モスグリーン
ふーっ、とため息をつく。
まぶしさに眼を細めたその先で、吐き出したばかりの息がわずかばかり白くなるのにとまどいながら、酔いの残った意識が、かろうじて現実にとどまっていることに嫌気を感じた。
つい数時間前に生まれたばかりの朝の光がコンクリートに反射して体をあたためてくれる。
夕べも結局飲み明かして事務所で仮眠をとった。少しばかりうとうととはしたものの、寝付けないまま過ごし、古ぼけたブラインドの隙間から斜に陽が射し込んで、交差点の角に建つ古ぼけたビルの五階からも街が動きはじめたことがわかるようになると、そのまま仕事場にいる気にもなれず、アシスタントがくるまでの時間をつぶそうとこうして近所にある新宿御苑の前まで来ている。
都会の公園の入口はまだ黒い鉄の冊でふさがれていた。門の向こうに聳える常緑の針葉樹の大木は、黒いシルエットをして、静かな森の規律を守っていた。
開園にはまだ早かったみたいだ。
それでも門の前の小さな広場には、徐々に人が集まってきていた。公園のそばの横断歩道をわたり、コンクリートのブロックで整備された道を通り、門の前までくると、人の流れが澱んでいることに気づき、まだ入れないことを知る。そこで歩みを止めた人たちは開くまでの時間をその場に留まり過ごす。そんな人のかたまりが堰に止められた川の流れに集まる落ち葉のように一つ、二つと増えていく。グループで来た人たちは輪になって何かをしゃべり、海外からのカップルはガイドブックを確認し、年配の夫妻は広場の脇に掲げられた看板に書かれた公園の説明をゆっくりと読んでいた。そしてひとりで来た人はこうして僕のようにつっ立っているか、植え込みの回りのブロックに腰かけてスマホをいじっている。
そんな人たちの様子をかすんでしまいそうな意識のなかで眺めている。
帰るか、と思った。二十分もたてば開くのだけど、それを待つ理由なんて自分にはなかった。
だけどな。動き始めた朝の時間に自分がついていけないことは分かっていた。オフィスに向かう人たちにまぎれて歩くことなんて、とうていできそうも無い。できれば人の気配の消えた道で過ごしていたい。
それに急ぎの仕事は無かったはずだ。そう思うとこの場を離れて動き始める理由も無くなる。
「あのっ」
若い女性の声がした。いつの間にか眼を閉じていた僕は自分にかけられた声だと知るのに、時間がかかった。
さっきまで広場の向う側にひとりでいた若い女性だった。モスグリーンの大きめのサイズのコートを羽織るようにダボっと着て、黒い大きなバッグを肩から下げ、ショートカットをした細身で小柄な二十歳そこそこに見える子だ。ちょっと前にこの広場の道をとことことやってきて、同じように人の動きが止っているのに気がついて、その場に立ち止まり辺りを見回していた。待ち合わせの彼氏でも探しているのだろうと思った。こんな朝の早い時間に若い女性がひとりでくるような場所じゃない。もっとも、飲み疲れた自分のようなおじさん同様に気まぐれにひとりの時間をすごそうとする女性がいても不思議ではないけど、ともかく、まだ可憐さの残る彼女と酔っぱらいのおじさんがこの広場に同じ時間にいるのが不自然に思え、こんな朝もあるものかと、訳もなく気まずく思っていた。
「あのっ、今日開くんですよね」
近くに立つ彼女は、遠目に見ていたよりも少し背が高く感じた。
「ええ、もうすぐ」
僕はしゃがれた声を振り絞る。
「よかった。まわりの人たちはあまり分かってなかったみたいで」
「そうでしたか」
そう返事をかえしてもその場を離れる気配のない彼女にとまどった。この辺りの夜の街でこんなおじさんに声をかけてくる女性には警戒しなければならないことぐらいは分かっていた。もっともそれを楽しむつもりの男なら別だろうが、僕には面倒なだけだった。だけど今はもうすっかり朝の時間だし、公園の前で客引きをするような、のどかな街じゃない。まったく飲み垢のついた老けた男が考えることは、なんてどうしようもない事なのだろう。
きっと自分の息には酒の匂いが残っているに違いない。まるっきり不似合いな場所に居る事に後悔する。
「あのっ」
ようやく振り向いて行きかけた彼女がもう一度こちらに向き直して聞いて来た。
「近くの人ですか?」
「えっ。まぁそんなものだけど」
「夕べ見かけたから」
「えっ」
昨夜、何軒のバーを飲み歩いたのだろう。そのうちのどこかにこの女性がいたのだろうか。
