ビニール傘の花束
今井田 博
雨が降ってきた。傘は持っていない。上からどんどん頭が濡れ、襟足にも雨の粒が落ちてきて、メガネも雫で前が見えない。商店街を外れた暗い道で急に雨が降ってきたので、スーパーなど逃げ込めそうな建物はまわりにない。公園でもあればトイレやあずまやで雨宿りできるのだが、それもない。たしかこの辺にコンビニがあったはずなんだが・・・。
あれ、ここだったよな。コンビニのはずだったのにピザ屋になっている。よりによってピザか。まぁいい。内装も全然変わって、ずいぶん横長の綺麗な店だ。黒と白のインテリア、大きなディスプレイもあり、おしゃれな店に変わっている。でも、今はなんだかんだ言ってるわけにはいかず、とりあえずまずここで雨宿りするしかない。
自動ドアから翔一が入っていくと、奥の方から店員が出てきて「いらっしゃいませ」と迎えた。黒い服を着たまだ若い男の店員だ。身振りにシャンとしたところがなく、遊び半分で仕事をしているといった印象がある。
いやそんなことはどうでもいい。ともかく雨が止むまでここでしばらくいなければならない。椅子とテーブルが並んでいるところを見ると、店の中でピザを食べることもできるらしい。「らしい」というのはなぜかと言うと、椅子とテーブルは並んではいるものの店内にだれも座って食べている人がいないのだ。ちょっと一人で食べにくい雰囲気がある。
入り口に置いてあったチラシを翔一は手に取り、この店で出しているピザに興味があるふりをした。チラシには丸いピザの写真がたくさん並んでいて、ちょっと見ただけではどうやって何を注文したらいいのかよくわからない。財布の中にお札が一枚もないこともあり、目についたポテトフライ・ケチャップ付というのと飲み物を頼むことに翔一は決めた。
「これとジンジャーエールくれます」
「はいかしこまりました。ポテトフライのサイズはいかがいたしましょう?」
「Sで」
「かしこまりました。ポテトフライのSサイズとジンジャエールですね?」
翔一はうなずく。
「三百九十六円になります」
ハンカチで頭から雨の雫が垂れるのを押さえながら、翔一は財布から百円玉、五十円玉、十円玉を出していき、イイヤマくんの手のひらに乗せる。そう、今、相手をしてくれているこの青年の名前は名札からイイヤマという名前だということがわかった。
雑だが素早い動きをしてイイヤマくんは冷蔵ケースからジンジャエールのペットボトルをさっと取り出し、翔一の手に渡す。その一連の動きは風を切るようで、イイヤマくんは自分のその動きをきっと気にいっているのだろうと思わせる。
右手にハンカチ、左手にジンジャエールのペットボトルを持って翔一はちょっとわざと大げさにこれじゃ落ち着かないなという素振りをしてみせる。するとイイヤマくんは近くのテーブルを指して「よろしかったらどうぞ」と言ってくれる。翔一はこれで三百九十六円で雨宿りを堂々とできることになった。
雨さえ降っていなければ家まで十七、八分で帰れる場所だここは。しかし、席についてみると少し明るすぎるには明るすぎるのだが、それなりにこの場所で落ち着いてしまった。一生懸命家に帰っても、もう今はどうせ誰も待っていない。それならしばらくここにいたって何も不都合なことがありはしない。
自分に言い聞かせるようにそう考えると、翔一は少し自分でも客らしく振る舞えるようになった。雨で困っている男を脇に置いておけたというわけだ。と、イイヤマくんが「お待たせしました」と紙のケースに入ったポテトフライをテーブルに置いていく。「あの」と翔一は言いかけて止めた。「?」と振り向いたイイヤマ君の顔が眉間にしわを寄せてきつかったので、わざわざ質問する必要もないようなことを聞くのはやめた。紙のケースを開いてみると中には十数個ぐらいのポテトフライが並んでいる。〈これで税抜き二百円か〉少し心が冷たくなった気がしたが、気持ちを取り直してポテトフライをひとかけら手に取ってみるとずいぶんと熱い。さっきイイヤマくんに尋ねようと思ったのは、紙ナプキンは置いてないのだろうかということだったのだが、テーブルに置いてないのだからこの店は紙ナプキンを置かない方針なのだろう、と理解することで質問を止めた。
