幸運の指輪
鈴木 三郎助
わたしは、こんもりとした森におおわれたたやまあいの、小さな樽の形をした岩に、ひとり腰を下していた。目の前を谷川が流れている。川幅は狭いが、流れが速く、水面に突き出た岩にぶつかり、渦をまいて、せわしげに動いていく。昼間の太陽の光が、岸辺に林立する樹木の緑の葉を透かして、その影を映して流れいく渓流を、わたしはぼんやりと眺めていたのだった。
身も心もへとへとであった。鉄のかたまりを埋め込こまれたように、全身が重々しい。記憶力は衰弱していた。なにごともおぼろげであった。家を飛び出して、森の中に入り込んだことは、なんとなく覚えているけれど、そのあと自分がどのように山道を歩いてきたのか。それは思い出せなかった。
でもわたしは、自分の中にうごめく衝動を忘れてはいなかった。わたしが家を飛び出したのは、その衝動の力であった。
実を言えば、山の中でひそかに死にたかったのだ。だれにも知られることなく、こっそり嫌な自分を葬りたかった。生きていることがとても辛く、もう、その限界の域に達していたのだった。
これまでは、死んではいけないと、自分に言い聞かせていた。わたしの小さな心は死の誘いに逆らって、自分を励まし続けていた。でも今の自分は、生きることにどんな未練もなくなっていたのだ。死が恐ろしいものだとは、もう思わなくなっていた。死は、わたしによりそう、身近な存在になっていたのだった。
わたしは少女である。もうすぐ十四歳になる。名は岩下美穂というが、これまでのわたしの人生は、けっして幸せなものではなかった。
わたしが三歳のとき、父が病気で亡くなった。それがわたしの不幸の始まりであった。その一年後に、母は父よりもずっと若い人と再婚したのである。その一年後に母は男の赤ちゃんを産んだ。
母はわたしを可愛がってくれなかった。弟が生まれてからは、いっそうわたしはのけ者扱いにされるようになった。わたしはひとりぼっちにされるのが、とても怖かった。夜はひとり、床のなかで泣いていた。
新しい父は親切な人であったが、わたしには何か冷たい人のように感じられて、甘える気持ちなど湧き起こってこなかった。また母の方は、父の機嫌をとるようになって、小さな弟を過剰なかわいがりかたをしていた。
「あなたはもうお姉さんだから、自分のことは自分でしなさい」
と、冷たい声で母は、小学一年になったばかりのわたしに言っていた。わたしは、そう言われるのがとっても嫌だった。家族の中でいつも、無視されていると思うと、とてもさびしく、自分の内部は、いつも不安で、いら立っていたのであった。
知らず知らずのうちに、わたしは心の中で親にも弟にも、意地悪をするようになっていたので、母からも、父からも、叱られた。弟はわたしをひどく嫌っていたのだった。
そのような幼少期を、わたしは送っていたのだった。ときどき、どうしてこのような家族と一緒にいなければならないのだろうと思うと、人目の付かないところに行って、よく泣いていた。
わたしはそのような不幸な少女であった。
わたしは、いじけた性格の子供になっていた。そのために学校に通い始めても、友だちはできなかった。みんなと心を合わせることができなかった。みんなはわたしを相手にしなくなっていた。何人かの生徒は、わたしに同情してくれたが、その人たちもわたしから離れていった。
「美穂には声をかけたりしてはいけない」と誰かが言ったらしい。
わたしは学校に行くのが嫌だった。家にいる方がまだよかった。学校だと、全員がわたしの敵であった。無視されていると思うと、目玉にガラスの破片が喰いこんだように痛かった。朝目を覚まして、学校に行かなければならないと思うと、体の中に灰色のにごった血が駆け巡るのであった。
その日は、いつもの時刻に、いつものように家を出たのだった。でもわたしの足は、学校のある方角には向かわなかった。それどころか、どこか遠くに逃亡したいような、暗い衝動が胸の底に渦巻いていた。
通りのバス停のあるところまで、わたしが歩いて来たときだった。バスが来て、わたしの前で止まった。そして入口のドアーが開いた。すると、身体がひとりでに動いて、わたしはバスに乗った。ところが、そのバスの行き先は分からなかったし、自分がなぜバスに乗ったのかもよく分からなかった。
