家族団欒
鈴木 三郎助
おさむは小学六年なのだが、五月になっても学校が始まっていなかった。新型コロナウイルスの感染予防のため、学校は一斉に休校となり、それが今も続いているのだった。
政府は緊急事態宣言を出して、不要不急の外出を自粛するように呼びかけた。また日常生活において、『三密』の状態にならないようにと、国民に注意を促した。
多くの家庭がそうであったように、高木の家でも、親子そろって余計な外出を控えながら、つましく暮らしていた。スーパやコンビニは開店していたので、食料品などは近場のスーパですましていた。
役所に勤めていた父の民雄は、毎朝、電車に乗って出かけていた。母の雅子は私立大学の食堂にアルバイトとして出ていたが、学生が休みになったので食堂は閉店となった。長女のみどりは高校二年である。長男のひろしは中学三年で、受験を控えていた。高木の家庭は育ちざかりの、三人の子供のいる家族である。
五月は民雄とおさむの誕生の月である。おさむは十日で、民雄は二十日であった。高木家では二人が毎年一緒に同じ日に、つまり十五日に誕生会をする習わしがあった。
高木家には、各人の誕生日に敬意をあらわし、祝うという暗黙の了解があった。これにはこんな逸話があった。
民雄が雅子と初めてデートをしたのが、民雄の誕生日であった。そうして二人が結婚式を挙げた日が、雅子の誕生日であった。もちろん、二人が誕生日を意識して決めたわけではなかった。たまたまうまい具合に日取りがそうなっただけであったのだが、あとで二人がそれに気づいて、そのめぐり合わせを面白く思った。それ以来、誕生日を特別な日として考えるようになったというのだ。
十五日の前日、天候が良くなかった。数日前から日本列島を前線が通過して、各地に雨を降らしていた。東京も昼過ぎから雨が降り出したが、夜になって激しい雷雨となった。
夜が明けると、晴れ晴れとした五月晴れになっていた。
おさむは朝食をすますと、サッカーボールを抱えて玄関で靴をはいていた。その姿を見た母は
「おさむ、マスクは?」と、声をかけた。
「ホケットにいれてあるよ」
そう言って、おさむは外へ飛び出した。
直ぐ近くに団地の公園があり、おさむはそこでボールをける練習をしていた。しかし、昨夜の雨で、思いの外地面に水たまりができていたので、路上でボールを蹴っていた。すると通りかかったおばさんに、「あぶないよ」と注意されたので、おさむはつまらなそうな顔をして、家に戻ってきた。
「おかあさん、今日、ケーキはあるの?」
「ケーキ屋さんはお休みなので、今年はお母さんの手作りですよ」
「おかあさんのケーキか、おいしいかな」
「どうでしょうね」
やや小太りな母はにっこり笑った。
その日の夕食時に、誕生パーテーの準備が整えられた。高木の家はK団地のマンションの3LDKの住まいである。今ダイニングテーブルの上には、まるい手製の厚みのあるケーキが、二つの皿にのせられていた。真っ赤なイチゴが二つ、白いクリームの上に添えられ、おさむはそれを見つめていた。
おさむは十二歳、ケーキには三本のローソクが立てられていた。五十をむかえる民雄のものには五本が立っていた。おさむのローソクの一本は四年を、民雄の一本は十年を表わしていた。それは雅子の決めたもので、誰からも不平が出なかった。
いつもの年には、中の上くらいのお寿司を取り寄せるのであるが、今年はそうはいかないので、雅子は赤飯をつくった。雅子は子供の頃、祝い事には母が赤飯をつくって家族みんなを喜ばせていたことを、久しぶりに思い出したのであった。
ほかにテーブルの上にはサラダの盛られた大きめの器、五人分の焼鮭の皿、茶碗、味噌汁のお椀が用意されて、食事が始められるようになっていた。
方形の食卓には、おさむと民雄がいつもの席に座って、みんなのそろうのを待っていた。ご機嫌なおさむは、色柄の半そでのスポーツシャツに半ズボンすがたである。母から言われて、着替えていた。民雄は食べ物や着る物に対して寛大であるが、自分のことに関してはあるセンスを持っていた。彼はおしゃれというわけではないが、身だしなみには気をつかう。ここ一、二年で体重が増え、やや貫禄がついてきたようにも見えた。彼は淡い灰色のポロシャツの恰好である。
