初夏 じいじはよっぱらい
バス通りの歩道に等間隔に植えられた街路樹の緑が白く眩き、たっぷりとゆれる。
十五分ほど歩いてそのパン屋に着いた。
首筋から噴き出した汗がシャツを濡らしたが、幸いに時折強く吹き抜ける風が生地をふくらませ、肌にまとわりつく不快なベタつきを解放した。
心地のいい暑さを久しぶりに味わっていた。
住宅が並ぶバス通りの途中に、突然中世のヨーロッパを思わせる木でできた片開きの扉が現れる。飾り文字で「Petite taille」と書かれた鉄のプレートを見過ごすとそこが店舗であることに誰も気づかないだろう。その扉を引くと五坪にみたない売り場が現れる。天井が高いため実際よりも広く感じるその空間に焼きたての小麦のこうばしい匂いがいっぱいにふくらむ。壁にしつらえた木の棚やテーブルに美しく並べられている様々な種類のパンが、どこか懐かしく感じるのは、その様子がシャルダンの描いた一八世紀フランスの庶民の食卓を描いた油彩画の空間を思わせるものだったせいかもしれない。
しっかりとした小麦の風味が味わえるバゲットやクロワッサン、素材の良さを生かした餡やドライフルーツをふんだんに使った様々な創作パンの誠実な仕事ぶりの評判はすこぶるよく、いつの間にか近隣の住人にはもちろん、遠方の都市の人たちにも広く知られ、訪れる人は途切れることがない。店からあふれ出た人たちは住宅街にあるその店の隣、いや、三軒先の家の前にまで列をつくっていた。
幸いにもその列がその店の目印になっていた。
勇吉は歩を進めて列の最後尾に立つ。
なんとも迷惑なことだろうと、そのパン屋の近隣の住人に心を寄せてもしかたのないことだった。年配の女性たちと子どもが放つ笑い声や泣き声が列の長さと比例して大きくなる。
若い人たちは、手にもったスマホでめいめいに時間をつぶしていた。
列は後ろにのびながら勇吉を前に押しやった。
「どれでもええやろう」
車道を通り過ぎる自動車の音よりもさらに大きな声が列の前のほうから上に響いた。
ちょっとしゃがれた年配の女性の声。
「いや、でも食パンとカレーパンははずせないし」
中年の男性が柔らかな声で抵抗している。
「ぱっぱと、買うたらええんよ。だいたい、いつも食べきれんで、近所のおっさんにわけとるやろ。わかっとるんや」
「でも、試してみないとわからないだろう。ここの美味しさが」
「パンなんてなんでも同じやろ。だいたいなんでこんな高いパン買うんや、コンビニで百円やで、こんなもん」
「だって、君も旨いって食べているじゃないか」
「うちは、おなかにはいればええんよ」
「でも……」
「でもも、へったくれもあらへんで。なんやこの列、しょうもない」
「それだけの価値はあると思うんだけど……」
「ホンマ、たかがパンでなんちゅうことや」
「でも、旨いパンははずせないよ」
と弱ったように男の声が小さくなる。
「だいたい、……」
と女性がさらに難癖をつけようとしたときだった。
「おいしいよね。ここのパン。ママっ」
二人の様子を後ろで上目遣いにみていた小さな男の子が母親にむかって言った。
一瞬列の空気が止まった。
「まあ、ええがな……」
その子の声にバツが悪くなったように、女性は吐き捨てて声をつぐんだ。
それにしても今日のお客は粘っている人が多いみたいだ。列の動きが鈍い。苛立つのもしかたがない。
「あの」
勇吉のすぐ後ろから若い女性の声がした。
「あの、よっちゃんパパじゃないですか?」
一瞬ひるんで、振り向いた。
「い、いや」
と言いかけたとき。女性の目が何か訴えかけているように見えた。
「助けてください」
女性の唇がそう動いたように見える。
「あ、ああ」
「そうですよね。もしかしたらって」
と言いながら女性は手を前にだして斜め後ろの中年男性を指さした。
