彼の死
鈴木 三郎助
平日の正午前の、東北新幹線の自由席の車内は、思っていたよりも混んでいた。乗客の多くは、仙台や盛岡方面へ行くのだろう。聞えてくる声に東北訛りの響きがあった。私は後部席の通路側の座席に座っていた。左の窓際には私と同じ年頃の、眼鏡をかけた真面目そうな男が座っている。白いワイシャツにネクタイを締めたスーツ姿は、セールスマンと見てとれた。出張で地方へ出かけるのだろうか。週刊誌を読んでいた。私の右手の三人席には母親と学童前の二人の女の子が座っている。女の子は同じ色柄の服を着ていた。五歳頃だろうか、背丈も顔の目鼻立ちも、よく似ていて、笑うと二人の両頬に同じようにえくぼができる。おそらく双子なのだろう。姿は見えないが、何人かの男たちが酒を飲んでいるのだろう。陽気な笑い声が時々波の音のように聞こえてくる。
私は目を車窓の方へ向けた。窓に映り遠ざかっていく景色に目を走らせたが、あまりにも外の風景が慌ただしく次々に過ぎ去って行くので興ざめた。電車は線路沿いの風物を黙殺して、ひたすら北に向かって直進を続けていたのであった。
十日ほど前のことである。私は友人の倉田からの手紙を受け取った。それは私どもの仲間の高岡光次郎の死の知らせであった。私はその突然の死に驚いた。そんな馬鹿なことってあるものかと、すぐには信じることができなかった。しかし、高岡は半年前に死んでいたのだった。倉田はそのことを最近になって聞いたらしかった。そんなことなど知らずにいた私に知らせてくれたのであった。
ぼくら三人は同じ大学の、文学サークルの仲間であった。学部は違っていたが、同じ歳のぼくらは文学を愛好するということで、馬があった。倉田は詩を書いていた。彼は胃弱体質らしくやや長身で痩せた体をしていた。高岡は見るからに才気煥発な男であった。しかも、中学の時に柔道をしていたことで、丈夫な体をしていた。スタミナがあって、情熱家であった。彼は誰よりも小説家になりたいという強い自負心のある男であった。彼は高校の時に数編の小説を書いてサークルの同人誌に発表していた。独特の個性が出ていて、並みではない才能を感じさせた。私も倉田も彼の才能に一目を置いた。勿論、厳しく批判する者もいた。しかし、ぼくらは彼の才能と彼の情熱に、大きな期待をかけていたのであった。私は評論のようなエッセイを書いていた。
その頃のことが、私の脳裏に走馬灯のように浮かんだ。それは昨日のようにあざやかだった。ぼくらには希望があった。あふれる情熱がそれを支えていた。ぼくらは何者かになると確信していた。大学を卒業した後、ぼくらはそれぞれの道を進んだ。在学中にいくつかの短編が評論家に認められていた高岡は、迷うことなく小説家の道を選んだ。倉田はフランス文学を研究するためにフランスに留学した。私は就職の道を選んだが、受けた会社は全部落ちた。それで私はそれまでアルバイトをしていた学習塾を継続することにして、文学に関心を失わずに、自分なりにやってきたのであった。
高岡光次郎の母親は、仙台の市街から離れた、住宅の建ち並ぶ、木造二階建てのアパートに住んでいた。私は倉田が書いてくれた地図をたよりにそのアパートにたどり着いた。かなり年数のたった古びた建物であったが、しっかりした造りになっていて、建物の中央に入口があった。高岡の母はその一階の部屋に住んでいた。
今日の訪問を連絡してあったので、高岡の母は、仕事を休んで待っていた。そして、私を心温かく迎えてくれたのである。私は座卓のある六畳ほどの応接間に通された。独り暮らしの簡素な感じの部屋だった。彼の母は、背は高くはなく、やや小太り気味の人であった。その動作には、老いの影がすこしも感じられなかった。皺顔ではあるが、肌つやが良く、私が頭に描いたよりも、てきぱきとした若さが見られた。
戸棚の上に小さな仏壇があった。私はそこに歩み寄り、お線香をあげ、彼の御霊の安らかならんことを祈った。そこには彼の父の写真と、彼の遺影が額に収められてあった。彼の母がお茶の用意のために席を外している間に、私はその親子の写真を見比べていた。
彼の父は彼が小学二年の時に、結核で亡くなった。享年三十六歳だったと聞いていた。写真は二十代後半ごろの、元気そうな姿だった。眼鏡をかけた色白の真面目そうな顔立ちをしていた。高岡の遺影は、大学の頃によく見かけた白い半袖シャツ姿のラフな格好である。あふれんばかりの笑顔を浮かべていた。彼の顔の輪郭は父に似ていた。彼の目鼻立ちは母親似であった。彼の遺影を眺めながら、彼が死んだとは、どうしても私には納得がいかなかった。
「お待たせしました。お茶でも召し上がってください」
と、話しかけられて私はテーブルの上に置かれた茶菓子に視線を移した。
「東京から来なされて、大変でしたでしょう。あの世で光次郎は、きっと喜んでいますでしょう」
彼の母にはやさしさがこもっていた。
私は胸がつまって、しばらく言葉が出なかった。
私の心は揺れ動いていた。高岡が何故みずから死を選ぶことになったのだろう。これまで何度となく頭の中をかすめては消え、また浮かんでくる疑問を、彼の母に訊ねたかった。だが、なかなかそれを口に出せなかった。
私はお茶を飲んだ。
「あなたさまは、結婚をしていらっしゃいます?」と、私に細い眼差しを向けて、彼女は訊ねた。
「いいえ、そんなゆとりはぼくにはありません」
私の頭に、結婚のことなど浮かぶことはなかった。自分のことで精一杯であった。
