フリーズ その1
世界が崩れ落ちた瞬間、記憶が飛んだ。
「注射でも打っときゃええがな」
しゃがれた声が頭の上で薄く反響する。
洋子だった。
そう思ったとたん、覚醒した音がどっと落ちてきた。
乾いたサイレン音がけたたましく鳴っている。
白衣を着た男がのぞくように何かを語りかけてくる。
事態がつかめていないわたしは、その男の口が動いているのをただじっと見つめていた。
「目、あけとるからもうええさ」
洋子が言っている。
低い天井にはなにか無機質なものがいくつも釣り下げられているように見えた。
その中から細い紐のようなものがこちらに向かって生えて来ている。
どうやらその紐はわたしの体に巻き付いているようだった。
壁には薬局に置いてあるような紙の函やビニールの素材に入った液体のようなものが雑然と、そして使われたままなのか、乱れてはまっている。
壁はわたしの身体のすぐそばまで迫ってきていた。
匂いは、…感じない。
腕に冷たいパイプのようなものを感じた。
狭い空間は鈍く蒼いLEDライトの光りで充填されていた。
救急車か。
わたしはその中に居る。
胸や腕に取り付けられたコードは、グラフを描く計器のモニターに接続されているようだ。
「異常はないようですね」
白衣の男が言った。
「名前は、言えますか」
「あっ、はい」
「名前は?」
「あっ、裕二」
「ちゃうやろ、あほたれ」
洋子が怒鳴る。
「あっ、裕二は弟、わたしは、順一」
「名字は言えますか」
「はい」
「名字を教えて下さい」
「高橋です」
「では、あなたの姓名をもう一度お願いします」
「あほ、もうええやろ」
男の声をさえぎるように洋子が怒鳴る。
「念のためのチェックですから。もう一度姓名を教えて下さい。分かりますか」
「ええ」
「ではお願いします」
「高橋です」
「名字と名前を」
「幼稚園のがきかいな」
洋子が笑いながら叫ぶ。
「チェックですので、静かにしておいていただけますか」
男がたまらず洋子の笑いを制した。
「もう一度、名字と名前を」
「はい、あっ、名前。…高橋順一」
「高橋順一さんですね」
そう言いながら男は手に持ったボードにはめられた用紙に書き込みをしていた。
「生年月日は?」
「わたしの?」
「そうです」
「洋子は二月十日で、わたしは三月十三日。早生まれです」
「ばっかか。なんで、うちの誕生日を言わなあかんねん」
「少し静かに」
「あなたの生年は?」
「一九七三年、洋子は」
「洋子さんのはいいです」
「あたりまえや、女の歳をなんで他人に言わんとあかんのや、あほ」
「では、足は動かせますか」
「はい」
「少し左右に動かしてみて下さい」
「動かへんのか、しょうもない」
洋子があいかわらず罵る。
「動きますか」
「はい」
「では左右に」
「もったろか」
「手は出さないで下さい」
わたしは足を意識して筋肉を伸縮させた。
「はい、何か違和感がありますか」
「特に、…感じないです」
「せやから、もうええやろ」
「もう少し早く動かせますか?」
男は洋子を無視して言った。
「ええ」
今度は足の付け根のほうから足を動かす。
「手を握ることはできますか」
「はい」
「握ってみてください」
そう言われてわたしは右手を軽く握る。
「左、もう片方もできますか」
「もちろん」
わたしは、まだ浅い思考のまま返事をする。
「では、やってみてください」
左手に意識を集中して握ってみる。握った手の感触はあるが、何か他のものを触っているような、自分の一部ではない感覚だった。
「開いて、もう一度。できますか」
「大丈夫です」
わたしは一度握った手を開き、もう一度内側に閉じた。
「問題はなさそうですね」
「もう起こそか」
洋子がわたしの腕を掴む。
「いえ、もう少し安静にして。原因は分かりませんが、意識が無くなっていたのは確かなようですから。上半身から異様に多くの汗が出ていたようですし。病院での検査をおすすめしますが、このまま病院に向かっていいですか」
「そんなんええやろ、かっこ悪いし」
洋子はあきれたように言う。
「自分で立てますか?」
男が聞いてきた。
「いえ、なんだか」
わたしはまだ、全身に力が入るように感じなかった。
