白雲の人
これは、ある老紳士に聞いた話です。
私はその日、北関東の避暑地として知られる場所の、ある特別な館にいました。
古い和洋折衷建築の様式でできたその館には、そこで静養する主(あるじ)の日々の様子を知るために派遣された選ばれた人たちが数十人ほど集っていました。
私がまだ、二十代の後半のことです。
同世代の若い人はほんの数人しかいなかったと思います。
首都ではすでに桜も散り、濃い緑の葉が勢いよく増してきている頃でしたが、山間の高原にあるその地では、ようやく芽吹きはじめた枝が静かに延びてこようとしていました。
朝の空気はまだ肌寒く、遠くに見える山の稜線には白い雪が残っていました。山の峰に注ぐ陽の光は、冬の陰りと春の暖かさが交叉して輝き、季節の変わり目の落着かないグレーな色をしていたのを覚えています。
十日間の滞在での主な日課は、朝食を終えて間もなくして開かれる館の主の会見を聞き、その内容をまとめて、小一時間のうちに本社に打電することでした。会見はその館の玄関に近いところにある広間でありました。
その人は毎朝、一段高くなった会見の席に音も無く現れます。しわの無い上品なスーツに、艶やかな絹のネクタイを締め、常に前を見据えて私たちに向き合って、静かに語り始めるのです。特徴的な丸い眼鏡の底にある瞳は常にどこか深く遠いところを凝視しているようでした。
すでに老齢の域に達していたその人でしたが、背筋からは常に鋭く天地を貫く一本の光りが放たれていました。
抑揚が少なく、感情のないその人の声ですが、はっきりとこちらに言葉の一つひとつが心の奥の深いところまで突き刺さってくるようでした。胸の奥のざわついたものを刺激して、日々の生活の何かを揺り動かす声です。
もちろん、その人に近づくことのできる者などほんの一握りの人だけです。
計り知れない世界に生きるその人と会話するなど、私にとっては考えることもできない事でした。
それでも会見のあとのほんのわずかの時間、その人と集まった者たちとの談話の時間がもたれました。しかし、その人と会話をするのはいつも限られた年配の人ばかりでした。
私はそんな場所で、夢の中にいるような思いのまま、指定された丈夫で簡易的につくられた小さな木製の椅子にちょこんと座り、きょろきょろとあたりを見回しているのでした。私は、ただそれだけで、その日一日の全ての神経を使い果たしていました。くたくたです。
たしか、会見は一日のうちに朝のその時間だけだったように思いますが、もしかしたら別の時間にもう一度行なわれた日もあったかも知れません。
ともかく一時間にも満たない、その時間は、私にとって最高の緊張を覚えるものでした。その館に滞在中、その時間以外、何をして一日を過ごしていたのか記憶がないほどです。
会見が終わると、急にその部屋の空気が溶けて、集まった人たちは胸元のネクタイの結び目を緩め、それぞれがすごす場所へ向けて三々五々後ろの扉を抜けて部屋を出て行きます。
最年少であった私はいつもその場所に最後まで留まり、そうした人たちを見送ったあとに部屋を出ていったのです。
そうした時間を、たしか五日ほどは過ごしたある日のことだったと思います。
緊張にも慣れ、私の心にもようやく余裕というか、緩みができたのでしょう。
その人が会見を終わろうとした時、ふと私は自分の顔をその人のほうにむけて上げてしまいました。「あっ」と小声がでそうなのを抑え、そのまま私の体は止まってしまいました。その人がまっすぐこちらを向き、私のほうを、じっと見ているのです。
私は自分の行為にとてつもない恐れを感じました。気がつくと掌がじっとりと濡れています。
こんなことはあるはずない。
私は、その部屋で固くなった自分の体を全くコントロールすることができなくなってしまいました。
すると、
「あとからついておいでなさい」
眼鏡の中の瞳が、私にそういわれたではないですか。
幻聴だと思いましたが、私にははっきりとそう聞こえたのです。
その人は、おもむろに席を立ちましたが、いつもの会見席の奥にある扉へ向かわず、脇の廊下へ抜ける扉を出て行きました。
ようやく椅子から立ち上がった私は、その様子を静かに見守っていました。
部屋から最後のひとりが出て行ったのを確認した私は、少し早歩きで廊下に出る扉に向かい、その人の後を追いました。
扉を出て左右を確認すると、その人はバルコニーのある方向へ向かってひとりで歩いていました。
静かでした。本当に物音一つ聞こえてきません。
私はその人のほうへ向かって歩きはじめました。
すると私の靴音だけが天上の高い廊下に響きます。その音に気づいたのでしょうか、その人は軽くこちらを振り返り、ゆっくりと少し頷いたようでした。
そしてその人は私の先、十メートルほどは離れたところを、しっかりとした足取りで、早くもなく、遅くもなく歩みをすすめていきました。
そうなると不思議なもので、自分のからだを一歩すすめる毎にでる、スーツの衣擦れの音もいちいち聞こえてきます。その時のサラリーで目一杯に調達できたよれよれのスーツです。
私の発する音の他は、静寂しかその空間には存在しませんでした。
廊下の壁と天上は白く透明で、外に面した壁の上のほうにはガラス窓が大きく設けられ、生まれたばかりのような陽が射し込み、石のタイルでできたにぶい灰色の床の道を照らしていました。
しばらく行くと、その人はバルコニーへの出口に向かい、姿を消しました。
予め先輩から叩き込まれて私の頭の中にあったこの屋敷のおおまかな見取り図を思い出して、そこがバルコニーだと思ったのですが、確信があったわけではありません。