そういえばさっきから妙に高い男の声がしていた。店のパンの能書きをやたら自慢気に語っているようだった。
「ここでは、まずクロワッサンだよ」
「あんパンの餡が絶妙なんだよな」
「チーズのパンはコーヒーで合わせるよりは、紅茶がいいんだ」
と丁寧に食べ方まで解説をしていた。
家族連れできた父親がなんだかしったかぶりをして話しているのかと思い、聞き流していたのだが、どうやらそうではないようだ。
「えっと、どなたでしたっけ」
「すみません、洋一くん。息子さんの、同級の金井っていうんです」
「あー、そう」
勇吉は、芝居がかって納得してみせた。
洋一なんて、知らない。いったい、このお嬢さんは誰だ。指さした中年オヤジとさっきまで仲良さげに話していたのではないか。それで、この私にどうしろっていうんだ。
急に背中からさっきまでとは違う油っぽい汗が噴き出してきた。
「しつこい、このおじさん」
勇吉の困惑を察したのか、その女性が口を動かして小さく声にした。
知り合いじゃないのか、この男は。このお嬢さん、絡まれてるのか。人の助けをするなんて柄ではないのだが、無視するのもプライドが許さない、といえば大袈裟だが、ここでひくわけにいかないと思った。
「き、っ、きょうは一人で?」
まったく、肝心な時に声が上ずってしまう。
「そうなんです」
女性は明るく助かったように答えた。
「あれー、知ってる人?」
女性の後ろにいた男がなれなれしく話しかけてくる。
「ええ、そうなんですね。ずいぶん久しぶりで気が付かなかったけど」
おおよその事態がのみこめた勇吉はこたえた。
「その人は」
勇吉は女性に聞いた。
「知らない人なんですけど」
女性は嫌悪感を示してそう告げた。
「イヤー、退屈しのぎにね、話しかけていただけですけど、まいったなー」
「それで、まだ、話はあるのかな、その、どちら様か知らない方」
こんな男とは話したくもないが、それは酒場で鍛えた出会いがしらの会話力だけは残っているらしい。
「あー、いやだな、そんなに嫌わなくても、同じパン好きということで話しをしましょうよ」
「悪いね、私にはそんな趣味はないんだ。近所のパン屋にいつものパンを求めに来ているだけなんでね。静かに待ちましょうよ」
「面倒なジジイだな。ただ、こっちはちょっとの時間を楽しく分け合おうとしただけなのに」
男の言葉が荒くなってきた。こんな時は潔く退散するほうが利口な選択だ。
「金井さん、久しぶりに会ったんだ、ちょっとどこかでお茶でもして、出直してこようか」
勇吉は男の言葉を無視して、女性にそう言った。女性はちょっと不満気な顔をしたが、勇吉が示した軽い笑顔に誘われるように。
「そうね、もう少し時間をおいたらすいてくるかも知れないし」
と言いながら、列をさっと離れた。勇吉も慌ててそれに続く。
「ちぇ、なんだよ」
男の声がしたが、幸い男の後ろに並んでいた中年の女性が機転を利かせて、体を寄せて列を縮めてくれたのが分かった。振り向くと、男は押されて崩れそうになった体を起こすのがやっとのようだった。
勇吉と女性は急いで、列の後ろのほうへ向かって歩いた。
「まったく、なんで私が逃げなきゃなんないんだよ」
女性は、吐き捨てるようにいう。
「すまん」
「オジサンは悪くないヨ、あいつだよ、まわりに人がいなきゃ、蹴り入れてた」 「おいおい、それは…」 「突然話しかけてくるんで、ちょっと付き合って話をあわせていたら、いい気になって、まったくデリカシーのないオヤジはめんどい」
「まー、そう言わんで、私もオジサンだ」
「あっ、ごめんね、へんなのに付き合わせちゃった」
「面倒にならなくてよかった」
「ホントむかつく」
「酒場では時々ね、昔はこんな時、殴り合いの喧嘩をしたさ」
