涙のしずく
鈴木 三郎助
音がかすかにした。
そんな気がした。声のようだ。いつか聞いたような声である。それがしだいに近づいてくる。窓を開けて、夜空を見上げると、月明かりの中を渡り鳥が、群れながら北の方角へ飛んで行くところであった。
聡子は、看護師の呼びかけで、目を覚ました。
カーテンの開けられた窓ガラスに、夏の朝の青い空が見える。
「よく眠れましたか。血圧と体温を測ります」
若い女の看護師がそう言って、聡子の血圧を測った。そして体温計を差し出す。
「夜中はずっと眠れませんでした。朝方にちょっと眠れたのかしら」
と、聡子は言って、体温計を腋にさした。
看護師が別の患者のところに移っていく。
聡子の病室は、病棟の八階にある。
そこは海辺に近いところだが、彼女の部屋の窓からは海が見えない。
入院して、七、八日が経っていた。
いくぶん小康状態を保っているが、容体は楽観できなかった。
聡子は、四年前に乳がんの手術を受けた。そのときリンパ腺に転移の症状があったが、医師はその一部をとり残した。そして抗癌剤の治療が始まったのである。食欲不振やら頭髪の脱毛やら、身体全体のけだるさなどの、薬の副作用が、彼女の日々の生活に、もの憂い影を落とすことになった。だが、それは耐え忍ばなければならないことだと、彼女は覚悟を決めた。
ところが、今年になって、定期検診の際に癌の転移が肺と肝臓に見つかったのである。その治療を始めていたのであったが、病状は良好にならず、容体はさらに悪化していた。
彼女は、再三の入院を繰り返していた。
聡子が最初に、しこりのようなものが乳房にあるのに気づいたのは、湯船に体を沈めていた時であった。その日彼女は、朝からなにかと忙しかったので、夜になって体の疲れを感じていたこともあって、湯船につかっているのが、いつもより心地よかった。
両脚を伸ばし、上体を仰向けにして湯船につかっていた。目を閉じると、眠ってしまいそうなので、自分の姿態に目を向けていた。腰から腿のあたりの肉が、ややたるんでいるように見える。彼女は嫌だなと呟いた。すでに愛撫を失っていた乳房を慰めるように、両手で握りしめた。やわらかな感触を掌に覚えたが、彼女はちょっと首を傾げる。右の乳首の下の方に柔らかさとは違う肌触りがある。あら、と彼女は吐息をはいた。もしかしたら……。彼女は繰り返しそこの感触を確かめたが、他と違う感触があった。
数日後、聡子は医師の診察を受けた。
医師は乳がんの可能性があるので、精密検査を受けることを勧めて、癌専門病院の紹介状を書いてくれた。
聡子は精密検査を受け、乳がんであると断定され、即刻手術をしなければならないと、医師から告げられた。
聡子が五十二歳の時であった。
それまでは大きな病気らしい病気をしたことのなかった彼女には、医師の宣告は腸が切断されるような衝撃であった。
聡子は、心の動揺を抑えて、医師におじぎをして椅子から腰を上げようとした。そのとき足がふらつき転びそうになった。
注意をうながす医師の声に
「大丈夫です」
と答えて、聡子は診療室を出た。
聡子は電車に乗った。電車の中は多少込み合っている。彼女は戸口近くのつり革につかまっていた。だが、彼女の心は、深い森の中で道に迷ってひとりぼっちになったような恐怖に脅えていた。込み上げてくる悲しみのうねりに、彼女は涙ぐんでいた。朝出かけた時の一縷の望みの糸が、医師の一つの言葉で断ち切られたのだった。
その日の夜、聡子は夫の秀雄と応接間の椅子に座って、話をしていた。
風呂から出たての秀雄は浴衣姿で、コップにビールを注いで飲んでいる。妻よりも五歳年上の秀雄は、腹が出て、肥満な体型をしている。営業課長の職務にある秀雄は、残業が多く、帰宅が深夜になることがよくあった。その日は、たまたまいつもより早く帰っていた。
「そして、どうなんだい?」
妻の話に耳を傾けていた夫が訊いた。
「乳房が、無くなるのよ」
妻が言った。
「それでもいいの?」
「医者がそう言うなら、しかたがないだろう。君の気持ちはどうなんだ?」
