、無性に水が飲みたくなるように、彼は生きることにしがみついていた。
しかし、その心とは裏腹に、自分の身体が日に日に衰え、弱っていくのを感じないわけにはいかなかった。鏡に映した自分の顔を見たくなかった。
健二は何度か入院を繰り返した。自分ではあまり望まない抗癌剤の治療も受けたが、その効果はよくなかった。そこで、彼は在宅医療に切り替え、医師に訪問してもらっていた。
二か月、三か月と経つうちに、健二の身体は癌の侵攻によって衰弱していった。
食が進まなくなっていた。妻が食べやすく作ってくれたのも、口に入らず、もういいと言ったりした。
でも、元看護師であった晶子は夫の気持ちを理解してやりながらも、少しでも元気を取りもどしてやりたかった。健二は時々身動きできないほど痛みに襲われることがあった。
その時は心が狂乱した。鋭利な剣が腹部の臓器をえぐるような苦悶であった。晶子は、痛み止めの注射を打って、夫の苦しみを和らげた。そんな暗鬱な日々のあとに、健二の身体が小康状態になることがあった。そんな時は、彼は病気を忘れたように快活になる。薬が効いている時である。安らぎをとり戻した夫の顔を見て
「いつまでもこのような顔であったら…」
と、晶子は心のなかでつぶやいた。
買い物に出かけて妻がいない時、彼はベッドに臥したままガラス戸越しに庭のバラの花を眺めていることがあった。バラに脳が刺激を受けるかのように、彼の記憶の扉が開いてつい追憶に耽ることがあった。
懐かしく思い出されてくるのは。田舎の情景であった。彼が郷里を離れる以前の、幼少期を送った日々が昨日のように目に浮かんでくるのであった。
その頃、兄と妹がいた。父も母も若く、元気であった。祖父母も健在だった。家は町から離れた、街道沿いにあった。
家を直ぐ出ると、周りは水田が広がり、北方には小高い山地があり、こんもりとした森がいくつもあった。南方には野菜畑や麦畑があった。春には、青い麦畑に巣をつくったひばりが天空高く舞い上がり、永遠の声を張り上げていた。長々と堤防に囲まれて、大きな川が東の方角に流れていた。
春は雪融け水で水かさが増し、夏は穏やかな流れとなって、子供たちは砂原で遊び、川に飛び込んで水浴を楽しんだ。秋になると鮭の遡行が見られる。地元の漁師が細長の舟をこいで追いかけ、網で捕らえる様子を子供たちはわくわくしながら見つめていた。西方には奥羽山脈の山が肩を並べて聳えていた。夏は青々と輝き、冬は白銀の衣を着ていた。
父も母もすでに亡くなり、実家は、今は無くなっていた。兄は亡くなり、妹はフランス人と結婚して、国籍をカナダに移しバンクーバーに住んでいて、会うことがなかった。
彼の追憶の中には、そのような懐かしい思い出だけでなかった。苦い体験もあった。苦しいことや辛いことは、当然誰にもあるものだ。彼は歯科医として働いてきた。職業上のトラブルは少なく、家族の間にも大きな難局がなく、無事に平穏な人生を送って今日に至っているようであった、だが実は、彼にも夫婦間に亀裂を起こしかねないような危機がなかったわけではなかった。彼はそれを胸の奥に秘めて生きてきたのであった。
ある日の追憶の中に、胸の扉が開かれるようにそのことがふと思い浮かんできたのであった。
5
それは彼が四十七、八歳の頃であった。彼は歯科医院を開設して、その医院長を勤めていた。彼は歯科医として優れた技能を持っていた。優しい人柄は患者から信頼され、病院の評判は上々であった。
彼は医師と看護師を増やし、その規模を大きくしていた。家庭においては二人の子供の親となり、妻の晶子は子育てにとても忙しい日々を送っていた。
ある時、美術展の招待券が友人の画家から送られてきた。その展示会場に自分の絵画があるから、暇があったら見に来てくれということであった。
たまには仕事から離れて、のんびりとした時間を持つのも悪くはないと思って健二は、六本木ヒルズの近代美術館に出かけた。
五月の連休明けの晴れた、木々の緑がさわやかな昼下がりであった。館内には全国から出品された大、中の絵画が、開場につくられた板壁に整然と展示されていた。
友人の「渓流と紅葉」という題の絵を探すのはちょっとくたびれるなと、その数の多さに驚いたが、来館者の数は思ったよりも少なかった。