「病院へ行きますか?」
「そんなんええよ」
洋子は強く否定した。
「お、お願いします」
思わずわたしは男に答えていた。
頭の上のほうでは、他の男が病院と連絡を取り合う声がしていた。
そう答えるとわたしは再び、目を閉じた。
この大きな書店の棚に並ぶ本をすべて読み終わったその時、わたしは地球上の全てのことが分かるようになっているのだろうか。本の多さに目眩をしたわたしは、呆然とその書店の通路で佇んでいた。探そうとしていた本は何だったのか。わたしは何の本を買おうとしてここに来たのだろうか。気がつくとそんな風に考えていたが、いつもの習性でこの書店のフロアーに来てしまったのにすぎなかった。
わたしは洋子から身を隠すためにこの大きな本棚の影に潜んでいる。
「また本かいな」
洋子にそう毒づかれながらこの書店に入ってきた。本を探すためではなく、洋子と離れるためだった。
「雑誌のところにおるからな。勝手にしや。三十分やで」
洋子は、わたしがいったん書店に入ると夢中になってしまうことにあきれながら、つきあってくれる。最近やっと。だけど、…うるさい。
いちいち文句をつける。
「けったいな題やな」
とか、
「こんなもんいちいち考えてどうすんねん」
とか、
「この本書いた人、角の肉屋のおっさんと同じ名や」
とか、回りの人に迷惑をかけているなんて、これっぽっちも思っていなかった。
「雑誌を見てるといいかもね。いろんな面白いことが載っているし」
「ほやな、こんなん見てても退屈やし、いっとるか」
ある時、こんな会話をかわしてから、洋子はわたしが書店に入ることを容易に許し、いつも三十分だけの自由をわたしにあたえてくれるようになった。
今日も久しぶりの休日を二人で過ごしていたのだが、洋子の買い物に付き合っているうちに体が重くなってきていた。
この書店の前を通った時、考える事もなく本棚に向かっていた。
「あーそうだ」
とひとりつぶやいた。
「探す本なんてないんだ」
このまま通路につったってるのも変だなと思った私は、いつもの見慣れた小説の棚の前で、背をこちらに向けた本のタイトルを見る事もなく眺めていた。
その時わたしのほうへ、彼女はとことことやってきた。
黒い影がわたしの左横にしゃがんで本棚を覗き込んでいる。瞬間のことで、一瞬ひるんだが、石鹸の香りと長い髪でそれが女性だと思った。
「次ぎ、どの本を読んだらいい?」
聞き覚えのある声だった。
「ああ君か。君はやっぱり本を読みたかったんだね」
三上千絵だった。
「でもどうしてここへ?」
「うん、先輩からすすめられた本を読み終わったから。次ぎ、読まなきゃね。わたし、もっといろいろ知って、自分のことわかりたいから」
「五年前だよね、あの本」
「そうだっけ、でも毎日読んでいたの」
「そう、難しかったかな」
「ううん、楽しくて。少しずつ読んでた」
「あれは、傑作だから」
「そうね。でも時々分からなくなって。だからちょっとずつ読んで、明日までとっておこうって。そしたら、読み終わったのが昨日だから」
「だから今、ここへ。でもどうしてわたしがここにいるのが分かったのだろう」
そうわたしは彼女に訊ねた。彼女はじっと目の前の棚に見入っていた。偶然、わたしの姿でも見かけたのだろうか。白いTシャツにジーンズ。五年前、彼女にあの本を渡した時も彼女は同じ服を着ていたような気がする。あれ以来だった。
同じ職場に居たわたしと彼女だが、わたしが会社を辞めて以来、連絡をとることも、会う事もなかった。
彼女とは、時折お昼の休憩を過ごして本の話しをしていた。退職前のある日、彼女はわたしの机の上に置かれた本に興味をしめして、読んでみたいと言った。
「明日には読み終わるから、帰りに渡すよ」
そう言って渡した本のことだった。
「君は今もかわらず?」
「うん」
「会社は?」
「分からない。本ばかり読んでいるから」
「そう。君には仕事は簡単なことかもしれないね」
「次ぎ、何がいいかな」
彼女はわたしの問いを聞いていないようだった。
「先輩が最近読んだのどれ?」
「あー、ちょっとここにはないかな」
とわたしは言いながら、何か適当なものはないものかと棚を見回していた。
