ʃɔːwa
昼から雨になり、外に出るのがめんどうになった。もういいかげん先のない出会いはやめにしよう。そう心に決め、みち子はため息をつきながら火鉢の灰をならした。約束を破るのは好きじゃない。でも、どうせ実るはずのない妹尾との逢瀬を重ねても心も体も疲れきるだけだ。待ちぼうけを食わせてしまおう。雨が激しくなるのをいいことに、わざと受話器から離れ、たすきをかけて台所に立った。
銀座に行くつもりだったので赤ん坊は澄ちゃんに預けてある。お継母さんはいつものように芝居見物だ。だから一人。めずらしく一人。台所でうどんをゆでる。お腹が空いているわけじゃない。何かをしていないと落ち着かない。頭と心がちがう方を向いていて、自分でもウロウロ居場所がない。頭は妹尾と別れたほうがいいと言い、心はまだ妹尾を求めている。ナベの中でわざと激しくうどんをかき回す。電話に出たくない。
鈴木さんに悪いという気持ちは最初からあった。妹尾と銀座を歩いているところを鈴木さんに見つかったらどうしよう。その時のためにいくつもの言い訳を考えた。けれど、どれもつきたくないウソだった。鈴木さんはほんとによくしてくれる。お金もきちんとくれるし、いじわるなところが少しもない。ただ、年齢が四十以上上なだけだ。その点、妹尾は数歳しかちがわない。話も合う。こっちは逆にちょっといじわるなだけ。
選ぶことなどできはしない。鈴木さんからもらっているお金でうちは生活している。芝居だ、ウナギだ、寿司だってお継母さんがぜいたくできるのも鈴木さんあってのことだ。妹尾は最初から浮気の相手なのだ。そんなこと分かってる。初めっから分かってる。向こうだって、妹尾だってそれを承知でわたしと付き合っている。馬鹿になんかしてないよと口では言うけれど、芸者と本気で付き合う気なんて銀座の坊っちゃんにそんな勇気があるわけない。
一人で考えているとグルグルグルグル同じとこばかり回ってしまう。台所の屋根に打ちつける雨の音に耳を傾ける。音に気持ちを集中していると頭の中がだんだん空になっていく。
廊下の電話を横目に見て、盆に乗せたうどんを部屋に運んで、火鉢の端にいったん置いて、ちゃぶ台を組み立てて、さぁ食べはじめようと思ったとき、電話が鳴った。みち子は唇を噛みしめる。出てはいけない。
妹尾からに決まってる。出たくない。出てはいけない。出たらダメだ。うどんを口に入れる。熱い。少しだけ唇を開いて入っているうどんを冷ます。電話は廊下で鳴りやまない。
耳をふさぐ。それでも聞こえる。少し鼻にかかった妹尾の甘い声がすぐそこから聞こえるにちがいない。「どうしたの、みっちゃん」妹尾は決して「お駒さん」とは呼ばない。「みっちゃん、ぐあいでも悪いの?」
たまらない。妹尾のやさしさがたまらない。以前冗談で妹尾が言ったように、いっしょに死んでしまっていたほうがよっぽどマシだった。そうすれば、何もかも今みたいじゃなく、すっきりしていたにちがいない。こんなにモヤモヤ、心がすることなど全然なかった。電話がやむ。呼び出しの長さがそのまま妹尾の気持ちの重さだ。この程度か……。
また鳴り出した。しつこいなぁ。自分でも意外なことに、笑みがこぼれた。
〈了〉