ひと切れ持ってはみたものの、熱すぎて食べれないポテトフライを紙ケースに戻すと、翔一はプシュっとジンジャエールのペットボトルの口を開ける。開けてひと口飲んだところで、翔一は昨夜の夢を思い出した。
怖い夢だった。
夢の中で玄関ベルが鳴ったかどうかはわからない。子供の頃住んでいた家の玄関にいる。時間は深夜で外は真っ暗だ。玄関の木のドアを開けると五歳ぐらいの男の子が外に立っている。男の子は何も言わないのだが、黙ったまま、入りそうな身振りをするので慌ててドアを閉める。閉めてすぐ〈かわいそう〉という気持ちが湧いてくるのだが、その感情とは裏腹に家の中に入って玄関キーを探す。キーは三つすぐ見つかるのだが、ただ今度は、玄関の照明を点けようとスイッチをいくら切り替えてもどこも点灯せず、暗い中、鍵の一つ、手で握る部分がエンゼルフィッシュの形に造形されている鍵でドアに内側から鍵を掛けようとするのだがもう一度〈かわいそう〉という気持ちが湧いてきて細くドアを開けてみると、真っ暗い中に男の子はまだ立っていて、顔はまったく見分けられない。すると、男の子はズンと大きくなりググッと家の中に入って来る。
夢から覚めて、背中のあたりがゾクっとした。見てはいけない怖いものを見た印象が残った。夢に出てきたのは昔住んでいた浜町の家だが、怖いものが来ると言う印象は、今住んでいる葛飾のアパート、今まで家族四人で暮らしていたところが急に一人住まいになってしまってがらんとしているその部屋の印象が重なっているのだと思う。
イイヤマくんがこちらの方をチラッと見たような気がした。もう秋も終わりに近いせいか、ポテトフライは短時間で冷たくなり、食べると喉にもそもそと絡みつくのでジンジャーエールで流し込む。雨はまだ降っている。量が少ないSサイズのポテトフライはすぐ食べ切ってしまい、中身の割には大きい紙ケースだけ残る。もう食べ終わってしまったポテトフライの紙ケースだけでは、この席に座っている権利もあるのかないのか。あまり堂々といつまでも座っていられない気がしてくる。
「この店は何時までですか?」
翔一はわざわざ質問しなくてもいいそんな質問を投げかける。カウンターには相変わらずイイヤマくんしかいないので彼に話しかけた形になる。
「夜の十二時までですけどその時に出ていただかないといけないのでそうですね十一時半ぐらいまでにご注文いただけないと困るかもしれません」
イイヤマくんはちょっとよけいなことまで答えてくれる。この店はオープンしたばかりなせいか、イイヤマくんの喋り方はきちんと上の人からマニュアルとして教わった言い方ではなく、自分で考えながら話している。それが好感を持てて微笑ましいのと同時に、やっぱりこの子は遊び半分なのかなという頼りない気持ちにもつながってしまう。
雨はまだ止まない。翔一のアパートの下の階の住人は四十代のひとり暮らしでTという姓だ。今の時間、アパートに帰るとTのいびきを聞くハメになる。いびきは激しくいつまでも止まない。苛立ちながら我慢して眠れないでいるより、ここでぼんやりしていたほうがよほどいい。図々しく構えられれば十二時まではいられる。十二時になればこっちも眠くなるのでTのいびきより眠気のほうが勝つ。十二時までに雨が止んでくれるといい。いや、待てよ。眠ってまた怖い夢を見たらどうしよう。現実から逃げ出すことはできても、夢から逃げることはできない。夢が怖いなんて!
