ぼくは旅の目的を見つけるために、とりあえずF岬を目指すことにして、二両連結の後ろの車両に乗っている。ほんのわずかな間の浅い眠りから目を開けると、一人の女が向かい合わせの座席の斜め前に座っている。乗客はほとんどいないのに、なぜわざわざそこに座るのだろうか。不思議なのは、ぼくの浅い眠りの間、列車はいちども停車場には止まっていないこと。
彼女はまるでずっとぼくと旅をしてきたかのようにそこにいる。とりとめのない話のしばしの中断のあとのように、おもむろに口を開く。
「そういえば」
彼女はぼくをまっすぐに見つめて、少し口元をゆがめる。聞きたくない言葉が放たれる予兆のように思えて、針先ほどの痛みがぼくの胸を走る。温度の違う空気の層ができたように、車内の空間がかすかにゆがむ。
残照が山の稜線を染めているころに違いない。ぼくは顔をそむけ、細かい水滴に覆われた車窓ごしに、その柔らかい輪郭線を目でたどってみる。
「ずいぶん妙な作品を探していたわね」
彼女は一年と少し前のぼくたちの出会いについて、時間の原点へと記憶をさかのぼろうとしている。
「石神芳人の短編で、『スニーカー』というのが載っている本はありますか」
Y市立図書館の相談カウンターで、ぼくははじめて彼女に声をかけた。奇をてらうために一時代前のスポーツカーで乗り付けるように、ぼくは彼女の気を引くためにわざわざそんな忘れられた作家を探してきたのだ。
彼女が答える前に、ぼくの口は掃除機のモーターみたいに回転しはじめていた。文学辞典から丸呑みにしたその作家についてのうんちくをまくしたてた。彼女はおうようにうなずきながら、ぼくの知識が底をつくのをじっと待っているみたいだった。アホな一人芝居をやっているような気がしてきて、かっと熱くなり、ちょっと息をついた。その瞬間を彼女は見のがさなかった。
「そういえば、この図書館にある『戦後文学傑作短篇全集』に収載されていたと思います。初出の単行本でしたら別の図書館になりますが」
ぼくは顔に熱が昇ってきたことを隠すこともできず、「そ、それ、お願いします」と言った。
彼女が「そういえば」と言ったあの日も――。席を立って地下の閉架書庫に降りていく後ろ姿が、陽炎のように揺らめいたことを覚えている。
床下に駆動モーターがないために、カタンカタンと車輪が線路をたたく音だけが鈍く響いている。かまぼこ型に湾曲した天井には、くもりガラスの器をかぶせた電灯が二灯しかなく、ぼくたちの座席のあたりまではぼんやりした光しか届かない。二列向こうの通路側に、毛糸のキャップをかぶった赤ら顔の老人が冷凍みかんをむこうと悪戦苦闘している。この車両の乗客は三人だけだ。
「そういえば」と彼女が言ったとき、ぼくたちがまるでずっと話し込んでいたかのような口ぶりだけれど、そうではなくて、長い空白が、それは時間的にも空間的にも両方の意味なのだが、「そういえば」のひと言でいきなり中断されたのである。
彼女は、袖口と襟のあたりが垢で目立つほど汚れた白いトレーニングウエアを着ている。肩まで垂れた髪はほつれたままで、長いことブラシはかけられていない。化粧気のない乾いた頬は、窓のすきまからもれる冷気で、いっそう白く透明になっている。なりふり構わない外見とはうらはらに、ぼくを真剣に見つめる目は子どものように澄んでいる。
両手で大事そうに本も持って上がってきた彼女は、貸出するかどうかを尋ね、ぼくがうなずくと、手続きをはじめた。その頭の上に思い切って声をかけた。
「ところで、石神芳人のあの小説、読んだことあります?」
その問いかけが、ぼくたちの運命を決定づけるとは、そのときはまるで思わなかった。彼女は頭を軽く上げてから、まつげを伏せてはにかんだようにうなずいた。ぼくは夢中になってたたみかけた。
「もしよかったら、というか、ぜひぜひのお願いなんだけど、あなたの感想を聞かせてもらえない?」
彼女は何か思案するように、しばらく天井を見上げていた。背中の方で咳ばらいが聞こえた。ぼくは口に人差し指をあてて、答えようとする彼女を制した。振り返ると、うしろに列をつくったやせぎすの中年女性が、せかすようにぼくたちのやりとりをうかがっていた。彼女は恐縮したように、軽く頭を下げた。ぼくが悪いのに、図書館員としての彼女の対応はスマートだ。ぼくは閲覧申込書を一枚取ると、裏に「ミリエルで」と書いた。図書館に一番近いカフェの名だ。
「じゃ、あとで」
と小声で言って、彼女の手に紙を押し付けた。彼女は紙を開くとあきらたように、少し首をかしげた。