「へー、オジサン面白いね」
「ああ、それよりこの先の角を曲がろう、男が追っかけてきたらやっかいだ」
「うん、いいよ」
少し早足でバス通りの歩道から脇に入る道を進んでいった。
しばらく行くと見慣れない喫茶店が見えてきた。少し黄色がかった白い壁に濃い茶色の木の扉と窓枠。扉の上の庇がモスグリーンのアクセントになっている。最近できたのだろうか、勇吉はこの店に気づいていなかった。
「喫茶店だ」
思わず、勇吉は口にした。
「そうね、入る?」
「ああ」
勇吉は少し上の空で答えていた。
それにしても、この店の佇まいは……。
「入るの?」
女性が聞き直してきた。
「そうだな、水が飲みたいし」
「水、でいいの」
と戸惑ったように女性は言う。 「ちゃんと、冷たいコーヒーをいただくさ」
「じゃ、決まり」
「そうだな」
扉を開けて店にはいると濃いブラウンに統一された内装で、五人程度が座れるカウンターと、レースのついた白いクロスがかかったテーブルが数席あった。客は他にはいないようだった。北側になるのだろうか、奥には中庭らしい緑が見える窓があって、そこから昼の陽射しが柔らかくなって差し込んでいた。
ほどよく焙煎されたコーヒー豆の香りが、静かな時間を留めていた。木の床に響くスニーカーの足音が二つ、コトン、コトンとリズムを刻んで天井に広がる。疲れた足の重さが不思議と抜けていった。そのまま奥に進むと床が一段下がり、入口からみたときよりも広くとられたスペースにテーブル席が置かれていた。勇吉は誘われるようにその席に向かっていた。
「ああ、どうぞ。ここにしよう」
勇吉は女性を奥の席へすすめた。
「ありがとう」
女性は長い淡い水色のワンピースの裾を少しつまんで、席にかけた。
それを確認した勇吉はゆっくりこちらの席の椅子をひいた。細い木で組まれた丸みのある座面にはほどよいくぼみがある。年寄りにはいい椅子だ。
「いい店ね」
勇吉が腰けると女性は話しかけてきた。
「ああ」
「おじさん、タバコは?」
「吸わない。ああ、でも平気さ」
テーブルの端に灰皿があった。
「ごめんね、さっきから落ち着かなくって」
「気にしなくていいさ」
女性はもっていたバックからタバコを取り出して火をつける。白い煙が少し強くなった窓の明かりの中に消えていった。勇吉には久々の香りだったが、馴染んだ時間がよみがえってくるようだった。
二人の様子をカウンターの奥から見ていた店主と思われる若い男性が、水を運んで席のほうへやって来た。
「あれっ」
水崎に気が付いたのは勇吉のほうが先だった。
「君は」
「あー勇吉さん」
「水崎くんだったよね」
そう勇吉が言い終わる前に、
「水崎くん!」
女性が驚いたように声を上げた。
「えっ、どうして?」
水崎は驚いて、もっていたトレイのバランスを崩して、水をこぼしそうになり慌てて膝を少しかがめた。
三人は、互いに顔を見合わせた。
「三島、優子さん?」
水崎は女性に問いかけた。
「そう、中学の時のクラスメイトの」
女性は懐かしそうな顔で答えた。
「金井さんじゃないのかい」
勇吉は問いなおした。
「それ、伯母さんの名前、だってあの時さすがにね、本名は言えないもの」
「で、勇吉さんがどうして?」
不思議そうに水崎は勇吉に尋ねた。
「それよりもなんで、水崎くんがおじさんを知ってるの」
水崎の質問を遮るように、女性が聞く。 「だって、勇輝のお父さんだよ」
「勇輝って、あの」
「そうさ、同じクラスで、僕の親友だった」
「えー、どうしよう」
「どうしようって?」
水崎はますます混乱した。
「どうやら、まんざら嘘じゃなかったみたいだね」
勇吉は二人、いや息子を含めた三人の関係を理解した。