いつの間にか翔一はテーブルで眠ってしまった。さいわい夢は見なかった。目が覚めてみると、右手近くのテーブルの端に見慣れないビニール傘がぶる下がっている。なんだこれは?
「どうしたのこれ?」
翔一は、妻や子供たちと一緒に住んでいた時のような大きな声を上げた。久しぶりだった。一瞬、ここがどこだかわからなくなったこともあったが、実は半分わかっていて、それでも大きな声を出そうと思った翔一がいた。カウンターの向こうにはだれもいなかった。ピザを作る赤いエプロンをつけた店員も、接客をしてくれる黒い制服の店員もいなかった。それでも、翔一の声が大きかったからだろう、奥の方からイイヤマくんとは別の男の子が出てきた。翔一はその出てきた店員に今度は普通の大きさの声で尋ねた。
「どうしたのこれ?」
「これ」が何か分かりやすいようにビニール傘を持ち上げて見せる。
「さぁ?」
「さぁって、さっきはなかったんだ」
「お客さんがお持ちになったんじゃないんですか?」
「いや持ってきてない」
「そう言われても私たちにはわかりません」
「・・・さっき接客してくれた子は?」
「シフトが終わったんで帰りました」
「そうなんだ」
翔一は手に持ったビニール傘を見つめた。しばらく理解できなかったが、あーそうかと自分なりに納得し、イイヤマくんの顔を思い浮かべた。きっと彼が置いていってくれたのだ。翔一には珍しく、心が温かくなるのを感じた。同時に、人は見かけによらないという言葉も浮かんだ。
翔一のアパートの玄関には、あの夜からビニール傘が立てかけたままになっている。返しに行こう、返しに行こうと思ってはいるのだが、ピザ屋と言うこともあってなかなか足が向かない。妻が子供を連れて出て行ってから、仕事にも行く気がしなくなり、家に閉じこもってせいぜい近所を歩きまわるぐらいしかしていない。それなのにだ。それなのになんで給湯器が壊れるんだ。たしかに二十年ぐらい使っているが、今このタイミングで壊れなくてもいいじゃないか。貯金を崩してやりくりしている翔一にとって、給湯器に二十万も出して買い換えることは今はとてもできない。
弱々しく風呂の蓋を叩き、翔一は自分の感情をぶつける。こんな自分が、自分から見ても嫌だ。嫌いだ。しかし、三日間も風呂に入っていないと体が痒くなってくる。仕方がないので銭湯に行くしかない。でも、人前で裸になるのは嫌だ。子供の時は銭湯に行ったこともあるがその時も恥ずかしかった。温泉も嫌いで、三十九歳になる今まで、妻以外に裸を見せたことなどないのに、今さら銭湯などに行けるわけがない。しかし、そうも言っていられない。
さくら湯の前を何度も往き来した。午後二時から始まるのを待っている。まだだれも中に入って行ってはいない。男湯も女湯も空のはずだ。今だ。今入ればだれにも見られない。
翔一は、突撃するようにまわりを見ず、下を向いたまま男湯ののれんをくぐった。どこでどう靴を脱いだかよく覚えていない。引き戸を開けるとしわがれた声で「まだですよ」と上の番台から声がかかる。下を向いたままなのでおじいさんかおばあさんかよくわからない。翔一はずっと握り締めていた四百六十円を番台に置き、たぶんおばあさんだろう番台の人に見られないように服を脱ぐにはどこがいいか、脱衣場全体に目をやる。上からは「まだ早いって言ってンのよッ!」と文句の声が聞こえてくるが、構うものか。翔一は番台から死角となる場所で手際よく裸になり、胸からバスタオルを巻いて洗い場へと行き、ふーッ、やっとガラス戸を閉める。洗い場はすでに湯気でおおわれていて前がよく見えず、翔一は湯船に直行して手おけで軽く股間を流してから湯に漬かる。外したバスタオルは濡れるのを承知のうえで洗い場の仕切りタイルの上に置いた。久しぶりの入浴は気持ちよく、一人で独占している解放感も手伝って、湯船に漬かると自分でも意外なことに、スピッツの歌った「わが心のマリア」が口をついて出た。
しばらく目をつぶって歌っていたので、その人がいるのにしばらく気づかなかった。気づいた時はもう遅く、湯船から出られなかった。湯気ごしに見たかぎりではその人は六十歳ぐらいで背が低く、両肩から背中にかけて美事な入れ墨がしてある。でも、営業時間前なのに、なんで入っている?