ここのところ理由もなく深酒をしてしまう。追いかけた背中の、その距離を縮めることもできないまま逝ってしまった先輩。かけがえのない友。若い頃、密かに思いをよせながらも仕事仲間として親しくし続けた美しい女性。短い期間でひとりずつ欠けるように逝くと、その日のきりのつけかたが分からなくなる。一日の終わりがなくなり、月を数えることなく季節が過ぎ、一年の始まりと終わりの区切りがあいまいになる。
「真美、わたしの名前。おじさんは?」
よく通る、まぁるい声だ。
「おじさんでいいよ」
「あっ、ごめんなさい」
「いいさ、本当のことだから」
「夕べ、サトシくんの店にいましたよね」
その店は数年前から行つけている。この辺りでは数の少ない、きちんとした酒を出す、静かで落ちついたヨーロッパ調のアンティークな内装のバーだった。四十になるマスターのサトシはゲイだが、それを看板にしている二丁目の店とは違い、ゆっくりと酒の飲める店だった。明け方までやっているその店にはいつもどん詰まりの夜がふけきった時間に行き、マティーニをゆっくりと飲み干す。夕べもそこのカウンターにいた。そういえば向うの端に珍しく若い女性がひとりで座り、サトシと話している姿があった。必要最低限の灯りだけの、深い闇に包まれた店のなかに居たその女性の姿は、影絵のようにしか思い出せない。
「ああ。君は夕べカウンターに座っていた」
「ええ。さっきまで一緒に店を片付けてました」
「じゃ、店の子」
「ううん、最近ときどき最後に行って、勝手に手伝っているだけ」
「そう」
「あっ、ごめんなさい、こうして話してていいですか?」
僕がそっけなかったせいか、あわてるように彼女は聞いてきた。
「いや、別に大丈夫さ。あてがあってここに立っているわけじゃない」
「よかった。迷惑だったかなって」
「全然。ところで、ひとり、なの? 待ち合わせじゃなくて」
「うん……。そうなんだけど……」
「なんだ、歯切れが悪いな。彼が来ない?」
「違う、別に誰かを待ってるわけじゃ無いわ。でも探している人はいるんだけど、ここに来るのかどうかも分からないけどね」
「人探しでここに?」
「そうじゃないけど……。梅、まだですか? 梅なんです、今日は」
「どうかな、少し蕾みが開いているかな」
「私、山形から去年の秋に東京にきたんです。だから、東京の冬は初めてで」
「仕事でこっちに来た? 学生さんかと思ったけど」
「わぁー嬉しい。二十九なんです、これでも」
「それは、こちらが失礼なことを言ってしまった」
「平気ですよ。私、フリーの調香師やってるんです」
「フリーの?」
「フリーといえばかっこいいけど、流しの」
「流し。君の歳には似合わない言葉だ」
「でも、流しなんです。ほら、ここらへんの店の人って個性的な人が多いでしょ。私はそんな人たちから好みの香りを聞いて調合しているの。時々バーとかの店に居合わせたお客さんからも注文を受けたり、だから流し」
「へえ、そんな仕事があるんだ」
「自分でそうやっているだけなんですけどね。今日は本物の梅の香りを嗅いでおきたくてここへ来たんです。前に何処かの店のお客さんに新宿御苑の梅のことを聞いたから。梅、いい香りですよね」
「そうだね。でもまだきっと咲き始めだなぁ。やっぱり。入ってすぐのロウバイは咲いているだろうけど。甘い香りが微かにする花だけど」
「おじさん、詳しいですね」
「いや、たまたま好きだから」
「男の人で梅の香りですか。バラだって珍しいのに。花の香りを男性らしく調合するのは苦労するんですよ」
「そんな注文もあるんだ」
「ええ、男の人からも、そして女の人からもよ。ここらへん、ちょっと変わってるでしょ。男の人なんだけど、体はちがったり。その逆も」
「ああ、そうだ」
「だからね、自分で使っておかしくなくて、本当に気に入ってくれる香りを探したいの」
「難しいんだな。自分にはバラか麝香かくらいしかわからないけど」
「それだけ知っていればおじさん上出来よ」
「ほめられたのかな」
「そうね」
「山形でもそうだったの?」
「ううん。アロマのエステで働いてた。そこで香りのことは覚えたの」
「そう……」
と頷いてみたが、その先の言葉が無くなった。香りのことをこれ以上訊ねるすべもない。ましてこんな時間から若い女性と話しを続けていられるほど、気のきいた男じゃない。このまま黙っていると彼女も飽きてどこかへいくだろう。もう一度細い目をあげて門のほうを確認する。また少し人は増えたみたいだけど、門が開く気配はなかった。