みどりはキチンで母の手伝いをしている。夕食の手伝いをしながら母と喋るのがうれしかった。内気な彼女には気軽に話し合えるのは母しかいなかった。彼女は小学三年のとき大病をして、半年ほど学校を休んだことがあった。みどりがもの静かな内向的な性格なのは、そのせいではないかと母は思っている。みどりはひとりでいることを不自由と思わない少女で、本を読んだり、絵を描いたりして過ごすことが、彼女にとっていい時間であった。
みどりも雅子も食卓についた。
雅子は民雄の隣の席に、おさむと向かい合うように腰を下した。みどりは母の隣に座った。ひろしの姿が見えなかったが、おさむが声高に呼ぶと、ひろしは部屋から出て来た。やや大柄な彼は、長ズボンに白の半袖のシャツを着ていた。彼の顔は母に似ていると言われ、面長で、色が白かった。最近眼鏡をかけたので、どことなく真面目そうな感じを与えた。
みんながそろった。
ケーキのローソクに火がともされると、バースデーソングが誰の口からともなく始まって、楽しい雰囲気がただよった。
おさむは大きく息を吸いこんで、自分の前の灯火を一息で吹き消した。次に民雄も自分のケーキの灯火を吹き消した。雅子はケーキにナイフを入れて等分に分けた。
赤飯が盛られ、お椀に味噌汁が入れられ、食事が始まった。
高木家の人たちは食事している時はおしゃべりである。言葉が飛び交い賑やかである。誰かがしゃべる。すると、他のものは食べながら聞いている。
コロナが発生して、自粛の世の中になってからは、高木家の人たちにとって全員そろって食事することが当たり前になっていた。他人と顔を合わせることが少なくなったかわりに、家族同士が顔をつき合わせて、しゃべることが多くなった。食卓を囲んでの食事時がそうであった。
誕生会を兼ねた、その日の食事はいつもよりみんなの心を寛がせているようであった。食事は美味しく、満ちたりた表情がひとりひとりの顔に表われていた。
「ケーキ、食べてもいい?」
いち早く食事を済ませて、おさむは母の顔色をうかがうように言った。
雅子はもう少し待ってはと思ったが、
「いいですよ」とうなずいた。
おさむは、右手の指をV字形にして見せると、さっそくケーキのクリームに匙を入れた。
みどりは弟をにらむように見つめた。
それに気づいたおさむは、おねえちゃんも食べればいいのにと、にやりと笑った。
「おさむ、サッカーの練習はやっている?」
父が息子に聞いた。
「毎日、やっているよ」
「偉いな、ひとりでか」
「相手がいるといいんだけど」
「一人でもコツコツやることが大切なことだよ。みどりはどうしているの?」
「絵を描いています。絵を描いていると、嫌なこと全部忘れてしまうわ」
「いいなあ、好きなことができて。ぼくは嫌なことをやっている」
ひろしが額に皺をつくって言った。
「受験勉強が嫌なことかい?」
父が聞いた。
「塾も休みになっていて、勉強がはかどれなくて困っているんだ。父さんが教えてくれるといいんだが……」
「それは困るなあ。父さんは、ほとんど忘れてしまったよ」
民雄は笑いながら言った。
「あなたは勉強が苦手だと、わたしに言ったことがありましたわね」
雅子が横から口をはさんだ。
「父さんが、学校の先生であったらよかったのに」
ひろしは恨めしそうに言った。
「元先生のお母さんから教えてもらったらいいのに」
みどりが言った。
「遠慮するよ」
「そんなら自分でやるしかないわよ」
みどりは姉らしく言った。
「そうだ」とおさむが声高に言った。
「いつになったら、学校が始まるのかね。いやだな、このまま続くと思うと」
ひろしが恨めしげに不平をもらした。
「学校を休みにしなければよかったのに」
おさむは同情するように言った。
「学校には、まだ感染者が出ていなかったよ。それなのに突然全国いっせいに休校にするなんてむちゃだ。おれが総理大臣だったら、生徒の立場をもっと考えるよ」