私は少し急いでそこへ向かい、白い格子のガラス張りの大きな戸についた、シンプルな草模様で装飾されたドアノブを両手でまわして観音開きになったその扉を開けました。思ったほどの重さは感じないまま、滑るようにその扉は開きました。
一歩、バルコニーに足を踏み出すと、土と草の香りがします。蔦を這わせた庇に白い柱。廊下と同じ素材の石でできた床は質素で、さほど大きくないものでした。夏には緑の蔦がおおう心地のよい避暑の場所となるのでしょう。
そのバルコニーの先の庭に一本の土の小径がありました。そのずっとむこうのほうに、その人の姿が小さく黒い影のようにみえました。バルコニーの様子に気をとられているうちに先に進んだのでしょう。
慌てた私は小走りでその径を追いました。少し上り坂になっている径は、ちょうど人ひとりが歩くのに程よい幅でできており、径の両脇には草地との仕切りの小石がきちんと手入れされて並べられていました。
この館にその人が植物や、小動物を観察するため、ほぼ自然の状態に近いまま残された庭のあることは、その館に集まった年長の人たちから聞いていましが、だれもそこに入ったことはないとのことでした。
ここがそうなのだ。と私は直感的に思いました。ここは荒らしてはいけない領域だったのだ、と走りながら気づき、自分の行為に恥じてしまいました。きっときつくあの人に咎められるに違いない。もう、明日からこの館に居られない自分を素直に認めなくてはならないのだと思うとぞっとしました。私が急に足をとめると、その人は、また軽く私のほうを振り向き、ゆっくりと頷かれるのです。
走ったおかげで距離を縮めることができていた私は、その人の顔の表情がわかるまでのところにいました。その穏やかな顔に安心した私は、そのままその人に従いました。
不思議なことに先程まで聞こえていなかったせせらぎの小気味よい流れの音や、野鳥のさえずり、高原を抜ける風の音までもが聞こえて来ました。
薄曇りに思えていた空にも少し青空がのぞき、こっけいな私を笑っているようでした。
それらは私の不安な気持ちを和らげ、心静かにその人の背中を追うことができました。
私の歩みは心無し軽くなったような気がしましたが、実際には径に目立ちはじめた土に埋もれた石のでこぼこや、草の根に少しずつ足をとられ、からだのバランスが崩れそうになることもしばしばのことでした。
そんな径でしたが、その人の歩みは一定で、滑るように坂を昇っていくのでした。
十五分以上は歩いたでしょうか。バルコニーのあった場所からは随分と離れ、標高が少し高くなったせいか、回りには薄い靄がたれ込め、庭の草木の様子がかすんで見えるようになっていました。
せせらぎの音は消え、鳥たちの声もいつの間にか聞こえなくなっていました。
自分の歩く音さえも靄の中に吸収されているようで、漂う沈黙の中、その人の背中だけがゆっくりと、天のほうへ向かって進んでいくのでした。
と、突然。その背中の歩みが止りました。径の脇に体を向け、少し腰をかがめて何かを見ているようです。
そして、おもむろに姿勢を戻し、今みていたほうに手を差し出し、私にそれを見る様に促していました。
手の差したほうを見ると、一輪の小柄なユリのような白い花がたっています。
湿った土から生えた緑の茎の先のその花は、まだ少しばかり寒さの残るその地に耐えるように、可憐な花を揺らしていました。
「今年は少し早いようですね。この場所にいつも咲く花なのです」
その人は、こちらのほうに顔を向け、ゆっくりとそう話すのでした。
「今年も咲きましたね」
その人は花のほうに向き直し、頷きながらそう言いました。
「これを見にここまでこられたのですか」
私は、その人に語りかけることの恐ろしさを感じながら、聞きました。
「そう、この花」
思いもよりません、その人はそう答えてくれました。
「可憐な花ですね」
私は、やっとの思いで、そう声に出すのが精一杯でした。
「そう、咲いてますね。あなたは、もうここで。私はもう少し、上の様子をみてからにします」
と、笑顔を浮かべられました。
「この花を見せてくださるためにここに?」
と私は思わず聞いていました。
その人は、それには答えることなく、ただ同じ様に軽く頷いて振り向き、すべるように先へ進んでいきました。
その後、私はどのようにして館へ引き返したのか覚えていません。
その人とふたりきりで言葉を交わすようなことなど、それ以後二度とありませんでした。
不思議なことに、あんなに景色はまだ寒さを示していたのにあの時の私は全く寒さを感じていなくて、むしろ不思議な温かさにつつまれていたような気さえするのです。
その人がなぜその時に私にその花を見せてくれたのでしょうか、今考えてもよく分かりません。
ただ、そんな大切な時間だけが私の記憶に残り、それ以後、四十年を越えてその人の御家族の周辺を追い、人々にその様子を伝え続ける仕事をまっとうすることができました。
その人はそれから二十年近く後まで健康を維持されました。
あれから、毎年その花を見られたのか、私には知る由もありません。
でも、きっと見られたことだと思います。
そして、その人はこの国の歴史の中に静かに命をおえられました。
これが、私が今でもはっきりと感じるその時の記憶のすべてです。
老紳士はそう話し終えると、眠くなったのか、頭を傾け、片腕をたてて頬杖をついて、少し眼を閉じてこっくりとカウンターに沈みました。
グラスの中で氷がカランと溶けて落ちたのでした。