「東京へはどうして?」
時間をつなぐ、ありきたりなフレーズがぼそりと口をついて出た。
「うーん。会ってみたい人がいたの」
「会ってみたいって?」
「アロマのエステって、いろんな人が来るでしょ。特に夜働いている人たち。ギャバの子や居酒屋やバーで働いてる子」
「そうなんだ」
「でね、その子たちから東京の話しを聞く事も多いの」
「それで、昔の彼氏が東京にいるとかいないとかってやつ?」
「いやだ、違うよ。でも、そんなんだとね、まだいいわ……」
そう強く否定したあと、急に声がしぼんだ。
「でも半分くらいは正解」
と彼女はふいにいたずらな明るい顔つきになってこちらを向き続けた。
「似てる人を見たって。東京にいたって、お客さんから聞いたって子がいたから」
「似てる人? 彼じゃなきゃ兄さんとかお姉さんとか?」
「パパ」
「パパって?」
「父さんよ」
「そうか」
「私ね、中学から母子家庭ってやつ」
「悪い事聞いたね」
「いいの、半分はそれでおじさんに声かけたんだもの」
「どうして?」
「パパ、ゲイだったの。おじさんサトシくんの店にいたでしょ。何か知ってるかなって」
「そうか。でも自分はそっちじゃないから、知らないと思うな」
「おじさんと同じくらいの歳だと思うんだ、パパ」
「でもゲイなんだ」
「そう、わたし言い訳のために生まれてきた子なの」
「言い訳?」
「山形ではちょっと知れたバーテンダーだったみたい。パパは。中学の時、東京のバーテンダーの大会に出て、帰ってきたら、びっちっとスーツを着たおじさんと一緒で。最初は仕事の関係の人だと思ってたんだけど、そのうちママと三人でどこかへでかけて話している事が多くなって、気がついたらパパはその男の人と何処かへ行っちゃったの。パパは仕事で札幌か何処かに店を出すために暫くは帰ってこないって、ママは私に説明していたけど、中学を卒業する頃、離婚したって話してくれたわ。離婚したけど、いろいろあるからそのうちに話すからって言われて、ちゃんとその時は話してくれなかったの。で、高校を卒業する時にあの男の人はパパのパートナーで、パパはゲイだったって話してくれたの。えっていう感じでしょ。じゃママはどうして結婚したのって?」
「パパやママのこと、嫌いになった?」
「うん、だって私、何で生まれなきゃいけなかったの? って思うよね、普通。でもママ、結婚する時にはパパのことは分かってたみたい。だけど結婚した。パパは実家の手前、結婚して子どもをもうけなきゃいけなかったの。おじいちゃん、優しい人なんだけど、地元で代々酒蔵を営んでたから、パパが結婚をして跡取りをつくるのが当たり前と思ってた人だから。パパ、どうしても自分のことを言えないで、ママとお見合いをして結婚したの。でもパパは結婚する時にママにはちゃんと話していたみたい。ママも悩んだみたいだけど、人として尊敬できるパパのこと理解しようって、お見合いのあとおつき合いをして好きになったんだから、自分が愛してればって思って結婚したんだって話してくれたわ」
「で、どうして今、父さんを探しに東京へ?」
「う~ん。彼と去年ひどい喧嘩をして。上手くできないの彼とセックス。どうしても自分の体が自分のことと思えなくて。変でしょ。でもね、やっぱり言い訳の子だからかなって思っちゃうの。そう思うと気持ちよくなれなくて途中でさめちゃうの」
「彼には話した? その事」
「ううん。上手く言えなくて」
「そいつは、やっぱり難しいことなんだな。でも君は男の人が好きなんだろ。だったら問題ないさ」
「そうなんだけど、でもやっぱり一度パパに会ってみたくて。理由は良くわからないけど。だっていつの間にかいなくなったきりでしょ。娘にさよならもなくて。パパにもいろいろあったろうし……聞いてみたいんだ……」
「何を?」
「私、生まれてよかったのかなって」
「えっ」
「別に深刻じゃないよ。でも、やっぱりあんなに私のことを可愛がってくれたのに一言も自分のこといわないままいなくなっちゃったから、どうしてるのかなって。パパも後悔してるのかなって。だったら私はどうなるんだろうなって。文句もいいたいけど、パパから聞いておきたいなって思うの。パパの事」
「そうすると自分のことに納得できる、のかな」
「分からないわ」
「難しいね」
「うん」