「光次郎が結婚していたならば、と思うことがあります。わたしの勝手な思いでしょうけれども……」
彼が結婚でもしていたならば、彼の運命は違っていただろう、という母親の嘆息の思いが私の胸にひびいた。ここ四、五年、彼との音信が絶えていたので、彼のプライベートのことは、私には知る由もなかった。
「彼にはそんな人がいたのですか」
「好きな人はいました。息子はその人との結婚を考えていたようでした」
魅力的な彼は、女に持てないはずはない。新人作家として彼は期待されていた。彼ならその才能を花咲かせることが出来ると、彼の仲間たちも疑わなかった。
「彼はどうして死を選んだでしょうね」
私は訊いた。その問いかけは、彼の母の心を苦しめるのではないかという一抹の懸念があったけれども。
「わたしには分かりません。光次郎が亡くなって、息子のことをいろいろと思い浮かべては、考えてみるのですが、考えれば考えるほどますます真相がわからなくなってきて、もう考えまいと自分に言い聞かせるのです。でも、駄目ですね。何日かすると、いつの間にか息子のことを思い考えているのです」
光次郎の母はその心の内を私に語ってくれた。一人の死は、その母親にとっても、一つの謎であった。それは同じように彼の死は私にとっても謎であった。そこで私は、深刻な話は避けて、光次郎の幼少の頃のことのほうに話を持っていった。
夫が亡くなったあと、女手一つで育ててきたこと、学校の給食の仕事について生活費を稼いで、息子の成長をただ一つの楽しみとして生きてきたこと、息子が一人前になって幸せな家庭を作ってもらえれば、何も言うことはないと思って、苦しいこともたくさんあったけれども、乗り越えてきたこと。彼がいたからわたしは生きて来られたことなどを、彼女は目を潤ませて語ってくれた。
私はその苦悶の姿をまともに見ていられなかった。何の慰めの言葉も私の頭に浮かんでこなかった。
「すみませんね。こんなに取り乱して。息子のことを思うと、いつもみじめになってしまうのです」
彼の母は涙をふきながら言うのだった。
夫を早くに亡くし、そして一人息子もなくなり、独り身になった女の、その悲しみがどんなに深いものなのかを、私は感じさせられたのであった。
光次郎はこの母の悲しみを想像することが出来なかったのだろうか。彼の身勝手な行動を私は激しく責めた。彼にはこんな優しい母がいたのではないのか。彼は母のことをもっと考えるべきだったのではなかろうか。私はそう思って彼を恨んだ。
その時、彼の母の声が耳に聞こえた。
「光次郎には、光次郎の精一杯の気持ちがあったのでしょうね。わたしには分からない問題が息子の背に圧し掛かっていたのでしょうね」
「だれかに苦悩を話していたならば、あるいはよかったのだろうが……」
私はそう言ったが、それは後の祭りにすぎなかった。
帰りの新幹線の中で、私はもの思いにふけっていた。心は重かった。しかし、高岡の死が頭から離れなかった。彼の死が彼の母と結びつけて考えていくと、悲しみが身に染みるようにこみあげてくるのであった。私は悲痛な思いを抱きながら、高岡と付き合っていた大学生の頃をまたもや思い出していた。
あの頃のぼくらには、怖いものなど何もなかった。高岡も倉田もぼくも、それぞれに目指すべき目標を胸の中に秘めていた。ぼくらは若さに輝いていた。ぼくらにはプライドがあった。確信と自信があった。あの頃のぼくらは、死について語り合っただろうか。死とはなにかという、哲学めいたことはしなかったけれども、作家の自殺のことは、しばしば話題になることがあった。
いつものように放課後、ぼくらは喫茶店に入りこんでいた。店内の奥に陣取ってしゃべりまくっていた。その時、なんのはずみか、自殺ということに話題が移っていた。
「人には自殺する自由があるのではないだろうか。宗教とか道徳とかでは、自殺は良くないと教えているけれども」
そう言ったのは倉田であった。
それに同意するように私は
「旧約聖書の『十戒』には、殺すなかれと記されているが、自殺するなかれ、とは書かれてはいないね」と言った。
それに対して高岡は、それは軽薄な読解だと、すぐ反論した。
「殺すなかれ、とは殺人を禁じていることだよ、どんな理由があっても、殺人は許されない、固く禁じている。それは命を損ねてはならないということだよ。その命を自分が殺していいのかといえば、つまり、自分自身の命を自分の手で殺すということで、それは許されないだろう。なぜなら、自分を殺すのは自分が自分自身に殺人を犯すことになるからだよ」
「でも、人は自殺をしても裁かれないし、罰せられもしない」
そう言ったのは倉田であった。
高岡は声を出して笑った。
「馬鹿なことをいうなよ。自分で自分を殺した者を、裁判官はどのように裁けるのかねぇ。犯人者は自分だよ。その犯人の自分はすでに死んでいるのではないか」
高岡の言うことは、もっともなことだ、と、私は思った。でも、心の中で問うった。なぜ人は自殺をするのだろう。自分にとって大事なのは自分ではないのか。その自分を殺害するとは、いったい自害する者の内部はどうなっているのだろう。彼の体内で、一体どんな化学変化が起きているのだろうか。
「人は簡単には自殺などしないはずだ。もしするとしたら、よほどの理由があるはずじゃないか。理由もなしに、あるいは、衝動的に自殺するなんてことは、通常では考えられない」
私はそう言った。