ぼくは借りた本を小脇にかかえ、図書館の出口に向かう途中で、「あの、そういえば」という彼女の声が聞こえたような気がして振り返った。でも、すでに何かをまくしたてている中年女性の対応にひきづりこまれて、ぼくに言葉を続けることはもうできなかった。でも、メモはゴミ箱ではなく、デスクのはじに置かれたままだ。
カタンカタンという車輪の音に合せて、頭の上の電灯がかすかに暗くなったり明るくなったりしている。電球のフィラメントがもう切れそうなのかもしれない。
「笑っちゃう、かっこつけて女をひっかけようとしていながら、カフェの定休日も調べていなかったんだから」
一年と少し前のあの日に、彼女が「そういえば」と言って何を言おうとしたのかの答えを、今になって教えてくれる。
そうだ、ぼくはカフェ・ミリエルにたどりついてはじめて、彼女が何を言おうとしたのかわかり、地団駄を踏んだ。でもすぐにうれしくて舞い上がりそうになった。定休日を注意しようとしたんだから、来る気があるってことだよな、と。
列車がどこかの駅で短い停車をしてガタンと大きく車体を揺らせて走りはじめる。天井の電灯はこんどこそ消えそうになったが、次のカタンという音とともに、息を吹き返す。
「そういえば」と彼女が再び口を開くと、ぼくの背中に冷たいしびれが走る。そして、あのときの情景がよみがえる。
真っ暗なカフェ・ミリエルのひさしの下で、彼女はこぬか雨を浴びて、髪とまゆげにしずくをためていた。
ぼくは、その日はもう彼女に会えないものとあきらめて、駅まで買い物に行き、のんびりと帰り道をたどっていたところだった。
「ごめん、まさか――」
「さっきまでひどい降りだったので、たまたまここで雨宿りをして、そろそろ歩けるかなと思ってたところ」
キオスクで買ったビニール傘を差し出すと、ぼくたちは街灯をにぶく反射する国道沿いの歩道を、再び駅の方に向かって歩きはじめた。
駅前の客のいない居酒屋で、熱燗二号どっくりを二人であけたその夜から、ぼくは彼女のアパートで暮らすようになった。
彼女がぼくよりも12歳歳上だということは、さほど驚かなかったけれど、いきなり三人ぐらしの所帯で生活をするというのは、まるで思いもつかなかったことだ。
8時過ぎにアパートに着くと、隣の部屋から人の良さそうなおばさんが、4歳ぐらいの男の子を抱いて現れた。
「ゆうくんは、今日もとてもいい子でしたよ」
「ありがとうございました。いつもお世話をかけて」
「なに言っているのよ、子どもと遊んでいるのが、何よりもボケ防止なんだから」
彼女は帰り道のコンビニで買った菓子パンを差し出した。
「そういえば」
頬の下がさざ波立つようにふるえた。
「ゆうくんは一度もあなたと遊ばなかったよね」
別に子どもが嫌いなわけじゃないない。でも、けしておもちゃを触らせてくれなかったし、絵本も見せてくれなかった。いつも、窓際の隅で、うしろ向きになってカーテンに身を隠すようにして一人で遊んでいた。
ぼくは父親とはどんなものか考えたことなどなかったが、あのとき、一生パパになどなれないと思った。
彼女たちと生活をはじめて一週間ぐらいたつと、ぼくはホテルの洗車係のバイトを辞めた。週に2回だけ、隣のおばさんにゆうを預けたが、そのほかの日は、朝から彼女が帰るまで、ぼくたちは二人きりだった。
どんな風に声をかけてもゆうは答えなかった。振り返りもしないし、にらみつけることもなかった。まるでぼくに対してだけ、聴力も言葉も失っているかのようだった。
こんなていたらくのぼくを、彼女は不快に思う様子をみじんも見せなかった。そればかりか、仕事から帰ってくると、まるでもう一人の子どもを慰めるかのように、優しい目で見つめてくれた。
ぼくはどんなことがあっても彼女を失いたくなかった。彼女が出かけてしまうと、もう二度と帰ってこないのではないかという思いが発作のように起こり、ぼくを苛んだ。一人ではなく、二人で取り残されるのではないかという思いが恐れを倍加させた。
ぼくとゆうの二人だけの時間に、彼女がぼくに課した義務がひとつだけあった。彼女がそうしなさいと言ったわけではなく、いつの間にかぼくが義務だと思い込むようになっただけなのだが。
ライオンハンクの絵が描かれた小さな青いランチボックスに、彼女は毎日昼の食事を詰めた。義務というのは、ゆうにそれを完食させることだった。ところが逆に、日を追うにつれて食べ残す量が増えていった。増えた分だけ、かたずけようとランチボックスのふたをあけたときの彼女の表情が、少しずつ険しくなっていくように見えた。
