第3回
坂道を登る。坂は途中から階段になり小高い丘へと導いてくれる。左下に見える螺旋広場がだんだんおもちゃのように小さくなっていく。丘の上の広場に着くと巨大な列柱が取り囲む。ピンクがかったアイボリーの柱が十四本、左右均等に並んでいる。「自然界は神殿だ。活きている柱が…」整然と連なる柱にボードレールの詩が重なる。屋根のない神殿だここは。中央奥には祭壇もある。祭祀場なのだろうこの場所は。孤でいればいいのに時に群れるのが人だ。群れの中での共有・共感が得られないと多くの人は枯死してしまう。しかし人と交わると失うものも多いと知るべきだ。楽しさに紛れ、曖昧な共感の中で孤で培った静謐な時間と空間が失われていく。孤で得た気付きも不分明に融けていく。こうした場に立つとjGに来たことが正しかったのかどうか思いが涌き上がる。救いを自分の外に求めるのをもういい加減止めにした方がいい。列柱の間にいると身体の奥から自分の弱さが引き出され剥き出しになるのが分かる。林の中のように、自分の思いが木霊して聞こえてくるせいかも知れない。天井のない聖堂には壁も扉もなく、もちろんどこも錠鎖されているわけもない。閉ざされているのは自分の心だと嫌でも気付かされる。気付くと北部イタリアの空気が改めて冷たく感じられる。
テラコッタの並ぶ広場まで降りてくる。歌を歌うのもいいと思った。けれども気持ちが乾いてしまった。歌は心が湿っていないと歌えない。車が外からやって来てUターンしてはまたすぐ出ていくのを何台か続けて見た。Uターンするポイントまで行ってみてそこに掲げてある看板を読むと「フリーライド」と書いてある。空席がある車はここで相乗り者を拾ってくれるのだ。試してみることにする。看板の下で待つこと四、五分で赤い軽自動車が停まる。「クレア」と運転席が叫ぶ。頷くと内側から助手席ドアを開けてくれる。クレアまでは七分ほどの距離だ。舗装されていない道は大小の石が散らばり、車の揺れに従ってダッシュボードの上で螺旋に成形された銅線が揺れる。銅製の螺旋はセラフィカという名だという。空中のエネルギーを集める小型装置と説明も付け加えられる。本当は純金でつくるのがよいのだがそれでは生産数が限られる。セラフィカは随所で必要とされるものなので銅でできたセラフィカが一般に流通している。近付いてきたクレアはjGのショッピングセンターの役割も果たしている。数十台の車が駐車し、近隣の人たちも買い物やリクリエーションにやって来る。工房も併設し、床や壁を飾るタイルやステンドグラスが造られている。小さいながら小学校の授業も行われ、低高学年混在授業がちょうど終わって溢れるようにまず男の子たちが飛び出してくる。教室内にはアップライトピアノが設えてあり、所望すると快く弾かせてくれた。乾いた空気に置かれ続けた楽器は心地よい音を響かせ、一時間弱、指に身を任せて遊ぶ。クレアは創造という言葉の冒頭四字から名付けられた愛称だ。