健二は順序を示す矢印に従って、展示物を見ながら歩を進めた。絵は画家の世界を意味していると思った。そこには美と感動がある。患者の歯の治療に明け暮れて過ごしてきた彼の世界とは、全く違った世界が絵画を通して彼の心に入ってきた。山岳や森林を描いた絵や、日没に彩られた穏やかな海、その逆のどんよりとした厚い雲に覆われ、荒々しい波のうねり。陰鬱な海上の風景画。そこに海の陰と陽の情景を見て、彼は強く心を揺さぶられた。都市の街角で遊ぶ子供たちの情景を軽いタッチで描いた絵。静物画があり、人物画があり、前衛的な抽象画があった。多種多様な絵に混じった中に、友人の絵画が終わりに近い板壁の上部にあるのを見つけた。
渓流と紅葉を描いた、晩秋の静寂感のにじむ風景画であった。健二は好感をもって、友人の大きな額縁の絵画を、腕を組みながらしばらく眺めた。
友人の絵から離れると、健二は休憩のために設けられた椅子のようなものに腰かけた。前後左右に座れるもので、三人が腰かけて休んでいた。そのとき腕章をした係員が通りかかった。彼は係員に呼びかけて、
「出口はどこか」
と聞いた。
そして、二言三言お喋りを交わした。
係員が立ち去った直後であった。
「宮沢さんじゃありません」
と後ろから声をかけられた。
彼は驚いて振り向くと、彼に背を向けていた婦人が彼の方に視線を傾け、ちょっとためらうような表情をしていた。
彼はその婦人が誰であるか、すぐには分からなかったが、その面影が浮かんできた。
二人は美術館を出て、駅前の喫茶店に入った。
その婦人は藤田鈴江という名で、健二が大学のときに、付き合っていた彼女であった。当時彼女は女子大生で、彼は友人と学園祭に行った時に出店の列の中で団子を売っている彼女と知り合って、アドレスの交換をした。
その後、電話をしたり、手紙のやり取りをしたり、絵画展に出かけたりして、とても気の合う友人であった。田舎出の健二は当時民家に下宿していたが、友たちらしい友人がいなかったので、藤田鈴江という存在は彼の心の支えとなっていた。
彼女は気さくな人であった。人との付き合いには特有な自由観があった。彼女には一般的なものの見方に対して、自分の見方や考え方のできる知性があった。心が広く、蔑むような高ぶったところがなく、謙虚で聡明な女性として、健二は彼女を尊敬していた。彼女には数人の男友人がいたようだが、彼は彼女への恋心を募らせていたのだった。
ある日、健二は自分の胸のうちを彼女に打ち明けた。その告白に特に驚いた様子もなかったが、美しい面長な顔に赤みがかすかに差すのが見えた。彼女の心には偽りがなかった。彼女は素直にうなずいた。
それ以来、二人の仲は親密さを増し、楽しい恋の春が訪れたのであった。だが、自然の季節のように二人の恋にも推移があり、やがて終わりがやって来た。それは突然やって来たのであった。
貿易商社に勤めていた彼女の父が英国の支社に転勤することになって、初めは父だけの単身赴任の予定であった。語学の勉強を本格的にやりたいと思っていた彼女にとって、この際海外留学のいいチャンスではないかという妙案が彼女の心をとらえたのであった。自分が日本を離れれば、健二との恋はどうなるのだろう、彼女は悩んだ。彼女は心の内を健二に打ち明けた。健二にはそれは衝撃であったが、彼女の意志はゆるぎないものであった。
「離れていても、あなたを愛する心は変わらないわよ」
健二は彼女のその言葉を信じないわけにはいかなかった。
そして彼女は、英国に旅立って行った。
健二の心には空しい思いだけが残った。それでも、初めのうちは長距離電話をかけたり、手紙のやり取りをしたりして、恋の熱を消さないように気をつかっていた。だがそれも長くは続かず、ついに火が消えるようになくなった。彼女との恋は健二の心の中で自然消滅していった。彼女の方もそうであったのだろうか。彼女からの連絡は来なくなっていた。
それが二十四、五年を経て、二人は再会したのであった。
健二は過去の心の痛みを思い出したが、もはやそれは一つの痕跡でしかなかった。彼女との恋は中途半端に終わったけれども、それで不幸になったわけではなかった。むしろ健二は、それを契機として人生を深く、真面目に考えるようになった。彼は今、自分が幸福であることを自負していた。だから、彼は寛大な気持ちで、彼女の話を聞いていた。
