消す女
もう、ひと月たっている。
おそらく……。
人の記憶や思考というものは、こうも簡単に曖昧になってしまうものなのか。
ここのところ落ち着きのない気分が日常のなかに同居している。
無くなっているのは、その日半日の記憶だけ。
その日の記憶を無くしていることには、まだ誰も気がついていない。
この僕自身もその記憶がないことに、まったく気づかずにいた。
その事に気がついたのは数日前だ。
酔って記憶がなくなったのか。
いや、その時、酒は飲んでいなかった。
記憶がなくなる直前、僕はオフィスいた。そして再び記憶が始まるのもオフィスの机からだ。
その日の夜に飲んだ酒の酔いでその数時間の記憶が測ったようにまるまるなくなっているというのだろうか。
どう思い出そうとしてもそこだけが、ぽっかり穴の空いたように思い出せない。
その日午後、予定になかった会議が急に知らされ、仲間がざわつきはじめた。
会議に向かおうとして立ち上がった時、何気なくみた机の上の回転式日めくりのカレンダーが八月一日になっていた。
だけど……、僕はその会議に出席したのだろうか。
会議でなにが話されたのか。そもそもなぜ緊急にその会議がもたれたのか、記録をさがしても、自分のものも会社に残されているはずの議事録も見つからない。
再び記憶が動き始めるのは、その日帰り際にカレンダーをめくり、日付を次の日に進め机をたとうとしたところからだ。
会議の記憶が無いことも不思議だが、このひと月の間、緊急にもたれたその会議の内容を知らなくても、これまでまったく問題なく仕事ができていることも不自然なことに思われる。
さらに奇妙なのは、それ以来、僕はまともな会話をしていない。オフィスでもプライベートでも。
記憶が無くなったせいなのか、記憶が無くなったからそうなったのか。もちろん会話のないことを記憶喪失のせいにすることは容易だ。でもそのどちらでもないような気がする。
気分が塞がっているわけでも無い。いたって普通だ。たしかに若干の違和感を覚えているものの、自分からコミュニケーションを断とうとしているなんてとうてい思えない。
実際、仲間は仕事の相談を以前とかわりなくしてくるし、個人的な飲み会の誘いに付き合っている。
今日も同僚の菊池が聞いて来た。
「このプロモーションのコンセプトイメージ、A案とB案の差がないように思うけど、どう思う?」
僕は一応その案件のリーダーをしているので当然その答えを伝えなければならない。
「うん」
僕はそう一言うなずいて次ぎの言葉を探していた。すると彼は
「分かった、もう一度プランナーに戻してみるわ」
と答え仕事に戻った。
秋葉さんもそうだった。
「プレゼン資料、目をとおした?」
と別のプロジェクトの資料について聞いて来た。
「あっ」
僕はきちんと見ていない事に気づいてあわてて資料を探した。すると彼女は、
「あっ、ごめんなさい。今見ている時間なかったね。もう一度確認しておくから、問題があったら後で教えて。基本揃っていれば大丈夫でしょ、他優先して」
という具合だ。ここのところ、僕が答えを出さないままに仕事がうまく回っている。
もちろん具体的な内容についてはメールで確認もしている。でも、以前はきちんと会話をして、もっと議論をしていたはずだ。かといって互いに、よそよそしいわけでもない。以前とかわりなく声をかけてくる。だけど、僕は一言、何か頷くか、躊躇した声を発するだけで用が足りてしまう。
たまたま偶然にそんなことが重なっているだけなのだろうか。
いや、僕は確かにまともな会話をしていない。
会社のみんながそうなってしまったのか?