「コロナは恐ろしい感染症なのよ」
みどりが声高に言った。
「さあ、ケーキを食べましょう」
雅子はそう言って、それぞれのカップに紅茶を入れた。
おさむはケーキを半分残したまま、みんなが食べるのを待っていたのだった。
食事が終わった。みどりが母に代わってあと片づけを始めた。おさむはソフア―に座って、ゲーム遊びを始めた。ひろしは自分の部屋に戻った。民雄と雅子はそのままテーブルにとどまっていた。
思えば、今年に入って、一月半ば頃から新型コロナウイルス感染がたびたび新聞などで伝えられ始めていた。そのウイルスの発祥地は中国の武漢と言われていた。日本においては横浜港に寄港していた豪華クルーズ客船の乗客にウイルス感染者が多数出ていた。しかし、一般の人びとはほとんど気にかけていなかった。ところが二月の半ば頃から、新型コロナウイルスの感染者が世界中に爆発的に拡大した。イタリヤやフランスやその他の国も緊急に都市封鎖に踏み切っていた。なかでもアメリカの感染者と死者は驚異的な数となっていた。一日に何十万という莫大な数の感染者が出て、医療機関が対応しきれない非常事態に陥っていた。
日本においても感染者の数が日に日に増大していた。そして、政府は真っ先に二月二十七日にすべての学校にたいして一斉休校を宣言したのであった。これは、学徒すべてを公的な機関から各自の自宅に待避させたことである。かつて戦争のさなかにあって都会の子供たちが集団疎開をさせられたのと似ていないだろうか。新型コロナウイルスから安全に学徒を守るというためである。次に緊急事態宣言が国民に発せられた。これにより国民の生活と社会的生産活動が休眠状態になった。外出が制限され、国民全体が自宅に避難するという、戦争ならぬ戦争状態になったのであった。
敵は目に見えないウイルスである。その戦略は実に巧妙なのだ。敵は知らぬ間に人のからだに忍び込む。感染者はウイルスの助っ人のようになって、次々と感染仲間の数を増やしていくのだ。実に手ごわい相手だ。その攻勢にたいして、人知の対応ははなはだ原始的ともいえる手段をとったのである。人が人と直接的な接触を避けること。そうすれば感染の増大を防げると考えたのである。『三密』という合言葉が造られた。しかし、これは反時代的な言葉だ。近代社会は人と人との農密な密着を前進させて、経済的な繁栄を目指してきたのではなかろうか。それがこのウイルスによって崩されていくのは何とも皮肉なことではないか。感染の拡大はいのちの危機だけではなく、社会の生命体というべき経済活動をも危機におとしめるのだ。万人が生命の糧を奪われるということである。
人類の社会活動を破壊してしまう新型コロナウイルスとは、いったい何者なのだろう。人類が英知をしぼってその対策に苦慮しているのだ。
今、われわれは台風や地震ではない、もっと恐ろしい感染症にかからないように、それぞれが活動を抑制しながら生活をしているのであった。
高木の一家もそんな抑制生活をしているのである。
民雄は、まだ残っている日本酒を飲みながら、傍にいる雅子と話していた。
「この間、同僚とこんな話をしたよ。ぼくよりも十五くらい若い男であるが、その男がおれたちは戦場に出ているようなものだというのだ。何故だと聞くと、いつコロナにやられるか分からないからだという。そう言われてみると、そうなのかと思った。ぼくは少し思案して、銃弾が飛び交う戦場とは似て非なることだよと、ぼくは言った。われらはコロナと戦っているわけではない。コロナは人間と交戦しているわけでもないだろう。人類を滅ぼそうという考えがあるわけでもないだろう。そんな話をしたが、人間にコロナに負けないほどの体力があれば、そう恐れなくてもいいと思うのだが、そうはいかないね」
「何よりも待たれるのは、治療薬だわ。早くワクチンがつくられたらね」
「予防接種だね」
「それまでは、コロナに取りつかれないことよ。マスクをし、不要な外出を自粛することだわ。でも、いつまでも社会活動を休止しているわけにはいかないわね」
