しあわせ
富田 芳和
おと
誕生日のその日、啓子の目を覆っていた包帯がはずされた。
二ヶ月前、夫の康夫は啓子の耳元でささやいた。
「今年のバースデープレゼントは、きっとびっくりするよ」
啓子は緑内障の悪化で、10年前に完全失明していた。内科医の康夫は、IPS細胞の臨床試験で、治験者を探している噂を大学の後輩から聞き、つてを使って、啓子をその一人にねじこみ、臨床手術を受けさせたのである。啓子はIPS細胞で視神経を再生する技術がもうほとんど完成していることを知らなかった。
啓子が失明してこのかた、夫婦関係も家庭の中もめちゃくちゃになっていた。啓子はまるで康夫のせいで病気が進行したかのように、ことあるごとにあたりちらし、しまいに家事のすべてを放棄した。病のせいでやむを得ないことでもあったが。
康夫は外に女をつくった。つくってから、啓子への対応が妙に優しくなった。啓子は説明できない何かに不審をいだき、ますますわがままになった。康夫は
啓子の手がとどかないような大きな鷹揚のベールで、啓子を覆った。
啓子が目を開くと、生え際が少し後退し、目尻にしわがふえた男の顔があった。
「あなた」
「どうだい」
啓子の口が驚いたように開き、目に涙があふれた。
「見える。見えるわ」
「よかった。成功したんだよ」
退院した日、さっそく快気祝いをしようと、康夫は家の近くのフランス料理屋に席を予約していた。夫に支えられての帰り道、啓子がずっと考えていたことは、10年ぶりにゆっくりとメイクをして一番のお気に入りのドレスで身支度を整えることだった。テーブルについたら、康夫はきっとまた言ってくれるだろう。昔、なんども聞いたあの言葉、「きれいだよ」と。
化粧台のある自分の部屋に入り、ドアを締める前に、啓子は夫を振り返り、微笑みを投げた。
康夫はドアの外に、音を立てずそのまま立っていた。化粧台の三面鏡を開くかすかなきしみが聞こえた。そのあとは、耳をすませても身じろぎひとつの音も聞こえなかった。
それから三分も経ってはいなかったかもしれない。でも何かが起こるのを康夫は待っていたので、とても長い時間に感じられた。
突然、ガラスが砕け散るすさまじい音が部屋の中に響き渡った。彼女が化粧水の瓶か何かを、思いっきり鏡に投げつけたのだろう。
康夫はしばらくじっと立っていたが、ドアは開けず、そのまま足音をたてないようにして階下に降りていった。
におい
英二は好物の中トロを頬張りながら、もごもごと話しかけた。
「おやじ。そういえばショートカットの若い子見ないじゃない。なんて言ったっけ」
「ああ絵里ちゃん? やめてもらったよ」
「なんでえ。看板娘になってたんじゃないの」
「そうですけどね。ときどきこっそり香水つけてくるんですよ。カレと会う夜なんだろうけど。でも、うちはこういう商売しているから、香水はご法度なんですよ。で、叱ったんだけど、二回やらかしたんで、こりゃだめだと思って」
「ありゃあ、そうなの」
そのとき、英二は一計がひらめいた。こいつはいいかも。
「上がりちょうだい」
光一は、英二の妻紗世の親友佐藤恵利の長男で、学生時代から英二のうちによく遊びに来ていた。恵利と妻のたっての頼みもあって、光一は先月、英二の会社に入社した。縁故なのであまり当てにはしていなかったが、予想外に使えるので、たまに飲みにつれていく。
不信が湧いてきたのは、英二が接待で遅くなって帰ったある日のことだった。光一が遊びに来ていて、それだけならまだいいが、妻が特別の外出のとき以外つけない香水をかすかに漂わせていたからだ。
寿司屋に行った翌々日、光一を飲みに誘った。
「ふぐは食ったことあるか」
「ふぐ? いやまだありません」