わたしの乗ったバスは郊外に出た。かなりスピードを出して走っていた。そして、これまで来たことのない、見知らぬ場所で下車させられた。わたしの周りには乗客はひとりもいなかった。
わたしはひとりでシートに座っていたのだった。そこへ背の高い車掌が現われて、ここは終点だから降りてくださいと声をかけた。
「ここはどこですか」
と、あわてて大きな声で訊ねた。ところが車掌は耳が遠い人なのか、返事をしないで、さっさと戻って行った。わたしは仕方なくバスから降りた。
まわりには、人家がなかった。背丈の高い雑草が茂る荒野であった。風が野から高い山の方にむかって吹いていた。山にはこんもりとした森が見えた。わたしはひとりでいることに、とくに驚くようなことはなかった。むしろ誰かがわたしの背を押しているような気分さえあった。
わたしは歩き出した。不安はなかった。わたしは山道を見つけ、こんもりと茂った森に向かって歩き始めたのだった。近いと思っていたその森は深く、その山道は迷路のようであった。数時間歩き続けたのだろうか。わたしは、へとへとになって山を下り、見知らない谷川のほとりにたどり着いたのだった。そして、わたしは岩に腰かけて、流れの速い谷川の澄んだ流れを放心した気持ちで眺めていたのである。
木の葉をざわめかせる風も絶えて、まわりは森閑としていた。わたしは渓流がたてる小さな音を耳に感じながら、いつしか眠りこけてしまった。どれくらい眠ったのであろう。目が覚めた時、妙な気がした。身体がすっかり洗い清められたように、気持ちがさわやかになっていたのだった。疲労が抜け落ち、頭からも胸の中からも下半身に至るまで、疲労が抜け落ちていたのだった。
そのとき風が、そうっとわたしの前をとおり過ぎたように感じた。でも、それは風ではなかた。何ものかが、近づいてくる気配であった。わたしは急に胸騒ぎがした。
と、そこに白いドレス姿の、若くて、きれいな女の人が立っていたのだ。わたしは声をあげられないほど驚いた。だが、わたしは怖いとは思わなかった。むしろほっとした。
「あなたはここで何をしているのですか」
と、その人は優しく声をかけた。
「あまりにも疲れていたので、ここで休んでいました」
わたしは答えた。
「あなたはどこから来たのですか」
「町から来ました」
「どうしてこんな山奥に来たのですか」
そう訊かれてわたしは、今朝自分が乗った不思議なバスのことを思い出した。そして、何かに誘導されるように、自分が見知らない森の中に踏み入ったことを話した。
「あなたは悩みごとを抱えていませんか」
そう訊ねられた時、急に胸の底から悲しみがこみあげてきた。そして目が涙で潤んだ。わたしは素直に首を縦に振った。
「どんな悩みかしら?」
その人は同情に満ちた眼差しでわたしをじっと見つめた。これまで感じたことのない妙な、甘味な感情が全身を駆け巡った。
「わたしは、生きるのがつらいのです」
わたしは素直に言った。
「生きるのがつらいですって」
その人は叫ぶように言った。
「一体どういうことなの?」
「父も母も、わたしを可愛がってくれないのです。学校では、いつもいじめにあっているのです。それが辛く悲しいのです。生きているよりは、死んだ方が幸せではないかと思います。わたしはそのために、ここに来ているのだと思います」
わたしがそう言ったので、その人は驚きの表情をした。そして、たちまちその美しい目を涙で潤ませた。
「まあ、かわいそうに……」
その人はそう叫び、わたしの身体を両腕できつく抱きしめた。
わたしは母鳥に抱かれたヒナのように、その人の胸に抱かれていた。その人のぬくもりがわたしの身体の中に伝わってくるのが感じられた。
わたしの涙にぬれた顔を、その人は純白の布でふいてくれた。
「ちょっと質問していいかしら」
その人はそう言って、続けた。
「あなたは自分からいじわるをした、そんなことはありませんでしたか」
「あります」
「ほかの人があなたをいじめるのはどうしてか、考えたことがありますか」