「自殺は弱い者が、人生に行き詰って生きるすべを放棄することだよ」
高岡は高らかに言った。
「弱い者?その考えはおかしくないか」
倉田が語気を強めて言った。
「どうしてだ?」
高岡が訊いた。
「その考えだと、自殺者はすべて弱者になってしますのではないか。強い者でも自殺すれば弱い人間だと言われ、まちがった噂が立つのではないかね」と、倉田が応えた。
人生に行き詰るとはどういうことだい」
そんな経験をしたことのない私は空想力を働かせて、こう言った。
「自分の能力では、直面している問題を解決しようとしても、出来ない。悩み、苦しみが続く。眠れない。不眠症になる。だんだんと思考力が衰えてくる。いい考えが浮かばない。不安がつのる。心の内に黒い絶望の渦ができる。その渦がその人の体を蝕んでいく。内部を虫に食われた木は倒れる。それと同じように自殺者の内面は蝕まれているのではないだろうか」
すると、高岡は言った。
「自殺の話はやめようよ。第一面白くもないし、気が滅入ってしまう」
「面白くないか」
倉田はつぶやいた。
「おれたちは死ぬことよりも生きることを考えることだよ。生きることは死ぬよりも重要ではないか」
高岡は誇り高く言った。
「そうだ。死んだらおしまいだよ」
倉田が言った。
「そうだ。生きることだよ」
私も言った。
そんなことを語り合ったこともあった。あの時から十年の歳月が経ったのか。高田の元気な声はもう聞くことができない。彼は死んだのだ。大切な母を遺して。
私は再び高岡の死をめぐって考え込んでいた。電車は福島駅を過ぎ、車窓には磐梯山の雄姿が遠くに見えた。車内は静かだった。車内に一匹の蠅がいるように気になっていた男のだみごえがなくなっていた。
倉田は言った。人には自殺する自由があると。私はその言葉を思い起こしていた。確かに人は自分から死を求め、命を捨てることができる。その可能性は誰もがもっている。なぜなら、例外なしに人とは考える能力をもった生き物だからだ。その能力があればこそ、人は学習し、そして人は向上する。人間が自分の人生を開拓していくのはその能力があるからだ。生きるために思考があるのだ。草木が天に向かって伸びていくように、思考力は生きる方向に向かって働く。端的にいえば、思考能力は生を肯定するのだ。しかし、その逆に働く場合がある。生の否定の方に向かうこともあるのだ。その最悪は自らを死に追い詰めることだ。人間は死を欲するのだ。刺激の強い液体を無理に飲みこむように死と戯れるのだ。死は無臭でも無味でもないのだ。それは影法師だ。人を誘い込む。腕をつかみ、抱きついてくる。死との戯れは妙な快感がある。孤独の淵に立ち、絶望している者には、死は味方に思われる。自分を失いかける。めまいに襲われて、倒れそうになる。すべてが自分に許されているような陶酔の波が何度となく襲い来る。その時、人は肉体の重力を失う。生きる意志は切断されて、致命的な死に向かうのだ。そういう死は逃避的な死なのだろうか。
人は考えたことを行動化する。強く思い詰めると、それが行動になって現われる。自分が死にたいと思い続ければ、その行く果ては死が待ち伏せしている。死の思いは、新たな希望を見出せば、生きる道が開ける。だが、 絶望につかまってしまえば、死の階段を下りて行くことになってしまうのだ。
私はそんなことを考えていた。そして、自分につぶやいた。死のことに頭を突っ込んではいけない。死を思うことは不吉なことだ。忌まわしいこと。しかし、死を思って人は生きるべきだという言葉もあるけれども、それは自殺のことを考えることとは違う。生きるためには、生きること以外のことに頭を突っ込むべきではないのだ。
それにしても、自殺者の数は年間数万人に達するという。私が昨年、ニュースで知っただけでも三件あった。一件は、贈賄罪の疑惑の追及を受けていた大物政治家の秘書が、参考人として取り調べが始まるという、その前日に自宅のトイレで首つり自殺をしているのを、家族が見つけたのだ。その秘書は四十八歳。まだ小学生の二人の子供の父親である。彼はなぜ自殺したのだろう。なぜ自殺しなければならなかったのだろう。
ある有名な映画監督が、愛人問題が発覚して、その真偽を問われるという記者会見の前に、ビルから投身自殺を図ったのだ。彼は高潔で、プライドの高い人物である。スキャンダルを自分の命をもって、封じ込めたのだろうか。死人に口無し。遺された者たちがめいめいに想像力を働かせて推測するだろう。噂がたっても、七十五日過ぎれば、溜まった塵が風に吹かれて無くなるように消え去るだろう。しかし、プライドと命はどちらが重いのだろう。有名人であるがために、注目を浴びるスキャンダル、それに耐えられなかったのだろうか。彼は自分の裏の生活をさらけ出すことになれば、自分を支持してくれている人たちを裏切ることになる。これまでの自分に向けられてきた称賛の風が非難と憎悪のこもった眼差しを向けられる。その大衆の眼差が怖かったのだろうか。彼は社会の不正を、おかしさをまじえて、いくつもの問題作を制作してきた才気あふれる監督である。彼の自殺は人々を驚かせた。それは衝撃な出来事だった。
もう一つは、中学一年生が物置小屋で自殺していたのを、数日後に見つかったことだった。遺されたノートに書かれていた言葉や調査の結果から、いじめによる自殺であると断定された。十二、三歳の少年が世をはかなんで死の道を選んだのだろうか。
