望み
鈴木 三郎助
「わたしは八十の歳になりました」
桜田美恵子園長は、そう口を開いた。
「歳などそう気にして、生きてきたのではないけれど、もうこんな高齢になってしまって、自分でも驚いています」
そこにいるのは、今野万里子という、美恵子の親戚の、大学を卒業したばかりの真面目そうな、感じのいい娘である。
二人は夕食後、応接間で寛いでいた。そのうちに話にはずみがついて、美恵子はこんな話を始めたのであった。
「わたしの知人の中には、わりと早く、あの世に旅立たれた方が結構います」
と、話を続けた。
「早い人は四十になるかならないかのうちに、亡くなりましたね。美人薄命という言葉があるでしょう。その友人も才色兼備の人で見目麗しい、才知にたけた人でした。その時分のわたしは、彼女の魅力にほれぼれとなっていました。とても素敵な方でした。しかも彼女は真面目な性格で、勉強家でもありました。大学を卒業したわたしは、就職の道を選びましたが、彼女のほうは大学院に進み、学問を志していました。そして彼女は大学の助教授、今でいう準教授の職に就いていたのですが、三十代の半ばに乳がんが見つかったのです。そして治療のかえなく、四十前にして命を落としてしまいました。
この友人の訃報を告げられた時、わたしはまず自分の耳を疑い、何かの間違いではないのかとさえ思って、直ぐには信じられませんでした。彼女はわたしの唯一の、敬愛する親友でしたからね。彼女の死去は、突然雷に打たれたような衝撃でした。彼女とともに抱いていた希望も夢も、ガラスが壊れるように壊れてしまいました。彼女を襲った運命のあまりの非情さに、わたしは涙さえでませんでしたが、数日経ってようやく彼女への思いがあふれきて、部屋にこもって泣き崩れていました。わたしは生きる力を奪われ、すべてのことに関心を失い、絶望のどん底に落ちたのです。人生は、かくもはかなく、かくも不確実なものなか、その思いが骨の髄にまでしみ込んでしまいました。
死はどこからとなく、不意にやってくる。そして容赦なく、否応なしに人の大切な命を奪いとる。こんな恐ろしいことがあるでしょうか。最も忌まわしいものだ。そういう思いが、わたしの脳みそにこびりついてしまったのです。わたしは、生きているのが嫌になりました。
しかし、そのような厭世観は幸いなことに一時的な症状でした。どうにかその苦境を乗り越えることができました。でも、その時、わたしはこう考えました。人は死に対して神経質に考えたところで、どうにもならない代物だと観念したのです。人は健康について細心の注意を払ったとしても、死の決断の最後は、神さまの手に委ねられているのだ。人間の力でどうすることもできない、不可抗力なものだと悟りました。人は死ぬべき時が来たなら、死ぬしかないのだ。そんな諦観した考えを持つようになりました。
ちょっと長たらしい言い回しになりましたが、要は多くの人がそうであるように死のことは、くよくよしても始まらないので、自分のできることは、何事にも最善を尽くすことだという思いを強く持つようになりました。それは最愛の彼女がわたしに残してくれた遺言のようなものでした。
ここで自分の生い立ちについて、少し説明してみた方がいいでしょうね。
あなたは戦争についてどのくらい学んでいますか。原子爆弾が落とされた広島に行ってみましたか。そして原爆記念館に入ってみましたか」
今野万里子は友達と広島へ行ったこと、原爆ドームを見、原爆記念館を見学したことを話した。
「あなたたちが生まれる以前に、あんな悲惨な、恐ろしいことが日本国土に起こっていたのです。戦争が終わった時、わたしは五歳になったばかりでした。もの心の付かない幼児でした。日本がどこの国と戦争しているのか、そもそも戦争ということがどういうことなのか、分かるはずはありません。ただ、大人たちの振る舞いに、何か大変なことが起こっているのではないかと、わたしは子供心に感じていたようです。
わたしが戦争のことを考え、書物を読んで知るようになったのは、高校に入ってからでした。日常生活において、親も先生も戦争について語り、聞かせるようなことはほとんどありませんでした。わたしたちは日本史の授業で満州事変から始まる、日中戦争、日米戦争、そして敗戦のことを学びました。戦争行為がどんなに残酷なものか、戦争の結果がどんなに悲惨なことか、知りました。なぜ日本がそんな愚かな戦争をしてしまったのか、そんな思いが投げられた剣のように十七、八のわたしの胸にぐさりと突き刺さりました。こんな表現はふさわしくないことは承知なのですが、それは言いかえれば、戦争は賛美すべきことではなく、絶対にやってはいけないのだということです。わたしはそう肝に銘じたのでした。