オフィスを見渡すと二十人ほどのスタッフが変わり無く様々なところで打ち合わせをして仕事をすすめている。いつでもその場で打ち合わせがはじまるのが、この会社のいいところだ。そしてそれは変わる事なく日々行なわれている。
この事態は飲み会でも変わらない。
メニューやおかわりのオーダーも、話の内容もすべて相槌をうてば、なぜか不自由なく楽しい時間が過ごせていた。
僕は会話を拒否しているのでない。会話しなくても生活が十分に充実している。
先日、打ち合わせの資料を準備しているとき、あまりに膨らんだ書類と表の多さにげんなりしてそれを説明する自分の姿を思った。
すると、そうしている自分のイメージがまったく浮かばなかった。そもそもここのところ仕事で、不可欠であるはずのプレゼンの場があったのか思い浮かばなかった。
実際、自分で説明が必要なプレゼンはなかった。
いや、なかったわけではない。若いスタッフの説明で仕事がすべて片付いていただけだ。
結果的になかったわけだ。若手が育った証拠ではないか。と、思うと嬉しくもあり、寂しくもあったが、どうもそう納得させるだけのことでも無いような気もした。
しかし、そう思いだすといつからそうなったのか記憶を辿って考えるしかなかった。
それで、思いいたったのが、八月一日のことだった。
疑問に思いはじめてはじめて明らかになる事実。これはどんな仕事においても基本だ。そのことは若い後輩たちにことあるごとに言っていた。
それを自分の記憶の中で実践することになるなんて皮肉なことだ。
自分の行動の記憶は曖昧なものだと改めて思う。
今、この店でひとり飲んでいる。ここのところ毎日だ。
十年まえ、友人が二十代でもったこのバーは、もちろん通い慣れた店だ。
顔なじみの客も随分いる。
ここにくると、仕事とは離れたいろいろな世界の人との会話が自分を育ててくれる。ここに来るとそうした顔なじみとの会話を楽しんでいるのが常のことだった。
だが、ここ最近僕はここでひとり静かに飲んでいる。
この店でも、僕の周辺の事態は会社と同じだ。
ここでも、話しかけてくれる常連は、僕が頷いたり、驚いたりする一言で納得して、それ以上話しが深まる事がなかった。
さっきもカウンターの向こうの端のほうにいた鈴木さんがこちらに来て、
「あの映画みた?」
と話しかけてきた。
「ええ」
と僕は頷く。
「彼にしては出来ていたよね」
彼とは、ここに時折顔を見せるプロデューサーの三宅さんのことだった。
「ええ」
そう頷く。
「でも、まあ次ぎだね」
「えっ」
と僕は躊躇する。
「まっ、次ね」
彼は充分に納得した顔をして自分の席に戻り、連れの男性と話しはじめていた。
だいたいこんな感じだ。会話がないわけじゃない。まともに会話が深まらないのだ。
このことについて、そもそも気にかけなければならないことなのだろうか。
たまたま、そういう風な歳になって、不必要な会話がなくても済んでいるのだろうか。
経験のなかで馴染んできたものが、それだけ増えただけだと考えると問題はない。
考えかたによっては、それだけ自分に余裕ができたことともいえる。むしろ歓迎すべきことかもしれない。
「おかわりする?」
カウンターの中の友人が聞いてきた。
「うん」
そう伝えると彼はいつものようにカクテルをつくってくれた。
飲みたいものを聞いてくるわけで無い。彼はもうすでに僕の好みを十分に承知していた。だから僕は黙って彼のつくってくれる飲み物をゆっくりと味わうだけで良かった。
相変わらず僕はひとりで静かに飲んでいる。
しばらく時間がたって、
「もう一杯?」
彼が聞く。グラスはいつのまにか空になっていた。
「うーん」
そう僕がつぶやくと
「じゃ、ここまで」
彼は僕の限界も知っていた。
僕は机の上に一万円札を二枚置いて席を立った。
「気をつけて」
彼はいつものようそのまま僕を送ってくれた。
立ち上がって入り口のほうに振り向こうとしたとき。
「ところで」
と彼が聞いてきた。
「そろそろ隣の彼女のことを紹介してくれない?」
「えっ」
僕は驚いて彼を見直した。
「もう、一カ月になるけけど。彼女と来はじめて」
「誰のこと?」
僕は久々に会話になる言葉を発していた。
「いやだな、いつも二人で楽しそうに話しをしているじゃない。聡が紹介してくれるまで聞かないでいようと思ったけど、そろそろ聞かせてくれてもいいだろ?」
僕が女性と一緒? そんなはずはない。僕は毎日のようにここにひとりで来て誰とも会話する事なく、ここのところ酒の量だけが増えていっただけだ。実際さっきのおつりもない。誤魔化す男じゃないので、それだけ飲んだのだろうと僕は納得していた。
つりがない。
僕ははっとした。ひとりで飲む量にしては多い勘定になる。
誰だ。僕の隣にいる女性って。
「秘書の小川です」
とまどっている僕の隣で女性の声がした。
「そうですか」
友人が笑顔で答えていた。
「おまえ、いつから秘書を連れている身分なになった?」
彼はそもそも秘書なんて信じていないように皮肉めいた顔をしてこちらを見ていた。
「ひと月前からです」
と彼女。
僕はわけがわからず立ち尽くしていた。
「彼、ちょうどひと月前に親会社からの指示で、子会社である今の会社の社長になったんです。私はその時に本社から派遣された秘書です。彼、ここ一カ月とても頑張って、業績を倍にしているんですよ。だからストレスも多くて。私の仕事はそのケアもまかされているので、不必要な問題は明日に持ち越さないようにここで全部処理しているんです」
「それで」
と友人は納得したような顔で続けた。
「あなたが、彼に代わって他のお客さんにしっかりと答えていたので、僕はすっかり同棲でもしているのかと思っていました。そんな事ならお祝のパーティーでもしていたのに。聡、黙っているなんて意地悪いじゃないか」
彼はそう笑顔で納得していた。
「そんなはずじゃない」
僕は心の中で思った。
女性の姿なんて僕には見えていなかった。
突然、今横に彼女が現われている。
僕は彼女をまじまじと見つめた。
「大丈夫ですよ。すぐに忘れますから」
と彼女は僕の耳もとでささやいた。