揺映
メッセージが終わると、無表情な静けさが宙を舞った。
ズボンのポケットにケータイをしまって歩きはじめようとした僕は、方向の感覚をなくし、目の前の大きな樹を見上げる。
僕は都心に広がる公園の脇に整備された土の小径を歩いていた。
麻子との約束の時間まではまだしばらくある。
径に沿って流れるせせらぎに反射した木漏れ日が、樹齢を重ねた太い幹にスクリーンのように映しだされ、ストリートダンスみたいに踊っている。深い緑の葉にできた隙間から射し込む陽は、午後の五時を過ぎても命の輝きを満喫しているみたいだ。
いつもの癖で取り出したケータイに見なれない着信の番号とメッセージが残っていた。
由美子さん、マスターのパートナーからだった。
僕がその店に通いはじめた頃、由美子さんとマスターの二人は互いに独身だった。
「これでも私たち籍を入れていたのよ」
ある時、由美子さんからそう聞かされたことがあった。マスターと由美子さんは結婚していたらしい。
「店を開いた時には別れていたけど」
くったくなくそう話す由美子さんの後ろで、マスターははにかんでいた。
僕はマスターが愛した古いモータウンの音楽を楽しみに毎週末その店に通っていた。
もうずいぶん前からファッションストリートといわれる大通りを少し脇に入り、坂を下りきったところに、コンクリートのおもちゃ箱のように建つ六階建てのビルディングがある。その一階に、人目をさけるようにマスターの店はあった。戸を開けるとすぐに横に小さなカウンター。その後ろをくぐるように抜けて奥に行くと、グラスが三つ並べばいっぱいになる丸いカウンターテーブルが二つ。十人も入れば店は一杯になっていた。
僕は賑わいが落着く遅い時間に店に通いつめ、マスターが作る小皿の料理を肴にバーボンを飲んでいた。マスターの料理は、僕の好物だった。
その頃すでに四十の半ばを過ぎていたマスター。若い頃はテレビや映画で少しは知れていた俳優だった。今でも十分に役者といわれてもおかしくない佇まいのマスターが、料理の腕をあげた理由を一度聞いた事がある。
マスターの断片的な話しをまとめるとこうだ。
テレビドラマや映画に出ていた頃も、マスターはまだ小さな劇団に所属していた。ところがある公演をきっかけに劇団は解散を決めた。その公演で主役をしていたマスターは、舞台で突然体が動かなくなったという。マスターは何度もその役を演じるよう試みたが、結局出来なかったそうだ。ひどいスランプに落ちたマスターはそこから回復することが出来ず、マスターの存在を頼りに運営をしていた劇団は解散し、同時にマスターは役者を辞めた。その道に留まるよう声をかけてくれた人も多くいたという。実際、店にも昔の仲間からの誘いが来ていたみたいだ。マスターは頑にそれを断り続けていた。
それでも時折芝居の話しをしてくれていたマスターが、一度カウンターの向こうから遠いどこかを見るように、
「違ってね……体と声が」
とつぶやいた事がある。
僕にはよくわからないけど、マスターによれば自分のなかに信じられないものがあると、体は思いとは違う方向に反応してしまうらしい。それは、役者にとって恐怖に近いものだという。マスターはそんな爆弾を自分の中にかかえていた。
役者をやめたマスターは、友だちが経営する雑貨の輸入会社でアルバイト程度に働いた。その頃に知り合ったのが由美子さんだった。由美子さんの両親は実業家で、結婚すればマスターもそこでの仕事が保証されていた。不自由のない生活は準備されていたということだ。
けれどマスターはその生活には満足しなかった。子どもの頃から料理が好きだったマスターは、入籍してすぐに由美子さんに何も告げることなく、突然東京から消え、海辺の温泉街にあった懐石旅館で本格的に料理人として修業をした。
マスターはれっきとした料理人でもあった。
懐石旅館で一通りの仕事を覚えた頃、景気がひどく落ち込み旅館の経営が傾いた。マスターは東京に帰り、由美子さんと再会した。