「あります。でも、なぜかわたしにはわかりません」
「最後にききます。あなたは自分をいじめたことはありますか」
「ありません。わたしはいつもほかの人からいじめられていま
す」
「あなたが死にたいと思うのは、いじめられるからですか」 「はい。でも、それだけではないのです。わたしは人に親切が出来ないのです。それが辛いのです。いじめられるよりも何十倍も辛く、耐えられないのです。ですから、死んで楽になりたいのです」
「わたしが楽にしてあげましょう。あなたのかたくなになった心を柔らかくしてあげましょう」
その人はそう言って、白いドレスの内側に手を当てると、なにかを取り出した。そして掌にのせた。わたしは目を見張った。それは小さな、光り輝く指輪だった。
「ごらんなさい。きれいな指輪です。これをあなたにさしあげます。この指輪は願いをかなえてくれる不思議な指輪なのです」
その人はわたしの左手の薬指に、その指輪をはめてくれました。そして、言った。
「もう、あなたは自分のことで悲しむことも悩むこともない、美しい少女になります。困った時には、その指輪を右にちょっと回してみなさい」
その時、どこからとなく、一陣の風が立った。岩かげの草むらがそよぎ、木の葉がざわついた。わたしはその異様に気を奪われた。その一瞬後だった。
白いドレス姿の美しい女の人がいなくなったことに気づいた。わたしはあわててまわりを見渡したが、どこにもその人を見つけることができなかった。
その人はどこに消えてしまったのだろう。急にさびしさが、わたしの胸の中にこみあげてきた。わたしはうろたえた。そのとき、ふと視線を手の甲に向けた。わたしは目を見張った。左手の薬指に小さな指輪が光っていたのだ。ああこれは、あの人がくださったものだ。
わたしの心に、その人が語った謎めいた言葉が浮かんだ。わたしはそうっと指輪を右に回してみた。すると、指にあった指輪が消えて、まわりの様子が一変した。
教室では、先生が黒板に向かって、計算の式を書いている。その日の三時間目の数学の授業が行われている。窓際の後ろから三列目の席に、わたしは座って、ノートに計算式を書き写している。いつもの自分なら、うわの空だ。窓の外の、校舎の屋根のところで遊ぶ雀たちを眺めたりしているのに。わたしの心は軽快に授業に溶けこんでいた。わたしは自分を不思議に思った。
「岩下」と、先生の声がした時、わたしは驚いて、あわてるようなことはなかった。そして、先生の質問にすらすらと答えることができた。わたしは自分が信じられなかった。クラスの全員の目が、わたしの方に注がれたが、そこにはいつもの冷ややかな眼差しはなかった。わたしは妙な気がした。温かな優しさに満ちた、美しい眼差しである。わたしは心の中で驚きの声をあげた。しだいにわたしは素敵なケーキを食べたような気持ちになっていた。
授業が終わって昼休みになった。お弁当の時間だ。それぞれがお弁当をもって、仲間のところに集まって、しゃべりながら食べる。そして、わたしはみんなから離れ、ひとりでひっそりと食べる。それがいつもの自分であった。
ところが、思いがけないことが起こった。わたしが席について、弁当をカバンから取り出して、机の上に置いた。そのとき、ひとりの人が寄ってきて、
「ここで一緒に食べていいかしら」
と、言った。
どうしてなのと一瞬、わたしの心がくもったが、
「はい、どうぞ」
と、わたしの口が言っていた。
雀が友を呼ぶように、その子が声をかけると、わたしのところに二人の子が、お弁当をもってやって来た。三人の女の子はわたしを囲むように座った。
不安も恐れも、わたしの心になかった。わたしはうれしかった。
三人がお弁当の蓋を開けると、それぞれがおいしそうに輝いて見えた。わたしは自分の弁当のふたを開けるのをためらった。
母のつくるお弁当は、いつもの見栄えのよくないものと思って、恥ずかしかったのだ。ところが、ふたを開けてびっくり。ご飯の上に、桃色のそぼろが乗せてあった。おかずの器には好物の品がたくさん入れてあった。
「美穂のお弁当は、美味しそうだわ」
一人は、自分のものと見比べて言った。
他の者も讃嘆の声をあげた。
