二十歳の頃
次にぼくが空を見上げるのはいつだろう。二十二歳になっていたぼくはウィーンから出てパリに向かおうとしていた。ここはとても狭苦しく、シェーンブルン宮? それを見ただけでもうよかった。それさえ見なくてよかったのに。いる意味はなく、それなのにぼくはここにいて、それは予言されたからでも何でもなく、自分で選んでここにいるのだが、ここから早く出たいという気持ちもさらに強かった。パリが頭の大部分を占め、パリのことしか考えられなくなり、浮足立って電車に乗った。電車でつながっているのはパリでもはずれの東駅で、ぼくはそこの立ち飲みカフェでパリではじめての赤ワインを飲むことになるのだが、それよりもまず電車の旅が長く、赤ワインよりもコンパートメント、ウィーンからパリまでがとても長い旅に感じた。向かい合わせの中年女性とは打ち解けず、何もしゃべらいまま数時間を過ごした。
何よりもパリしかなかった。そのために、パリに行くためにフランス語を勉強した。ほかのものはどれもこれも無価値で、東京もアメリカのどの都市も住む気どころかいる気持ちにさえならない。ぼくは求め探していた。フワフワと浮いているだけの自分が足を着ける場所を。それはどこにもないことを結局は知ることになるのだが、錘の指し示す先がどこを指示しているのか錘の先もフラフラと動き、動き回り、ぼくはずっと探し続けるしかない。パリはだから探索の旅の始まりの地点にすぎず、あるいは終わりの地点も同じパリになるのではないだろうか。暗闇に、生きていること知らぬこと、暗闇ゆえに知らぬまま迷う。迷っていることさえ気づかず、迷っていることを探索と混同し、混同していることさえ知らないまま、探索の旅をただ続ける。それは失う旅のはじまりとも言え、ひたすら収穫をして前へ前へと進む旅程そのものなのだ。喪失の刻は軽やかに残酷に過ぎていき、じつはその喪失も感情から起こっている時間の感覚からきていることを知らざるを得ないのだが、失わない失われた時の間ほど鋭角の崖はない。はるかなる時こそどこにもなく、永遠を措定してそこから解放されるわけもない。重石。流れゆき、留まる水になぞらえての自分はじつは少しも動いていない石の彫刻。
ぼくは二十歳(はたち)になっていた。母と二人の生活になってから二年が経ち、騒然とした日本にいる意味を感じられないでいた。
新しいことを何でも吸収する素地も意欲も十分にあったが、大学が閉鎖されていた。勉強がしたいと思って入った大学だったので、残念な思いが残った。哲学。ぼくは哲学を学びたかった。哲学だけが宇宙の真理を解き明かすと信じていた。文学にも魅力を感じてはいたが、哲学に比べて弱々しいと思っていた。
母は五十三歳になっていた。いつも和服をきちんと着、少し前にぼくの父と別れたばかりだった。高橋床屋がプロポーズしてきたのはそんな時だった。母にとって、初めての結婚話だった。
母から相談を受け、ぼくは戸惑った。正直、それどころではなかった。大学がどうなるか、自分がどうなるか、国がどうなるか…。そんな瀬戸際に立っていた。高橋床屋など、どうでも良かった。
母の気持ちを考えた。迷っているということは百パーセント嫌なわけではない。「風采が上がらないわね」と言いつつ、気持ちが動いているのは、やはり“結婚”という今まで経験したことがない状態へのあこがれなのだろうか? ともかく、母にしては珍しく迷っていた。
「お母さんの思う通りにしたら」
「そうかねー」
「風采上がらないけどさ」
「そうねー」
口では「好きなように」と言いながら、ぼくは心の中では反対していた。床屋が父親になるという状況がどうしてもイメージできず、いま流れている母との生活が一変するのに強い抵抗があった。母を自由にさせたいと表では言いつつ、「やっぱり嫌」と感情が叫ぶ。
父親を追い出したのもぼくだった。ほかに家庭を持っているのに一週間に一度やって来る。来ては二階の籐椅子でそっくり返って寝ている。その姿を受け入れることができず、籐椅子を隠した。