敗戦が、当時国民にもたらしたことは何でしょうか?国民みんながどんな痛手を受けたでしょうか。あなたたち若い人には、なかなか想像しがたいものでしゅう。
わたしは都会ではなく地方の田舎町に住んでいたのですが、そこでも生活に困窮していました。大人も子供もお腹を空かせていました。みんなが一日一日、ひもじい思いをして送っていました。食べるものがないのです。お金を持っていても、物がない、食べるお米がない。政府は食糧の配給制度をつくったけれども、わずかな必需品なので、物品の闇取引きがひんぱんに行われていました。このことは後になって知ったことですが、そんなむごい食糧難の時期を、わたしたちは生きてきたのです。わたしは戦争の体験はなかったけれど、戦争の後遺症をもろに受けました。先ほど申し上げたように戦争が、すべてを破壊していったのです。廃墟となった日本。着るものもない、食べるものもない日本。国民全体が貧困のどん底に落とされたといっても過言でないでしょう。
わたしは大学の学生であった時、戦争のことを書物で調べては考えていました。そのことを少しお話ししてみましょう。
戦争は突然起こるものではありません。両国間が友好関係で結ばれているならば戦争は起こりません。平和条約が成立し、それが守られている限り戦争は避けられます。国には表の顔と裏の顔があるのでしょうか。戦争を決断するのは誰でしょうか。もちろん時の総理大臣です。戦争を好むような人間はいないわけではないでしょうが、みんながそうではありません。
戦争というのは相手国を敵とみなして、容赦なく懲らしめることなのです。相手国を苦しめ、相手国に甚大な被害を加えることです。そして相手国を降参させることなのです。これは一方がそうするのではなく、相手国も同じように考えるわけです。自国を守るために相手国を攻撃して、甚大な被害を相手国に与えることが、最大の英雄行為として褒め称えるのです。住民の住んでいる都市や町や村を無差別に空爆して建造物を破壊し、何十万何百万という人が殺されるのです。東京大空襲の時には、一夜で十万人の死者が出たと言われますし、ドイツでは、ヒットラー政権の下で、六百万人のユダヤ人が殺戮されたと言われています。
戦争の残酷さは言葉では表現できません。戦争はわたしたち人間に何を教えるのでしょうか。それは戦争に勝つことを教えるのでしょうか。あるいは、敗けないように強力な軍備を持つことでしょうか。それとも二度と再び戦争を起こしてはならないことを教えるのでしょうか。あなたはどう思われますか。あなたたち若い世代は戦争のない、平和な時代に生まれています、そして、経済的に豊かになった社会の中で育てられ、教育がなされてきました。わたしたちの世代とはずいぶん違います。終戦直後の食糧不足のために、大勢の人がひもじい思いを抱えながら生きてきました。
思えば当時、日本人は敗戦後の窮乏の試練のなかで、新しい日本を創ろうと一生懸命に頑張ってきました。その結果、日本社会は大きく変わりました。空腹の時代は過去のものとなり、飽食の時代と言われるようになったのです。敗戦国がアメリカに次ぐ、世界第二位の経済大国になったことには驚きました。フランスの大統領が日本の復興の姿を見て、「日本人はエコノミックアニマルだ」とおっしゃったそうです。この言葉はわたしには気になるのですが、その経済の進展ぶりに世界が驚嘆したようです。
空腹の時代は終わりました。それはどういうことでしょうか。単に食糧難がなくなり、欲しいものが手に入りやすくなったことだけではないようです。それには、もう一つの意味があります。一つの生き方が終わったことなのです。戦後の窮乏に抗して生きてきた、その真剣な生き方が終わったということなのです。
もちろん、みんながゆとりのある生活が出来るようになったわけではありません。でも昭和三十年代から四十代にかけて、日本の経済は高度成長を遂げていきました。それぞれに収入が増え、ボーナスの額が高くなり、当然なことですが、わたしたちの財布も膨らんでいきました。好みの服や靴を買ったり、レコードをたくさん集めたりすることができ、趣味の生活を楽しむことができるようにもなりました。
