コロナな日々 ① 2020.4.22
馬場先智明
今日の夜のニュース番組。遅い夕食を一人ぽつねんと食べながら、本日のコロナ情報を仕入れる。ここひと月あまりの日課だ。東京の感染者数3桁台は続き、今日は123人。2週間前に非常事態宣言が出され、そのときの言い方だと、人との接触を8割減らせば(←全国民が)、今日あたりがピークアウトという予想だった。が、そうなっていない。死者も確実に増えているし。これでは5月6日の宣言「解除」?も危うい。あーあ……。
暗い気持ちでテレビ画面を見入っていると、いきなり坂本九の顔写真が映された。??と思ったら、「上を向いて歩こう」の曲が今、ネット上で話題になっているとか。演出家の宮本亞門の呼びかけで「上を向いて〜SING FOR HOPE プロジェクト」が始まったのだそうだ。新型コロナウィルスと闘っている方、医療従事者の方々に希望を届ける取り組みの第一弾として、坂本九の「上を向いて歩こう」を、アーチストや著名人だけでなく一般の人も交えてリレー形式で歌いつないでいこうというプロジェクトらしい。
箸の手を休めて呆然と見ていると、女優の大竹しのぶから始まって、知った顔、知らない顔の方々が一人ずつ次々と、一小節ずつ歌いつないでいく。たしかに名曲だし、こんな状況のなか、聞いているだけで胸にグッと迫って……と思ったら、スタジオの局アナがすでに涙ぐんでいた!のにはちょっと参った。勘弁してほしい。
これはいつか見た光景、そう、あの3.11のときもそうだった。あのときは「花は咲く」という歌をテレビで西田敏行をはじめ多くの歌手やタレントが歌いつぐ姿を、繰り返し繰り返し流していたのをよく覚えている。あれはあれでおじさんの涙腺を崩壊させて困ったものだった。
でも今回、僕の感じ方は違うものだった。正直なところ、全く素直に受け取ることができなかった。コロナ禍は、地震や津波といった、避けようのない自然災害じゃない。はっきり言って「人災」なのだ。それを、きれいなメロディーと抒情的な歌詞の名曲で情に訴えてどこかあらぬ方向へ流し去ってしまおうとする、非常に手のこんだ作為にしか感じられなかった。
僕は思わずウルウルッとして、心地良い陶酔郷の彼方に流されそうになった自分に気付き、懸命に踏ん張った。こんなかたちで流されてはいけない、と思った。正直なところ、流されているヒマも余裕も全くない、のだ。「医療崩壊」しかねない現場で奮闘している医療関係者、店を畳み始めた飲食業界の人たち、雇用を打ち切られネットカフェからも締め出しを喰らった派遣社員の方々……同様、一人出版社としてカツカツに食いつないできた僕自身、非常に過酷な現実に直面している。涙ぐんでいるヒマは、どこにも、ない。
僕は僕なりの闘いをしなければ、と思っている。まずは生活を破綻させないこと。そして書くこと。この「小説と生活」誌上で書くことによって、僕は僕なりのレジスタンスを始めようと思っている。
コロナな日々 ② 2020.4.23
レジスタンス! だなんて、ずいぶん勇ましい言挙げをしてしまったもんだ。でも僕のそれは、第二次大戦中の対独戦線でフランス市民が繰り広げたような実際の武装闘争ではない。手にするのは銃火器ではなく、一本のペン、というかキーボード。カチカチカチと打鍵してディスプレイに現れる言葉で、「今」思っていることを、その一文字、一句、一文に憑依させていくのだ。
昨晩書いたような、「上を向いて〜SING FOR HOPE プロジェクト」のちょっといかがわしい感じに疑問を投げかけること。それは自分のためでもある。「情に棹差して」気持ちよく流されていったかもしれない自分に「待て、考えろ」と注意を喚起する、そのために書いている。
今、過酷な医療現場で毎日、闘っている医療従事者の方々はじめ、社会インフラ維持のために休みなく働くエッセンシャル・ワーカー(介護職、郵便配達、公共バスの運転手さんなど)への感謝を込めた応援歌なのはわかる。しかしどうして彼らがそのような状況にあらねばならないか。そういう状況に追いやった原因は何なのか。この二つのことは全く別々に考えねばならない、怒りをもって。そして冷めた頭で。
だけれども、「上を向いて歩こう」の美しいメロディーは、この全く別々の事象をごっちゃにして一緒クタに引っくるめてきれいに洗い流そうとしている、ようにしか僕には見えないのだ。
