雷雨
鈴木 三郎助
二人がくだり始めた時は、そんな空模様ではなかった。太陽がやや斜め上にあってこうこうと照っていた。四方の山々は、青く澄みわたっていた。頭上にはひとつの雲もなく、眼下にはすすきの原が広がっていた。ときおり一陣の風が吹き寄せると、その一帯は銀色に輝きわたった。だが西の空の彼方に、灰色の峰の山が陣取っていたのだったが、二人はそのことには気づいていなかった。
二人が登った山はそんなに高い山ではなかったが、その山の中腹に二人がさしかかった時だった。嫌な予感が、二人の心のふちに影をさした。暗黒の積乱雲の大群が、近くに迫って来ていたのである。
「やばいね、父さん」
息子が声をふるわせて叫んだ。
「大きな積乱雲だ」と、父も空を見上げて言った。
「真っ黒な怒りづらをあらわに、今にも牙を剝き出しそうだ」
父が愉快そうにつぶやいた、ちょうどその時だった。それに応答するかのように、雷光が鋭く山頂を疾走した。と、その瞬間、天地を引き裂かんばかりの雷鳴が山間にこだました。
小学四年の息子は度肝を抜かれて、父の腰にすがりついた。そして
「お父さん、こわいよ」と、泣きそうな声で言った。
「大丈夫、大丈夫、そんなにこわがらんでもいい」
父親は震えている息子の肩に両手をおき、抱き寄せた。
すぐに、土砂降りの雷雨がくる。この非常事態を切り抜けなければならない。避難場所はあるだろうか。そんな想念が啓三の頭をよぎった。
啓三はただちに決断した。息子の手を握って脱兎のごとく走り出したのである。だが、二人が何十メートルも行かないうちに、大粒の雨が雪崩のような音を立てて降ってきた。そして杉林の中は、たちまち暴風雨にさらされたのだった。
二人は走るのをやめた。足が滑り、転びそうになったからである。
ところが幸いなことに、その行く手に小屋のようなものが見えたのである。
それはまわりが笹薮に囲まれた、見るからにもう使用されているとは思えない、粗末な小屋であった。
親子は朽ちて、壊れかけた木戸口から小屋の中に入った。小屋は山仕事をする者の物置小屋のようであった。板壁には山で使う道具がいくつか、無用な飾りもののように紐で吊るされていた。
小屋の中央には、小さな炉のような跡があった。その周りには、空き缶やら古くなった食器やらが、二つ三つ土間に無造作に転がっていた。汚れの目立つ毛布のような布のわきに、木の切り株に混じって、枯れ枝が積んであった。
息子も自分も、ずぶぬれになっていた。
啓三はすぐ火を起こすことにした。
半分ぬれた新聞紙を炉に置き、その上に枯れ枝をのせて火をつけた。紙はくすぶりながら赤い炎を出して燃え始めた。
二人の体はずぶぬれになっていたが、雨合羽を着用していたので、下着まではぬれていなかった。啓三は丸太の切れ端を炉のところに持ってきて、その上に濡れた着衣をかけた。
丸太に腰かけた息子の勇は、炎のすぐそばまで手を伸ばして、暖をとっている。下着姿の少年の肩が震えていた。啓三は息子と肩を並べて丸太に座ると、片腕を息子の肩に回して、
「大丈夫か」と声をかけた。
息子は声を出さず、顔を縦に動かした。
「大丈夫か」
敬三は繰り返して聞いた。
「大丈夫」
息子はそう応えたので、敬三は安心した。
身が暖まってくれば、息子は元気を取りもどすだろう。それにしても異常な天候だ。秋の半ばに、こんな雷雨がくるとは驚きだ。啓三はそう思いながら、戸口の方に首をのばし、外の様子をうかがうように見つめた。
雨は先ほどよりさらに強く、激しさを増していた。山道は流れにうずまり、斜面を滝となって落下していた。
この分だとなかなか止むまい。啓三はそう思って、視線を息子の方にもどして、息子を安心させるように、
「これが乾くまでには、止むだろう。それまでは辛抱だ」とつぶやいた。