気のせいか、その人もこちらをチラチラ見ている気がする。ぎょろりとした目でもって、湯から顔だけ出して入っている翔一のことを〈なんだこいつ〉という目でにらんでいる気がする。入れ墨の人ににらまれると少し怖い。
「おい」
その声に翔一は飛び上がりそうになった。そして小さな声で、
「はい」
と答えた。何か答えないではいられない、そんな迫力のある「おい」だった。
「でぇじょぶか?」
「はい・・・」
「男湯だ、ここは」
「はい?」
「わかってんのか?」
「はい」
「のぼせるぞ」
「はい・・・」
もう充分、翔一はのぼせていた。
「知らねぇぞ」
「・・・」
「見ないでてやるからそのあい間に向こ行きな」
「向こう・・・?」
「真っ赤だぞ、顔」
その人の言う通りだった。翔一は耳まで真っ赤になり、足に力が入らなくなっていた。
「まずいぞ、おい」
その声までかろうじて聞き取ったのだが、それから後のことを翔一はまったく覚えていなかった。覚えているのはそれからどのくらい時間が経ったかわからないが、脱衣場の床の上に敷いた自分のバスタオルの上で裸で上向きに横にされている自分の姿だった。誰にも見せたくない自分の大きな乳房が脱衣場の鏡に堂々と写り、その裸の上で三つの顔が心配そうに覗き込んでいた。男が二人、女が一人。みんな結構年寄りだ。
「気がついた、気がついた」
「弁さんが女だって言いやがるから見に来りゃ、何だ、男じゃねぇか」
「この乳見りゃ女と思うわさ」
「婆さん、もう番台無理なんじゃねぇか?」
「関係ないだろ。気がついてよかったョ」
「危うく救急車さわぎだ」
三人がいちどきに勝手にしゃべるものだから、まるで鉄砲玉が飛びかってる戦場みたいだ。寝てなんかいられない。翔一はあわてて半身を起こした。「弁さん」と呼ばれている、オープン前から風呂に入っていた男が翔一の顔の前に自分の顔を持ってきて尋いた。
「見ねぇ顔だが近所かい?」
「はい」
どうもこの弁さんに何か言われると、翔一はまるで蛇に睨まれた蛙のように、素直な答えをしてしまう。実際、さくら湯はアパートから五分ぐらいの近くにあり、勤めていたこの間までは毎朝毎晩前を通っていたが、自分とは縁のないものだとずっと思い込んでいた。それがこんなことになろうとは・・・。
翔一は立ち上がろうとしたが足がふらついてうまく立てない。
「無理ってもんだ」
「湯あたりを甘く見ちゃいけないよ」
おばあさんはきっと番台から何度も湯あたりを起こした人を見てきたのだろう。
「弁さん、お前さんのせいだ。送ってってやんな」
「なんで俺が?」
「おめぇさんがおそろしくて、このご仁は湯船から出られなかったんだ」
「そんなバカな」
「おい、そうだろ?」
「えっ」
急に自分が答えなくてはならなくなって、翔一はドギマギした。三人の中では一番若いこの最後の男性は、さくら湯のボイラー兼掃除夫兼雑用係の武沢さん五十九歳だということが後になってわかった。武沢さんは威張っているような喋り方をするけれど、とてもいい人だということも後でわかった。
「送ってってやんなよ」
「冗談じゃねえ、なんで俺が」
「一人じゃ心配さね」
二人から言われて弁さんはどうにも後に引けなくなったようだ。ブツブツ口の中で文句を言っている弁さんに二人のダメ押しの言葉が突き刺さる。
「もったいぶって、どうせ暇なのによ」
「ほんとは優しいくせに」
「女だと思ったなんて八十近くなってまだそんなこと言うか?」
「ハハハ。あたしだって女だよ」