引け目に思っていた弁当を褒められて、わたしはうれしかった。心のかた苦しさは消えて、わたしはすっかり打ち解けて、話が弾んだ。わたしは幸せであった。
食事が終わると、ひとりが言った。
「ああ、楽しかった。明日も一緒に食べましょう」
「美穂はいい子だわ」
もう一人が言った。
わたしはちょっと恥ずかしかった。でも、うれしさが胸の奥から込み上げてきた。
「では、また明日ね」
三人はそう言って、自分たちの席に戻って行った。
学校からの帰り道、楽しい思いが心の中にダイヤモンドのかけらのように残っていた。いつも通る道端に咲いている、背丈の低い野の花が私の目に映った。わたしは立ち止まって、その淡い桃色の花びらを見つめた。可憐な花だった。わたしの気持ちは風船のように天に昇っていくようであった。
わたしは何時しか低い声で歌を口ずさんでいた。
十字路のところで、同じアパートに住むおばさんに出会った。
「おばさん、こんにちは」
と、わたしは挨拶をした。
「あら、美穂ちゃん。今お帰りね」
いつもは無愛想なおばさんだった。でも今日はとても優しい。おまけにわたしの顔を見て、こう言った。
「美穂ちゃん、きれいになったわね。いま何年生になったの」
「中学二年です」
わたしは込み上げてくる喜びを抑えて、そう答えた。
別れ際に、
「おばさん、お元気で、またね……」
と、わたしは言った。
これまでおばさんにあっても、こんなことを言葉にだして言ったことがなかった。
なにごとにも関心を失っていたわたしは、自分の心の窓が開かれて、光と風が程よくそそぎこんでくるような、とてもいい気持になっていた。
四つ角を曲がると、二階建てのアパートが見えてきた。新しい建物ではないが、そこにわたしの家族が住んでいた。
わたしは入口のドアーを開けると、
「お母さん」
と、大きな声で叫んだ。
奥の座敷からお母さんが出てきて、
「お帰り」
と、言った。
優しい声であった。
笑顔が美しく見えた。
「お腹が空いたでしょう。美味しいケーキがありますよ」
「ほんとう?うれしい!」
わたしはお母さんに抱きついた。
「今日は学校、楽しかったかい」
「ええ、とても」
「そうかい。それはよかったね」
お母さんはわたしを褒めてくれた。
これまでそんなことはなかったのに、お母さんはいつもと違っている。どうしたのだろう、お母さん。とても不思議だった。わたしも自分が不思議であった。こんなに無邪気にお母さんに甘えるなんて。わたしはまるで小さな子供になったみたいだった。
お母さんは夕食の支度を始めていた。
弟がそろばん塾から帰ってきた。
「おかえりなさい」
わたしはほほ笑んで、弟に声をかけた。
弟はちょっと驚いた顔をしたが、
「おねえちゃんに、いいものみせてやる」
と、言った。
そして、鞄から一枚の紙をとりだした。それはそろばん塾で行われたテスト用紙で、そこに、赤字で百点と書かれていた。
「すごいわね」
わたしは喜びの声を挙げた。弟の目はキラキラと光った。
お父さんが帰ってきた気配がしたので、わたしはすぐ玄関にかけて行って言った。
「お父さん、おかえりなさい」
「珍しいな」
お父さんはそうつぶやいて、わたしの顔を見つめた。
「そうそう、おまえにいいものを買って来たよ」
そう言って、お父さんは手に提げていた紙袋を手渡した。
「何なの、お父さん」
わたしは涙がでるほどうれしかった。
明日がわたしの誕生日であった。それがそのプレゼントだというのであった。
「明日、あげようと思っていたが、急に今日あげたくなった」
お父さんはそう言った。その笑顔がとても素敵であった。
その夜、わたしは床の中でその日に起こったことを思い起こしていた。そして、なんと楽しい、幸せな一日だったと、つぶやいた。
こんな日が毎日続くといいなあと思っているうちにねむってしまった……。
「美穂、起きなさい」
母の荒々しい声で、目が覚めた。
「お母さん、どうしたの」
わたしは寝ぼけ眼をこすりながら言った。
「おまえ、昨日も学校を休んだのに、今日もまた、休むつもりなのかい」
母はいつもの冷たい声で、そう言い捨てると、わたしの部屋から出ていった。
(おわり)