「さっき、パン屋の列でこのお嬢さんが息子のクラスメイトだって話かけてくれたんだ。ただし、その時の息子の名前は洋一だった」
「助けてもらったのよ、いやな奴にからまれていたから。その、勇輝くんのお父さんの……」
「木島勇吉さんだよ」
水崎がそう告げた。
「木島勇吉さん。僕のあこがれのグラフィックデザイナー。そして、奥さんは内装デザインの真由美さん」
「まあ、そんなことはいいじゃないか、水崎くん。ここは君の店だったんだね。真由美からは聞いていたけど」
「ええ、すみません。開店のご案内とは思っていたんですが。まだ開けて一週間なんです」
「そんなことは気にしなくていいさ」
「迷ったんですが、あれから三年もたつし、少し落ち着いてと思って」
「ありがとう、気を遣わしたね」
「いえ、真由美さんは本当に恩人ですから」
「相談にのっただけだろう、この店の」
「ええ、そうなんですが……」
「喜んでいたよ、息子の同級生に偶然会って店を持ちたがってるって」
「僕、悩んでいたんですよその時」
「ちょっと、水崎くん、いろいろあるみたいだけど、私、冷たいコーヒー飲みたいわ」
「あ、ごめんなさい、忘れていました。勇吉さんは」
「僕も同じものでお願いするかな」
「用意してくるので、しばらく待っていてください」
水崎はグラスをテーブルに置いて、トレイを脇に抱えカウンターに戻っていった。
「水崎くんとは久しぶりのようだね」
「ええ、卒業以来」
「そう、だったらすぐには分からないね」
「木島さんは、」
「勇吉でいいよ」
「じゃあ勇吉さん。勇吉さんは水崎くんとはずっと?」
「いや、そういうわけじゃないんだ」
「奥さん、真由美さんとは?」
「真由美は勇輝の同級生だってすぐに分かったみたいだったよ。五年前にひょんなことで親しくなったらしい」 「そう、それで勇輝くんは? 私、さっき水島君に会うまで、勇輝くんのこと忘れていたの。洋一さんなんてでまかせ言ってごめんなさい」
「困っていたにしてもよくこちらに頼ってきたもんだね」
「うん、なんだかこの人なら大丈夫だって思ったし、もしダメでも奴にはうんざりだったから、ダメな時は大声出せばなんとかなるかなって」
「まあ、なんとかなったけど、どうしようもないね、ああいった輩は」
「勇吉さん、酒場で喧嘩するって」
「そうさ、喧嘩さ。若い頃は殴り合いになったこともあるさ。理不尽な奴はほっとけないからね」
「信じられないわ」
「まあ若かった、ということさ」
「でも、思い出してもむかつく」
そう言いながら女性はタバコを灰皿に押し付けて火を消した。
「君は綺麗だからあんなことよくあるんじゃないかな」
「そんな、綺麗だなんて、同級生のお父さんから言われると照れるな。確かにナンパってやつ? 私も一応女だからたまにはあるよ。でも適当にやってれば向こうもわかるから、しつこくいってきたりしないんだけど、今日のは面倒だったな」
「まあ、私にも娘がいるからね。あんなのをやられていたらムカッとくるね」
「勇吉さん、お嬢さんもいるの?」
「そう、勇輝の姉だ」
「じゃ、私より上」
「二歳ね」
「じゃ、四十ね」
「ああ、そうかな」
「結婚は?」
「している。女の子の孫が一人」
「そう。私、まだ独りなんですよ」
「いや、でも彼女も一人もんだ。私と孫で三人暮らしだけど」
「離婚、ですか」
「まあ、そんなところだ」
「すみません、いきなりそんなこと聞いて」
「いいんだ、別に隠すことでもない」
「じゃ、奥さんの真由美さんは…」
「三年前に死んだ」
「えっ」
「肝臓の癌だ」
「そうですか」
「それで、私を心配した娘が実家である私のところへ帰って来ているというわけだ。彼女にもそのほうが都合がよかったみたいだしね」
「何にも知らないで、私……ごめんなさい」