昨年のラグビー・ワールドカップのとき、日本チームの活躍で盛んに言われた「オール・ジャパン」とか「One for All, All for One」という文句があった。誰もがこれを口にするとき、目をキラキラさせて、そしてそう言う自分にウットリしていたように見えた。なんかこれと似ている。今は非常時(戦争だ、と表現した人もいますね)なのだから、文句は言わず批判もせず、みんな一丸となって敵(新型コロナウイルス)と闘うべき! とおっしゃる人も周りにいたりする。
こういう熱狂や情熱に支配されるのは、とても怖いと思う。その中に巻き込まれると見えなくなってしまうものがあるから。言うまでもなく戦時中の日本(に限らないが)がそうだったのだろう。だから僕は用心する。ではどうすればいいのか、と考えたとき、僕の答えは「文学」に行き着く。詩、短歌、小説……といった言語表現による芸術形式こそ、「本当のこと」を言える言葉の「器」なんだと思っている。ただし、その器に入れる言葉の質は厳しく吟味されねばならないのは当然のこと。
「文学の言葉」を僕は信頼したい。そして僕もそういう言葉の使い手に、いつか、なりたいと思っている。
学生時代に読んだ吉本隆明の詩にあった次の一節は今でもよく覚えている。
僕が真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろう
文学の言葉とは、こういうものなのか……と。
コロナな日々 ③ 2020.4.24
真実を語ると「世界が凍る」──って結構コワイ。「世界」のほうが強大だったりすると、真実を語ったほう(詩人とか)が、逆に殺されかねない。「世界」を甘く見ないほうが身のためだ。
でも果敢にそれをやってきた人たちはいる。僕はその人たちを「文学者」と呼びたい。というか真実の言葉で世界を語れる人。それなら文学者(詩人や小説家)に限ったことではなく、ジャーナリスト、哲学者、いや政治家にもいたじゃないか、と言われるかもしれない。たしかにそうかも。いやたしかにそうだ。けどそこまで風呂敷を広げてしまうと今の僕には収拾がつかなくなるので、ここでは僕の手の届きそうな「小説家」に留めておく。
ちなみに今日のコロナ状況だけど、都内の感染者数は3573人(死者87人)で、全国感染者数のほぼ3割。中でも僕の住む世田谷区はダントツに多い。ご近所さんのマンションに陽性の方が出て、軽症のため自宅待機となったらしいが、おかげで老齢のその知人もエレベーターが使えなくなり(感染が怖くて)、困っていると聞いた。身近にもコロナの影がひたひたと忍び寄っているのを感じる。
この数字を見て、すぐに思い浮かんだのは、多和田葉子の小説『献灯使』(2014年)。
大災害後(原発事故による放射能漏れとはどこにも書いていない)の東京で生き延びる親子孫三代の物語だ。被爆の影響で遺伝子に異常をきたした親(主人公)は100歳を超えても老いることのできない身体となり、その孫は生まれながらにして障碍者で学校まで歩く体力もない。ただ常人にはない不思議な能力をもつ。この親子の住む東京は被爆の中心地のため、いまや住むのは最下層の人々ばかりで、富裕層はほぼ地方へ脱出してしまっている。食物も自給できないため、すべて地方からの輸入に頼っている。東京から離れれば離れるほど地価も高く、沖縄県が最も優位な存在となっている。東京はほぼ鎖国状態というか、日本から見捨てられた厄介な土地として描かれていた。
この小説は、3.11以降のあったかもしれない近未来の日本の姿を描いている。文化資産が一極集中した東京と、戦争の負の遺産(米軍基地)を一手に引き受け政治経済すべての面で最底辺に押しやられたままの沖縄とが、見事に逆転している。
コロナ感染者数の多い東京など首都圏から、安全な?沖縄や石垣島に逃避する人たちのことを最近のニュースで見るにつけ、この小説の先見性というか、深い寓意性を思わずにはいられない。
正直、この小説を初めに読んだときは、ああ、読まなきゃよかった…と思ったものだった。気持ちが殷殷滅々として読後感も最悪だった。もしかして僕が東京の世田谷区という場所に(たまたまだけど)住んでいて、その利便性と文化的優位性(←そう思っている人が多いだけ)に疑問もなく乗っかってしまっていたからかもしれない。そこをガッツン!とやられたのかも。
だとすればこれぞ「文学」。寓話という形式で真実を描き、「それ」に気づかないボンクラの心胆を凍らせたのだから。
コロナな日々 ④ 2020.4.27