「そうなんだ。そのことで、その同僚との話の続きがあるんだ。この男はなかなかユーモアのある奴でね。コロナ騒動にかまけているうちに、日本の経済力が減少して、日本が貧血症に罹って、立ち上がれなくなるんでないかというのだ。そう言われれば、そのことの方が恐ろしいことだと思ったよ」
「コロナ問題がたんなる医療の問題だけでなく、政治の問題になっているのね」
「感染者の増大を防ぐために、全国に渡って経済活動を半ば止めてしまう政策は、別の生存問題を起こしてしまう。廃業を余儀なくされる店や会社や企業体が多くなり、仕事をうしなう失業者が増大して、国民が経済的な困窮状態に陥ってしまう。若い同僚はこう言った。コロナウイルスがわれわれに投げかけているのは、このジレンマなのだ。一方を救おうとすれば、他方を殺してしまうことになると。全くそうだと思うのだが、なかなか大変なことだ」
「いつまでも、自粛ばかりしていられないわね。自粛病にかかってしまうわ」
雅子は笑いながら言った。
「それはどういうことだね」
民雄は訊いた。
「この間、お隣の奥さんと立ち話をしていたら、『わたし、変な病気にかかったらしいの』と、奥さんがおっしゃったの。『どうなさったの』とききますと、奥さんは真面目な顔をして『人間恐怖症にかかったらしいの』と言いますので、そのわけを聞いてみましたら、こんな言葉が返ってきましたのよ。『お使いのために外出して道を歩いていると、すれちがう人の態度が、人を避けるように、無表情で過ぎ去るのよ。道行く人にコロナ前とちがって、嫌な感じをうけてしまって、人と顔を合わせるのがとても怖く感じるのよ。あなたは、そんな気持ちになることはありませんか』と訊かれたので、『わたしは人と道で会っても怖いとは思わないけれども、家にばかりいると、それになれてしまって、人と会ったり、一緒に食事したりするのが、何か億劫になってしまう方が心配になりますの』と、わたしがいいましたら、奥さんはそれが『自粛病』だと言いましたの」
「なるほど」
民雄は頷いた。
「いつまで続くのですかね」
「そのうちに緊急事態宣言は解除になるよ。いつまでも国民の首を絞めつけてばかりいられないだろうからね」
「でも、解除したら、また感染者の数が増えますね」
「たぶんそうなるだろう。増えたら増えたで、新しい対策を考えて、対処していくだろうね。コロナと人間の知恵比べだろうかね」
「コロナに知恵などあるの?」
「まあ、あるとしたらね」
民雄は笑いながら言った。
「辛抱だね」
「そうね。我慢ならわたし大丈夫よ」
雅子はそう言った。
北陸の雪の多い山村で育った雅子は、北陸人特有の細かな心遣いと辛抱強いところがあった。それは、冬が長く、外界との接触がほとんど断たれて、家に閉じ籠って生活していくうちに自ずと身についたものなのだろう。冬の間は大人の仕事も家内で行われた。雅子の子供の頃、まだ祖父母が元気で、竹細工やわら細工を作っていた。食事はみんな一緒に食べていた。炉辺を囲んでおしゃべりをしたり、祖母の昔話を聞いたりするのが楽しかった。
雅子はその頃のことを思い浮かべて懐かしく思った。外は分厚い雪で覆われていても、家の中は温かく、家の中が家族の生活の場であった。しかし、それはひと昔も、ふた昔も前のこと、今ではお伽噺の世界になった。雅子はときどき、時間がもっとゆっくりと流れて欲しいと思うことがあった。世の中の動きがはやすぎて、大人も子供もゆっくりとできないままに日々が過ぎていくことに、ふと心にすきま風がはいてくるような味気なさを覚えるのだった。
民雄は言った
「それにしてもこんなことになるとはだれが予測しただろう。新型コロナウイルスに人間社会がこんなにもかき乱され、経済活動にストップをかけられているなんて、だれが想像しただろう」
「スペイン風邪が大流行して、数千万の人が亡くなったことを知らずにいましたね。第一次世界大戦の終わり頃で、今から百年前なのね」
「信じられない数字だ」