翔一は弁さんに体を預けて、洋服を着せてもらった。その間中、弁さんは口の中でブツブツ言いっぱなしだった。二人の言葉に文句を言いたいのだが、言い方はキツイが言っている内容はまったくその通り、ドンピシャリなので声に出して反論することもできない。いきおい、口の中でブツブツ言うしかできず、でも持ち前の優しさから手だけは動かして翔一の身支度をしてやる。
二人になって外に出ると、弁さんは「歩けるだろ一人で」と言ってさっさと数歩先を歩き始める。翔一はまだフラフラするので、ヨタヨタと弁さんの後ろから付いていく。弁さんは時々振り向いて「こっちでいいのか」と尋ねてはまた歩き始める。
アパートが見えはじめてきた。もう少しで着く。階段のところに人影が見える。Tがまたタバコを吸っている。一人暮らしなのに、自分の家の中でタバコを吸おうとしない。外に出て喫い、吸い殻を道路にまき散らす。何度も注意をしたがやめようとしない。今日はしかし、Tに小言を言う気力もない。黙って階段を上って二階の部屋へ行こう。
「あのアパートか?」
弁さんが突然素頓狂な声を上げた。
「はい」
「よく知ってる」
「はい・・・?」
「や、や」
「どうかしましたか?」
「あいつぁ・・・」
「えっ?」
「ちげぇねぇ、田島だ」
「えっ、知り合い?」
「おい、田島ぁ」
そう、Tは田島という。二人が知り合いというのに翔一はちょっと驚いた。T、いや田島も驚いたらしく、喫いかけていたタバコを一旦落としそうにしながらかろうじて受け止め、そのタバコで代わる代わる翔一と弁さんを指して驚きを表現していた。
「弁天先生、と・・・杉山さん。知り合い?」
本当に驚いたようで、田島はいつまでも二人を見比べている。
「ちょっとな」
弁さんが答える。
翔一は翔一で、弁さんが一体何の先生なのか、田島くんは弁さんに何を教えてもらっているのか、皆目見当がつかなかった。それより今は、二階への階段を上ることが難問だった。ここまではかろうじて足を引きずって来れたが、階段となると無理かもしれない。そんな翔一の気持ちを察したのか、弁さんは田島くんに、
「おい、手伝え」
とはっきりした命令口調であごしゃくる。田島くんは急いでタバコを足でもみ消し、弁さんと二人で翔一を狭む体勢をとった。まさかいびきの主に世話になろうとは・・・。
散らかっている。わずか一ヵ月足らずでこの有様だ。香(かおり)の存在がいかに大きかったか思い知らされる。誰にも家の中に入ってほしくなかった。とくに階下の住人、田島くんには知られたくなかった。ただ、このミスターいびきくん、思ったより礼儀正しい。「お邪魔します」と言ってから玄関を入って来た。一方の弁さんは「入るぞ」だった。これはこれでいかにも弁さんらしい。
言葉で案内して寝室まで運んでもらった。まだベッドが二つ並んでいる。香のベッドは出て行ったときそのままでいじってない。そのままにしておけば香が帰ってくると思ってるわけではない。ただめんどくさいからそのままにしてある。
「余計なことだが片したほうがいい」
「はい」
「ゴミ屋敷だこれじゃ」
「はい・・・」
「はいはいって、ほんとにわかってるのか?」
「はい。わかってます」
片づけたくない。何もしたくない。何もできない。気力が起こらない。食べること以外何もしたくない。何もする気にならない。しようと思わない。かといって、死にたいとも思わない。思わない証拠に食べる。少しだけ、歩く。買い物には行く。働く気にもならない。最初は香のせいだと怒りをすべて妻にぶつけていた。その時期は過ぎた。もう、だれのせいでもない。自分の問題だ。わかっている。わかっているけどどうしようもない。変える気にならない。なれない。