店はそんな時に始めた。
音楽と二人を知る人たちに愛された店はいつまでもそこにあるものだと思っていた。
五年目の夏だった。
突然原因不明の頭痛がマスターを悩ますようになった。気分が塞がったまま体調がもとのようにならない日がつづき、どうしようもなく二人は店を閉じた。
マスターが体調を崩し、店を閉めて三年がたつ。
由美子さんの声を聞いたのはそれ以来だ。
メッセージには先月マスターが死んだこと。葬儀は身内で済ませたこと。来月お別れの会を常連でやりたいので参加してほしいと、残されていた。
由美子さんの声は以前と変わらず、優しく明るい響きだった。
マスターが、死んだ。
僕はやっと頭の中でその言葉を繰り返していた。
少し歩みの遅くなった僕のほうに、若い母親と三歳くらいの女の子が小型犬を連れて歩いてくる。小型犬は娘の前でリードがピンとなるまで勢いよく小刻みに足を動かし、左右に移動しながら不規則に進もうとしていた。
人の死は、ここではささいなことなのかも知れない。
僕は、もう一度径にできた、ちいさな森を見上げる。
樹々の葉は大地の栄養をしっかりと天にさしだすように艶やかに輝く。そしてきっと秋になると、ささやかな空気の動きに動揺して地面に戻り、自分の役目が次ぎの段階に来た事を知るのだろう。
日々の営みが静かに流れ、誠実に実行されていく時間。
マスターはどこへ向かって逝ったのだろう。
それを考えても仕方の無い事だけど……。
軽い目眩を感じながら、僕はマスターの店で出会ったひとりの女性のことを思いだしていた。
名前は……、美香だった。
ある日、店を訪ねると見なれないまだ二十歳くらいに見える小柄な女性がいた。知り合ったばかりの客とみょうに空騒ぎをしている彼女に落ちつかない僕に気づいたのだろうか。マスターは、彼女は付き合っている彼氏に振られたやけ酒みたいだから許してやってよ、と申し訳なさそうな顔で教えてくれた。
僕が一杯目を飲み終えた頃には彼女も静かになっていた。
二杯目を頼み、彼女にも飲みたいものをと、マスターに伝えた。
なぐさめるつもりだったわけじゃない。
僕がそうしなければならない理由はなかった。ただ、マスターの眼がそうしてほしいと告げていたように思えた。
その日僕は二杯目のバーボンを飲み干すと、そのまま店を出た。
その夜、彼女とは一言も会話はしなかったはずだ。
数週間後、再び彼女は店にいた。
「この間はごちそうさま」
カウンターに着いたばかりの僕が気配に気付いて振り向くと、目の前にまっすぐな瞳をした女性の笑顔があった。
驚いて思い出せないでいる僕に、
「胃袋は恩を忘れないものよ」
と彼女。
失恋していたこの前の女性だということに僕はようやく気づいた。
彼女は空いていた隣の席にグラスをもったまま腰をおろし、僕はマスターがいつものバーボン用意してくれるのを待った。
そのまま互いに構わずに飲んでいた僕たちも、マスターを交えて音楽の話しや、それぞれの仕事のことを話すようになり、まるで以前から気心の知れた仲間のようになっていた。
R&Bが好きになったのは、つきあっていた彼からの影響だったらしい。彼女の年齢にしては古い曲のことも知っていたので、きっと年上の彼だったのだろう。
池袋の編集プロダクションでデザイナーとして働いているとのことだった。
小さな服飾メーカーを仲間と立ち上げたばかりの僕は宣伝と広報の役回りをしていた。
住んでいる世界が近かったせいか、僕らはすっかり二人で話し込み、酒もしこたま飲んだ。
気になるポスターのコピーやウェブデザインのこと、映画の映像や役者の話しをしているうちにすっかりと深く夜の時間が刻まれていた。
他の客はひき、マスターと由美子さんはカウンターの中で椅子に座って休み、隣の彼女もいつのまにかうつぶせになって、軽い寝息をたてている。
「マスター、この子どうしよう」