「そりゃいけない。うちは大阪にも出張があるんだから、ふぐぐらい食ってないと、接待もできんぞ。こんど連れて行ってやろう」
「はあ、ぜひお伴させてください」
光一は興味が湧いたと見えて、目を輝かせた。
さっそく翌週、福松の座席を予約した。さほど高級な店ではないが、昔から英二の懇意の店だった。中居のうめさんには、ときどき心づけを渡しているので、言いつけは何でも聞いた。
大皿にいっぱい敷き詰められたてっさは、染付の絵柄がくっきりと見えるほどの見事な薄造りだった。
「ふぐっていうのは、味もさることながら、抜けるような肌の色をめでて、湿りをふくんだなめらかな感触を口の内で楽しむのが醍醐味なのさ」
ふぐで何か卑猥なことを暗示させようとしているのは、光一にもわかった。
英二は箸を袋から出して自分から十枚ぐらいをつかむと、薄口を軽く付けて頬張った。
「こうやって一気にやるのがうまいのさ。さあ、遠慮しないで。君なら20枚ぐらいいけるだろ」
「はい」
光一は言われたように、箸を目一杯ひろげて、皿の半分近くのふぐをつかんだ。そのまま運ぶのがせいいっぱいで、醤油もつけずに口に押し込んだ。
とたん、光一の頬が硬直したように動かなくなった。
「どうした」
「あのう」
ようやく口が動き出すと、ほとんどかまずに一気に飲み込んだ。ちょっと苦しかったのか、目に涙がうかんでいる。
「口に合わんか?」
「そうじゃなくて、この匂いってこんなもんなんでしょうか。香水みたいで」
「まあな、新鮮だからな。香水って言えば言えるかな。まあ、あとぜんぶやっちまいなよ」
「はあ」
光一は顔をしかめるのを必死でこらえながら、箸を伸ばした。光一はその匂いをどこで嗅いだのか、いまははっきり思い出していた。
翌日、英二は仙台へ一泊の出張にでかけた。昼休みに紗世からの電話が光一の携帯に入った。
「今夜はゆっくりできるでしょ」
「はあ」
紗世の語尾には、ねっとりと甘えるようなイントネーションがあったが、今日はいつものような興奮が背筋を走ることはなかった。
「はあって何よ」
「わかりました」
ちぐはぐな受け答えで、光一は電話を切った。
光一の唇は、紗世の腹をはいのぼっていた。しなびたねっとりとした白い谷間に顔をうずめようとしたそのとき、舌の動きが止まった。彼の興奮は空気を抜くように収束していった。
「どうしたの」
「ああ、いえ、なんでもないです」
あの、ふぐを口に入れたときの香水の匂いが、光一の鼻をついた瞬間から、活力がしぼんだまま二度と蘇ることはなかった。
翌日の夜、英二が帰宅すると、紗世は無性にいらいらしていて、十も歳をとったような肌の色になっていた。英二は自分の企みがうまくいったことを確認できたので、たまらなく愉快になった。
リング
……1月13日金曜日。
彼女はなんとリングを受け取ってくれた! 舞い上がりそうな体を鎮めるために、ぼくはコップの水を一息に飲み干した……
彼女、倉原舞子は赤葉台駅前の地元不動産、「ハッピールーム」の営業スタッフだ。昨年10月はじめ、ぼくは赤葉台に住みたいと思ってアパートを探しはじめた。派手なピンクの文字が踊る「ハッピールーム」の看板は、いかにも怪しげだったが、引き戸を開けると店番をしていた舞子と目があった。土曜日の昼下がりに店番をしている社員は、新人かバイトだろうと思った。あとでわかったことだが、彼女は勤続3年の正社員だった。
ちょっとぼんやりした感じで、言葉遣いもおどおどしていたので、物件探しの相談を本気で持ちかけようかどうしようか一瞬迷ったほどだった。でも、ぼくの顔を真っ直ぐ見る子鹿のような目と、どんな言葉も聞き逃すまいという、どんくさいほどの真面目さがぼくの心をとらえた。
