華
ここから列車を眺めているのが好きだ。
小さな頃、夕方になると伯母に連れられて、近くの丘にのぼり、遠くをゆっくりと走る二両編成の電車を暗くなるまであきることもなく見ていたのを思い出す。
落ち着くからだ。
八本のレールの上にかかる橋から行き来する列車が、糸が通るように流れていくのをただ眺めている。
ゴーっという音が迫ってきて消える。そして少しの静寂があって、背中からまたゴーっという音が、こだまのように足もとをこちらからあちらへと過ぎていく。
頭を空っぽにするというのはこういうことなのだろうか。
海岸の波打ちぎわで、山のせせらぎで、高原の夜空で人はそうしたものを求めるらしい。僕はここみたいだ。
こんなに大きな音でいいのなら、歌舞伎町の中だって落ち着くのは当然だ。
確かにそうだった。と思いたい。
雑踏を歩く人々の顔がのっぺりとグレーに塗られる時間。欲望を隠すことのできない眼差しは、夕暮れの川面で虫に食らいつくように飛び跳ねた魚がキラリと光る刹那に輝くナイフの刃紋。
黒い影の塊りがこちらへ容赦なく押し寄せてきて僕の視界を困惑させ、その集団はネオンの光の中に怒涛のように流れ込んでいく。
飢えたような喧騒がビートを刻み、哀しみも歓びも、栄光も挫折も渦のように蹴散らかして新宿の天空に響かせる。
嘆くような人のうごめきだけが存在する時間。昨日も、今日も、そして明日も同じように繰り返し現れる。
僕はそこに立っている。
彼はどうだったのだろうか。
美大の受験に失敗して、逃げるように地方都市を離れて東京に来てしばらくして、彼、良二も東京にいることを知った。
正直、彼のことはあまり気にしていなかった。
というよりも、ほぼ知らなかった。
同郷の友人に歌舞伎町のライヴハウスに誘われ、そこでエレキギターをかき鳴らしていたのが、彼だった。良二とはたぶん、地元のライヴハウス、もしかしたら公会堂。公会堂という響きは笑ってしまう。懐かしい……。ともかくそうしたところであったイベントで顔を合わせていた程度のことだったはずだ。一度だったか、二度だったか。
上手い。良二のギターはそんな時からピカイチだった。地元のバンド仲間のだれもが彼がプロでデビューするのは当然のことだと思っていた。良二とはそういう男。それは間違いなく僕の中にも残っていた。
東京で初めて見たときの良二は、まさにプロへのスタートのポジションに立とうとしたときだった。
ライヴの打ち上げで久々に顔を合わせた良二だったが、彼は不思議と僕のことをよく覚えていたらしい。
きっと良二もバンド仲間を通じて僕のことを知っていたにすぎないのだが、絵を捨ててないかと気にかけてくれた。その当時の僕はペインティングナイフをいつのまにか錆びさせてしまうほど絵から離れていた。
答えを曖昧にした僕に、続けているならいいさと言って笑ってくれたのを覚えている。
続けているならいいさ、と僕は今つぶやく。
ほどなくして、良二は東京で組んだバンドでメジャーデビューを果たしたと聞いた。地方のライヴハウスをまわりながら、地元のテレビ局にも取り上げられて話題になっているらしいと、同郷の友人から聞いた。
故郷に錦を飾る、だった。
僕は彼のCDを聞いていない。いつかは、と思っていたが、東京での時間にいつかは、はなかった。
二年くらいたってからだろうか、数枚のCDを出した後、鳴かず飛ばずのままバンドは解散した。地元から出てきた後輩のレコーディングに参加しながら、自分でも細々とライヴを続けているということだった。
高円寺で飲み歩いている良二の姿を見たという噂も同じ頃に聞いた。あまりいい飲み方ではないみたいだった。
その頃から僕は時々良二と飲むようになった。
良二は、ツェッペリンはいいよな、なあ、と酔いで言葉になっていないまま、しゃべり疲れてはカウンターに寝落ちする。良二のやつ、ロックだっていいながら自分のやっていることは売れない演歌歌手とのコラボだった。迷走していた。でもそれで僕らはいいと思った。迷走だが、走っている。だからいいんだ。酔っているけど……。
いつか、良二は自分のケータイに入れていたライヴ録音を聞かせてくれた。地元の先輩の音源だった。もう十数年前の。
良二はそれを聴きながら、音楽してるよな、これ、最高だろ、と、しつこく僕に同意を求めた。ピッチのくるったリードギターがキンキンと唸る。音源にひろわれていた先輩のヴォーカルは最低だった。でも、確かに僕の心はふるえた。何故だかわからなかったけど……。きっと僕も酔っていたのだろう。酔いに響く音は時に真実よりも強く心をえぐる。
数年の後、良二はすっかりギターをケースからとりだすことはなくなり、僕たちの前から姿を消した。
それにしても、良二が何故僕のことを覚えていたのか不思議だった。
夕べ同郷の友人から、若い頃良二が僕のことを羨ましいといったことがあったと聞いた。ベースをやめて、絵の世界を目指した僕のことを知って、俺は音楽しかできないからといったという。
それだけ切実な良二のことを僕はどこかで羨んでいたのに。
数日前、区役所通りに一人の男がギターを抱えたまま転がっていた。
冷たく青白いままゴミのように固まっていた男。それが良二だった。
そのことを聞いた夜明け前の花園神社の脇道がとてつもなく簡素でなんでもないことに初めて哀しいと思った。
酔いつぶれた女が地べたに座ってスカートの中からあらわに下着を見せていても……。
続けているならいいさ。
鉄橋の上で僕は、空っぽになれない自分を憎く思った。