「置いていってもいいけど、迷惑じゃなきゃ連れてってくれる?」
「大丈夫かな?」
「健なら平気だよ。今、彼女もいないことだし」
「余計なことですよ。じゃ、家のベッドで寝せるから、マスター、タクシーを拾ってくれる?」
そう言って僕は彼女を抱きかかえた。
「お姫さまだっこなんて幸せね」
由美子さんがからかうように微笑んで、彼女のバックを拾ってくれた。
「これ、忘れないようにね」
「うん」
由美子さんが店のドアをあけ、マスターが目の前に止めたタクシーのシートにすべるように彼女の体を座らせた。
「じゃまた」
「やっかいかけるね」
とマスター。
「お楽しみはこれからね」
由美子さんが茶目っ気たっぷりにいう。
「困るよ、誤解しちゃ」
そういって僕もシートに深く座った。
「また」
「またね!」
二人は軽く手を振って送ってくれた。
静かに走り始めたタクシーの中で、彼女は相変わらず可愛いく小さな息を刻んでいた。
マンションに着き、華奢な彼女の重さを感じながら背負ってベッドに運ぶ。
横に寝かせるとき、シャツが少しはだけて彼女の白くつややかな背中の肌があらわになった。
服を整えようと彼女の背に手をまわす。長く伸びた髪をそっと横にはずした時、隠れた首元に痣があった。僕はそのまま、ゆっくりと彼女のシャツをおろした。透き通る肌に青黒く固まった色素が不自然に大きく固まっている。
彼にふられたなんて嘘だ。
そのまま彼女を寝かせつけると、僕は急にだるさを感じ、ソファーに腰を下ろした。
時計は三時をまわっていた。
十分飲んだはずなのに、喉の乾きを感じた僕は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
時間をかけて半分を飲み終わった頃、
「迷惑かけたわ」
起きて来た彼女が後ろに立っていた。
「寝ていていいよ」
「うん」
「駅は近いけど、電車まではしばらくあるし」
「ありがとう」
彼女はそう、つぶやくように答えた。
「それよりも……」
僕は痣のことを聞きかけて途中で言葉を止めた。
「見た?」
と彼女。
「うん」
「聞きたい?」
「別に、話したくなければいいよ」
「彼よ」
「じゃ話さなくていいから」
「聞いてくれないの?」
「いいけど、でも今じゃなくていい」
「普段は優しい人なの。でも仕事で深酒してくるといつもなの」
「で、帰るの? 彼のところへ」
「ううん。やっと決めたの。明日、福井の実家に帰るわ。もう今朝のことだけど。ふられたわけじゃなくて逃げるの」
「そう、でもその前に休んだほうがいい」
「好きなのよ、今でも」
「でも、その背中のまま帰っちゃダメだろ」
「ええ……」
「じゃ、休む事だ」
しばらく彼女は黙っていた。
「抱いてほしい」
ゆっくりとのみ込むように彼女は言った。
「疲れているだけだよ……。今は横になったほうがいい、そんなことを言っちゃダメだ」
そう僕が言い終わらないうちに彼女は後ろに向いてシャツを脱ぎ、ブラジャーを外していた。
彼女の体が露になる。大きな痣のある背が細く震えている。静かにこちらを向くと、小さく美しい乳房が部屋の明かりに照らされていた。
彼女はDVの彼から逃げるつもりだった。
「怖い?」
彼女は聞いてきた。
「怖がっているのは君だから……彼に」
「忘れたいの」
「分かったけど、今日はよそう」
「ひとりだと怖いから」
彼女の体はまだ小刻みに震えているみたいだった。
「分かったから」
僕は彼女を包むようにだいて、
「もういいから、今日は服を着て。ベッドにいこう。そばで寝ているから」
と言った。
「うん……。ありがとう」
彼女は力なく僕の腕をほどく。少し、落ちついたようだった。
「一口いい?」
彼女は僕の飲みかけのビールを口にした。
僕たちはそのままベッドに行き、僕の腕の中にくるまって彼女は横になった。
腕を背中に置いた時、彼女の体が大きくピクッと動いた。
「ごめん」