「帰るぞ」
「はい」
「また来てもいいか?」
「・・・はい」
「じゃ」
最後のひと言は田島くんだった。この日から、田島くんも交えて弁天さんとのつき合いが始まった。
弁さんがときどき家に来るようになり、来るたびに少しずつ部屋を片づけてくれ、さりげなく説教もし、田島くんもいっしょに酒を飲んだりして、いろんなことを教えてもらった。呼び方は「弁さん」のままだったが、確かに弁さんは弁天先生だった。
なぜ「弁天」と呼ばれているかはすぐにわかった。穏やかな微笑みを浮かべた背中の弁天様の彫り物からそう呼ばれるようになった。なんでも、もう亡くなった名人の彫り物師に十代のころ彫ってもらった傑作だそうだ。さくら湯にオープン前から入れてもらうのもこの入れ墨のため。内緒で、ほかのお客さんに迷惑のかからないオープン前の時間に特別に入れてもらっている。
最初は恥ずかしかったが、相変わらず給湯器は壊れたままなので、さくら湯には週に二、三回は行く。番台のおばあさんとも、ボイラーマンの武沢さんともよく話した。みんなと話をしてみると、今までただ寝に帰っていただけで何も知らなかったこの町のことがだんだん見えるようになってきた。お花茶屋の名前の由来もそうだが、住んでいる人たちの気持ちが優しい。お腹が痛くなって苦しんでいた江戸時代の将軍・吉宗を優しく介抱した「お花」の気持ちそのままに、人に優しくする。伝統と言うと何か違うような気がする。伝統などというカチッっとしたものではなく、もっと柔らかい、人の中に綿々と伝わってきたもの、「気持ち」としか表現できない、目には見えないふんわりした雲、のようなもの、それが、軽やかな江戸弁に乗って飛び回る。まるで、花に寄り添う蝶のようだ。舞い飛び、花から花へ。軽やかに。そう言えば、弁さんの背中の弁天さんも、まわりで蝶が舞い、花が咲き誇っているではないか。
ある時、田島くんのいない二人だけの時、弁さんがこんなことを言い出した。
「ずっと前から玄関に置いてあるあの傘」
「ビニール傘ですか?」
「あれ、捨てていいかい」
「あー、あれはピザ屋のです」
「だっておめぇ、ピザきれぇじゃねぇか」
「嫌いです」
「嘘つけ」
「何が嘘です?」
「だっておめぇ、ピザの嫌いなおめぇがなんでピザ屋の傘持ってるんだ。おかしいじゃないか」
「嘘じゃないです」
「嘘でぇ」
こういうとき、弁さんは子どもみたいな、ガキ大将の子どもみたいな顔をする。片一方の唇の端が持ち上がって斜めになり、「譲るもんか」という顔になる。この顔になるともう何を言ってもだめだ。
「ンなわけねぇ」
「ずいぶん断言しますね」
「あったりめぇよッ!」
次に続く言葉は予想できた。
「返して来い」
「弁さん、代わりに返してきてくれませんか?」
「冗談言うなの、サルノコシカケ」
「はっ?」
「自分でけぇすンだ」
「ピザ屋苦手なの知ってるじゃないですか」
「おめぇはピザもピザ屋も嫌いじゃない」
「嫌いです」
「ンなわけねぇ」
「嫌いだって僕が言ってるんですから嫌いなんですよ」
「変な理屈言うンじゃねぇ」
「理屈じゃありませんたら」
弁さんに言わせると翔一がピザ屋が嫌いなのはトラウマだと言う。「トラウマ」という言葉は翔一が弁さんに教えた。弁さんは「虎馬」という字を当てて覚えてくれた。この言葉を気にいってくれ、こんなふうにしてときどき使う。
「翔一ョ、おめぇがピザ嫌いなのは、そりゃぁ虎万だ」
・・・ま、言いたいことはわかる。