「できれば手術なんかしたくないわ……。でも、手術しないと、余命一年ですって」
「なに余命一年!それはひどい」
秀雄の全身に戦慄がはしった。彼は腕を組んで考え込んだ。
彼の瞼に、妻の白い乳房がほんのりと、そしてきれいに浮かんだ。その一つが無くなるのか。彼は嘆息した。彼の心は波のように揺らいだ。
だが、乳房さどころじゃないな。
彼は心の中で叫んだ。
秀雄は手術することを勧めた。聡子は手術を決断したのだった。
手術後、聡子は抗癌剤の治療をして、元気を取りもどした。彼女は心の衛生学上、病気のことで思い悩むことを戒めた。でも時には、死に追いかけられているような思いにかられることもあった。
明るく、快活に生きること。
時間を大切にすること。
今日という日は、自分にとって一生であること。
そんな思いで、聡子は四年余りの歳月を生きてきたのであった。
聡子はベッドから体を起こして、運ばれてきた朝食を食べ終えた。あまり食欲がなく、ご飯を半分残した。食べようとするのだが、喉から先へ入っていかなかった。
聡子の体は痩せ細って来ていた。気力も衰えてきていた。
聡子は細くなった腕を眺めて、わたしはこの先どうなっていくのだろうか。もうだめなのかしら……。
ときどき、そんな思いにかられる。
現在の自分と四年前に入院した時の自分とでは、彼女の心境に大きな変わりが見えた。四年前に持てたような希望が、今は無くなっていた。
四年の間に聡子は、自分の生きるエネルギーを使いつくしたかのようである。死を恐れ、死を避けて、頑張ってきたのだが、再び癌に追いつかれ、癌が肝臓と肺にまで侵入してきていたのである。
聡子には癌と戦う新たな力がわきおこってこなかった。癌は敵ではなくなっていた。彼女の心の中に、ぼんやりとしたあきらめの気持ちがただよっている。それは自然の成り行きに任せるという心情であった。
そのことが、彼女の心身に春の海のような静な時間をあたえていた。
薬が体の痛みを和らげている間は、聡子の心は穏やかになっている。靄がはらいのけられたように頭の中がすっきりしてくる。彼女が回想に耽るのも、そんなひと時であった。
山の頂上に立って下界を眺めるように、聡子は過ぎ来た自分の人生の色々な場面を思い起こすのであった。
それは、彼女の心を生き返させるようなひと時である。わが身の不確かな、先のことを思いわずらうことからの解放の時であった。
回想は憩いであった。その一つ一つが自分のたどってきた、たしかな証であった。
ベッドに横になっていた聡子は、からだの向きを変えて仰向けになった。天井が真上にある。彼女の目は天井の壁を超え、さらにその上の虚空に注がれて、からだがふわりと浮くような感じになる。
独身の頃の自分の姿が、彼女の視界に入って来た。会社に入って四、五年が経った頃の元気で溌剌とした自分の面影だった。
ああ、彼女の口からため息がもれた。
あの頃は
なんと自由であったこと。
なんと楽しく、希望に満ちていたこと。
恋があった、いくつかの恋の花が……。
何人かの男の顔が、浮雲のように彼女の脳裏を去来した。恋の喜びが小波のようにおしよせてくる。全身に魂の淡い戦慄が走る。しばらく花の蜜を吸う蝶になっている。
しかし、輝いていた瞳に陰りがはいる。心の中に悲しみの情がおしよせてくる。彼女の恋は、実を結ぶことなく、枯れ萎んだのだ。
だが、恋は若い生命力の発露であった。無邪気な恋だった。
聡子は別れた男たちを、絵本に描かれた人物を眺めるように脳裏に思い浮かべた。
わたしを悩ませ、苦しめた男たち、
あの人たちは今、どうしているのだろう。
そう思う心には、辛い思いは消え去っていた。
その頃の、恋の季節を真剣に生きていた自分の姿が頼もしく、懐かしかった。
だが、聡子はそんな思いにも疲れてきた。体も心も持続性を失っているのだった。彼女はそういう自分が情けなかった。
お医者さんは、体の痛みに対して治療してくれるのに、わたしの心を救ってくれない。彼女は時々そう思うことがあった。日に日に考えたり、思い出したりする力がなくなっていくのが、とても心細く、そして悲しいことだった。