啓三の趣味の一つは、山登りであった。大学のときの四年間は、山岳部の一員として山登りをしていた。それは高い山岳に挑むというのではなく、無理のない登山を楽しむといったものだった。会社員になり結婚してからは、一時山登りをやめていたが、息子が小学生になったのを機に、息子を連れて二人で山に出かけるようになった。
息子の勇は、未熟児で生まれたこともあって、体が小さく、弱々しい体質の少年であった。外で遊ぶことが嫌いで、友だちがいなかった。自分の部屋で二つ下の妹と遊んだり、父が買ってくれた少年少女用の童話や物語の本をひとり机に向かって読んだりして楽しんでいるような子供であった。
そんな息子の内向的な性格をみてとった啓三は、息子のことが気がかりであった。あるとき、息子が学校の体育の時間が嫌だ。逃げ出したくなると語ったということを妻から聞いて、啓三は尋常ではないと思った。このままだと、この先において何が起こるか、だいたい予測することができた。学校に行くのが嫌になるかもしれないし、とくに体育のある日はとても辛いだろう。登校拒否を言い出すかもしれない。そんな息子に仲間ができるはずがなく、何を考えているのか他の者には分かってもらえないだろう。いつも独りぼっちで、嫌な感じを与えるならば、息子は苛めの標的にされてしまうことだってないとはいえないだろう。
ある時、啓三は自分について思いめぐらした。今までの自分は会社のことだけに気をとられて、子供たちのことを、妻に任せきりであった。日曜日などは、会社の同僚とゴルフにでかけたりして、子どもと遊んだりする時間をもつことがなかった。
妹の性格は兄と正反対であった。妹の浩子は根っこからの明るい子どもで、誰とでも分け隔てなく付き合える陽気な性格に生まれついていた。しかも優しく、思いやりのある子であった。そのため妹には友だちが多かった。妹に関してはとくに心配しなくてもよかった。
兄の勇はそうではなかった。内気で、陰気で、子供らしい無邪気さに欠けていた。男の子の誕生を喜んだ啓三と妻の八重子は、わが子に積極的な人間になって欲しいと願った。その思いを込めて、「勇」という名前を付けたのだった。ところが、息子は臆病で、運動嫌いの内向的な子どもに育っていたのだ。
啓三はある本で読んだ、子供の育て方についての、ある言葉を思い出した。それは次のようなものであった。
木を真直ぐな幹に育てたいならば、苗木の時期によく手入れをして、見守ってやらなければならない。曲がった苗木は曲がったまま成長する。幹が曲がって生長した木は、真直ぐな木にすることはもうできない。子供の教育も同じことが言える。悪い癖の兆しが見えだしたら、その時を見のがさず、すぐに手を施さなければならない。
啓三は息子に体を動かすことの快適さを覚えさせたかった。そこで山に連れて行くようになったのであった。
炉の中の薪は、炎をあげて勢いよく燃えていた。勇は丸太に座っていた。彼は両腕を胸のところで組み合わせ、背を丸めていたが、しだいに体が暖まるにつれて、顔がほてり元気を取りもどしたようだ。しめっぽかった下着はほぼ乾いていた。
「お父さん、この雨はやむよね」
勇は言った。息子の真向いに腰を下していた敬三は、息子に眼差しを向けて、ほほ笑みを浮かべて、言った。
「もうしばらくしたら止むだろうね。雷雨はそう長くは降り続くものではないよ」
「ほんとう?」
勇の目は半ば疑わしげであった。
「なんだい、おまえ、止まないと思っていたのかい」
「そうではないけど……」
息子は目を伏せて、笑った。
「でもこんなひどい雨は初めてだね」
「たしかに」
啓三は言った。これまでに二人は一緒に五、六回山登りをした。だが、曇っていかにも雨の降りそうな天候の日もなかったわけではなかったが、この日のような激しい雨に襲われるようなことはなかった。