その三つの死を、私は新聞記事で知った。その受け止め方は軽く薄いものであった。自殺者の悲しい運命に心を動かされたが、自殺者に思いをよせて考えることはしなかつた。二、三日も経たないうちに、それらの事件は私の意識から消えていった。
死者に対する印象やその受け止めかたはさまざまである。自殺者の目撃者は、その死を身体に刻みこまれたように生涯忘れることがないであろう。また、自殺者の親、兄弟姉妹、そして彼を親しく知る者にとって、体の一部がはぎ取られたような深い傷を負うことであろう。身近な人の死はかけがいのない事件なのだ。
私にとって高岡の死はそのような、衝撃的な死ではなかったけれども、文学を志した仲間である。その一人が自殺という手段で、生を止めたことを思うと、涙が滲んでくる。そして、彼がなぜ死を選んだのか、なぜ死ななければならなかったのか。その原因は何なのか、何が彼の身に起こったのだろう、彼の生活に何が起こっていたのだろう。彼について考えれば考えるほど、その死の謎は深まるばかりであった。
電車は宇都宮駅を過ぎ、埼玉県にはいり、上野駅を目指して突進していた。
高岡の実家を訪ねて、彼の母に会った日から、一週間ほど経ったある日、倉田が電話をしてきた。
「どうだった?」
倉田は高岡の母を気にしていたようだ。
「お母さんは元気でしたよ」
私は答えた。
「彼のことで何か新しいことはなかったかい」
「新しいことって?」
「たとえば、彼に関しての証言の様なものさ」
「別になかったね。気の毒で、彼のことを聞きだせなかった。彼の死はきみが言うように分からなかった。彼と最後までつきあっていた者ならわかるだろけれど……」
「そんな人いただろうか」
「創作の方はどうだったのだろう」
「長い小説を書いていたそうだけれど、それを取り上げてくれる出版社が見つからなかったらしんだ」
「最近の彼の小説は読んでいた?」
「いや、読んでいない」
「からだでも悪かったのかね。たとえば、癌にかかっていたとか」
「そんなことはないだろう。もしそうだとしたら、かかりつけの医師から話が出るだろう。彼の精神状態がひどくよくなかっただろうと推測はできるけれども」
「よく言われるように、うつ病になっていたのだろうか。彼の性格から想像できないけれども」
「まったく理由のない自殺なんてありえないからね。遺書はなかったようです」
「ぼくらにとって、彼は希望であった」
「本当にそうだよ」
倉田とそんな話をしたあと、最後はお互いに頑張ろうと言って、電話を切った。
それから数か月ほど経ったのだろうか。高岡の死のことは、私の心からほとんど薄れかかっていた。川の流れに浮かんでいた箱のようなものが目に止まったが、やがてそれが視界から遠ざかっていくように、彼の死は私の関心から遠のいて行った。
ところがある日のこと、高岡の母から書類の入った小包が送られてきたのである。息子から届いていた段ボール箱を整理していたところ見つかったノートであると、書き添えしてあった。ノートは二冊と原稿用紙数十枚が入っていた。二冊のノートの一冊は彼が亡くなるまで書かれた日記帳のようであった。もう一冊は、創作用のメモが記されたものであった。
私は驚いた。その夜、私はその遺書を高ぶる気持ちを抑えながら読みふけった。それらを読み切るには三時間足らずにすんだが、彼の晩年の生活状況や精神状態、そして、なぜ彼が死ななければならなかったのか、その謎を解かなければならなかった。
そこで私は彼の遺した言葉をたどりながら彼の死を、自分なりに考えみた。
ここ一、二年、喉に魚の骨が刺さったように気にかかっていることがある。人生は生きるに値するのかということが時々頭に忍び込んできて、俺を苦しめる。以前はそんなことは問題にしなかった。うるさい蠅を蠅たたきで叩き潰すように、払いのけたものだ。しかし、最近では追い払っても、しばらくして俺の頭の淵についているように声をかけてくるのだ。お前は何のために生きているのだと、検察官のように俺をしつこく責め立てる。時にはノイローゼ気味になることがある。それでも、俺は元気に自分に語りかけたものだ。俺は生きているから生きているのだと……。
ここ一年ほど、自分の書くものに自信をなくしている。スランプに落ち込んでいる。俺の書く小説がつまらなく思われてくる。内容が散漫になり、文章に勢いがないのだ。だから、編集者が書き直しを促してくる。俺は力の限り、推敲をして、手渡す。ところが、それが雑誌に載らなかったりするのだ。これは俺には苦しい痛みであった。俺の力をくじいた。前途が暗くなる。やる気が萎えてしまうのだ。これじゃいかん。弱気になってはいかん。俺は自分を元気づけ、励ます。そして、呟く。面白いものを書いたらどうなんだ。今にびっくりさせるようなものを書くことだ。辛抱だ、忍耐無くして傑作は生まれるものではない。
人生は生きるに値するのか?その問いかけに、俺はつぶやく。俺の人生はそんなにつまらないものなのか。作家として生活できるように、アルバイトをして生活費を稼ぎ、時間を見つけて、何処でも書けるように鞄には、鉛筆と消しゴムと原稿用紙を入れている。俺はいいものを書くつもりで日夜心身を砕いて努力しているのだ。そう遠くない日には栄冠を勝ちとるのだ。俺は自信が揺らぐような時には、そう言って自分を励ましていた。