民雄は叫ぶように言った。
その時、食事のあと片づけをすましたみどりが来て話に加わった。
父と母の話を、みどりは両腕を組んで聞いていた。
「死者の数が数千万人を超えるというけれど、感染者の数はどうなのだろう。その何十倍、何百倍と考えると、当時の世界の人たちはどんな気持ちで生活していたのだろう。想像しがたいなあ。それにしても、スペイン風邪はどこへ消えてしまったのだろう。不思議なことだ。その頃を語る生存者は、当然なことだが、今はいないだろうし、ただ歴史的な記録として残されている。そう考えると、新型コロナウイルスが今後どのくらい拡大してゆくのか分からないが、おそらくかなりの痕跡を後世に残すだろうと思うよ、ふたたび経済活動が復興したとしても、従来どおりにはならないだろうと思うね。われわれの生活の仕方もかなり変わっていくのではないだろうか」
民雄は先を予想するように言った。
「良い方に変わるといいのですがね」
雅子が言った。
「同僚の例の奴さんはこんなことを言っていた。コロナ禍はだれにも例外なしにふりかかってくるもので、経済的にも、精神的にもかなりのリスクを受けることになるだろう。だが、それが良薬になって、われわれの生き方がもっとましな、人間らしいものになることを、ぼくは願っていますよ。高木さんはどう考えますか。そう言われてぼくは、やっこさん、えらそうなことをいうなと思って聞いていたが、でも考えてみれば、彼は実直な人柄なんだね」
民雄はそう言った。
「まともに生きたいのは、だれもが願うことではないかしら」
その時、みどりが発言した。
「でも、現実はそうではないのよ。社会を動かしているのは人間ではなく、大きな歯車のような機械が回転して人間を動かしているように思われるわ」
「便利な、豊かな社会ではないか」
民雄が言った。
「それが人間らしい生活に結びついているかは疑問だわ」
みどりはすらりとそう言い切った。
みどりには人より繊細な感性があった。彼女の外の世界は、まるで流れの速い川のように時間の流れが速く感じられるのだった。彼女は時々、時間の流れの遅い国を空想した。自動車が発明される前の、馬車で旅行していた時代に、生まれるべきではなかったかと思ったりした。彼女にとって人間らしいということは、多分そういうことなのだろう。
ある時、みどりが真面目な顔をして、
「お母さん、わたしたちの生活が時間にとらわれ過ぎているのではないかしら」と言ったことがあった。
「どういうこと?」
雅子はききかえした。
「時間にせかされているように感じて、とても嫌な気持ちにさせられることがあるのよ、お母さんは、そんなことある?」
「お母さんだって、それはありますよ」
「この前『モモ』を読んでいたら、『時間どろぼう』という言葉が出ていたのよ。それはどういうことかというと、人から時間をこっそり取り上げてしまうのよ。『時間貯蓄銀行』と名のる灰色の男たちがその犯人なの。時間を買い占める商売があるなんておかしくありません」
「お金を貯蓄するのならわかるけれど」
「お金ではなく、時間なのよ。分かりやすくいうと、大切な時間を大切にしないで、無駄にしているために、わたしたちの生活はいつも忙しく、余裕がないということなのよ。『時は金なり』という言葉があるけれど、また、『時は命なり』という言葉もあるのよね、お母さん」
「お母さんだって知っているわよ。大学生の時に倫理学の授業で、時間というのはみんなの命と同じものなのだから、大切にしなければならないと教えられましたよ」
「その先生、いい先生でした?」
「もちろん、お母さんは尊敬していたわ」
「尊敬する先生がいるといいわね。みどりには、そんな先生がいないの。だから、さびしいのよ」
「そのうちにいい先生に出会えるわよ」
雅子は、その時そう言って、娘を励ましたのだった。
みどりが思い描く人間らしい生活にたいして理解を示していた雅子は、みどりの性格を知っていたので、むしろあわただしい現実世界に順応していけるのかどうか、そのことの方が心配であった。