戸外はあいかわらず激しく降っている。ときどき杉林の中を雷光が刃のように貫き、雷鳴が大地を震わせた。そのたびに勇は穴があったら、直ぐにでもそこにもぐり込みたい気持ちにかられた。啓三の目にも、息子の青ざめた顔と、唇を震わせて怯えている様子が見えた。
「こちらにおいで」
父は息子に呼びかけた。
だが、勇は黙ったまま、身動きしなかったので、啓三は丸太から尻を上げると、息子のところに歩み寄って、そのわきに腰かけた。
勇はうつむいた姿勢をくずさなかった。啓三は左腕を息子の肩の上に回した。そして抱き寄せた。
「寒いのか」
父は声をかけた。
「寒くはないが、怖い」
息子は小さな声で言った。
「そんなにこわいか」
父は聞いた。
「ほんとうに怖い」
息子がそう言った。
その時だった。胸倉を突き刺すような電光が光った。と感じるや、間髪をいれず天が砕けんばかりの雷鳴がとどろいた。勇は思わず父の胸に身を縮めた。父は息子の背中を抱きかかえた。息子の体はかすかに震えているのが、敬三の手に伝わってきた。
この子は本当に雷が恐いんだ。あの宙を刻みこむ雷光が不気味なのだ。あの稲光が矢のようにはらわたに突き刺さるような痛みを覚えるのだろう。それが耐えられない。轟く雷鳴が自分の体を粉々にしてしまうのではないかと思うと、いても立っても居られなくなってしまうのだろう。
敬三はそう思いながら、息子の小さな肩に手をおいて軽く撫でてやった。
六、七分が経過した。父の膝の上に臥していた勇は上半身を起こした。彼は眠りから覚めたように手で目をこすり、見回した。
雨の勢いは弱くなっていなかった。むしろさらに強くなっていた。ときどき雷鳴が小屋を揺さぶるように轟いた。しかし、勇は身を縮ませることがあったが、父の膝の上に身を伏すことはなかった。息子は木の棒をにぎって、それで炉の火をかき回して燃え上がっている炎の色を不思議そうに見ていた。
啓三は黙って、そんな息子の様子を眺めていた。
しばらくして父は言った。
「何を考えているの」
「何も……」
息子は答えた。
「怖さは無くなったか」
「まだ少し怖い」
「父さんも雷は怖い」
「父さんでも怖いの」
「もちろん、そうさ。でも、子供と大人の怖さの感じ方が同じではないよ」
「どんな違いがあるの、とうさん」
息子は目を光らせた。
「知りたいかい」
父は息子を見て言った。
「教えて」
「大人は雷がどうして起こるかを知っているんだ。どんなことにも、その原因というものがあるんだ。そのことが分かると、余計な心配はなくなるのだよ」
「ぼく、雷がなぜ起こるか、その理由は知っているよ。学校の先生が教えてくれたよ」
「そうか。そうだったらこわがらなくてもいいはずだろう」
父の言葉が勇の心に落ちた。
「でもこわいな。雷の光がいやだ。天が砕けるような音がきらいだ」
「お父さんも、怖い。でも、父さんは大丈夫なんだ」
「どうして?」
「それが子供と大人の違いなんだ」
「ちょっと分かんないな、とうさん」
「大人になれば分かるよ。それまで待つんだね」
「大人になるのを待つの?」
「そうさ、待つんだよ」
「どうやって待つの?」
父は話を中断した。
勇の耳に、激しく降っている雨の音が入ってきた。
「あと十年、そう十年経つと、勇は大人になるだろう。でもその間に、やらないといけないことがあるんだよ」
「お勉強」
「もちろん、他に」
「読書」
「そうだね、書物はいろいろと教えてくれるから、とても大切だ」
「まだあるかな」
勇は考えた。
啓三は息子の、真面目に考え込む顔を見つめた。
「ご飯を食べること」
勇は何を考えたのか、勇の口からそんな言葉が飛び出したので、啓三は思わず吹き出さずにいられなかったが、それをぐっと堪えた。そして、こう言った。
「そうだね。おまえはとても大事なことを言った。食事は生活には欠かせないことだからね」
「でも、ママがうるさいんだ」
啓三は子供の食事に関して、妻が心を使っていることは知っていた。
「ママがうるさいのか」
