しあわせ
見上げると遥か向こうの稜線のその先に鮮やかな青が広がっていた。
何度陽が沈み、幾度の朝焼けを眺めていたのだろうか。崖にはりついた岩はもろくすべりやすい。困ったことにその表面はツルンと滑りやすくもある。
森も林もないこの道はひたすら上に向かう。自分の体ほどの細い幅の道がただ目の前に続いていく、それだけだ。急な坂があるわけでもない。時折乾いた谷を渡す透明な橋が現れては消えていく。
さすがに少しは汗ばんではいるのだけど、不思議と暑さも寒さも感じない。眼下に見える山の尾根は白く雪を纏っているので、気温は低いようなのだが、僕にはその感覚はない。
鈍く光る黒い岩肌は時折、赤味をおびたかと思うとくすんだ濃い灰色にもなる。
僕はただ歩いている。
いつか、禅寺で迷い込んだ牡丹の花が白く霞む、塔頭へのなだらかな坂の小径を思い出していた。
物質のないほのかな香りが頭のほうに甘く漂っていたが、はたしてそれが嗅覚を刺激して感じていたものなのか、自覚のないものだった。
ただ、その時と違うのはどうやらこの道の先にはなにも建物はなさそうだということだ。歩いていると、以前どこかの美術館でみた明の水墨画に描かれた文人が歩く山道のようにも思っていたのだけど、長閑な詩歌を仲間と楽しむ東屋はないようだ。
ともに歩む誰かがいるわけでもない。僕はなぜか、ただこの道の示す方向に従って足をすすめていた。
道のはずれに何度か同じ岩が現れ、それがしだいに下のほうに見えるようになった。僕はバベルの塔のようなかたちの山を回りながら登っているのだろうか。空腹も、喉の渇きも感じないということは、自分で感じるほどの時間を歩いているわけではないのかもしれない。
今なら出来るのかもしれない。
あたたかなそのあなたの肌のぬくもりを感じるところまで飛んでいけるのかもしれない。
この道を飛びおりると、そのまま体が浮いてあなたのいるその場所まで辿り着くのかもしれない。安らかに眠る、あなたのその静かで規則正しい時の刻みを乱すことのないままに。
だけど、それは賢明なことでないことぐらいはわかっている。
そんなことをしても、あなたの心のかけらも救うことはできない。
あなたはその辛い思いをここに残し、遠く、穏やかな時に向かっていったのだから。
道をえぐるように削る谷が現れたのをみて、あなたのいつかの面影が意識の呼吸を刺激した。
少し休憩をとろう。せっかく深く青い空を見ることができたのだから。目的もなければ、急ぐ道のりでもない。
だから僕は休憩をとろうと思う。そうやって、のんびりとこの道をたどって進んでいこうと思う。
この無駄な岩肌のツヤをあの人ならば、どう語っていたのだろうか。
僕は道の脇に聳える岩の崖をみた。
これでよし、としたのだろうか。きっとニコリと笑いながら首を横にふったに違いない。
たぶん、きっとそれは美しくはないものだったから。
でも彼は、
「これも、在るものだからね」
と涼しい顔で小さく頷いただろう。
彼の声が岩の裏側から聞こえたような気がする。
風が強くなってきた。
この風がおさまるまで、しばらくここに留まっていよう。
それも悪いことではないだろうと思った。
青い空があるのだから。
頂点に現れた巨大な穴の底には、鮮やかな緑の液体が泡だち沈んでいた。