「いま一番大変なのは、どんな人たちなのかしらね」
みどりが言った。
「それや医療関係の人たちだろう。お医者さんや看護師さんだろうね」
民雄はみどりに視線を向けて言った。
「感染者が増えれば増えるほど大変さが増していくだろう。医療現場は寝食を忘れて、対応にてんてこ舞いするだろうな。もしも救助する人たちがSOSを叫び出したら、それこそ大変なことになる。感染者を収容しきれなくなったらどうなるだろう」
「それはとても困ることだわね」
雅子は頷くように言った。
「新型コロナウイルスに感染した人も、とても気の毒だと思うわ。いつもと変わりなく生活しているのに、自分がいつの間にかコロナの陽性になっているなんて、こんな怖いことある?コロナは人を選んでいるわけでないでしょう」
みどりが言った。
「もちろん、コロナに人を選ぶ意志なんてないだろう」
民雄は笑った。
「無差別だから怖くて。みんながおろおろしてしまう。でも、感情的に恐れてばかりいられない。そこは冷静にならないといけないね」
「あたしは感染者になりたくないわ。それは病気が怖いからではないの。自分の命を守るからでもないの。そのことよりもあたしが恐いのは自分が感染して、他人に迷惑がかかることがとても嫌なの」
「みどりの気持ちは分かるわね」
雅子が言った。
「コロナにかかってはいけないよ、みなさん」
突然、叫びのような声が上がった。
おさむの声であった。
「おまえ、ぬすみききしていたのか」
民雄はゲーム遊びをしているおさむに言った。
「ぬすみぎきなんかでないよ。はなし声が勝手に耳に入ってきていたんだ」
「おまえの耳はとんでもない耳だ。昔の人は地獄耳と言ったのではなかったかね、お母さん」
民雄は笑いながら、雅子の顔を見た。
「地獄耳だなんておかしいわ。たんなる子供の耳よ」
雅子はそう言って、笑い返した。
「うちで一番気をつけないといけないのはお父さんよ」
みどりが言った。
「お父さんがコロナウイルスを持ち帰ったら、大変なことになってしまうわよ。一家がコロナウイルスを共有してしまったら、どうなるのでしょう」
「大丈夫だよ、お父さんは感染なんかしないから」
おさむが言った。
「無責任なこと言わないで」
みどりは強い語調で言った。
「おねえちゃんは何も知らないんだ。ぼくが毎朝、お父さんがコロナに感染しないようにと、心の中で念じているんだ」
おさむは泣きそうな顔をして言った。
「おさむ、いつからおまじない師になったのかね」
雅子は感心するように訊いた。
「それは内緒」
おさむは笑みを含ませて言った。
「いま何時かね」
民雄は言った。
「いつもより三十分ほど過ぎたわね」
雅子は答えた。
みどりは席を立って自分の部屋に行った。
おさむも兄と共同の部屋に行った。
「おさむはなかなかしつかりした子だ」
民雄は雅子に言った。
翌日民雄は、朝の通勤電車に乗っていた。都心に向かう私鉄の電車の中は、乗客は少なくなっていたとはいえ、相変わらずの混みようで、身体と身体が密にならざるをえなかった。それでも、各人はできるだけ間をとろうとしているようであった。どの顔にもマスクがかけられて無表情に見えるが、その心には不安の靄がかかっていた。もしも誰かが咳でもしたならば、たちまち車内の静寂に亀裂ができるだろう。
民雄は車内の中ほどに立って、目を窓外に向けていた。昨日とは変わって、どんよりとした空模様であった。
民雄は昨夜寝る前に、妻と交わした会話の一部を思い起こしていた。
「今、コロナの時代を生きているのね」
雅子はつぶやくように言った。
「窮屈な時代だ」
「風の向きが変わるように、時の流れの方角に変化が起こっているのよ。つまり、文明の開発競争にストップをかけられているのよ。時間が自分たちの幸福の方に戻って来るといいのですがね。みどりの望んでいる時間に」
雅子はそう言った。
民雄は朝の覚めた頭で、昨夜の妻の言葉を思いめぐらし、考えていた。
「それにしても……大変な時代に遭遇したものだ」
民雄はマスクの奥で、叫び声をあげた。
(おわり)