次の日、昨日と同じ時刻に聡子はベッドに横になって、もの思いに耽っていた。
夕方、食事を終えてテレビを見ていると、娘が姿を見せた。会社が早目に終わったからちょっと寄ってみたの、と娘は言った。
聡子は夫にも、娘にも面会に来なくてもいいと言っていた。自分のことで家族に迷惑をかけたくなかった。最後の日々をそうっと静かにしておいてもらいたかったからだ。そう言われても、娘には娘の思いがある。母の容体の衰弱が目に余るようになっているのを感じていたからである。
「お母さん、花を買って来たわよ」
娘はそう言って、花を花瓶に挿した。
「お母さんの大好きなバラの花よ」
二つの真紅のバラと純白のバラ二つ。
聡子の視線がそれらのバラに注がれた。
「いつ見てもきれいだわね。でも、バラは花びらが何重にも重なっているので、その奥が見えないのね」
なにげなく、聡子はつぶやいた。
「はあ」
と、娘は母の顔に目を向けた。
バラの花は、とても巧みに造られているのねと、聡子は心の中でつぶやいた。
「お母さん、死んではいやだよ」
娘は唐突に言った。
聡子は苦笑いを浮かべた。
「あなただから言うけれども、どうもダメなような気がするの……」
「お母さん、そんな弱音をはいたりしないで」
「弱音ではないのよ。本音ですよ」
娘は込み上げてくる涙を堪えた。
「ごめんね、こんな話をして。明るい話をしましょう」
娘は言った。
「あなたたちが小さな子供の頃が、お母さん、一番楽しかったように思われてくるの、とくにこの頃……」
「とても手が焼ける子どもたちではなかったの。わたしはよく病気していたし、弟はやんちゃだったし」
「子どもは可愛いものよ。あなたも、あなたの弟も。あの頃は子育てに夢中だったわ」
聡子の脳裏に子どもたちと遊ぶ若かった自分の元気な姿が浮かんだ。
「お母さんは、本当は何を一番やりたかったの」
父とはあまりうまくいっている風にはみえなかったし、なにかわびしさを秘めているようにも思われる母であった。
「そう訊かれると困るわね。何か自分の好きなことを選んで、個性的な生き方をしょうという考えはなかったわね」
「お父さんとどうして結婚したの」
「どうしてと言われても……」
聡子は言いよどんで、語を継いだ。
「お父さんが愛してくれたからですよ」
「お母さんも」
「もちろん愛していましたわ。だから結婚をして、あなたたちが生まれたのよ」
娘はそれを聞いて、うれしかった。父も母も愛し合っていたのだ。
「では幸せだったのね」
娘は訊いた。
「愛し合っている時は、ひとはみんな幸せなのよ」
「そうかしら?」
婚約者のいる娘は首を傾げた。
「ひとの心はそんなに単純なものなのかしら」
「そうね」
聡子はうなずいた。
二人はしばし沈黙した。
「ひとの心ってなんだろうと思うことがあるのよ」
娘が口を開いた。
「心って疑い深かいのではないかしら。好きな人でも、そうなのよ」
「愛には、喜びもあれば、悲しみもあるのよ」
「悲しむのは嫌だわ」
「あなたは若いから大丈夫よ」
「ときどき自分が嫌になるのよ。信じられなくなることがあるの」
「それはいけないわよ。信じる心を失くしてしまったら、どうなるか知っているでしょう」
「ええ、分かっているわ」
娘の帰ったあと、聡子はしばらくもの思いに耽っていた。
信じるということは、口で言うほど容易でないことを聡子は知っている。信じなければいけないと思いつつ、疑っている。ひとの心は脆いものだと考えてしまう。草花のように水をやらないと萎れてしまう。
心が枯れてしまったら、大切な愛が萎んでしまう。
聡子はそのことを知っていた。
十年ほど前のことであった。夫の浮気が発覚して、大騒動が起こったのである。夫にそんなことは、あり得ないと思っていた聡子には、それは晴天の霹靂であった。
聡子は動転した。思考が麻痺して、しばらく、ものが考えられなかった。正気をとり戻したとき、夫に向ける彼女の目からは、やさしい眼差しは消えていた。眼光の奥には、蛇に触れたような冷たさの破片が潜んでいた。夫との間では、彼女の口は、蓋を閉じた二枚貝のように固く閉ざされた。