ある日から、ゆうはランチボックスにまったく手をつけようとしなくなった。昼食どきのぼくの仕事は、ゆうのカップにミルクをつぎ、スプーンとフォークをテーブルに並べるだけだったが、それが食事をうながす合図でもあった。
それを無視することが、ゆうにとって、ぼくに対する何かのメッセージだったのだろう。ぼくと彼女の間を引き裂くたったひとつの戦術でもあると知っている。とぼくはそう思い込んだ。ものを食べないというゆうのとっておきに自傷行為が、ぼくの胸を切り裂く刃にもなった。
憎しみが胸の奥で小さく炎を上げ始めていた。
「おい、食べろよ」
ぼくははじめてゆうの耳元で大声を上げた。
ゆうは目をつむったままじっと動かない。
ぼくは二の腕をちょっと強くたたいた。白い肌がたちまちピンクに染まり、ゆうはしゃくりあげ、やがて声を上げて泣き出した。
ぼくは玄関のドアをたたきつけるように閉めて、表に出た。
小一時間ほど、どこかを歩きまわり、ようやく気が落ち着いてくると、部屋にもどった。
ゆうは何事もなかったかのように、カーテンの影でブロックを組み立てている。テーブルのランチボックスは開けたままで、何も手がつけられていなかった。
まあいいか、とあっさりあきらめて何気なく室内を見回すと、鴨居にかけたハンガーにつるしてある一張羅のブルゾンが目に入った。三ヶ月パチンコをやめて買ったジバンシーの本革のだ。
背中の下の方に、赤いクレヨンで大きなばってんが三つ描いてあった。あの高さまで手をのばすために、わざわざ椅子を運んだに違いない。でも、椅子はもうかたづけてある。その小賢しい周到さに、ぼくの怒りは倍加した。
窓を開けると、狭いベランダがあり、鉄製の手すりにオーナメントが忍び返しのように外側に突き出ている。3階のベランダの真下はコンクリートの駐車場で車は止まっていない。
ぼくは玄関から、ゆうのスニーカーを片方だけをそっと持ってきて、オーナメントの先にひっかけた。ライオンハンクの絵があるゆうの宝物だ。
手すりの前には、わざわざ小さな踏み台を置いた。ゆうが手すりの外へ体をのり出して、少し手をのばすのを助けるために。
また出かけるために玄関のドアを開けると、開けたままの窓から冷たい風が部屋に流れた。カーテンが舞うと、ゆうが顔を上げた。すぐに窓が開いているのに気づくだろう。ぼくはもう振り返らず、ドアを背中で閉めた。
景気のいいファンファーレと鼻にかかったふしのアナウンスが渦巻くホールで、自分の台がまぶしく電光を明滅させるのを眺めていた。銀玉がいっぱいになった箱が二つ、足元に積まれている。なけなしの2000円で、あっという間にこの勝利だ。
ぼくはこんな馬鹿らしい幸運と何を引き換えにしたのだろう。元へと引き帰らせようとする見えない力と、得体のしれない不安にあらがうために、思考を何か麻痺でさせる必要があった。ここにいるのはただそれだけの理由からだ。
店から外へ出ると、街は暮れなずんで、帰途につく人や買い物の女性たちが足早に行き交っていた。少し爽快な気分になって、今日一日は夢を見ないで深い眠りに落ちていただけだ、と思えなくもないような気がした。何もなかったと思いこめるような気がしてきたし、帰る場所もなかった。だから自然に足はアパートへ向かった。
ふだんは人通りの少ないアパートの前の道路に、10数人の人がいくつかのグループになって話し込んでいた。腕を組んで路地の方をときどきのぞき込んでいる人もいた。周囲の住宅の壁には赤い光の点滅が乱反射し、人びとの顔をチカチカ照らしていた。
ぼくはすぐにきびすを返して駅の方へ向かった。走り出したい気持ちを必死で抑えた。さっきせしめた数万円の札をポケットのなかでぎゅっと握りしめた。
ポイントを通過するカタンカタンという車輪の音とともに、電灯は今度こそ消えそうになり、すぐにぱっと明るさをよみがえらせる。
「ぼくがどうしてこの車両に乗っていることがわかったの?」
「そんなこと、だれでもわかるじゃない。居間の仏壇に二つ位牌があったでしょ」
位牌など見たことがない。ロウソクだけが立つ、小さな仏壇は確かにあったけど。
「そのひとつの命日がちょうど今日なのよ」
何を言っているのかさっぱり意味がわからない。
「それにこんどの冬、F岬へ旅行しようと言ってたでしょ」