その日から、彼女と10数軒のアパートを回った。そのうちの何軒かは、これでいいかなと気に入りかけたが、ぼくはあえて首を振った。もし決めてしまったら、もう舞子と会えなくなってしまう気がしたからだ。
彼女はけしてめげなかった。何度ダメ出しをしても、はじめて会ったときの表情でぼくに次の物件を案内してくれた。ただ、ぼくの要望に合った物件のストックがなくなりかけているのか、だんだん彼女の顔が曇り始めているような気もした。
12月20日火曜日。ぼくは次の一軒で決めよう、でも、もうひとつ大事な申し出も彼女に伝えよう。
ようやく、温めていた一大決心を決行する腹が座った。
その夜、電話があったのは舞子の方からだった。9時を回っていた。
「夜分すいません、こんな時間に。ひとつどうしてもご案内したい物件があるんです。明日の土曜日はご都合いかがでしょうか」
心臓が高鳴りはじめたこともあって、ぼくの口調は少しそっけなかったかもしれない。
「夕方だったら、大丈夫ですけど」
舞子は、はじめのおどおどした話し方から、いかにもほっとしたような明るい声に変わった。
「ありがとうございます。では、午後四時にお店の方でお待ちしています。ほんとに、ありがとうございます」
12月21日水曜日。
駅から歩いて10分ほどの住宅街にあったその物件は、意外なことに一戸建てだった。白い外壁にはシミひとつなく、玄関までの短い階段には泥ひとつついていない。築年数は5年というが、新築でも通用しそうな真新しい外観だった。
「3LDKに小さな庭もついています」
「でも、ぼくの予算ご存知ですよね」
「だいじょうぶです」
ぼくが関心を持ち始めたのに気づいて、にっこり笑った。
舞子は、ゆっくりと時間をかけて一部屋一部屋詳しく説明しながら案内して回り、どんな瑕疵もないことをぼくに点検させた。
パーフェクト! しかも、6万8千円!
「こんなに広いと、いっしょに住む人を探したくなりますよね」
思わず口をついたぼくの軽口に、彼女は顔を赤らめた。彼女のいかにもうぶな表情がぼくの背中を押してくれた。
「オッケーです。決めました。それで、お祝いにこれからご飯食べにいかない」
舞子は恥ずかしそうに微笑んで、小さくうなずいてくれた。
1月10日
年末はいろいろと雑事が立て込んでいたこともあり、引越は年を越して、1月にずれこんでしまうことになった。ただ、舞子との週末のデートだけは欠かすことなく続いていた。
敷金礼金と3ヶ月分の家賃計34万を不動産屋の口座に振り込んだ。それと彼女への18万したブランド物のプレゼントを買うと、ぼくの全財産はなくなった。会社が倒産し、かろうじてもらった退職金は、心機一転この街に移り住んで新しくはじめるための軍資金だった。
でもなんとかなるさ。ぼくはもっと大切な宝物を手にいれたのだから。ぼくの未来にはどんな障害もあるはずがなかった。
1月13日金曜日。
「ハッピールーム」の近くの喫茶店で、舞子から鍵をもらうと、ぼくはショルダーバッグからリボンのついた小さな箱を差し出した。
彼女は箱を開けてそれを出すと、かすかに震える手で左手の薬指にはめた。彼女は目に涙をためていた。ぼくをじっと見てうなずいた。
「もうひとつ」
ぼくは、受け取ったばかりの二つの鍵のうちのひとつをリングからはずし、彼女に渡した。
舞子は右手にそれをのせ、リングのついた左手を重ねた。彼女はかけがえのないプレゼントを手にいれて感動している……。
そのとき、ぼくは確かにそう信じた。彼女は確かにしっかりと何かを手にいれたことは間違いなかった。
1月15日日曜日。