彼女は自分自身を責めた。これまでのわたしは何だったのだろう。わたしは何をしてきたのだろう。彼女は悩み苦しんだ。
夫の背信行為は、聡子の心の襞に、苦いしこりとなって残存した。
それまでは、幸運の小舟に乗ったように平穏な家庭であった。子どもたちの賑わいがあったし、陽気な笑いもあった、温かな雰囲気の漂う家庭であった。
それは、ささやかな幸せの鏡であった。その鏡の面に、亀裂が出来たのであった。
夫は自分の過失を認めて、土下座して謝った。二人は、仲直りになったかのように見えた。日常生活において、家庭の中に目立った変化がなかったし、夫に対しても聡子はこれまでどおりに話をしたり、笑ったりしていた。
しかし、夫と自分の間にできた壁のようなものは、砕け散ることはなかった。
それ以来、聡子は心の内に寂しさを秘めるようになったのだった。
娘と語り合った日から十日ほどして、聡子は亡くなった。
意識はその二、三日前までしつかりしていた。
夫の秀雄は、主治医から妻の容体が何日も持たないだろうから、覚悟だけはしておいてくださいと言われていた。
秀雄は妻のことを心配していたが、それ以上に会社の仕事のことで頭を悩ましていた。それでも、彼はわずかな時間を見つけては見舞っていた。
秀雄が最後に訪れた時は、聡子がいつもよりも元気に見えた。やせ細った容姿は見るに忍び難かったが、妻が夫の来るのを心待ちにしていたことが、目の表情によく表われていた。数日前に来たときは、仕事が忙しいのなら、来なくてもいいと言っていたのに。
「体調が好さそうだね」
秀雄はベッドで横になっている妻を見て、明るく声をかけた。
聡子は相好を崩して、
「薬が効いているの」
聡子はそう言って、上半身を起こした。ボタンをおすと、ベッドの上部が持ち上がる仕掛けになっている。
「こうすると、いくらか楽になるの」
聡子はそう言って、大きく息をはいた。
「仕事の方はとても忙しいのでしょう」
夫の頬のあたりがややくぼんでいるように見えた。
「体には気をつけてくださいよ」
聡子は弱々しい声で言った。
妻のやつれきった容姿に目を向けて、秀雄は言った。
「ぼくのことよりも、君の方はどうなの」
聡子は直ぐには返答しなかった。
少し間をおいて、
「このとおりお薬で持っているのよ」
「しっかりしくれよ、頼むから」
秀雄は心の中で叫んだ。
「わたし、あの世のことを考えているの」
妻がつぶやいた。
「あの世なんてないよ」
秀雄は言った。
「あなたには、今のわたしの心のことは分からないわよ」
「……」
「小さい頃に聞いた祖母の言葉が思い出されるの。おじいちゃんが亡くなった時、悲しんでいると、悲しんではいけないよ。おじいちゃんは幸せな国に行ったのだから。そのとき祖母がそう言ったの。そのことが思い出されてきて、わたしを慰めてくれるのよ」
「きみが小さかったから、そう言ったのだろう」
「そうかしら。あなたはそんなのないと言うけれど、きっとあるのよ」
「極楽浄土というけれども、それがあるのかないのか分からない」
「あるような気がするわ」
「信者ならそうだろうけれども」
秀雄は、「人間は死ねばそれまで」という考えである。
聡子は自分の寿命が幾ばくも無いことを感じていた。それで夫に告げなければならないことがあった。長い間、それが心のしこりとなって残っていた。
聡子は自分を愚かな女だと思っていた。夫の浮気のことがあって以来、夫への愛情が薄れてしまったことを知っていた。彼女はそれを悔いていた。
聡子は夫を愛そうと努めた。夫の過失を許そうとした。だが、それができなかった。以前の夫婦の関係には、戻れなかった。わたしの中で愛は、萎んでしまっていたのだった。
聡子の瞳が潤み、涙の雫が落ちた。
秀雄は妻の異常さに気づいた。
「どうした?」
秀雄は声をかけた。
「……」
しばらくして、聡子は口を開いた。
「あなたにはすまなかったわ。なすべきことがあったのに、それが出来なかった」
それが妻の最後の言葉だった。
(おわり)