彼女は離れていても恋は成り立つと思っていたようである。また心の奥で、この恋が本物であるかどうか試してみょうという意図があったらしい。激しく燃え立つ恋であると悟ったならば、彼女は一切を捨てて帰国して彼と結婚するつもりであったが、そのことを彼には語らなかった。
英国での生活は恋心に浸るような長閑なものではなかったようだ。彼女の心をとらえたのは英国の新しい環境に慣れることであり、大学での厳しい勉学に励むことであった。そのような散文的な生活は恋の感情を妨害した。彼女が彼からの電話に対して、また手紙に対しても心のこもった返事ができなかった。健二はそれを感じて、無意味なやり取りをしていると判断した。そして二人の心は離ればなれになったのだった。
彼女の人生は留学によって大きく変容した。彼女は初め語学の勉強のつもりでいたが、一年後、大学での研究テーマを決めなければならなくなった。つまり留学目的を明確にしなければならなかったのだった。そこで彼女は子供の頃から読書が好きであったこともあって、あまり悩むことなく児童文学と児童心理の研究をすることにしたのであった。児童文学者の、立派な教授に巡り合ったことが何よりの幸運であった。その教授の指導の下で、彼女は真面目に研究目標に取り組むことになった。彼女の向学心がぐんと高まり、日本に帰ることなど忘れさせた。五年間、彼女は研究に没頭したのだった。
その間に彼女はスウエーデンの男性と恋におち、卒業後に結婚した。彼の実家のあるスウエーデンの田舎町に住み、子供が生まれ、満ちたりた幸せな暮らしをしていた。ところが、娘は感染病にかかり急死した。五歳になったばかりの可愛い年頃であった。一人娘の死は夫婦に暗い影を残すことになった。家庭は元の明るさを取り戻せなかった。二人は離婚の道を選び、彼女は帰国したのだった。
彼女は現在、都内のマンションに住み、大学で児童文学を教え、また児童書の翻訳をしているとのことであった。
健二にとって彼女との再会は不思議なことであった。二人の間には二十六、七年の歳月が経っていたけれども、その時を超えて二人の心は大学の頃にもどっていたのであった。
その後二人は暇を見つけて、一緒に食事をしたり、日帰りの遠出をしたりして、楽しい時間を共有するようになった。健二にとって彼女とのデートは密会を装わなければならなかった。藤田鈴江は独身で、自由な立場にあったが、妻子のある健二には恋の危険な綱渡りであった。彼は妻を愛していたので、自分の行動は妻に対する裏切りであることを十分承知していた。それで彼女との逢引きはいつも苦さを含んだ甘味さがともなっていた。
藤田鈴江は恋愛に関して自由な考えを持っていた。妻子ある男であっても恋愛は可能であると考えていた。その底には彼女の個人主義的は考えがあった。恋愛は個人の人格と人格の関係でないかと考えていた。結婚をして家庭をつくった経験のある彼女は男女の心理について広い見方をしていた。恋愛を所有関係と考えるエゴイズムから離れて、彼女はたがいの立場を理解できる年齢と分別心を身に付けていた。
彼女は家庭の平和の大切さをよくわきまえていた。健二の家庭を壊すようなことはしたくなかったし、してはならないと肝に銘じていた。健二が家庭を大切にしていたことに対して彼女は羨望の気持ちがなかったわけではなかったが、嫉妬を抱くことはなかった。彼女は自分を不幸だとは考えていなかったし、自分の意志で生きている自分に満足していた。彼との再会は予期しないことであったが、そこから彼女の穏やかな恋愛感情が新たに噴き出してきたのであった。
二人は恋に酔った。しかし、それは長くは続かなかた。彼女の身体に悪い腫瘍が発覚して一年足らずのうちに、彼女は亡くなったのであった。
健二は妻にはいっさい語らなかった。それは他言すべきことではないと自分を戒めた。秘密にしておくべきことであるとみなした。しかし、彼女の急死は半身が削り取られたような衝撃であった。
健二はその時のことを、まるで夢であるかのように思い出していたのであった。知らず間ににじんだ涙を、健二は拭った。
