………やっと会えましたねお母さん。こんなところにいたんですか。もっと早く会いに来れなくてごめんなさい。
ここに来るまでには随分と時間がかかってしまった。どうやって僕がここに来れたのか少し長い話になるけれど一度書いておきたい。
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年上の男の人に対して僕は二つの極端な接し方をする。一つは遠ざける。これは誰にでもありそうで当たり前な態度かもしれない。もう一つは極端に甘える。父親に対する甘えに近い。ただ大垣さんに対してはちょっと違っていた。大垣さんの事は時々遠ざけるけれど時々すごく甘える。自分でもよくわからないのでこの二つを使い分けていた。
大垣さんを僕は嫌いなんではないかと思うことがよくある。話がしつこくて時間がかかる。何度も何度も同じことを言う。頭が悪いんじゃないかと思うけれどもそうでもない。年齢が20歳も上だからしょうがないのかもしれないが偉そうな言い方をする。
―――ええそうですね。
僕はいい子になっていい返事をする。いい返事をすると大垣さんは調子に乗ってもっともっと話し出す。あまりしつこいので怒り出したこともある。そうなると大垣さんは下手に出る。
大垣さんに対して僕はいつもクールだ。お金になるから付き合っているという感じだ。そうでなかったら付き合いたくない。ねちっこくて、昔の女性の話をするときなど卑屈とも思える笑いを浮かべて思い出すように楽しそうに話す。嫌いだ。
本を作りたいというところから話が始まった。でも大垣さんは自分では書けないというので僕に白羽の矢が立った。彼の話を聞いて僕が本を書く。彼の話を聞くのが仕事なのだが話はあまりにあちこちに飛んで大筋がどこだか分からなくなってしまう。でもお金はあるらしく喫茶店で会うときもみんな出してくれる。僕はありがとうございますと言ったりする。
大垣さんの弱点はお酒だ。飲むとすぐ潰れて寝てしまう。何度タクシーで家まで連れ帰ったことだろう。酒を飲むと気が大きくなり分厚い財布を僕に渡して、
―――これで頼むよ。
と全部を僕に任せる。着服はしたことないが、少しぐらいもらっても大垣さんは何も言わないにちがいない。
大垣さんとの付き合いが半年を過ぎた頃突然、
―――若い時に行ったマレーシアに行ってみたいんだ。一緒に行ってくれないか?
と誘いを受けた。
―――僕にだって他にも仕事がありますから。
最初はそう断ったのだが、
―――いいさ、君が暇になるまで待つから。
と言われて結局それから一月半後に2人でマレーシアに出発した。
何もかも忘れた楽しい旅だった。大垣さんは、
―――変わってしまったなあここも。
どこに行っても同じ言葉を繰り返した。ただ一箇所だけ35年前と少しも変わっていない場所があった。
そのアパートはドブ川の前に建っていた。2階建てで2階部分が今にも崩れ落ちそうだった。干し物がしてあるので人が住んでいる。でも人が住める場所とはとても思えなかった。くさい匂いは川の方から来るのかそれとも建物全体から来るのかわからなかった。2階につながる階段は鉄で出来ていたがボロボロだった。階段に足をかけただけですぐ崩れるんではないかと思った。大垣さんはニコニコしながら階段を2階の方へと上がっていく。仕方なく僕もついていく。
―――スラマット・シアン・マリアム!