弁さんとは、傘を返す返さない以外では仲が良かった。ただ、傘の話になるとどちらも譲らなかった。
ある時、いつものようにゴミを掃除しようとしていて、弁さんはピザ屋のチラシを見つけた。あの雨の夜、もらったままになっていたチラシだった。「おっとあぶねぇ」ゴミ袋にチラシを捨てそうになって弁さんは捨てかけたチラシをもう一度ゴミ袋から取り出してていねいにシワを伸ばし、メガネをかけ、あぐらをかいてじっくりと読みはじめた。思いっきりいたずらっ子の表情をしていた。
「おい」
始まった。
「これ、どうやって頼むンだ?」
「頼みませんよ、ピザなんて」
「食ったことねぇんだ」
「はぁ」
「冥土の土産に食っておきたい」
「また、そんな」
「頼み方、教えろ」
「いやですよ」
そう言って弁さんを見たとき、弁さんはもう自分のガラケーを手に持っていてピザ屋に電話をかけていた。やめさせようと翔一は弁さんからガラケーを取り上げようとしたが、歳の割に身の軽い弁さんにはかなわない。注文のシステムをよく理解していない弁さんは翔一をよけながら、それでも何とかピザを注文してみせた。敵ながらあっぱれ。たいしたもんだ。
ほぼ指定した時間通りに、大きなボール紙の変形八角形の箱に入ってピザは届けられた。玄関チャイムが鳴ってはじめ弁さんが応対していたが、どうもらちがあかないらしい。仕方がないので翔一が出て行ってみると届けてくれたのはイイヤマくんだった。イイヤマくんの顔を見て、翔一は満面の笑顔になった。
「ちょうどよかった。これ持っていってくれる。助かりました。ありがとう」
そう言って長いこと玄関に置いたままでほこりをかぶったビニール傘をやっとイイヤマくんに返せる。もう一度「ありがとう」と言って両手でイイヤマくんに渡そうとすると、
「えっ?」
とイイヤマくんは冷たい返事をした。
「ほら、この前雨の日貸してくれたでしょ」
「雨の日?」
「覚えてない?」
「全然」
「僕が寝ている間、テーブルに置いておいてくれた」
「覚えてないってか、そんなことしてませんよ俺」
「じゃ誰が?」
「知りませんよ。それより代金お願いします。うちは代引ですから」
結局、翔一は三千七百三十九円を払い、傘はそのまま誰のものだかわからないまま残った。後でチラシをじっくり読んでみたら、注文の時チラシに書いてあったクーポン番号を言えば二千六百円ぐらいで済んだものを、クーポン番号を言わなかったものだからずいぶんと高くついてしまった。どうやら、ピザを食べたことがないというのは弁さんの勘違いで、「前食ったのよりうまい」とご機嫌だった。
「傘の話だけど」
「はい」
「雨の日がどうのとか言ってたな」
「ええ。雨の日に、寝ている間に、誰かが置いていってくれたんです」
「どこで?」
「・・・ピザ屋で」
「きれぇなんだろ」
「嫌いです」
「ふーん」
弁さんは少し馬鹿にしたように翔一を見て続けた。
「さがさにゃなんねぇ」
「えっ?」
「他人様かどうかわからねぇが、なかなかそんなこたぁしてくれるもんじゃない」
「探すったって・・・」
「簡単じゃねぇよ」
「ですよねー」
「だがよ、どう転んでもここら辺の近所だ」
「は〜」
「そいつぁ是が非でもさがさにゃならねぇ」
「そうですかね」
弁さんはもうすでに腰が浮いている。翔一はまだ半信半疑だったが、もう完全に弁さんのペースに載せられていた。
手はじめはやっぱりさくら湯だった。
「ビニール傘なんて世の中にごまんとあるよ。探すなんて無理な相談だ」
いかにも武沢さんが言いそうなことだった。