「何、知りたいのかな?」
彼女の問いに答えることはできないと思いながら、聞いていた。
「暴力」
「えっ」
「暴力って知ってみたい」
「どうして?」
「それと、健康な心と体」
「ずいぶん、振れるんだね」
「だって面白いでしょ」
「そうだけど」
わたしは、そのとっぴな発想にとまどって、棚の上のほうを見上げていた。
「なら、」
とそう言いかけて、目を落とした時、彼女の姿は消えていた。
「わたし、あっちを見てるね」
棚の裏のほうから彼女の声が聞こえた。
彼女の声が遠くにフェードアウトする。
その時、わたしは、はっとした。
確か彼女は、三年前、暴走した車に轢かれて亡くなっているはずだった。ニュースでそれを知った時、わたしは地方都市にいた。その本を貸したままにしていたことを思いだした翌日のことだった。
「もう少しで、終わります。分かりますか?」
若い男の声がヘッドフォンのようなものを伝わって聞こえてくる。
小石がたえずぶつかるような音が反響して、うるさい。
わたしは、救急車よりさらに狭い空間の中にいた。
わたしは書店にいた、そしてその次の記憶が救急車の中。そして今、ここ。
「はい、終わります。そのままじっとしていてください」
静かになった空間で、さっきの男の声が鮮明に聞こえた。
わたしが寝そべる床がすーっと動くと、明るく広い部屋に出た。
「お疲れさまです。今日はこれで終わりです」
「終わり?」
「はい、今日の検査はこれで。詳しいことは来週お伝えしますが、今日のところ大きな問題はないようです」
「あ、そうですか」
わたしは、病院で検査をしていたようだ。
「もう、ええか」
洋子の声が向こうから聞こえてくる。
「そこでもう少しお待ちください。受付でお呼びしますから」
慣れたように看護師が伝える。
わたしは体につけられたいろいろなもの、ガーゼや管のようなものを外されて背中を起こされた。
しばらくして、
「もう、いいでしょう。ゆっくり立ってみてください」
医師からそう告げられると、わたしはゆっくりと足を床につけて立ってみた。
「めまいはありませんか」
「大丈夫です」
「そうですか、急に早く歩いたり、走ったりしないように」
そう言われてわたしは、看護師に手をひかれ待合室に出た。
「一時間もかかっとる。はよ電車に行こ」
支払いを済ませた洋子は苛ついていた。
「あまり無理はされないように、タクシー呼びますよ」
看護師がなだめるように言う。
「電車あかんのか。もうここに一万も払うたから、金あれへん」
「タクシーでなくても大丈夫だよ。もうひとりで立って歩けますから、ありがとうございます。ここは駅はどこですか」
看護師によると幸い僕たちの住む駅の隣の駅にある病院だった。病院から駅までも一本道で遠くはないらしい。わたしはもう一度看護師にお礼を言い、病院の出口のほうへ向かった。
「えらい目におうたわ。いつまでたってもこっちに来んから、本屋の中を捜しまわったら、何や難しそな本がずらーっと並んだ棚の前でバタンや。頭に血でも昇ったんかいな。もう本屋はええね」
洋子はあきれたようにまくしたてる。
「ごめん、覚えてないんだ」
それからわたしたちは駅までゆっくり歩き、すぐに来た電車に急ぐことなく乗った。
隣の駅で降りて、わたしたちはアパートまでの商店街を歩いていた。
「腹へったな」
疲れていたのか、洋子も黙っていたが家の近くまで来た時につぶやいた。
「何か買ってかえる?」
「ええな。何がいい?」
面倒なのか洋子は珍しくわたしに答えを求めてきた。食事のことで。
「餃子にしようか」
「ええね」
わたしたちは次ぎの角にある惣菜屋の軒先に売られている餃子を一パック買った。
アパートの部屋に入る前、くちなしの花の香りがした。あの石鹸の香りだ。そういえば、三上のことをュースで知った昼間も、この香りがしていた。
このせいか、とわたしは思った。
「なにしとるん」
鍵をとりだしたまま止っていたわたしに、洋子は相変わらず疲れてぶっきらぼうに話しかける。
「ああ」
そう言って、わたしは鍵穴に鍵をさし、アパートの扉を開け、いつもの部屋の光景を眺めていた。