マレー語で大垣さんがそう言うと中からそれに答える女性の声がした。そして20代の綺麗な女性が部屋から飛び出してきた。二人が抱き合うのを僕はポカンとして見ていた。大垣さんは僕がいることなど忘れてしまったようだ。二人で早口のマレー語で喋り始め、大垣さんはずいぶん若くなったように見えた。
マリアムという名前は大垣さんの昔話の中で何回か出てきた名前だった。大垣さんが30歳ぐらいの時にマレーシアで一緒に暮らしていた女性だ。子供もいるという。子供が2歳になる前まで一緒に暮らしていたけれどその後マレーシアに置いてきたままだと言っていた。
―――35年も前のことなので心にはかかっているけれどもしょうがないさ。
という言い方が僕にはとても無責任に感じられて嫌だった。男特有の無責任さなんだろうか。でも今、目の前で抱き合っている大垣さんを見ていると、そんな無責任さは吹っ飛んでしまって35年間ずっと心の中でマリアムさんのことを思っていたのだと分かった気がした。大垣さんに対するイメージが少し変わった。
大垣さんのことを否定的に見ようとしていたぼくがいた。一緒に旅をして24時間一緒にいてということを繰り返していたおかげで大垣さんをずっと身近に感じられるようになっていた。そのせいもあったと思う、僕の中のそれまでの大垣さんのイメージが変わり、甘えるという態度でもなく、遠ざけるということもなく大垣さんを自分と同じ男として捉えられるようになっていた。これも旅のおかげだった。マレーシアという東南アジアにしては綺麗な国を旅して大垣さんの日常生活の色んな癖に触れて僕は見方を変えた。見方を変えたことでそれから先の旅がとても違ったものになった。親密になり、大垣さんに対する愛というか「同じだなぁ」と言う気持ちが強くなっていった。
マレーシアから帰ると仕事がたくさん溜まっていた。僕が所属している静人舎という出版社から新しい本作りの手伝いの仕事がメールで来ていた。この会社では自分で文章を書けない人の代わりになって本を書く仕事を「ライター案件」と呼んでいた。静人舎は忙しく、僕はいくつものライター案件を掛け持ちしなくてはならなかった。
ただ今度の書きたい人(静人舎では「著者」と呼ぶのだが)はちょっと変わっていて、
―――とても若いんですよ。
と社長が言っていた。若いという言葉をなんとなく濁すように言っていたので、僕はそれ以上追求しないでとにかく著者と会ってみることにした。
初めての打ち合わせ場所もちょっと普通とは変わっていた。喫茶店代がないのだろうか? それともよほど思い出のある場所なのだろうか上野動物園の猿山の前というのが指定された場所だった。社長の事は信頼していたのだが、この最初の打ち合わせ場所から僕は違和感を感じていた。
ともかく行ってみた。
待ち合わせ時間は3時だったのに田代さんというその人はなかなか現れず僕はいい加減猿の行動を見飽きてしまった。
―――あのーすいません。
足元の方から声がした。男の子だった。何か落し物でもして僕に取ってほしいということなんだろうか? そんな目つきに感じられた。それが田代さんだった。まだ小学生で10歳ぐらいだろうか、半ズボンを履いていた。二人でベンチに座って打ち合わせと言うか詳しい話を聞いた。本を書きたいのはこの10歳の子供なのだ。ませているというのか、子供らしくないというのか……。
話を聞いてみて子供というのはこんなにもいろんなことを考えているのかと反省させられた。書きたいのだが書けない田代さんの気持ちというのはこうだった。田代さんの本の初めの方はこんなふうになると思う。
「僕は嫌なんです。とても嫌なんです。父親の気持ちのせいで宙ぶらりんに置かれていることがとても嫌なんです。愛しているとか愛していないとか言うことではないのです。もっと別の、人と人が信じ合うとか認め合うとかそういうレベルのことなんです。私の父親にはあまりにその気持ちが欠けています。無責任としか言いようがありません。僕を放っておいて知らん顔しています。あなたはどう思いますか? こんな人が父親でいることに納得ができるでしょうか? いいえ納得ができる人なんてこの世の中にいるはずはないと思います。僕は正当な権利を要求しているはずです。人としての当然の権利だと思います。それを一方的に無視しようとしている父というのはいったい何なんでしょう」
田代さんはもっと子供らしい言葉で話したのだが僕が文章にするとちょっと硬くなりすぎてしまう。ただ言ってることは少しも違ってはいない。叫びとも言える田代さんの言葉を僕は少し冷静になって固い言葉で翻訳したような気がする。この本の仕事は大垣さんの場合に比べて気が重かった。自分が被害者であると訴えてやまない田代さんを目の前にして僕はただうなずきながら自分の心の中を探り言葉を探り、なかなか見つからず固い言葉で書くと言う仕事をした。この本はあまりページ数が多くはなく150ページぐらいの薄い本になった。田代さんはそれでもなぜかお金があるらしく、静人舎への振込はとても早かったという。社長も変わった仕事を取ってきたものだと思う。