「そんな物好きゃ知らねぇよ。あたしゃ五十年番台に座ってるが、来るやつ来るやつ、みんなごうつく張りサね」
ごもっとも。
田島くんにも聞いてみたが、あまりらちがあかなかった。
やはり頼りになるのは弁さんの人脈と熱意だった。商店街を歩きながら会う人会う人に透明なビニール傘を見せてはあきらめないエネルギーで同じ質問を繰り返す。
「この持ち主知らねぇか?」
「でぇじな恩人なんだ」
どの人もどの人も首を横に振り、それでも弁さんはあきらめないで続ける。まるでそうすることが巡礼のような、愚直な修行でもあるかのような、そんな勢いだった。こうして続けていれば、必ずいつか、目指す仏様か神様に出会える。そう信じきっているかのような弁さんだ。弁さんの瞳は、その目的のために透明に、限りなく透明に輝いている。
狭い町だからかもしれない。それとも人の心と心は、こうした巡礼のような求める気持ちによって結びついていくのかもしれない。翔一にはとても信じられないことだったが、ある日曜日のこと、親子連れが訪ねてきた。お母さんと男の子だ。男の子は隼斗くんという名前で、五歳だと言う。こんな長い話をしてくれた。
「お父さん」と、隼斗くんは翔一のことをそう呼んだ。それは隼斗くんにお父さんがいなかったこともあるだろうが、何よりも、翔一の下の娘と同じクラスだったので、「玲華ちゃんのお父さん」と言う意味で親しみを込めて「お父さん」と呼んでくれたのだ。どうも、話を聞くと隼斗くんは玲華のことが好きだったに違いない。玲華が隼斗くんのことを好きだったかどうかはわからないが、ひとりでぽつんと遊んでいる隼斗くんに玲華はよく声をかけてあげていたらしい。
急に引っ越しが決まった時も、隼斗くんに気持ちを打ち明けたという。
「私お父さんのことが好きなの。でも別れなくちゃいけないんですって。とっても悲しいわ」
そんな話を聞いて、隼斗くんは玲華と一緒に泣いてくれた。隼斗くんは、翔一の顔を授業参観や運動会などの行事で見知っていた。翔一が学校に来るたびに玲華が「あれがお父さん」と隼斗くんに教えていたのだ。「お父さん」と言う響きが、玲華の口から出るたびに、隼斗くんは羨ましさと一緒に暖かさを心の中にともしていた。
あの雨の日、隼斗くんにとってそんな大事な「お父さん」が、一人で、泣いているようにピザ屋の小さなテーブルにつっぷして寝ているのを見た。まるでが濡れた雑巾のようにくちゃくちゃで、ペちゃんと潰れていた。隼斗くんはお母さんと一緒だったので、お母さんの傘と自分の傘とを持っていた。「何するの?」と言うお母さんの止めるのも聞かず、隼斗くんはピザ屋に入って自分の傘を「お父さん」の手元に置いてまた出てきた。
話を全部聞いて、翔一はただひと言「そうですか」とだけ言ってビニール傘を隼斗くんに返した。そして翔一は香に宛てて長い手紙を書き、その中に玲華への手紙も同封した。香に対しては、ピザのことで大喧嘩したことを詫びた。封をする前にチラッと弁さんに読んでもらおうかとも思ったが、やめにした。これはすべて、自分のことなのだ。
その晩、また夢を見た。以前見た夢の繰り返しのような夢だった。玄関のドアを開けて男の子が入ってくる。そこまでは全く同じだった。ただ一つ、以前見た夢と異なっていたところは、男の子の手に、ビニール傘が抱きかかえられていた。まるで花束のように、ビニール傘を抱きかかえて、夢の中の男の子は、家の中に入ってきた。もう怖くはなかった。だって、五歳の男の子は自分自身だということが翔一はよくわかったから。