籐椅子がなくなり、オロオロしている父を、ぼくは意地悪く見ていた。父と別れる決心を母がするのにそれから大した時間がかからなかった。
父にも、床屋の高橋さんにも悪いことをしたという思いが今はする。母と二人の生活はぼくには重く、結局家も日本も飛び出してしまうのだが、この時は母の周りから男達を排除することばかりにエネルギーを使っていた。
愛していて、しかもうとましい。一緒にいたいと思いつつ、逃げたい逃げ出したいと足掻いている。二人で住んでいることが恥ずかしく、みっともない。フランスに行きたいと思ったのも、母から離れたい気持ちがあったからだ。日本からも離れられる。
離れると今度は毎日のように手紙を書いた。簡易郵便でせっせと書いた。母はその束をずっと取っておいて、随分経ってからぼくにくれた。何度かその束から一通取り出しては読もうとしてみたが、読み通すことはできなかった。
こうして書いてくると、父へのこだわりが今までよく分からないでいたが、母を介しての感情だった気がしてくる。暴れるような愛し方。愛しながら傷付ける。自分の状況にいつも満足できず、イライラと周りに当たり散らす。
自分が置かれている状況に納得していなかった。ぼくはこんなところにいて燻っている人間ではない。十九歳の時書いた小説にも、空の高みに上ろうとする鷲のイメージが出て来る。
高橋床屋にしても、最後には「ヤだよ、あんなの!」ぼくはそう決め付けた。高橋さん家には子供が二人いた。どちらもぼくより年上だった。
高橋床屋の恋心は二十年来のもので、母にプロポーズするに当たって子供二人に相談し、子供たちのそれなりの納得を得ていた。高橋床屋は本気だった。捨身と言ってもいいかもしれない。でも結局、振られてしまった。ぼくのせいだ。
暗い浜町の掘炬燵。子供の頃は潜って遊ぶのか大好きだった。二階の八畳間には母がいて、ぼくは造り付けのニ段ベッドの上の段で寝る。八歳の時からこのベッドで寝ている。
勉強部屋と呼ばれていたベッドのある部屋の隣りが掘炬燵のある六畳間で、その奥が台所・風呂・便所。この台所で毎日食事を母が作ってくれる。
母は鍋をよく焦がした。アテネ・フランセに通うぐらいしかすることがなく、鬱々としていたぼくは真夜中になると母の焦がした鍋をクレンザーで磨く。それがストレス発散で、しかも鍋がピカピカになる。一石二鳥だった。
大学のクラスは数か月しか一緒に授業を受けなかったので仲間ができず、打ち解けた友人もできなかった。普通の会話をしていても、政治と思想が必ず忍び込んでくる。
高校の時の一年先輩から百貨店の店内改装のアルバイト仕事が入った。休業日が月曜なので、日曜の閉店から始めて夜の間ずっと作業をする。深夜仕事なので時給が良かった。
人手が足りないというので、あまり親しくはなかったが、大学の同級生の大石を誘った。これが間違いだった。
仕事の場所は、東京駅に近い高島屋の一階だった。大石とぼくはペアを組まされ、指示に従いショーケースを運び始めた。ところが、まだ一つか二つしか運ばないうちに大石は手を滑らせてショーケースを落とし、一瞬にしてケースを覆っていたガラスは粉々になって床に散らばった。大石は真っ青になった。
「いいわ、おまえら帰って」
「あの、弁償は…」
「それはいいから、今日は帰れ」
もう終電は終わっていたので、うな垂れている大石を連れて浜町まで歩いた。ぼくは苛立っていた。大石の役に立たなさ、力のなさ。そんな大石に声を掛けた自分を責め、先輩に申し訳ない気持ちがさらに心を苛んで、隣りで自分の殼の中で燻っている大石への苛立ちに戻っていく。
ところが、こんなに遅く帰ったにも関わらず、母は起きてきて二人に夜食を作ってくれた。悄気ている理由を聞き、「早く寝なさい」とビールを出して励まし、二階に戻って行った。大石とぼくは少し飲んでから寝た。母を見ていて、もう少し大石に優しくしようと反省した。
〈了〉