俺にはかわいい恋人がいた。彼女はいい女だった。しかし、今はいない。彼女は自動車事故で亡くなったのだ。彼女は俺が心から愛した女であった。心の支えとなっていた。創作のことで行き詰っているような時でも、彼女のことを思うことで、俺はやるぞ。彼女のために頑張らなければと、自分を元気づけることができた。しかし、その彼女が今はいない。俺は彼女を失って、孤独に陥った。
俺は孤独をこれほど恐れるようなことはこれまでなかった。むしろ孤独は、ありがたい喜ぶべき貴重な時間だった。夢想にふけることも、創作に没頭できるのも、孤独の時間があればこそできることなのだ。ところが、今は孤独であることが恐怖だ。自分を苦しめ、自分を狂気にするのだ。怖い!一人でいることが恐いのだ。
俺はどうして作家の道を志すようなことをしたのだろう。
小さい頃、母は本を読んで聞かせていた。それが快い子守唄になって眠りにつくのであった。童話の世界は俺の夢の世界であった。小学生になると本好きの少年になっていた。作文の時間はどの教科よりもうれしかった。あるとき俺の書いたものが、一番良いと先生がほめてくださったことがあった。俺は先生に褒めてもらいたくて、一生懸命になって作文を書いた。そして俺は作文コンクールで最優賞をとった。その時、全身に快い戦慄が走った。それは天にも昇るような歓喜だった。その時、作家になって有名になるのだと、俺は心に誓ったのだった。
俺は書物を読んだ。思いつきをノートに記した。詩や小説らしいものを書き続けた。そうして、その努力が実って、文学賞の候補の一人に選ばれた。ある批評家が俺の小説を評価してくれたので、俺の名前が文学界で知られるようになった。作品の依頼の声が何件かあった。それまでは大学の同人誌に書いていたが、雑誌社の編集者から声をかけられたことが、俺には涙がでるほどうれしかった。子供の頃の夢の階段の、初めの一段が叶えられたのだからである。文芸誌に載った俺の中編小説は好評であった。その後の数年は創作の執筆に明け暮れた。俺は新人作家として自認していた。
ところが、困ったことが起こった。編集者が自由に書いていいと言っていたが、注文を付けるようになったのだ。ここのところは描写が不十分だ。読者の興味のひくように書いてほしい。いわゆる編集者と作家の見解の相違で不愉快になることがたびたび生じるようになった。初めのうちは編集者の意図を組んで、指摘されるままに書き直した。そのたびに卑屈な思いをした。作家は出版社の奴隷なのかと思うこともあった。そのたびに腹立たしかった。しかし、俺は我慢した。それを拒めば原稿が没になることを恐れたからだ。それが数年と続いて俺は新人作家として認められるようになった。忍耐のかいがあった。もう編集者もあれこれと注文をしなくなった。これからはテーマを決めて、俺なりの文学を築いていくことだ。
俺の作家生活はうまくいっていた。アイデアに枯渇することはなかった。湧水のようにアイデアが浮かんできた。一つの作品を書けば、次の作品のアイデアがすうと頭に浮かんできた。頭は水車のようによく働いた。友達も多くなった。俺は創作の苦労を慰めるようによく飲みに出かけた。いきつけの店はたいてい決まっていた。そこに行けば誰かしら知り合いがいた。そこでの話題は、政治の話はご法度であった。お互いに自分の支持政党のことを言い合って、面白くなく、したがって不毛なものであった。俺は文学の話をするのが好きであった。話題が世間話になると、俺はいつも聞き役に回った。俺は世間との付き合いから離れて生活していた。思うように書けなかったりして生活費に困るようなことがあると、運送会社の小荷物配達のアルバイトをして飢えをしのいでいた。俺はお金を蓄えるということは知らず、お金がはいれば、後先のことを考えず使いつくしてしまうところがあった。だから俺はいつも、金欠病であったし、空腹感を抱えていた。それでも俺は平気であった。空腹が俺の創作欲を駆りたててくれたのだった。
身体は思っていたより丈夫であった。徹夜で仕事をしても、疲れを感ぜず、頭がさえて、元気であった。自分の体はタフだと確信していた。俺は自分を酷使した。それが五、六年ほど続いた。作品集も名のある出版社から出すことができた。それは意外に好評だった。結構な印税も入った。俺の得意な時期が当分続いた。ところが、俺の書いた作品のひとつが、ある作家の作品のある場面とよく似ている事が読者から指摘され、盗作の疑いがあると騒がれた。新聞でも話題になった。確かに俺の頭の中には、その作家の作品のその場面があった。しかし、俺は自分の表現をしたつもりであった。その問題は、盗作には及ばないと決着したものの、その後の俺の創作に大きなダメージを起こすこととなった。
自分の前に大きな厚い壁のようなものができて、創作の進行を妨害している。俺の夢はその壁の向こう側にある。作家としての名声と成功があるのだ。一つのことが駄目なら、もう一つのことがあるさ、と俺は考えない。俺はいったん心に誓ったことを堅く守っていく。それが俺の主義なのだ。俺はプライドの高い男だ。自分の信念と主義を簡単に捨てるわけにはいかない。石のような頑固さが胸の中にある。自分の心からの熱い望みが達成されなかったならば、死をも辞さないと考える男なのだ。全てか、さもなくば、無か。それが俺の信条なのだ。