大垣さんの仕事も田代さんの仕事も終わった後僕は少しのんびりした気分になっていた。
―――3ヶ月ぐらい仕事がなくてもいいや。
そんな自堕落な気持ちにもなっていた。電話も取りたくなかった。その電話も取らなければ良かった。いつもはメールで来るのでまさか直接電話がかかってくるとは思わなかった。静人舎の社長の声が電話の向こうから飛び込んできた。かなり焦っていた。
途中まで出来ていた本があったのだが著者とライターが大喧嘩をして宙に浮いてしまった案件があり「今日ボストンに行って欲しい」とひどく上ずった声で半分命令口調だった。電話に出なければうまく断れたのに一方的にまくしたてられて切符も買ってあるというボストン行きの便に間に合うため、僕は慌てて荷物をまとめて成田空港に向かった。
まるでバトンタッチのように成田空港で資料を渡され、パンナム機に乗り、ひとしきり機内の映画を見てからなかなか眠れず退屈なのでやっと資料を引っ張り出して読み始めた。とんでもない話だった。簡単に言うと画商という名の詐欺師の一代記だ。こんなものを出版してしまっていいのだろうかとさえ思える。露悪趣味と言うか、この新庄さんという名の著者は自分の悪行を懺悔したいのか告白したいのかともかくも全部吐き出してから死にたいらしい。もう90を超えている。死を目前にしていると何度も何度も繰り返している。でもそれと本を書くことがどう繋がるかまでは語っていない。だから説得力がなくいったいこの人は何をしたくて画商をし何をしようと生きていたのか全然見えてこない。きっと前のライターとぶつかったのもこの人の生み出すどろっとした嫌な性格のせいだと思う。このまま飛行機が成田に戻ればいいと思った。こんな仕事誰だってやりたくない。僕はこの仕事から抜けることができた前のライターを羨ましく思ったくらいだ。
新庄さんとの待ち合わせはボストン美術館だった。新庄さんがあらかじめ取っておいてくれたホテルはとても豪華で1泊3万円ぐらいするんじゃないかと思った。ベッドの寝心地がよく僕はぐっすり眠った。
奇妙な夢を見た。見知らぬ4人の男達と僕は夢の話をしていた。夢の中で夢の話題をするなんていうのは初めてのことだった。僕も含めて5人の男たちは真剣になって夢のことを話している。彼らにとって夢はとても大事なものなのだ。夢の中の僕にとっても夢は大事なもので、5人の中で一番熱心に夢の話をしていたのは僕かもしれない。目が覚めてからなんだかとても変な感じがした。夢の中の5人が話している夢というのがどうも上手く掴みきれなかった。あまりにイマジネーションな話のような気がして、現実感を感じられなかった。まあ夢なんだから現実感を感じなくて当たり前なんだけれども……。
ともかくも十分睡眠をとった僕はアメリカ東部時間で朝の10時にまだオープンしたばっかりの、人のあまりいないボストン美術館の入り口で新庄さんを待った。
日本人には違いないのだが目深に帽子をかぶって背が高くどう見ても日本人にはありそうもないタイプだった。かといってどう見てもアメリカ人ではない。所属の分からないちょっと気持ち悪い人だった。しかも一言も言葉を喋らず、身振りとか手の動作で意思を伝えてくる。
新庄さんの手に導かれるまま、靴音の響く美術館の中を僕はあちこち引き回された。時々止まって新庄さんは絵を指差し、絵の説明を読めと指で僕に指示をする。どうもそれが本の中で重要な役割をするらしいのだが、絵の世界のことをよく知らない僕にとってはどの作家も馴染みがなく、どの絵を見ても感動も感激もしなかった。
新庄さんは表情も動かさなかったが、絵に反応しない僕の態度をむしろ好感を持って受け取っているような気がした。「素晴らしいですね。いい絵ですね。立派な仕事をなさっていたんですね」などと言わないことがかえって良かったのかもしれない。
日本人の画家のコーナーに入った。日本人の画家になるとますます名前も知らない。部屋の造りまでアメリカ人の考える日本風になっていてちょっと違和感はあるけれども落ち着ける空間だった。
その絵を見た途端涙が溢れてきた。新庄さんが指を指すのを待つまでもなかった。絵の方が僕の目の中に飛び込んできた。母親だった。16歳の母親が絵の中にいた。
芸者をしていた母親は自分の若い時の写真を全部焼いていた。だから10代の母親がどんな姿をしていたのか僕は知らない。でも画家のモデルになったことがあるという話を姉から聞いていたことがある。もうそんなことは忘れていたのだが死んでしまった母親の若い時の姿にこんな外国で会えるとは思ってもみなかった。ここまで案内してくれたはずの新庄さんは側にいなかった。僕がこの部屋に入った途端彼はどこかに消えてしまったかのようだ。この障子のある、日本間を模した美術館の空間はとても居心地がよく、着物姿で座っている母親に僕はゆっくり近づいて行った。温かい気持ちが心の中に溢れ始め、僕はボロボロ泣きながら母に抱かれるためにまっすぐ絵の中に入って行った。
〈了〉