引越は22日と決めていたが、その日は、朝から新居の掃除に励んでいた。ほとんど汚れてはいないことはわかっていたが、2月になれば舞子も来ることになっているので、念には念を入れてピカピカに磨き上げておきたかった。
その日、ちょっと妙なものを二階の6畳間の天井に見つけた。照明器具から50センチほど離れた位置に、天井板と同じ色に塗られた10センチ四方の金属製のプレートだった。非常に頑丈そうで中央付近に、おおきく深いネジ穴が三つ穿たれていた。
夕方近く、白い作業着に軍手をはめて、外壁のホコリをぶらしでそうじしていると、前の家から中年の女性が現れ、近くに寄ってくると小声で話しかけてきた。ぼくを建築工事の作業員か何かと間違えたのだろう。
「引越があるの」
「ええ」
「よかったあ。だれも住んでいないと不用心で心配だったのよ。でも、よく借り手がついたわねえ」
「え、どうしてですか」
「だって、この家でもう二回も自殺があったのよ。それも独身の男性ばかり」
もうそのときは、ぼくがここに越してくるとは言い出せなくなっていた。心臓が強い鼓動を打ちはじめ、顔がこわばるのは分かっていたが、ぼくは作業員になりきって、しばらく世間話につきあった。
なぜ、舞子は言わなかったのだろう。
ぼくは最善の解釈をしようとした。賃貸契約では大きなルール違反だが、会社は彼女に教えなかったんだ。
いや、そんなことはありえない。
「ハッピールーム」のあの怖そうなマネージャーが、仕事のノルマで彼女を追い詰めていたのかもしれない。彼女は心が傷んだに違いないが、運良くちょうどぼくが交際を申し込んだので、いつか自分もそこに住むという見通しで、贖罪された気になったのかもしれない。
そろそろ帰ろうかと思って、キッチン戸棚の最上段を点検していると、もうひとつ奇妙な忘れ物を見つけた。
長さ1メートルぐらいのワイヤのロープで、3本のワイヤを編んで作られた頑丈なロープだった。一端が輪になっていた。ロープのはじに小さなリングがあり、そこにロープを通して作った輪だった。輪を持ってロープを引くと輪が締まるしくみになっている。ロープのもう一端は三方に別れ、それぞれ大きなネジ釘がついていた。
ひとつの連想が浮かんだ。たちまち、怖さよりも好奇心がまさり、どうしても試してみないではいられなくなっていた。
ぼくはワイヤロープと踏み台を持って、二階の六畳間に上がった。
予想通り、ワイヤのネジは天井のネジ穴とぴったり合った。
ぼくはまだその部屋に座っていた。暖房を入れていないため、ぼくの体は石のように冷たくなっていた。
10時過ぎ、意を決して舞子の携帯に電話をかけた。ずいぶん長い呼び出しのあと、ようやく通じた。寝ていたのか、少しもったりとした口調だった。
「寝てた?」
「いいえ」
だれかいるのか、間があって、しゃべり方も少し他人行儀だ。
「知ってた? あの家で自殺した人間がいるって」
受話器をふさぎ、だれかに聞いている。
「知らなかった」
「だれかいるの」
「いない」
嘘をついていた。くぐもった男の声で、「だれ?」。
ぼくはくせのあるその塩辛声を知っている。「ハッピールーム」のマネージャーだ。
信じがたい事態の真偽を確認するための質問があった。そのときのぼくはたった一枚の切り札を使ってしまうことしか思いつかなかった。
「いつ引っ越してくる?」
「ごめん」
「ごめん?」
「行けないわ」
舞子にはめずらしく、きっぱりとした答だった。
また、受話器をふさいでいる。男の笑う声。それに合せて笑う舞子。
「じゃあね」
電話は一方的に切られた。「じゃあね」には、かすかな笑いを含んでた。その微妙な語調が、ぼくを絶望に突き落とした。
ぼくは天井のねじ穴があるプレートを見上げ、ワイヤロープを握りしめた。
これからできることは、ひとつしか残されてなかった。