「いや、私は久しぶりに楽しくできていいんだ。もっとも君には運の悪い日なんだろうけどね」
「でも、クラスメイトにも再会できたわけだし、悪いことばかりじゃないわ」
「そうだな、前向きに考えることができるのはいいことだ…」
そう、つぶやくように答えると勇吉は中庭で陽の光に透けて見える若葉が揺らぐのを見つめていた。
カウンターに戻った水崎は水出しコーヒーのポットを冷蔵庫からとりだし、氷を割ってグラスに入れた。
そのグラスにゆっくりとコーヒーの液を注ぎながら、真由美さんに出会った時のことを思っていた。
「それで、勇輝くんは?」
三島はあらためて勇吉に聞き直していた。
カウンターの中でその声を聞いた水崎ははっとして慌ててコーヒーをトレイに乗せてテーブルに運んだ。
「お待たせしました」 「ああ、ありがとう」 「勇吉さん、たぶん三島さんには勇輝くんのことは伝わっていないと思います。話していいですか」 「ああ、かまわんよ」
「勇輝は死んだんだ。五年前。事故だった、バイクの」
「えっ、そうなの」
三島は信じられないという顔で声をだした。
「まあ、そうなんだ。奴の寿命だな」
「勇吉さん、今日は失礼なことばかりで、私、どうしよう」
「気にすることはないさ、そういうことなんだ。隠していることでもないし、今は今の暮しをしとるからね」
勇吉はそう言って、置かれたアイスコーヒーを口にした。
「真由美さん、僕が落ち込んでいた時に偶然お会いして、真由美さんのお友達に家に誘われて食事をまでいただいて、その時いただいたお話や経験が今の僕なんです。上手く言えないけど……」
水崎は申し訳なさそうに続けた。
「なんか、詳しくは知らんが、真由美はずいぶん君のことを楽しく話してくれていたよ。もしかしたら勇輝のことを思い出していたのかもしれん」
「その時の食事がきっかけで、結局自分にはデザイナーとして本物になれないと思ったんです。その頃生意気にも僕が浮かばれないのは事務所のせいだと勘違いしていたんです。でもその時の僕のデザインは真似ばかりだった。それで自分で確かに作り出せるものは何かって考えて、自分が唯一あれこれ迷いながら面白いと思っていたコーヒーの世界に進むことを決めたんです」
「真由美がそんなことを君にしていたのかね。でも、なんだか君がコーヒーの店を持つって決めたときは喜んでいたよ」
「ええ、僕にあっているって。で何枚か店のイメージのスケッチを描いていただいたんです。でも、それからすぐにとはいかなくて、豆のこととか、設備や資金のことでいろいろやっているうちに時間がたって今になってしまいました。見てもらいたかったんです。真由美さんにはこの店を。あんなに早くなく逝かれるなんて」
「ああ、でも君の入れてくれたこのコーヒーは美味しいよ。彼女も本当に喜んでいるさ」
「ありがとうございます」
「さあ、私はもう落ち着いたから、今日は帰るとするかな」
「もう少しゆっくりと」
「いや、私はもう少し散歩を続けて帰るよ。お嬢さんはゆっくりされればいい。払いは、わたしからの開店祝いで、これで二人分を済ませておいてもらえればいいけれど」
といって勇吉は残りのコーヒーを飲み干し、財布から札を取り出した。
受け取った水崎は驚いて。
「いや、これじゃ多すぎますよ」
「いいんだ、そのまま受け取っておいてくれ。そうしないと真由美に申し訳ないしね」
「そうですか、それではありがとうございます」
「いいんですか、私まで」
三島も申し訳なさそうに言った。
「三島さん、楽しかったよ。だけど、まだ奴はこの辺にいるかも知れないからもうしばらくここでゆっくりされるのがいい。もう少しすると列も落ち着くかもしれんし」
「ええ、そうします」
「では、また機会があったら」