門の前に集まっていた人たちが、吸い込まれるように入り口にむかってゆっくりと動き始めた。
「開いたみたいだね」
「わぁっ、嬉しい。初めて」
「処女、航海」
「おじさん、変」
「うん、まっ、そうか。酔いが残ってるからな」
「いゃだ。このまま一緒でいいですか?」
「いいさ。君がこんな酔っぱらいのおじさんでかまわなきゃ」
「おじさん、いい人ね」
「これも、ほめ言葉なのかな」
「さぁね。でももう少し一緒に歩きません?」
「ああ、つっ立っててもしょうがないな」
券売機でそれぞれに券を買い、あきらかに形式的に用意された機械のゲートを通った。買った券を機械に通すとそのまま吸い込まれて行く。買った事を確認するだけの機械の役目なんて、本当に通過儀礼だ、と思う。
結婚にしてもそんなものかと思った。なんだか厳めしい装置と段取りが用意されて通過する儀式だ。その装置を通ってしまえば何の事は無い。特別に用意されたそっち側の世界に入ることが保証されるだけのことだ。それはたいしたことでもあり、普段の歩みとなんら変わる事のないことでもある。
でも、たいていはそんな装置や段取りは人が勝手につくり出したものに過ぎない。そこの入る権利を持った言い訳を証明するために。きっとこのお嬢さんは、その証明になった自分と、生きている自分の姿とを埋められなくてとまどっているのだろう。
それに……。どんなことにも後悔はある。通ったあとで、そこが自分の通過する場所でなかったことに気づくことだって普通にある。この女性の父親もそうだったのだろう。
だが、言い訳は時としてやっかいな現実をもたらす。ましてそれが自分の生まれにかかわる事になっていたなら、それは自分ではどうしようもない。ただ、それはどんな人間にもいろんなかたちで抱えていることでもある、と思う。
自分も……。と、繰り返し思い起こす、どうでもいいことが酔いの残ったボケた頭の中にうかんできた。
「あなたは、人類のモルモットなんよ」
広島に生まれ育った自分の頭を何度もかすめて離れない訛りのある母の言葉。小学生になったばかりの頃、アメリカ、ソ連、フランス、そして中国が核実験を行なう度に繰り返し聞いた言葉だ。母や父が育った頃には戦争があって、広島に恐ろしい原子爆弾が落ちたことはすでに理解できていた。そしてその爆弾で未だに苦しんでいる人がいることも。広島の街を走る路面電車には、原爆でできたケロイドで顔や腕の半分が醜くなった人が長椅子の端っこにだるく腰かけていた。その人たちが座る後ろの、その窓の向こうには今にも崩れ落ちそうな原爆ドームが見えていた。そんな風景が日常だった。
父の右腕には風呂に入る時も巻かれたままの包帯があった。それは、幼い僕に恐ろしいケロイドの痕を見せまいとした配慮だった。だけど、本当は年老いてもなお消えない心の傷、深く刻まれたものを隠そうとしたものだったと知ったのはつい数年前のことだ。八十を過ぎて、父がしぼりだすように語り出したその時の記憶。一九四五年八月六日。その日、みょうに嫌がる寮の後輩を強引に学徒動員に連れ出した。そして彼は原爆で死んだ。爆風に飛ばされ死んでいった後輩のことを父は自分が殺してしまったことのように思い、後悔し、深く苦しみを心の奥底に鎮めていた。父は壁の取り壊しの指示を受け、作業にかかろうとしていたその壁の下敷きになりながらも生き延び、そばで瓦礫を拾っていた後輩はまともに原爆の閃光をうけて亡くなった。その朝、後輩が罰をうけることを覚悟で、仮病を使って寮に残っていたなら、彼は確実に生き残っていた。爆心地から離れたところにあった寮は無事だったのだという。
原爆とはつまり、そういうものだ。多くの人の命が一瞬にして消え、生き残った人には深い傷跡を残す。
幼い自分にはそんな事を知る由もなかったが、幼稚園の同級生が病弱で亡くなり、それが白血病という怖い病気で、原爆が原因かもしれないと聞き、他にも苦しんでいる子どもがいることも珍しいことではなかった。子どもの自分にとっても原爆は恐ろしいものだった。
「広島は実験場所なんよ。人類の」