6
医師が予告した通りに、健二の病状は半年ほど経ったあたりから一段と悪化が見られるようになった。一日の食べる量の減少は著しかった。晶子は食べやすいのをつくってやるけれども、だんだんそれも避けるようになった。
庭の花壇を眺めて楽しむこともなくなり、一日の大半は、虚ろな目を天井に向けているか、それとも目を閉じているかのどちらかであった。
二週間ほど前には、彼の元気な姿がまだ見られた。声を出して相好を崩すこともできたし、妻との会話もしっかりしていた。
そんなある日のことであった。
いくぶん気分がいいと言うので、ベッドの上部を斜めにもちあげ、そこに上半身を委ねる姿勢になっていた。
「あいさん」
健二は妻にいった。
「あいさん」というのは妻のネックネームであった。
健二は妻の呼び名を、いつの頃からか愛称で気軽に呼びかけて語り合っていた。心が和らいでいる時などに、彼はそういう愛称で呼びかけた。
「あいさん、おいしそうな食事をつくってもらっても、口の中に入って行かないのはどうしてなのかね」
健二は、不可解な表情をして訊いた。
晶子は一瞬、胸を突かれた。この人、そんなことを気にしているのかしらと思った。
「お茶でも入れましょうか」
「喉がからからするね」
「お水にしますか」
「お茶がいいね」
晶子は急須にお湯を注いで、健二の前の台に湯呑みを置いた。
「少し冷ましてから召し上がって」
と、彼女は思いやった。
健二は笑いを浮かべた。頬のこけた顔にうすく赤みがにじんだ。
健二は言われたように少し間をおいてからお茶を飲んだ。そして湯呑みを台に戻すと、その目を妻のほうに向けた。優しく思いやりのにじんだ眼差しであった。晶子はそんな夫の柔和な顔を目にするのは久しぶりのことだった。熱いものが彼女の胸の中を通り過ぎていった。
健二は静かに口を開いた。
「あまり夢なんか見ないんだがね、二、三日前だったかな、珍しく夢を見た。たいていの夢は、虹のように直ぐなくなってしまうのだが、この夢だけは昼間の月のように脳裏に残っているんだ」
と言って、健二は口元に笑みをつくった。
「何がどうだかよく分からないのだがね。ある地方の丘陵地をぼくは一人でさまよっていたらしい。山の稜線には秋の陽があって沈みかかっていた。まわりの風景は薄墨を流したように暮色を濃くしつつあった。冷気にぶると身が震えた。ぼくは山路を駆け下った。そして小さな町にたどり着いたのだが、全く見覚えのない町で、古びた駅舎らしい小さな建物が見えた。だが、外灯の光に照らされた街路には人の姿がなかった。どうしたんだろうと思ったら鳥肌が立った。
改札口には、駅員らしい男が手持ち無沙汰に腰かけていた。
「この電車の行き先は?」
ぼくは、目の前の電車を指差した。
「最終電車だ。さあ、急ぎなさい」
駅員はかすれた声で叫んだ。ぼくは何も考えずに電車に飛び乗った。すると直ぐ扉が閉じて電車が動き出した。車室に飛びこむと、静かな雰囲気が引き裂かれるように揺れた。だがその動きは、すぐ底の知れぬ静けさに戻った。乗客の顔はどれもロウソクのように蒼白く、悲しみに沈んでいた。ぼくは直ぐその異常な様子に気付き、その場から逃げ出そうと出口に向かって身をひるがえした。ところが、そのドアは固く閉じたまま、微動すらしなかった。ぼくは恐怖のあまり大声を出して助けを求めた…」
と言って、健二は妻の方に目を向けた。
「いい夢ではないわね」
「そうだろう。ぼくもそう思う」
「どうして人は夢を見るのかしら」
晶子は子供のような質問をした。
健二は笑いながら
「フロイド博士に聞いてみるといい」
と言った。
「フロイドですか」
昌子も笑った。
「子供の頃の夢には、こわいものがあったわ。楽しく遊んでいる時突然、魔物が現われるのよ。怖さのあまり一生懸命に逃げようとかけるけれども、逃げ切れずにつかまってしまう。そんな夢を見て、よく泣いていたわ」
「ぼくも小学生の頃はよく怖い夢を見ていたね」
健二は目を細めて笑った。
その時、玄関のチャイムがなった。
昌子は出ていって、すぐ戻ってきた。
「あなた、川上さんよ」
健二はちょっと考える素振りをみせたが
「上がってもらいなさい」