無意識の僕の動きにすまないと思った。
「いいの、しょうがないの」
傷ついた彼女の体が反応する。
手を彼女の腰のほうへ下ろして体を寄せた。
安心したのか、彼女はそのまま目を閉じる。
しばらくして彼女は深い眠りに入った。僕はそのまま寝つけないで彼女の寝顔を見続けていた。
どのくらい時間がたったのだろう。
外が明るい気配になったので、僕は彼女が目を覚まさないようにそっとベッドを抜け出してコーヒーを入れた。
「おはよう」
ソファーでうとうととしていた僕は彼女の声に起こされた。
「おはよう。冷めているけど、コーヒー、飲む?」
「いいわ、いらない」
彼女の澄んだ声が心地よく思えた。
「行くの?」
「うん」
「朝食は?」
「いらない、いつも食べないから」
「このまま駅へ?」
「そうよ」
「実家?」
「そう」
力のない返事だった。
「じゃ、気を付けて。マンションを出て右に行けば駅だから」
「ありがとう」
僕はソファーに腰かけたまま彼女を見送り、ドアを開けて出て行ったのを確認すると、そのまま強い眠気に身をゆだねた。
一カ月がたった頃だろうか、一通の手紙がポストに入っていた。
封筒の裏には「『ビッグジャム』の忘れ物」と書かれていた。『ビッグジャム』はマスターの店の名前だった。
封を切ると彼女からだった。あの日の礼と、実家での暮らしも落ちつき、元気にしていることが書かれていた。
消印は京都だった。
後で知ったことだけど、彼女がDVにあっていることも、その朝彼から逃げて実家に帰ることも全部マスターは分かっていたことらしい。
まったく、マスターらしい悪い冗談だ。
だけど、マスターの優しさは、いつも後になって分かる。
きっと彼女もそのことに今頃気づいているかも知れない。
向こうから、歩いてくる若い男女。
静かに寄り添う二人が眩しく通り過ぎる。
ケータイが鳴った。
由美子さんからだった。
「さっきはすみません」
「いいの」
「マスター、残念です。急で」
「先月の二十日だったの」
「病院で?」
「ううん。自宅」
「そうですか」
「二日たっていたの」
「えっ」
「キャンプの約束をしていて、時間になっても来なかったの。普段遅れる人じゃなかったし、メールも電話にも出ないからおかしいと思ってアパートにいってドアをあけると、クーラーをつけたままベッドにちょこんと、入り口のほうを向いて座っていたの。最初は死んでいるなんて思わなかったわ。でかけようとしていたみたい。ちゃんと服も着ていたから。でも呼びかけても全然動かないし、本当に冷たくなっていたわ。どうも私が行った日の二日前にはそうなっていたようなの。それで検死とかして……」
マスターの仲間は以前から月に一度は、海か山にキャンプに出かけ、マスターはそこで仕入れた食材で料理をつくってくれていた。由美子さんの話しだと、先月のその日にマスターが死んでいたのが分かったということらしい。
「そうだったんですね」
「救急車を呼んで、警察とか、大変だったのよ。私も一応調べられて」
「死因は……病気?」
「心不全。本当の原因はよく分からないってお医者さんは」
「由美子さん、大丈夫ですか?」
「ええ、やっと落着いて。葬儀はこちらで一通りすませて、彼の実家のほうへ納骨を先週すませたばかり」
マスターは北海道の出身だと聞いた事があった。
「でも、本当に信じられないです。実はマスターとは先々月の中頃電話で話をしたばかりだったので」
「そうだったの?」
七月の中頃、僕は出張で大阪にいた。慣れない駅で行き場を迷っていた時、マスターからの電話が鳴った。
「ひさしぶりです。元気ですか?」
マスターからの電話に驚いて思わず大きな声で電話に出た。
「あー、覚えていてくれた。こっちは全然駄目だよ。頭がバカになって」
「そんなことないでしょう。声、元気だし」
「ところで、あの話だけど」
「えっ」
僕はちょっと答えに詰まった。何のことか、分からなかった。