日本の社会は日進月歩し、その様相が徐々に変わってきました。生活の中にテレビが入り、洗濯機が入り、冷蔵庫が入りました。この三つは三種の神器と言われて、いわば生活革命でした。それに合わせるように日本人の生活の仕方、生き方も変わっていきました。それまでは欲しいと思っても手に入らなかったものでも、それを望めばたやすく手に入れることができるようになりました。不自由な中に自由を見つけられるようになり、一言でいうならば、日本は欠乏の時代から脱け出して、物質的に豊かな国になったということです。
戦後、日本が豊かな国になったのは、国民みんなの心が豊かさに向かって働いていたからなのでしょう。貧困生活を余儀なくされていた国民は、貧困から抜き出たいという強い願望があったからなのでしょう。
わたしはときどき戦争について考えることがあるのですが、なぜ馬鹿げた戦争をしたのだろうか。あんな戦争がなかったならば、わたしたちの青春は、どんなに自由であったろう、どんなに楽しくあったろうかと思うことがあります。戦争はたくさんの負の遺産をおいて過ぎ去って行きました。戦火に巻き込まれた者も、その火の粉を浴びた者もみんな戦争の恐ろしさを胸の奥に刻みこまれました。戦争は日本人の心の奥底に傷跡を、つまり戦争のトラウマです。憲法九条に書かれていますね。日本国家は武器を使って戦争をするようなことは絶対にあってはならないと、そう決断したのです。これは立派な決断だと思います。憲法は戦後の連合国による支配下で作り出されものであると言われて、疑問視するひとたちもいるようですが、わたしはこう思っています。日本人の戦争放棄という考えは、敗戦国の屈辱の宣言ではなく、人類の叡智の宣言であると。連合国側も、日本の最高の指導者たちも、戦争の悲惨さ、残忍性、非人道性を認め、平和を望み、平和国家を目指して世界の平和に貢献することを憲法に記したことは、新しい日本を作り上げて行こうとする当時の日本人の心意気であり、偉大な心に驚きと感動を覚えます。
わたしが親しくしていた歴史研究家の高峰さんという方がいました。この人とは平和についてよく議論していました。
『なぜ人類は戦争に向かうのでしょうか』と、素朴な質問をしたことがありました。その時、彼はこう言いました。
『戦争には二種類あります。一つは武器を使って戦うことです。これは生々しい殺戮行為の戦いです。もう一つは武器を使わない戦争です。しかし、これは頭脳の戦いということです。それには武器は絶対に使用しないという高邁な理想が必要です。理性に基づいた論理的な外交上の交渉によって公平な解決を目標にすることです。歴史は平和的な交渉によって多くの戦争を未然に防いできました。人類は戦争に向かうけれども、また人類は平和へ向かうのも真実です。戦争と平和。平和と戦争。これらは歴史上に交互に起こっています』
先生はそう言って、わたしに物事の生起には、因果の法則があることを教えてくれました。物事には原因があり。その結果があるということですね。例えば、人間が蒔いた種は、生長して果実をつけます。その果実を収穫するのは人間であるということです。
そこでわたしは、戦争のことを考えてみました。戦争の種子とは何だろう。いろいろと考えた挙句、それは「憎しみ」ではないだろうかと結論づけました。心のなかに憎しみの種が植え込まれ、それが芽をだし、葉をつけ生長したなら、「憎しみの種子」は憎悪となって攻撃的な性格をおびるようになっていきます。攻撃の心はその憎む対象を破壊しようという衝動に変化します。それが極端化すれば、この世からの排除の行為を起こします。虐殺です。つまり、戦争を起こし、自他もろとも、その生命を葬ることになるのです。剣によって勝つ者は剣によって滅びるという言葉がありますが、この言葉は本当だと思います。では、平和の種子とはどんなものでしょうか。憎しみとは逆のものでなければなりません。それは愛ということではないでしょうか。あなたはどう思われますか。愛だと言われても、それは何なのか分からないのではないでしょうか。愛という言葉は多くの意味をもつ多義語なので、愛の本質がどういうものか、理解困難に陥ってしまうのです。わたしは今、ここで愛について詳しく説明するのを控えます。それは言葉では表現できない、創造的な意味を含んでいるものだからです。ただ、今は単純化してこう申しておきましょう。愛の本質は何かというとまた難しくなりますが、愛の意味と置き換えて言いますと、『慈しむ心』ではないでしょうか。これならあなたにも分かってもらえるのではないかしら。