と言った。
川上勇吉は健二が大学付属病院で勤務していた時からの親友であった。その後彼は郷里の千葉の銚子で歯科医院を開業して、そこに住んでいた。よく彼は仕事で上京した折には健二と銀座で遅くまで飲んで語り合った仲間であった。
「よく来てくれたね」
健二は椅子に腰を下した川上さんに言った。
川上さんはすっかりやせ細った健二の顔を見てその変わりように驚いた。だが、その心の動揺を顔に表さず、
「伺わなければならないと思いながら、なかなか叶わず連絡せずに突然伺ってごめんなさい」
と、額にハンカチを当てながら言った。
「あなたのことを時々思い出したりしていたよ」
健二は川上さんの毛のない頭に軽く目を向けて言った。
「実は三か月前に心臓病が見つかりまして半月ほど入院していました。無理な行動は控えるようにと言われていますが、今のところ気にするほどでもないと思っています」
「それにしてもそれは大変なことだ」
健二が言った。
「あなたこそ大変でしょうに」
「ちょっと買い物に行ってくるわ。川上さん、ごゆっくりなさってください」
昌子は機転を利かせ、そう言って出て行った。
健二は川上さんの来訪を喜んでいた。しかも体調もよく、話すことが苦ではなかった。何年かぶりで会った二人の口から言葉が自然と飛び出してきた。笑い声を出したりして、とりとめのない話をしばらくしていたが、健二は疲れを感じてきたらしく話を中断した。深呼吸をするように健二は数回息をはき、目を閉じた。
三分ほどして、健二は目を開けて視線を川上さんに向けて口を開いた。
「今日は体調がいいので、あなたと話ができるのはとてもうれしい」
川上さんは軽く微笑んだ。
「だがね、川上さん。ぼくはだめかもしれないんだ」
「だめとは?」
「終わりが近いような気がするのよ」
川上さんはその言葉にどきんとした。わざととぼけた風に
「終わりって?」
と言った。
健二は眼差しを宙に向けていたが、しばらくしてつぶやいた。
「蠅がうるさく飛び回っているんだ」
「蠅?」
どこにも蠅など飛んでいなかった。
「ぼうっとしていると、蠅の奴が槍のようなものを持ってやって来るんだ。これは夢ではないんだ。本当に白昼に姿を現すんだ」
川上さんは、それは幻覚ではないかと思った。
「あなたは幻を見ているのでは」
川上さんが言った。
「死ぬというのは仕方のないことだが、終わりというのがどうも気に食わない。自分の人生がすっかり消えてなくなると思うと堪らない。そう思わないかね、川上さん」
そう問われて川上さんは首を傾げた。
「死とは無となることかね」
「いや、そんなはずはないと思います」
「では何だね」
「うまく説明はできないが、本当のことはだれにも解からないと思いますね」
「自分という存在が無になる。ぴょんぴょん動いていた蛙が蛇に呑みこまれる。突然蛙の存在が消え去る。このようなことは動物の世界では日常茶飯だね。これは蛙の死ということですか」
「分かりません」
川上さんは吐息を突いた。
「死についてあれこれ考えたところで名案が出るわけでもないですよ。よい終わりを迎えるには生をよく整えることではないかと、自分はこの頃そんなことを考えています」
健二は閉じていた目を開いて
「それはどういうこと?」
と言った。
「死を恐れずに、静かに受け入れることではないでしょうか。まな板に置かれた鯉のように覚悟を決めることかもしれない」
「難しいな」
「もちろん容易ではないでしょう」
「自分一人ならばね。だが妻を残していくと思うと、辛く心が乱れてしまう」
「それは未練というもの。それもなくなりますよ」
「そうですかね」
健二は額に小じわを寄せた。
二人の会話はなお続いていた。
川上さんはもうお暇しなければならないと思った。そして、椅子から腰を上げて、彼のベッドに歩み寄った。健二のかさかさした手を握った。かすかな温もりが伝わってくるのを川上さんは感じた。
「ありがとう」
健二は穏やかな目を川上さんに向けて言った。
川上さんが部屋から出て行ったあと、健二はぼんやりと宙を眺めて、嘆息した。
「別れはとてもさびしい」
7
その三週間後の、ある夜明け前に健二は人に知られることなく息をひき取った。
