第1回
こんなふうにしていてもしょうがない。考えることを止めにして旅に出た。ひとり旅。風が心地よく、歩く力が内側から突き上げて来る。生きているのを感じるのに多くはいらない。ただ歩き食べ眠ればいい。北に見えるモン・サン・ヴィクトワールに登ろうとは思わない。見ればいい。見ていればいい。立ち寄った田舎の食堂では若い娘が皿を運んでくれる。この娘と恋に落ちて暮らす日々を頭に描く。寒くなってきた季節がそんな思いを心に置いてきぼりにする。今夜の宿はこの食堂の二軒先の宿屋にしよう。少しだけ未来を期待し、少しだけ幸せな眠りをこの村で過ごそう。明朝は晴れるそうだ。宿屋の女主人が挨拶代わりにそう教えてくれた。よき旅を。ありふれた贈り言葉が背中を刺激する。明日はイタリアに発とう。南仏を通り越してトリノまで行く。別の人生をトリノで始める。正確にはトリノから少し離れたjGで生き直そう。ずっと描いていた夢をそこで開始する。世俗の人間関係はバカバカしく、愛する女は愚痴と要求で独り凝り固まってしまった。リセットをかけて生きよう。
移動は快適で電車をスムースに乗り継いだ。トリノの駅舎はヴェネツィアより大きく、大都会を抱く構えを持っている。到着は夜だったので駅を出たまま石造りの拱廊をホテルを探して歩く。人通りは少なくオレンジ色の照明が足元から現実味を奪っていく。六分ほど歩いて高級ホテルを見つけた。受付にアイロンがかかったお仕着せが三人並び、どれも男性で一人は英語、一人はフランス語で応対する。客はこれも男が中心でこのホテルは商用での宿泊が主のようだ。一旦部屋に入ったがすぐ降りて外に食事に出る。まだ八時なのに開いているレストランは少なく、開いていても望みの家庭的イタリア料理店ではない。ネオンの誘いを横目に見過ごしハンバーグを出す普通の店にたどり着く。土地勘のない都会は味気無い。ひとりの食卓はかげりがちだ。ワインが少しは気分を高めてくれはする。窓から見える広い街路が寒々しい。明日行くjGは綴りが分からないのでネットで自分で調べることができない。そこで、フロント係に代わって調べてもらう。jGに行くには電車やバスはなく、タクシーがよいと教えてくれる。車で一時間ほどの距離なので100ユーロほどのタクシー料金になるそうだ。つなぎの一日は夜は眠るためにあり、ベッドは固く思ったより寝心地がいい。
トリノの朝は活気があり、商業都市なのだと再認識する。昨夜静まりかえっていた大通りは車とバイクであふれ、タクシーをつかまえたはいいが渋滞を抜けるのに時間を費やした。少し走ってやっと田舎道を走り出す。さすがイタリアは運転マナーが悪い。乱暴に追い越しをされて運転手はハンドルを離して大げさなゼスチャーで抗議する。気安く乗せてくれた彼は実はjGの位置を知らないらしく、道が分岐するバス停で歩く人を呼び止めてjGへの道を尋ねる。三人目でやっと詳しい道を教えてもらい解き放たれたように車は北を目指す。土ぼこり。赤みを帯びた土の道が続く。まばらな街路樹は黄緑に並び、乾燥した大地を強調する。行き先が分かって安心したと見え、運転手は饒舌に政府の交通行政を非難しはじめる。雲が出てきた。空を見ているだけで憂鬱に凍えてくる。空気はイタリアの冬を準備し始めている。