「ほら、パーティーのケータリング」
「ああ」
半年も前のことだった。クライアントを集めたパーティーの食事をケータリングでと考えたので、マスターに相談した。
「あれ、どうなった? やってもいいけど」
「えっ」
「今は少し体調がいいから」
相談をもちかけたとき、マスターは最悪の体調だったので、パーティーは別のかたちですませていた。
「ごめんなさい。企画がなくなったので」
「そうだったんだ」
「また、何かあったら相談させてください。ところで、元気なら店、再開できそうじゃないですか」
とっさに僕は誤魔化していた。
「今は駄目だよ。頭が悪いから」
「声、元気ですよ。また落ちついたら店、出して下さいね」
「うーん。治ったらね」
「大丈夫ですよ、きっと」
そんな会話をして、近いうちの再会を約束し、電話を切っていた。
「その時は元気そうでしたよ」
と由美子さんに伝えた。
「でも、あんまりね、良くはなかったの。お別れの会は来月、十月十三日、青山のレストランで。ぜひ来てね。あとでメールするわ。アドレスは変わってない?」
「ええ、大丈夫です。伺います」
「じゃ、よろしく」
十三日。麻子の誕生日と重なったことに電話を切って気がついた。
少し小太りの白人の男性が通り過ぎる。旅行者だろう。
半袖のTシャツ姿の彼は、この小径を満喫するようにゆっくりと大きな歩幅で歩いていった。
麻子とはちょうどマスターたちが店を閉めた頃に出会った。
彼女は取り引き先の店の店長をしていた。
互いに好きな音楽や絵の話しを通じて親しくなっていた僕たちは自然に付き合うようになっていた。
その店のオーナーの姪だということは、付き合いはじめて程なくして知った。
オーナーは僕たちが交際していることは知っていたし、応援もしてくれている。ただ、彼は麻子を、パリとミラノに三年間研修に向かわせるつもりだったらしい。そのことを聞かされていた麻子は迷っていた。
僕からのプロポーズがあれば、麻子もオーナーもその計画はやめにして別な生き方に舵をきろうとしているのは、この頃の二人の会話からよく分かっている。
二人は息を潜めるように僕の言葉を待っていた。
僕のポケットには今日も指輪を忍ばせている。
僕は僕の責任を果たす時期になっていることは知っていた。
付き合いはじめた時から、麻子と結婚するつもりになっている自分にはとっくに納得しているはずだった。互いに三十の半ば過ぎた年齢でそのことを考えるのは特別なことじゃない。
でも、今は少しのこのことで気まずい空気があるのも感じていた。
指輪をもちはじめて、もう三週間がたっている。
今日……?
今日それを告げれば麻子は喜んでくれるだろうか。
僕には決められないでいた。
翳った径の先のほうが明るくなった。
この小径のもう一方の出口。
ここを歩いく間に心を決めるつもりでいた。
でも、マスターのとんだ悪戯で、そのつまらない目論みは見事につぶれた。
結局は気持ちだった。僕の……。
少し早く着いた僕は店の前で待ち、時間通りに来た麻子と店に入った。
何度か訪れたこの店は、僕たちにとって居心地のいい小料理店だった。
飲み物を頼み、小鉢が運ばれてくる。
久しぶりにこの店に来たことは、麻子も喜んでいるみたいだった。
ビールで乾杯をして、出された粒貝の料理を口にした。
「ああ、これだ……」
僕はマスターが出してくれた貝料理のことを思い出していた。
口に含んだ瞬間、潮の気配を感じる。
マスターのつくる料理もそうだった。
ほんのちょっと顔を出して消える磯の香り。命の残り香のようなもの。
「ずるいな、マスター」
心の中でそうつぶやいた。
もう一口、箸をすすめた。
ゆっくりと噛みしめるように舌の感触を確認する。
「ずるいよ」
僕は小さく声にした。
「えっ」
麻子は少し驚いていた。
「いや、ちょっと、ほかのことを考えて……ごめん」
僕はポケットの中の指輪を握り直していた。