「これ食べなさい。それ食べ過ぎてはいけませんと、しっこいんだ」
「どうしてママはそう言うのかね」
「体にいいからこれを食べなさいと、いつも言うの」
「それって、ママの願いではないか。おまえに丈夫な身体になって欲しいからではないかね」
勇が好き嫌いの激しい子であるのを啓三は知っていた。
「ママが注意するのは、おまえがえり好みをするからではないか」
息子はちょっと首をかしげて、考える素振りをみせた。
「えり好みはよくないの?」
「悪いことではないよ」
「だったらママはどうして注意するのかしら?」
「ママにはわけがあるんだよ」
「どんな?」
「好きなものだけを選んで食べてはいけないんだ」
「どうして?」
「好きなものを食べるのはおまえにとっていいかもしれない。でもね。それは必ずしも身体全体にとっては良くないことなんだ」
「それ、父さん、誰が決めたの?」
勇はなかなか理屈っぽい少年である。内気で臆病なのに、自分の思いを通そうとするところがある。妹は利発な子で、ママの言うことを素直に受けいれるので、手がかからない子だと言っていた。ところが、勇は根性がひねくれているのか、それとも愚鈍で頭の回転が悪くて、手に負えない子ではないかと、妻が話していたのを啓三は思い出した。
「誰が決めたかということではないんだ。
おまえ、よく考えてごらん。食事はだれのためにするんだね」
「それは自分のためだよ」
「楽しむためだけでなく、自分の身体を健康に育つためにも注意して食べるだろう」
「そうだね」
勇は違うとは言えず、そう答えた。
「嫌いだと思っても、必要なことは我慢してやらなければならないんだよ、勇、分かったかい」
啓三は念を押すように言った。
「嫌いなことでも、どうしてもやらなければならないの」
「そうだよ」
「いやだな」
「まだそんなこというのか」
「ぼく、嫌なものはいやなんだ」
勇は泣きそうな声で言った。
「おまえの気持ちはよくわかるよ」
啓三は言った。しかし、彼はここではっきり息子に言っておかなければならないと、自分を戒めた。
勇が嫌いだ、嫌だというのには、それなりの原因なり、理由なりはあるだろう。しかし、それが何であるかを理解するのは無理であろう。大人だってそれを容易には理解できるものではない。
どんな人にも好き嫌いはある。それはだれもが認めるところであるが、それはたんなる思い込みに過ぎないことが、よくあることだ。
啓三の息子にたいする願いは、勇が心身ともにバランスのとれた人間になって欲しいということ、それが父としての息子にたいする願いであった。勇が好きなことだけに熱中することを、啓三はあまり良いことだとは考えなかった。人格が偏屈になってしまうのではないかという、親としての懸念があった。
「勇、山登りは好きかい?」
敬三は訊ねた。息子の今の気持ちを知りたかった。
「わからない」
息子は気の乗らない返事をした。
「嫌いなのか?」
啓三は問いつめるように言った。
「嫌いというわけではない」
啓三は少しほっとした気持ちになった。息子の口から山登りが嫌だと言われるのではないかという不安があった。特にこんなひどい雷に遭遇したこともあったから。
「勇、大切なことは体験してみることなんだよ。辛い体験でも、自分のためには良いことなんだよ」
やがて、激しかった雨が小降りになり、日差しが出てきた。野鳥の声が聞こえてきた。
啓三は入口の木戸を開けて、あたりを見渡した。雨は上がっていた。木々の葉から大粒の雫が地面に落ちている。小道から流れが消え、山間に再び平和が漂い出していた。
「恐ろしかった雷は行ってしまった」
啓三は、脇に立っている息子に言った。
「ああ、やっと気分が晴れ晴れになった。でも、こわかったね、とうさん」
勇は甘えるように言った。
その声は、むしろ啓三の心に、恐ろしかった雷にたいする勇の懐かしそうな気持の表われのように響いた。
(おわり)