歴程 結
父が歌っていた歌を思い出した。どんな歌かというと、帽子を斜めにかぶり、パパはおどけていた。そのパパはもう死んでしまった、という内容だ。それを、父がベレー帽を斜めにし、ふざけて、変な顔をしながら、歌っていたのを思い出した。父が死んで十年以上になる。まさか、こんなかたちで思い出すとは思ってもみなかった。父とのいやな思い出ばかりをずっと書いてきた。それが、ここに来て急に、歌という形で現われた。正直、びっくりした。
ソニー製の、小さな3号のオープンリールが使えるテープレコーダーを父に買ってもらった。酔っ払うと、父はよく歌い、中学生のぼくはテープレコーダーがおもしろくて父の声を録音した。〽風の中の…、とか、〽ディアボロ、ディアボロ、ディアボロ、とか、浅草オペラを父が歌ったテープがしばらく家にあった。この、「オウ、マイ、パパ」は録音しなかったが、ぼくはテープのタイトルに「パパの歌」と書いた。父のことを「パパ」と呼ぶ気持ちがぼくの中にあった。
してくれなかったことばかりを思い出していたのに、暖かい部屋の空気とともに歌っている父の姿を思い出した。父は、気持ちよさそうに酔っていた。自分が死んだあと、ぼくが、こんなふうに思い出すことなど思ってもいなかったにちがいない。
家に来ている父は楽しい人だった。酒に酔い、歌を歌い、ぼくと将棋を指し、手品を見せてくれた。父親というのはそういうものだ、男というのはそういうものだ、と子供のぼくは思い込んでいた。
風のとても強い日、駒込で打ち合わせがあり、終了後Bさんが付き合ってくれて父の墓参りをした。夜遅く、木々が風で揺らぐ中、暗い墓場で父の墓に水をかけてBさんと手を合わせた。それはいつになく心穏やかな墓参りで、パリ行きの十日ほど前だった。
22歳の時、パリに行けたのも父のおかげだった。母が父に買ってもらったヒスイの帯留めを売ったお金で援助してくれるという間接的なかたちだったが父のおかげだ。冷淡というのはぼくが思春期から永年かけてつくり出してきた父のイメージだ。
artіgというドイツ語があり、よくしつけられた子供に使う。ぼくはartіgで、父が家に来ると呼ばれて二階の温かい部屋で父と向かい合い、遊んだ。母親が「行きなさい」というので眠いけれど階段を上がって行っていた。父が来るのはいつも夜遅かった。父が見せてくれる紐を使った手品も、あまり手品とは思えず、おもしろいとも思えなかった。棒か箸をぼくに持たせ、「しっかり持っててくださいよ」と言いながら掛けた紐をスッとはずす。タネはわからなかったが、ちっともおもしろくなかった。
それでも、父はたまにしか会わないぼくを楽しませようとしてくれてはいた。楽しませようとしてくれてはいたけれど、ぼくは少しもうれしくなく、父と呼ぶこの男の存在がずっと分からず、いまだに分からない。分からないまま父は死に、分からないまま思い出の中に出てくる。しかし、夢に出て来たことは一度もない。
悼むにはよすがが要る。父との間にはよすががなさすぎ、悼む気持ちが起こらない。因果と言い切り、捨て去るしかない。
パリでオペラを観た。オペラの中では「〽風の中の…」が三度も歌われる。ビクトル・ユゴーの『王は愉しむ』が原作だそうだ。父はただ、愉しんで生き、そして死んだ。