再開します。3日前の夜、4回目を書き始めたところ、途中まで書いて、う〜ん、なんともつまらない(気持ちが乗らない)と思い、全文削除してしまった。言葉を「置き」にいっていると感じたからだ。カミュの『ペスト』について書いてみたけれど、その解説を淡々と書いている自分に嫌気がさしてきた。ペスト菌と新型コロナウイルスを関連させて、何か教訓なり生き方の処方箋なりを得たいという気持ちで小説『ペスト』の購入に走った多くの人がいたらしく、売上が一気に上昇し増刷になっているという話。こんな新聞に書いてあるようなことを繰り返そうとしているので嫌気がさしたのでした。
さて気を取り直しその『ペスト』。時代は違うけれど、作品中にも描かれた都市封鎖という同じ状況の中、疫病の恐怖にさらされた人間がどうなっていくのかを描いていて、今のコロナ禍の中にあって「人間とはなにか」を考えさせるには、たしかにもってこいの小説だと思う。僕ももう一度ちゃんと読もうと、うんと昔買って、パラパラ読みしたまま本棚の奥でヨレヨレになっていた銀色のカバーの新潮文庫を引っ張り出したくらいだ。
でも、いうまでもなく、カミュが小説の材料にした「ペスト菌」は、疫病自体の恐ろしさを描きたかったのではなくて、ナチスの思想というかファシズムの比喩として「ペスト」をもってきたのだ。実際、カミュが「ペスト」の執筆を始めたのは、ドイツによる占領下の時代だったのだから。これぞ文学によるレジスタンス。映画の名作「天井桟敷の人々」も占領下で制作されたのを思うと、彼の国の「芸術的抵抗」は筋金入りだし、本当に奥が深い。
それに比べると日本はどうだったか。ほんの一部の文学者(永井荷風、太宰治、谷崎潤一郎など)を除いて、並いる大家がドーッと体制翼賛に靡いていったのは教科書にあるとおり。戦後になって反省するのは、誰にでもできるが、その渦中でどう生きたか、作家としてどう表現し得たのか、というのがとても大事なことだと思うのです。
で、今。前回書いた『献灯使』の多和田葉子はじめ、平野啓一郎、星野智幸、中村文則、堀江敏幸(←僕の好きな作家たち)なども、3.11 以降、書くことでレジスタンスを実践している文学者もいて、僕はとても心強く思っている。彼らの言葉を追いながら、僕は僕にできる範囲内で、言葉を鍛えたい。
コロナ状況だが、今朝のテレビでは、東京の「陽性率」は40%とのこと。約10,000人がPCR検査を受けて、そのうち約4,000人が陽性だったという数字で、これはもはや途上国並の〈危険領域〉という。と聞いても、正直なところ、自分自身の中で危機意識はあまりない。この数週間、ほぼ引きこもって、いつもと変わらず呑気で明るいコマーシャルの流れるテレビを見たりしているから。志村けんが、岡江久美子が、世田谷区で全く健康体だった50代の清水建設社員が保健所に連絡が取れないまま自宅待機中に亡くなったと聞いてもまだ切迫しない自分がいる。
おそらく自分が感染して、急激に悪化して、人工呼吸器を装着されて、意識が薄れてゆくとき、初めて「ああ、しまった…」と思うんだろうな。
コロナな日々 ⑤ 2020.4.28
「犬を飼いなさい」
「え? どういう意味ですか」とNHKの道傳愛子キャスターは聞き返した。
「新型コロナウイルスの感染の広がりはしばらく収束しません、少なくともあと2年、人類はこのウイルスと共棲せねばならないでしょう」と言った政治学者に、道傳さんは「ではどうすればいいのでしょうか」と尋ねたあとに出てきた答えがこれ。
何言ってんだ? このおっさん、じゃなくてアメリカの政治学者・イアン・ブレマーさんは……と一瞬、わが耳を疑った。
先日、NHKで放送された「ETV特集 緊急対談 パンデミックが変える世界〜海外の知性が語る展望」での一場面だ。ほかに『サピエンス全史』の歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ、フランスの思想家ジャック・アタリの計3人に道傳さんがインタビューする構成で、なかなか見応えのある番組だった。
「犬を飼いなさい」も、初めはアメリカ人らしいジョークかと思ったが、結構まじめな提言だと納得。そうか、犬を飼いながら、しばらくはCOVID-19とお付き合いしなきゃいけないんだ……とその時は3人の「知性」に諭されて、いつになく思索的な気分に耽りつつ眠りに就いたのだった。
ところが後日、いくつもの達見がちりばめられていたはずのその番組を思い出そうとすると、まず「犬を飼いなさい」が出てくる。というか、それしか出てこない、悲しいことに。もっとほかにいいことが話されていたじゃないか! と思っても、あとの発言はすべて薄ボンヤリと霞んでしまっていて、そのシンプルな一言には勝てないようなのだ、僕のレベルでは……。
