ある幸せの光景
馬場先智明
駅のホームからは、安キャバレーのケバケバしい電飾広告のような質屋の立体広告塔、居酒屋の看板が、同じ目の高さに見えて、疲れた目には鬱陶しいことこの上ない。
山の手線、埼京線、西武新宿線の列車がひっきりなしに発着を繰り返し、その振動や通過音などが神経に障る。そして数分おきに頭上に流れる鉄腕アトムのメロディ。
ホームに滑り込んでくる車輌から吐き出される群衆、吸い込まれる群衆が交差しながら、それぞれの目指す目的地へと向かってゆく。
群衆というまとまった塊り。でも塊の中の要素である個々人は互いに心を閉じて無関心を決め込み、決してつながろうとはしない。孤の鎧で頑なに武装して、互いに無用の接触を避けるようにしながら流れに身を任せている。
人体の動脈をドックンドックンと流れる血液。流れが止まれば人は死ぬ。同じように列車の流れ、群衆の流れが止まれば、都市という生き物も死んでしまう。死なないためにも動きが止まることはない。
その朝、重たい足をひきずってなんとか高田馬場の駅にたどり着いた僕は、池袋方面に向かうべくホームに上がったはいいものの、その隅で立ちすくんだまま、次々と来ては去ってゆく山の手線車輌を見送っていた。
僕の数メートル先に、若い学生風の男女がいて、彼らも僕と同じように山の手線には乗らず、ホームに立ち続けていた。正確にいえば、彼らの存在に僕の意識が吸いつけられたまま、僕は動けなくなっていたのだ。
ホーム上で蠢き集団移動を繰り返す互いに断絶して寡黙な人々の群れとの対極の空気が二人を包み込んでいた。
向き合って何かを囁きあっている。互いの目をまっすぐ見つめ合いながら。
僕が二人に気づいてから何台目かの山の手線が滑り込んできたとき、ようやく男のほうが乗り込んだ。扉が閉まる。男は扉のすぐ内側に立ち、ホームに立つ女に向かってまだ何かを伝えようとしている。二人は車輌が動き始めてもまだ語り合うのをやめなかった。徐々に遠ざかる車輌に向かって、互いの顔が見えなくなるまで、二人は身振り手振りで伝え合っていた。
口元も動いている。そして手もせわしなく動いていた。でも彼らの声は何一つ聞こえない。
二人が聾唖者だったことに、僕はその時、初めて気づいた。
音のない世界に生きる二人が、懸命に気持ちを伝え合う姿。
騒音や雑音にまみれた世界で心を閉ざし、お互いに無関心な群衆の中の奇跡のエアポケット。
もう二十年以上も前に出会った光景だが、忘れがたい。あの二人は、あの時、あの瞬間、間違いなく幸福だったと思う。心がつながっている、という幸せ。
その二人の姿に、僕は身も蓋もなく感動していた。