母の言葉はそう続く。子どもの自分には本当の意味は理解できなかったが、それがなんだか重いものなんだということだけは感じる事ができた。その言葉の意味は、大きくなるに従って現実味を帯びる。被爆二世である自分の体がどんな病魔に襲われるのか。そしてその遺伝子はどのようにつぎの子どもに継がれ作用するのか。人類は息をひそめてその結果がでることを密やかに願い、そしてその事実を研究室の棚の奥のほうに葬り去ろうとしている。「人類のモルモット」は生きている間は意味がなく、病にかかり死を迎えた時にその価値が生まれる。そして、それは生殖を繰り返すかぎり連綿と観察され続ける。すなわちそれが自分の価値ということだった。如何に生きるかなんて意味はない、ただ研究室のサンプルとして役に立つか立たないかだ。でも、だからといって世界を助ける革新的な新薬ができるわけでもない。
いってみれば、自分が生きているなんて、人類という他人の言い訳のためのものなのかも知れない。生きていればそれだけ問題はないという証しでもある。悲惨な歴史だが、核はたいした問題ではない。だって生き続けているモルモットがいるのだから。どこかの研究者か政治家はそんなふうに言い訳に使うのだろう。たぶんそんな彼らは、僕の友人たちの同性愛者のこともイレギュラーなサンプルとして、平気で自分たちの世界にはないものとして片付けてしまうのだろう。くそくらえ、だ。人はそうして罪の意識のないまま言い訳をつくり続ける。
肉体の尊厳なんて分からないものだ。ただ、いえることはこうして無意味な自分が、日々を酒に溺れて生きていられるということだけだった。いいじゃないか、それで……。生まれてきたことの価値なんて、しょせんはそんなものなんだから。だから、自分はそれでいい。
問題は今、隣のゲートを一緒に通り抜けた若いお嬢さんだ。
こんなボロボロなおやじでは何も手助けにはならない。子どもの頃の自分を思い出し、人にはそれぞれにやっかいなことがあって、それを抱えきれなくてどうしようもないものだとしか、そんななぐさめしか思いつかない自分が吐き気がでるほど面倒に思えた。
ゲートを抜けて右に曲ってすぐのところに、人の背丈ほどの細い茎の樹が、天を向いて枝をつけて群れて立つ、広場と道を区切るささやかな垣のようになっている場所がある。冬のはじまり、枯木と間違えて通り過ごしてしまいそうなところだが、寒さを一段と感じる頃になると、その樹には黄色い艶やかで小さな花を咲かせるようになり、ほのかな甘い香を放つようになる。その香りは穏やかな風に、見えない大きなシャボン玉のように運ばれて少し離れたとから感じるが、近づいて風上のほうにたつと一向に香らない。そんな繊細で存在感のあるロウバイの香りが僕は好きだった。
「わー、なんだかおいしそうな匂い」
三メートルほど手前で彼女は香りを感じたらしい。自分にはまだわからなかった。
二、三歩前に進むと、微かにその香りが鼻の奥を刺激した。
「これが、ロウバイ。かいだ事はない?」
「多分、初めて。梅より爽やかな甘い香りね。とっても奥ゆかしいけど」
「一番寒い時に香る花だ」
「雪や雨が降る時の匂いみたい。香っているけど気配だけみたいな」
「気配か。面白いね」
「気配はあるの」
「えっ」
「パパの」
「感じているんだ」
「うん、まぁ。でも、どうなのかわからないわ。だけど、気配だけでも綺麗なものね。この香りだけでそう思う」
「向こうに見える黄色い花だよ」
「可愛い」
「命がね」
といいかけて僕は途中で口をつぐんだ。
「命?」
「ああ、命があるから気配があるって言おうとした。でもいい加減だよな。そんなのわからない」
「でも、そうだといいな」
「あぁ」
そう頷きながらもう一度香りを探したが、どこかに消えていた。
「この花がこんなに咲いているってことは梅はまだだな。蕾みが少しあるかもしれないけど」
「そぉ」
つぶやくように彼女は返事をした。
「行ってみる?」
「うん」
「ここをまっすぐ行って池の横に入った道をいけば梅の林がある」
「おじさんは?」
「しばらくここに居る。こいつが好きだから」
「面白い言い訳ね」
「そうだな」
梅の林まではまだ暫くある。疲れた僕には遠い。彼女はひとりでも大丈夫だろう。
「ゆーこママのところに行けば手がかりがあるかも知れない」
そう彼女に告げた。定かに覚えてはいないが、そこでちょうど彼女と同じ年回りの娘を持った山形出身のバーテンダーがいる店の噂を聞いた事がある。うまいカクテルを出してくれるそうだ。
「ゆーこママ?」
「サトシくんに聞けばわかる」
「そう、ありがとう。おじさん。……また会える?」
「うん、どこかで」
「わかった。じゃ、またどこかで」
明るくそう答えると、彼女はくるりと向きを変え、梅の林がある池のほうへ向かって歩きはじめた。