真剣に生きる。命を賭けて小説を書く。作品は世間に認められなくともいい。俺にはそんな自慰的な考えをする者の心が理解できない。俺の書くものが未来において評価されればいいとは、俺は思わない。俺にとってものを書くということは生きることであり、戦いでもあるのだ。だから、その戦いが自分の中で無くなってしまったならば、俺の人生は意味のないものになってしまう。その時には生を断念しなければならない。つまり、死だ。俺にとって小説を書くことが生きることであり、作家としての名声が俺の全てなのだ。目的のない生活には俺は耐えられない。
私はそこまで読んできて、深い溜息を吐いた。ぼくらの知らない高岡の本音がそこにさらけ出され、しかも、深刻な苦悩がそこに記されていたからである。彼には文学の才能があり、ゆくゆくは作家として成功を勝ち取るであろうと、私は羨望の思いをもって、確信していた。彼には情熱と自信があった。そんな高岡と比べて、ぼくや倉田は文學愛好者にすぎなかった。彼は目立った存在だった。彼の作品が文芸誌に載った時、倉田もぼくも別に驚かなかった。当然なことが起こったまでのことだと思った。彼にはそれだけの実力と力量があったのだ。彼は新人作家として成功していくことをぼくらは疑わなかった。それなのに、彼はどうして作家としての名声にこだわったのだろう。それが私には理解できなかった。彼は焦っていたのだ。彼は芥川賞をとって、自分の名前を天下に知らせたかったのだろうか。彼は作家としての人気を、なによりも欲望していたのだろうか。自分の作品をより良いものに、より完璧に近くまで磨き上げることは、彼は心得ていなかったはずはない。彼は名声に並々ならぬこだわりを持っていたとしても、自分の書くものが立派でなければならないことぐらいは百も承知していたはずだ。彼は自分の作家としての才能と力量を誰よりも信じていた。確かに彼は名誉欲の強い男であるのは私も認める。でもしかし、彼を苦しめ、悩ませていたのはそれだけではないはずだ。彼に襲いかかっていた苦悩とは何だったのだろう。私は考え込んだ。だが、その謎は私には解くことができなかった。私は考えることをやめて、再び彼のノートに目を向けた。
俺に襲いかかっていたノイローゼはだんだんひどくなって、日夜俺を苦しめ、俺は底のない闇の深みに陥っていく。俺は牢獄の囚人のように外部と遮断された部屋の中に、我が身を閉じ込め、何日もそこに閉じこもっている。対面恐怖がひどくって、外に出られない。原稿用紙に向かって、何かを書こうとしてみるのだが、故障を起こした車のように頭が動かない。二、三字書いては立ち往生である。想像の泉がすっかり枯渇しているのだ。とるに足らないことや書くに値しない卑俗なことが、自分を嘲けるように頭の中に浮かんでくる。それが俺を復讐しているのだ。なぜ俺をそんなに苦しめるのだ。俺は気が狂いそうだ。俺の頭の中に蠅が飛ぶ。初め数匹だったものが、数十匹に増え、大群となって、俺の脳みそに食いついているのだ。
不眠が何日も続いている。睡眠薬を飲んでいるのだが眠れないのだ。心身が極限にまで疲労困憊しているにもかかわらず、眠れないということは、一体どういうことだ。神経だけが鋼のように研かされていく。肉体が使い古した雑巾の様にボロボロなっているのに。そんな時、子供の頃に読んだ童話にでてくる命を奪い取ろうとする魔王、つまり死の神が鋭い黒い目で覗く。不気味な奴だ。代物だ。それが近づいてくると、部屋が凍るような寒さに襲われるのだ。全身に戦慄が走る。顔から血が消えて、気を失いそうになる。そんなことが何度も繰り返されているうちに、俺は死神を怖がらなくなった。
それからというもの俺は、来る日も来る日も死のことを考えている。死のことに思いを寄せている自分に気づいて、悪夢から覚めたようにはっとさせられることがある。俺は死と戯れているのだ。俺は死神と追いかけっこをしたり、かくれんぼごっこをししたりしているのだ。その時の俺は異常に空想的である。異常に感傷的になっている。それまで戯れていた死神が突然姿を消してしまう。すると、俺は呆然としてしまう。俺は道に迷って途方に暮れる人のようだ。そんな俺をおかしくなって声を出して大笑いする。そして笑いながらぽろぽろと涙を流して泣いているのだ。
生と死は隣りあわせだ。誰も死から逃げられない。死は生者の影だ。体を持つ者は光のもとでは影をもつ。つまり、影の無いものがないように、死のないものもいない。誰もが死ぬ。それが生者の掟なのだ。死にたくはない、生きたい。それは本能だ。生の叫びだ。俺が生きてきたのはその生の叫びがわが体を揺るがし、力を出していたからではないか。俺だけではない、生きている者は誰でも、その力に動かされているのだ。しかし、それがあまりにも自然なものだから、われわれはそうたやすく気づくことができないのだ。生きる力の損傷によって、生きることが大いなる負担になり、生きることから逃げようとしている、俺には生きる力がみなぎっていた頃がまるで夢のようだ。陸にあげられた鯛がしだいに死に身をさらしていくように、俺自身もそのようにして自分の死を受け入れていくのだろうか。疑いなくそんな予感がする。しかし、そんな時だけでなく、嵐が過ぎ去った後の静かな時もある。そんなとき俺は自分につぶやく。母の胎内に生命が宿る。一つの生命体に生きる力が働く。命が命の機能を始めるのだ。幼少年の俺の命はバラ色にそまっていた。ところがある時、俺は教わったのだ。全ての生き物はみな死ぬものだと教えられた。そして、実際に死んだ人を見たのだ。そのとき、息はしていなかった。顔には血の色がなく、ロウソクのように白かった。目を閉じ、眠っているようであった。子供の目にはそう映った。死ぬとみんなこのようになってしまうのだろうかと、大人の悲しい顔や涙ぐんでいる顔を見ながら思った。死ということはこのようなことなのかと、自分も悲しい気持ちになったことを思い出す。でも、もの心がつくまでは、昆虫を足で踏みつぶして殺した。飼っていた小鳥が、ある日かごの中で横になっているのを見て、ああ、小鳥が死んだ。子供ながら俺は、死の意識を持つようになっていた。しかし、自分も死ぬのかという思いはもたなかった。子供はそんなことを考えたりしないものだ。