日本という国が戦争に向かわないようにするには、どうしたらよいかという問題、これはあなたたち若い世代も考えていかなければならない問題なのではないでしょうか」
美恵子はそう言った。そうして、万里子にこう訊ねた。
「あなたは平和な時代に生きているということを実感していますか」
「もちろん、平和の有難さは知っていますよ。おばさま」
「あなたは幸福な家庭に生まれたのよ。お父さんは役所に勤めているし、お母さまはお花の先生をしているし、しかも羨ましくなるほど仲がいいとのことで、あなたは恵まれて育っているのよ。わたしの心にはそう映りますよ」
「親から愛されて育てられたと感謝しています。わたしは親を尊敬しています。親はわたしの望みをよく聞いてくれました。だからと言って親は、わたしをあまやかしたりはしませんでした。むしろ自分勝手な振る舞いには厳しい親でした」
「わたしがあなたがた若い人に、ぜひ伝いえたいことがありますの。聞いてくださいますか」
「なんでしょう?おばさま、急に改まった言い方をなさって、いやだわ」
彼女はにこにこして言った。
「別に改まるほどのことではないのですがね、ちょっといくつか質問をしたいの」
「おばさん、わたしを緊張させないでください。まるで入試の面接のようではありませんか」
「いいえ、そんなつもりはありません。あなたが自分について、どのくらい考えているのか、ただ知りたいだけです。こんな問い方をすると、どう答えたらよいものやら困ってしまうでしょう。そこで、まず社会人としての抱負のようなことを聞かせてください」
「いやだわ、おばさま。わたしは有名人ではありませんよ」
「これから社会の一員として、あなたがどんな考えを持っているか率直にいってほしいのよ。この年寄りに聞かせて」
「おばさんは、おわかいですよ」
「それはどうでもいいので……」
美恵子は、万里子の若葉のような目を、笑みを浮かべて見つめた。
「はっきりした抱負は正直に言ってありませんの。数名の、小さな出版社に就職が決まりましたが、そこが本命ではなかったの。わたしは大手の出版社を二つ受験しました。非常に高い倍率なので合格は及ばないのを承知で臨みました。これはわたしの見栄でした。数ある職業の中から出版社を選んだのは、子供の頃から本を読むのが好きであったという、たったそれだけの理由なのです」
「あなたの気持ちは分かります。なかなか自分の志望どおりにはいきません。物事も自分の思うようにならないことが多くあります。それが人生というものだと思います。でも、諦めてはいけません。自分の願いや希望を持っても、意味がないと決めつけてはいけませんよ。何のために生きるのか曖昧になってしまうからです」
「願いや希望は捨ててはいけないということですね」
「そういうことです。あなたが本当にしたいと願っていることや希望というものは、実現することが少ないようで、実は実現している方が多いのです。願望とか希望とかが、人生においてとても大事なのは、それがその人の人生を、前へと押してくれるからです。願望や希望を抱くということは、例えを使うならば、一種の種子のようなものです。願望の種、希望の種を心という畑に播くことと同じです。種が芽をだし、大きく育っていくためには時間がかかります。大きな希望であれば、かなりの時間がかかります。二十年、三十年の歳月がかかるかもしれません。そのような希望をいくつか心に秘めて、大切に育てていくこと、これも人生の課題です。わたしのことを言いますと、わたしが幼稚園を開設し、幼児教育に従事し出したのは、五十を過ぎた頃からです。それまではいろいろな仕事に就きました。そのうちに自分のしたいことが何であるかといことを悟りました。少女時代に幼稚園の先生になりたいと思ったことを思い出したのです。ああ、わたしは忙しい生活の中で忘れていたが、心の中で願望が少しずつ育ってきていたのだと感嘆しました。夢や希望は、それが理に適っているならば、自然の力も味方になってくれるのです。わたしがあなたに人生の門出にあたって、伝いたいことはこういうことだったのです」
桜田美恵子はそう言って、今野万里子の美しい瞳をじっと見つめた。
(おわり)