数日前から健二は危篤に陥っていた。訪問医師は晶子に
「奥さん、覚悟しておいてください」
と、告げて帰っていった。
彼女は息子に電話した。
その日、息子もその嫁も孫もきて見守ってくれていたが、晶子はほとんど寝ずに看病していたので、すっかり疲れ切っていた。その夜は彼女一人であった。
夫の息づかいがいくらか落ち着いている様子だったので、晶子は隣の部屋に行って仮眠のつもりで布団に横になった。ところが目が覚めたのは朝方であった。彼女ははっとして起きて、夫のいる部屋に行った。部屋は妙に静まり返って見えた。
電灯の光に照らされた健二の顔は眠っているような、いつもの顔であった。彼女はベッドに歩み寄って、
「あなた」と呼びかけた。
昌子は首を傾げた。
いつもの反応がなかったのだ。彼女は身を屈めて夫の口もとに耳をそっと傾けてみた。息づかいの気配は感じられず、あわててすぐ夫の手首を握ってみた。温もりがあったが、脈拍のひびきはなかった。
晶子は身をかがめたまま、夫のもの静かな顔を食い入るように見つめた。内からこみあがってくるものがあって、涙がどっとあふれ出た。夫の顔がぼうっとしてゆがんで消えた。彼女は夫の胸に顔をうずめた。もしもそこに居合わせた者がいたならば、晶子を襲った深い悲しみを言い表す言葉は見つからないと、その人は語っただろう。
晶子は半時ほど号泣し続けた。朝の光がカーテン越しに室内に射し込んでいて、部屋はすっかり明るくなっていた。晶子はようやく理性をとり戻した。何が起こったのかを理解した。
昌子は息子に知らせた。近くの掛かりつけの病院に電話して、お医者さんに来てもらった。医師は診察をして死亡診断書を書いてくれた。葬儀屋の手配などの、葬儀に関する事務的なことは息子がやってくれた。その間晶子は自分が何をしていたのか覚えていなかった。ただ茫然として椅子に腰かけていた。
葬儀は身内だけでささやかにすませた。
健二が寝起きしていた部屋は片づけられ、その中ほどの家具のそばに購入したばかりの仏壇を備えた。小さな仏壇で、上段には木彫りの仏像があり、健二の位牌はその脇にある。彼の骨壺のはいった箱は両脇に花が飾られた仏壇の前に置かれた。
葬儀が済んで十日ほどたった日曜日に、息子が十歳の孫娘を連れて実家にやって来た。独りしょんぼりしているだろうと、息子は母を案じた。孫は祖父母に可愛がられて育った。とくに晶子の方が愛情深かったので、孫は祖母に子犬のようになついていた。
息子は、孫娘におばあちゃんと遊ぶように双六やかるたを持たせた。
息子が予想していたよりも、晶子はやつれた様子には見えなかった。息子はほっとして心もち元気そうな母の顔を見た。
「お母さん、少しは元気になりました?」
「まだ駄目ね。知らずしらずのうちに思い出してしまう」
「大丈夫。そのうちに忘れてしまうから」
「そんなことできるかね」
「よく時が解決してくれると言うでしょう」
「瑞枝ちゃんは、何年生?」
畳の上にカルタを並べている孫に声をかけた。
「四年生よ、おばあちゃん。早くカルタ遊びをしようよ」
娘は大きな声で言った。
それから三人はカルタ遊びを始めた。息子が声高に最初の言葉を言うと、孫の手がすばやく動いた。
カルタが終わると、三人は双六遊びを始めた。晶子も子供に戻ったようにはしゃいだ。久しぶりに陽気な気持ちになった。息子と孫が帰ってしまうと、先ほどの賑わいは何だったのだろうと思うほど部屋のなかはしんと静まって、いちだんとわびしさが彼女の胸を突き刺した。
夫が生きていたなら、彼の食事のためにお使いに出かけたり、彼が食べやすいように料理を工夫したりするのだったが、それが今はない。彼女は毎朝欠かさず仏壇にお線香をあげた。畳にひざまずき夫の遺影をじっと見つめながら何やらつぶやくのであった。
四十九日の法要が身内だけで営まれ、夫の遺骨はお墓に埋葬された。晶子は仕方のないことだと頭では分かっていたが、墓石の下の暗室に夫の遺骨が入れられるのを見て、そうと瞼にハンカチを当てた。一瞬よろめきそうになった母を、息子は腕で支えた。
「ごめんね」
晶子は身を整えた。
新しい墓石からお線香の煙が、晩夏の静かな光にあわい渦を巻いて揺れていた。
終わり
(2023/2/14)