俺は間もなく三十歳になる。数年前から精神衰弱気味である。それが段々ひどくなっている。これまで熱く胸の中に燃えていた情熱が、嘘のようになくなっているのだ。俺の胸は、空気を抜かれたタイヤのようになっている。萎縮して、動かない。かつての俺はこんな自分を想像したことがあったろうか。創作をせずにはいられなかった自分。そうしないと、いらいらして落ち着かなかった自分であった。ところが、今はどうなんだ?小説を書かなければならないという、一種の義務感が先に立っている。そして、机に向かうのだが、ペンが一枚と進まないうちに頓挫してしまう。そんな自分を責める。どうしょうもない自分の無力さを自嘲する。そんな時には書くのをあきらめ、よく散歩に出かけて、気分転換を図ったものだった。そして気を取りもどして書き続けたが、今は散歩に出たいという気がさらさら起こらないのだ。書くことが苦しいのだ。書きたいのだが、言葉が出てこない。文章が続かない。書かなければならない。しかし、書けない。そんな自分に嫌悪を覚える。精神が低下していく。俺は酒にはしる。そして、酒におぼれて独りで気炎をあげる。そんな日夜が薄暗い部屋で、何日も続いてぶっ倒れた。救急車で病院に運ばれた。急性のアルコール中毒と、診断された。五日ほど入院した。
「肝臓の機能も悪くなっているので、アルコールは極力控えてください」
退院をする朝、主治医がそう言って、注意をした。
生きる希望が無くなっていた。書こうという意欲はとうに遠ざかっていた。あるとき俺は、真面目な気持ちになって自分の死のことを考えた。課題が二つあった。一つは、何処で、どのように自分を始末するかということだ。もう一つは、死後の自分のことだ。この問題を数日間考え続けた。
ビルの屋上から飛び降りた者もいた。電車に飛び込んだ者もいた。電車の人身事故が多い。電車がストップする。多くの人に迷惑をかけるような投身自殺は避けなければならない。俺は死神にとりつかれている。何処を死ぬ場所にするかとか、どんな死に方をするとか、俺の頭はそのことに取りつかれている。服毒自殺は投身自殺よりいい。人に知られないようにこっそりと死にたいものだ。それが俺の望む死に方だ。部屋ならすぐ見つかるだろう。見つからない場所はやはり富士山麓の
深い樹林の中だろうか。そこでなら見つかる心配は全くないとは言いえないとしても、白骨死体で発見されたとしても、どこのだれかが分からないだろう。そんな死に方もある。しかし、森林での死は、首つりか、毒物を飲んで、息の根を止めなければならない。息の根を止めることは、いざ実行するとなると、なかなか容易なことではない。
俺はいつものように夜遅くまで自殺のことを考えていた。俺は生きることに絶望している。自分は創作すること、それが自分の生きることであった。それができないのなら、自分が死んでいるのと同じではないか。ほかに生きる道があるのではないか、と自問する。小説を書くことが自分の人生の全てだ、と俺は自分に言い聞かせてきた。それは自分の傲慢ではなかろうか。ときどきそう思うことがある。友人はこう言って自分を励ましてくれたものだ。きみは重いスランプに陥っているのだ。そういう時は書くなんて思わずに逃げることだよ。ペンを持ってはいけない。ペンを投げ捨てて、こんな薄暗い部屋なんかに閉じ籠ってなんかにいないで、楽天的な、イタリヤにでも旅に行くのもいい。人生を窮屈に考えるべきではない。文学は生きる喜びを伝えることではないか。時には、人生を楽しむことだよ。きみは人生を捨てているのだ。書くことが、作家にとって生きることだと思っていたとしたら、それは馬鹿げたことだよ。作家をなにか特別な仕事と勘違いしてはいけない。書くことと生きることとは別のことではないか。人は誰でもその人にふさわしいように生きて行くのだ。同じような生き方なんて誰もしていない。だから、きみが人生に絶望しているなんて言ってほしくないのだ。一体どこに絶望があるのだ。自然界に絶望はあるかい。ないだろう。絶望はきみの心の中にだけあるのだ。きみは心の中で絶望と格闘しているのだ。そして、その不毛な戦いにきみ自身が敗れていくのだ。
そんなことで自分の人生を台無しにしてはいけないよ。民衆の生活を見よ。自然界に目を向けよ。そこに繰り広げられていることを虚心になって眺めてみたらどうだ。きみが書こうとしている小説よりも何十倍もの面白いことが、そこで繰り広げられているのだ。友人の一人としてぼくはきみに言わなければならない、そう言ってその友人が俺に言った。きみは人生経験がまだまだ浅い。きみは小説家になるために生まれてきたと、そう自分を思うならば、必ず後悔するだろう。きみは書くことが生きることだというかもしれない。きみがそう思うのはおそらく間違いではないかも知れない。何か大きなことをなすにはそれに命を賭けることだからだ。しかし、成功するかどうかは、そのひとの意志にかかっているのだろうか。それとも、そのひとの天命にかかっているのだろうか。ぼくがきみに伝いたいのは、焦りすぎれば、その天命までもなくしてしまうということなのだ。きみはよくよくそれを考えるべきであるといいたいのだ。きみはまさしく蟻地獄に堕ちてもがき苦しんでいる状態なのだ。