勇吉はそう言い残して店をでた。
しばらく歩くと急に酒が飲みたくなった。明るいが時間はもう夕方近くになることだし、ジンでも飲むかと考えながら家のほうへ足を向けた。こんな時はあの店のカレーパンが最適なのだが、と思ったけど、今日はあきらめたほうがよさそうだった。途中コンビニによってサンドウィッチを適当に買った。袋に入ったサンドウィッチの重さを感じたとき、「コンビニで百円やで」と言っていた中年の女性の声を思い出して可笑しくなった。
家に帰ると娘はちょうど洗濯物をとりこんでいるところだった。勇吉はキッチンに向かいグラスに氷を入れてアトリエに入った。
「お父さん、早いわよ。お酒は」
いつの間にみていたのか娘が小言をいう。
「いいんだ、今日は」
「いつもそう、ダメだよ」
「まあ、今日は勘弁してくれ」
「まったく、相変わらず人のことは聞かないんだから。母さん、怒ってるわよ」
「ああ、水崎くんにあった。さっき」
思いついたように勇吉は言った。
「へえ、どこで?」
「向こうの通りの裏でコーヒー店を開いていた」
「そうだったの」
「まあ、だから今日はその店の開店祝いさ」
「そんな言い訳を。どうしようもないわ。とにかく飲みすぎないでね」
娘はそのまま洗濯物をたたんで片付けていた。
アトリエに入ると、棚からジンの瓶を取り出し、氷の入ったグラスに注いだ。
椅子に座って、深くゆっくりジンを飲む。
その液体が胃袋にしみこんでいくのを感じながらサンドウィッチを一口ほおばる。
グラスのジンを何杯か空けたとき、部屋の扉があいた。
娘か。と面倒な気持ちになったが、入ってきたのは孫のチイちゃんだった。チイは勇吉のそばに来てグラスに興味をしめした。
「じいじ、これなあーに?」
「お水だよ」
「じゃ、ちょとだけちょうだい?」
「だめだめ」
「どーして?」
「子どもはのめないんだよ」
「えーどうして?」
「子どもはきらいな味なんだ」
「苦いの?」
「ちょっとだけね」
「辛いの?」
「辛い、ときもあるよ」
「じゃ、すっぱいの?」
「すっぱい、ときもあるかな」
「甘くないの?」
「甘い、ときもあるよ」
「だったら、子どもものめるよ」
「ダメダメ、子どもがのむとくるしくなる」
「死んじゃうの」
「死んじゃうよ」
「じいじはへいきなの」
「じいじはへいきさ」
「くるしくならないの?」
「くるしくないさ。でもちょっと顔が赤くなるんだよ」
「鬼さんみたい」
「じいじはおとなだから、鬼にはならんさ」
「ほかには?ないの」
「うん、そうだね。ちょっとねむくなる」
「えーねちゃいやだ?」
「だいじょうぶさ。まほうつかいのお水だよ」
「へんしんするの?」
「子どもがのむとおおかみみたいに毛むくじゃらさ」
「こわーい」
「だから子どもはのんじゃだめなんだ」
「おとなはどうしてこのお水をのむの?」
「まほうにかかってくらくらしたいからさ」
「気もちわるくないの?」
「へいきさ、おとなはまほうにかかるとここちいいんだ」
「子どもはダメなんだ?」
「あー、子どもがのむとくるしくなるんだ」
「こわーい」
「こわいよね」
「どうしておとなはへいきなの?」
「おとなには、まほうがはんぶんしかきかないんだ」
「だから、死なないんだ」
「そうだね、でもちょっとじいじはねむくなったな」
「じいじ、ねちゃいやだよ」
「あー、でもちょっとねむるかな」
「じいじ、ねちゃだめだよ」
「あー、でもじいじはよっぱらっちゃったんだ」
「じいじ、きもちいいの」
「ああ、じいじは、そろそろいいところにいかなきゃいけないんだ」
勇吉は、そのまま静かに深い眠りの中に沈んだ。
その姿をみるとチイちゃんは部屋を出た。
しばらくして娘の香が、持ってきた毛布を勇吉にかけ、夕食の支度にキッチンに戻った。