あれは、旅番組を見ていて、気に入った風景だったから、なんとなく彼女をうれしがらせてみたくなっただけだ。金がないけど、口から出まかせはいくらでも言えた。たぶん彼女はぜんぶ信じてくれた、と思う。
「そういえば」
彼女の目はおうように微笑んでいるが、口元はかすかに痙攣している。下腹のあたりを差し込むような痛みが抜ける。
「帰ってきたら、ゆうのシューズが片方しかなくて、あれどうしたんだろうと思って」
窓のすきまから冷たい風が首筋に吹きつけた。尻の下は電熱暖房で焼けるように熱い。
見つかった? と聞いてみたら、ぼくの立場は変われるかもしれないと、一瞬思いそうになる。でも、口から言葉は出ない。
離れたところで、何かをつぶすようなグチャという音がした。ようやく溶け始めた冷凍みかんを、老人が歯ぐきでつぶしたのだ。恍惚の境にひたっているかのように、目を閉じてあごを動かしている。
「でも、どこにあるか知っているのよ。来てくれる?」
彼女はおもむろに腰を上げ、それとともに車両は、きーという音を立てて、ほとんど急停車するかのように停車場に止まる。
ぼくは彼女の背中から見えない縄で引かれるように、車両を降りた。
停車場にはひとりの駅員もいない。笠のある電球が、ホームにそって三つだけ灯っている。
彼女は光を避けるようにして出口を出ると、停車場から垂直に伸びる一本道をどんどん歩いていく。
空はねばついた泥のような雲に覆われていたが、彼女の背中のあたりはかすかに発光している。足元がほんのり明るいのはそのせいだろう。
歩む道のかなたから、耳鳴りのように潮騒が聞こえてくる。はじめは低い草の原っぱをわたる風にまぎれていたが、やがてはっきりと、どっ、ざーんという、波のとどろきとなって立ち上がってくる。
すえた臭いが鼻の奥にひろがってくる。
彼女は突然立ち止まると、あたりを見回している。そのころには、闇に目がなれて、彼女のシルエットがはっきりとわかるようになっている。
「そういえば」
彼女の顔はまったく見えないが、口元がピクリと動いたことだけはわかる。
岩礁をたたく波の音が、地の底からの叫びのように吹き上げてくる。
彼女はきびすを返すと、ぼくの背後にゆっくりと回る。ぼくは体が動かせず、彼女を目で追うことしかできない。
「間違いない。あのあたりよ」
もはやどんな意志の力も、自分の四肢をコントロールすることができなくなっている。
ぼくは四つん這いになり、彼女が指差す断崖の下をのぞき込んでいる。
握りこぶしぐらいの小さな白い形が、1メートルほど下の黒い岩の上にのっている。手をのばそうとすると、ひじでこすった岩がばらばらとくずれて落ちていく。
なんてもろい岩だ。
ぼくは深い淵に少しずつにじりより、手を伸ばす。
彼女はすさまじい力でぼくの首筋をつかみ、もうひとつの手で背中のベルトを握った。もはや後ろにもどることができなくなったばかりか、少しでも早く指先がそれへ触れられるよう、ぐいぐいと力が込められてくる。
ぼくは目をつぶって観念する。そのとき、ひとつの言葉が浮かんだ。
「ところで、さ」
背後をつかんでいた力が、はっと消える。闇のなかにまばゆい光が満ちてくる。
彼女はぼくが借りた本をパタンと閉じると、放り出すようにテーブルに置いた。店内には煎れたての珈琲のいい匂いが漂っている。
「『戦後文学傑作短編全集』は、内容は羊頭狗肉の、二流の通俗小説ばかりを集めた本よね」
ぼくはじつはそういう小説のマニアックなファンなのだが。
彼女は難しそうな顔をして何かを考え込んでいる。
ぼくは聞いてみる。
「ところでさ、石神芳人はどうしてあの断崖絶壁の場面でぷっつり筆を置いてしまったんだろう。読者に妄想をかきたてさせるための仕掛け? と言ったってなあ」
「そういえば、あの小説が載った初出の単行本がうちにあったわ。それがどうもね、終わり方が違うのよ、全集と。たぶん、結末が気に入らなくて、作者か編集者が、ばっさり切ってしまったのかもしれない」
「それ読んでみたいなあ、すっごく」
彼女は少し思案してから、口元をほころばせた。
「ゆうももうすぐ帰ってくるし、小さいアパートだけどうちで夕食をごちそうしましょ。カレーでもいい?」
天にも昇る気分だが、少しがっかりした。コブ付きか。
「そりゃうれしいですけど、でも、ご主人にご迷惑じゃ?」
彼女はふっと笑う。
「バツイチよ」
途中、コンビニに寄ってワインを買って行こう。子どもが寝たら、石神芳人の結末についてでも語り合いながら、ゆっくりと彼女と飲もう。今日は12月28日だから、彼女もあしたは休みに違いない。
(了)