でも、この一言、実はかなり当たっている、としみじみ感じている。
実は我が家でも小さな犬(ミニチュア・シュナウザー)を飼っていて、今こうしてキーボードをカタカタ打っている僕の尻の後ろ(イスの上)でグーグー寝息を立てている。おかげで僕は半けつ状態なのだが、こいつはいつも誰かにベッタリくっついていて、何もなければひたすら「眠って」いる。今も仰向けに脚をおっ広げ、お尻の穴も玉玉も丸出しにして「眠って」いる。
妻が入浴中のため、今は僕にベッタリだが、犬の頭の中では、ベッタリする人の序列はしっかりできている。「妻→僕→長男→長女→祖母」の順だ。妻がいなければ僕、僕がいなければ長男……というふうにベッタリする順番は決まっていて揺るがない。妻が外出したからといって、いきなり序列最下位の祖母に行くことは絶対ない。祖母にベッタリするのは、前の4人がいない時以外にはあり得ない。可哀想な祖母……。
まあ、こんな犬だが、ここのところ毎日、新型コロナ禍の嫌なニュースにカリカリ鬱々しながら、引き籠りがちな生活を送るなかにあっては、ただ食べて、ひたすら眠って、時々吠える以外何もしないけれど、一緒にいるだけで気持ちが安らぐ。肉球なんかを触っていると、カリカリも鬱々もスーッと消えてくれるのは不思議なことだ。
「犬を飼いなさい」は、至言かもしれない。ブレマーさんの言っていたのは、こういうことなんだろう。アッ、猫でもOKかも。
コロナな日々 ⑥ 2020.4.30
新型コロナウイルス禍が広がるなかで各国のリーダーが発した国民へのメッセージはいろいろな意味で考えさせられた。
メルケル首相(ドイツ)の「東西ドイツ統一以来、いや第二次世界大戦以来となる最大の試練です……旅行や移動の自由を苦労して勝ち取った私のような者にとって、こうした制限は絶対に必要な場合にだけ正当化されます」などはテレビなどでも繰り返し取り上げられているが、その「言葉」は借り物ではなく、あの人格から心の底から絞り出された本当の「声」であることは、ドイツを解さない僕にもジンジン伝わってきた。あれは、母が子へ、先生が生徒へ、教え、諭し、赦しを請う「心の声」なのだと思った。
それにつけても彼我の差よ……と思うと、頭がクラクラ、気持ちも折れそうになる。
このほかにも、デンマークやニュージーランドなど多くの女性リーダーの言葉は心に沁みました、本当に。どなたの言葉もなぜか嘘っぽく感じられない。「なぜか」なんて失礼だけど、政治家の言葉なんてそんなものだという思いは、僕も人並みにはあって、特に男性リーダーの方々の言葉は喰えないものが多い。今回の場合は特にそうだ。
それは疫病を身体的危機と感受できる能力のレベルが、やはり女性と男性とで決定的に違っているからなのかなぁ…と素人なりに思ったり。男は頭でっかちなのに比べ、女性は生命を育む「身体」をもっている。疫病という危機を、男は「頭」で理解しようとし、女性は「身体」で感じ取ろうとしている。その差がはからずも出てしまったのかも。
もうひとつ思ったのは、各国の「文化」支援の姿勢が結構、はっきり見えたこと。これもドイツを例に出すと、グリュッタース文化相(←やはり女性)の発言は、泣かせる。
「非常に多くの人が今や文化の重要性を理解している。……私たちの民主主義社会は、少し前までは想像も及ばなかったこの歴史的な状況の中で、独特で多様な文化的およびメディア媒体を必要としている。クリエイティブな人々のクリエイティブな勇気は危機を克服するのに役立つ。私たちは未来のために良いものを創造するあらゆる機会をつかむべきだ。そのため、次のことが言える。アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ。特に今は」
さらに、「助成金は一度取得すれば返済する必要はない……音楽家も画家も作家も、映画・音楽関係者や書店・ギャラリー・出版社も、誰もが生き残ることを望んでいる」に至っては、もう何も言えねぇ、ってところでしょうか。
日本ではライブハウスがどんどん店を閉じ、書店なんかも存続の危機に瀕しているのを見るにつけ、ああ、彼我の差よ……と何度でもしつこく叫びたい。
「文化」でも、特に僕の場合、「本」、そしてそれを通してしか出会うことのできない詩や小説などの文学作品は、本当に「生命維持に必要」なのだ。
誰かがTwitterで呟いていたのを見て、思わず膝を打った。
「あのマスクの466億円で、メルケルさんを雇えないかなぁ」だって。