そう友人が俺に忠告してくれた。有難いことだと思った。しかし、俺は彼の忠告を実行することができなかった。それは俺には手遅れであった。俺は落ちていくしか道はなかった。
ある夜、明け方の時刻であった。俺は不思議な夢を見た。俺はどういうことか、世界周航の豪華な客船に乗って旅をしていたのだ。諸国をめぐり、旅客船は帰路に向かって進行していた。俺は甲板に出て、沈みゆく太陽を眺めていた。血のように真っ赤な太陽であった。その太陽が見る間に海に呑みこまれるように消えていった。黒い雲が東の空に群れを作って現われ、しだいに迫ってきていた。海原の遠くのほうで不気味な音がした。急に突風のように強い風が吹き始めて、大波が船体に噛みつくようにぶつかった。俺は何を思ったのか、その荒れ狂う海に向かって飛び込んだのである。俺は大波に藻屑のようにもてあそばれて意識を失っていった。どのくらいの時間が経たのだろう。俺は船室に寝かされていたのだ。ベッドの脇に、小柄な婦人がひざまずいて、泣いているようであった。目が涙にうるみ、青白い皺顔をしていた。見覚えのある人のようだが、誰なのか思い出せなかった。部屋は小さく、その婦人のほかに誰もいない。不気味なほどまわりが静かであった。まるでお墓に寝かされているようであった。どうして俺が、こんな処に寝かされているのか、まったく考えがつかなかった。
その小柄な婦人が顔を上げた。そして、悲哀のにじんだ眼差しで、じっと俺の顔を見つめた。なにか言いたそうである。俺は心の中でその人が誰なのか思い出せずにいた。胸に懐かしさがこみあがってくるのだが、思い出せない。ところが、その婦人が俺の名前を叫んだ。その声ですべてが謎の解けたように分かった。おふくろだったのだ。なぜおふくろが……。心臓が刃物で刺されたような痛みを覚えた。そして目が覚めたのだった。
俺にはおふくろがいたのだ。俺を産み、育ててくれたおふくろがいたのだ。それを俺は忘れていた。余りにも自分のことだけにとらわれていたので、俺は母親を親身に考えてみることはなかった。ところが、母は俺の死の姿に涙を流して悲しんでいたのだ。俺は死んではならない。どんな理由があっても、もう生きるのが不可能だと思われても、死んではならないのだ。夢から覚めた俺は、そう自分に語った。俺は正気を取りもどした。
しかし、その決意は長くは続かなかった。俺は再び欝の状態に陥った。前よりも深く、ひどい欝に襲われた。濃霧の中で迷い込んでしまった者のように、動きが取れず、もがけばもがくほど自分の息の根が失われるようであった。死の重みが俺の存在を脅かすのだ。俺は死から逃げようとする。だが、死は追いかけてくる。死は大きな口を開けて俺の体に噛みつき、飲みこもうとする。恐ろしい。おふくろのことを考えると、頭が混乱する。割れるような頭痛に思考が粉々になって、俺は呆然と闇の空を眺める。涙、涙があふれ出てくる……。
彼のメモの最後は、そのように終わっていた。あとは空白であった。その後彼の身にどんなことが起こったのか、彼がどのようにして苦境を生き続けていたのか、それを知る手掛かりがなかった。
彼は首をつって死んだのでもなかった。高いビルから飛び降りたのでも、鉄道自殺をしたわけでもなかった。彼の死は実に妙なものであった。彼が自分の部屋で死んでいるのが見つけられたのは、ある冬の寒い日のことであった。日本列島が大きな寒波に居すわられて、東北や北陸は例年にない豪雪になり、交通機関が途絶えることが起こっていた。東京も何十年ぶりかの、空気が凍りそうな寒波に襲われた、驚くべき寒波は四日ほど続いた。
彼が部屋の中で死んでいるのが見つかったのはそんな日であった。彼の住んでいたアパートの管理人が最初の発見者であった。警察が来て調べられ、検視の結果彼は、一酸化中毒死と断定された。彼の部屋には錆びついた古い石油ストーブが使われていた。彼は床の中にはいっていた。机の上には書きかけた原稿用紙や大学ノートが数冊重ねられていた。畳の上にはウイースキ―の角瓶やビール瓶などが丸め込まれて捨てられた紙屑などに混じって、転がっていた。彼の死は自殺ともみられたが、また、事故死ではないかとも考えられた。診断書には中毒死と記入された。
梅雨の季節も終わりかけていた、穏やかな夕暮れに、私は久しぶりに散歩に出かけた。家を出ると、間もなく広々とした茶畑の小道に出た。日は傾きかけ、周りにただよう雲を紅に染めていた。蝉の声が聞こえてきた。私は友人の高岡のことを考えていた。特に考えようとしたわけではなかったが、ふと思いが彼のことに軽く向けられたのだった。私自身彼の死が自殺なのか、事故死だとか、もうそんなことは問わなかった。彼は生きた。情熱的に生きた。しかし、死はどんな人も避けることのできない運命だ。人は自分にも、他人にも分からない死に方をするものなのだ。彼は彼の死を死んだのだ。私はそんなことを思いつ、考えつつ歩いていたのだった。
おわり