第2回
タクシー料金は予定の100ユーロよりだいぶ安かったので端数を切り上げた90ユーロを運転手に渡す。渡したとたん運転手は満面の笑顔になり、「アリベデルチ」と上機嫌で木の葉のように舞いながら帰っていく。小さなバッグとともに立ったjGは、レセプション棟からして予想に反してミース・ファン・デル・ローエを思わせる20世紀モダニズム建築だった。あらかじめ連絡しての訪問ではない。それなのにタクシーの帰る音に気付いてかレセプションのドアが開いてメガネをかけた事務の女性が板張りのテラスに顔をのぞかせた。短い挨拶。来訪の意図を告げると女性は左半身を引いて室内へと導く身振りをする。ひとわたり、イタリア北部田園風景の中に低層で建てられた建物群を見渡し、導かれるままシンプルでこぢんまりとしたオフィスに入る。オフィスには受付窓口などはどこにもなく、大きなデスクがゲストスペースと事務スペースをただ分けている。メガネの女性は身をすべらせて机の向こうに座り、コンピュータに向かって受け入れのためのインタヴューを始める。まず名前と国籍を訊かれた。決まり事の人物データをコンピュータに打ち込んだ後、顔写真も撮影された。パソコン内蔵カメラでの撮影なのでシャッター音は聞こえない。jGはコミューンだ。宗教に基づいているわけではないが月曜日には瞑想の時間がある。あしたはその月曜日に当たるので一日静かにしていてほしい。注意事項を伝達されたあと宿泊棟と食堂の位置を教えられ、チェックインの手続きは終わった。このレセプションの女性は実は気さくな性格で、雑談になると会話が弾んだ。ヨガの話。瞑想のポーズも披露する。
イタリア国とは違う通貨がここにはあると聞いていたのだが、まず訪れた食堂ではユーロが使えた。ビールが3.5ユーロ。それを注文した。チーズ味の乾いたクッキーも追加した。食堂に客はいず、床はコンクリート打ちっぱなしだ。孤りでいる軽快感が足元から立ち上ってくる一方、いつもの感覚が肩甲骨の間を訪れ、後ろから体を包んでお前は何物でもないと念を押す。ひと息入れた後、宿泊棟への白い階段を登る。あてがわれた部屋は三階で、三人分のベッドが並ぶが他に同室者はいない。窓辺の置き物、額縁絵。どれを取っても簡素で余分な意味を持ってはいない。トイレ、シャワーは部屋になく、廊下の突き当たりにまとまってある。清潔で気持ちのよい空間にはどこにも人の匂いが感じられなかった。物音も聞こえない。明日は歩き回れない月曜日だから今日のうちに散策をしておこうと庭に出る。庭の土に半分埋まった石が夢見を補助する図形を描いている。石の図柄に沿って歩くと人は見たばかりの夢を追体験することができる。牛耕型に流れる図。波状の夢図。点線。夢図ではないがひときわ大きな螺旋図が目に止まる。中心に向かって反時計回りに巨大な螺旋が描かれている。一番外側の始点位置に立ってアイマスクをする。靴は既に脱いだ。足裏で石を踏んだら軌道を修正すればいい。右足で石を踏んだら左に、左足で踏んだら右に修正する。探りながらなので中心に着くのに25分かかった。冬の淡い陽光が射す場所と枝に遮られて影になる部分との違いが手に取るようにわかる。その変化がリズミカルに訪れ、リズムはだんだん速くなる。中心に至った時、石とは違う感触を素足に感じた。ゴールと思いアイマスクを外した。素足が踏んでたのは焚き火の跡だった。