小さな教会
鈴木 三郎助
小さな教会が下町の一角にある。
賑やかな駅前の商店街の通りをぬけて、脇道を東の方角に十数分ほど歩いて行くと、まだ昔風の人家が多少残っている、物静かな住宅の建ち並ぶ地域に出る。道は緩やかな傾斜をなしているが、その住宅の並びに、緑の灌木に囲まれた子供たちのための遊園地のような公園がある。それに隣接して、屋根の上に十字架を掲げた、白塗りの小さな教会堂が建っている。まわりには高いものはなく、太陽の光に屋根の十字架がきらめく。
土地の者はその教会を、宮の坂の上教会と親しみをこめて呼んでいる。
戦後十四、五年ほど経った頃、その教会堂が建てられたと、その頃子供であった近所に住む男の信者が言う。
その教会の創立には、宣教師として来日したドイツ人のR氏の熱心な力添えがあった。R氏が来日したのは、二十代後半の元気旺盛な年頃であった。母国の神学校を卒業した彼は、自分の人生をキリスト教の伝道にささげるという堅い信念を抱いて、赴任地の日本に派遣されてきたのであった。
彼は優れた牧師であった。来日して何年もしないうちに、母国語のように日本語を話すことができた。彼は日本の文化や歴史についての関心が高く、探究心も強く、信者以外の人々とも親交を持っていた。彼の温厚篤実な人柄に加えて、明るいユーモアのセンスは、多くの人びとの心をつかんだ。しだいに熱心な信者たちが増えていった。
R氏は来日以来、新しく教会を建てたいという強い念願を抱いていた。その頃、たまたまその話を耳にした信仰の篤い夫婦がいた。その夫婦には、父母が住んでいた大きな邸宅があった。その邸宅は父母の亡き後空き家になっていたので、その夫婦はその土地と家屋を教会に寄付した。敷地の三分の二は他者に売却し、残りの土地に小さな教会堂が建てられたのだった。
三年前に、宮の坂の上教会は創立五十五年を迎えた。その時に教会堂の一部の改築と改装がなされた。またそのときに、牧師職の交代も同時に行われた。その教会に新しく赴任したのが、赤羽昇という、やや小太りの牧師であった。彼は四十に届く歳頃だった。
彼はやや複雑な経歴の牧師である。三十になった時、牧師になるために神学校に入学した。それまでは信仰の道とは無縁な人生を歩んで来た。その彼が、キリスト教の真髄を知りたいという熱い思いで神学校に入学したのである。彼は研鑽を積み、自分なりの修業の時を重ねて教会の牧師職に就いた。彼はいくつかの教会の牧師職を経て、宮の坂の上教会の牧師として赴任したのであった。
規模の小さな教会であったが、赤羽牧師はなんら不満がなかった。信者の中には高齢者もいたが、その人たちは教会創立の頃からの信仰心の篤い人たちであった。彼らがドイツ人のR牧師について懐かしそうに親しみをこめて語るのを、赤羽牧師はよく耳にした。その人たちの子供が結婚して親になると、親がわが子を連れて教会に通うのであった。
小さな教会であったが、そこにはなごやかな活気が見られた。赤羽牧師は親たちから子供たちへ、そしてその子供たちから孫たちへ美しい真珠のつながりのように、信仰が継続されていることに強く心を打たれた。
日曜礼拝には、老若男女の信者が教会に集ってくる。赤羽牧師はその日のために、聖書の中から適切なテーマを選び、説教の原稿を準備する。彼は熱心に説教の話の内容を吟味し、信者の心にしみ込むように解かり易く、やや雄弁な口調で語ることを心がけていた。イエス・キリストの言葉が信者たちの生きる杖になれるように祈っていた。信者と対話をするような、彼の話しぶりは人気があった。
教会の仕事をする一方で、彼は牧師職に就いた頃から続けて来た慈善的なボランティア活動があった。世間には困っている人がたくさんいる。最も困っている人を見たら、見ぬふりはできない。彼はそう考えた。そして考えたことはおろかにせず、実行しなければならない。それが彼の信条であった。住む家のない、ホームレスのような境遇の人たちは憐れまれなければならない。彼は月に数回、仲間たちと困っている人たちに食事などを提供する活動をしていた。
ある日、赤羽牧師は事務用の小部屋で、帳簿に目を通したり、新しい記述を付け加えたり、また週ごとに出す週報についてのメモをとったりしていた。平日の午後の教会には人の出入りが少なく、ぽかんと時間が途絶えたような静けさがある。
新型コロナウイルスの感染症が蔓延し出して、自粛が強く求められる中で赤羽牧師は、教会の運営の仕方などの問題を抱えていた。信者の日曜礼拝は大切な行事である。だが、そこは密になる場所でもある。密着は避けなければならない。そこで十分間隔をとって座ってもらうことにした。それが教会のコロナ対応であったが、高齢の信者は外出を自粛していたので、礼拝堂が密になることは避けられた。
事務的な仕事をすますと、赤羽牧師は椅子から立ち上がり、両手を頭より高く挙げ背伸びをした。深く息を吸って吐き出した。これを四、五回繰り返すと、軽快な曲を聞いたような明るい気分になる。
彼は再び椅子に腰かけた。彼は眼鏡を外して机の上に置き、引き出しから目薬を取り出すと、顔を上に向け一、二滴目薬をさした。
それから彼は、抱えていたいくつかの問題について考えを巡らし始めた。世界においても、国内においても蔓延しているコロナの危機をどのように乗り越えたらよいものか、彼の中心課題はそこにあった。牧師として今なすべきことは何かを、いつも考えていた。人々はコロナ禍の中に遭って、生活と命の恐怖に脅え、不安にさらされている。経済が半ば麻痺状態になり、日々の労働活動が滞るようになっている。生活の困苦にあえいでいる人たちが増えている。そんな新聞記事を見ると、彼は胸が引き裂かれるような思いにかられるのであった。
彼は考えを巡らした。
コロナは怖いと言われている。いつ、どこで感染するのか確かめられないからである。だが、どこもかくも安全でないと、決めつけるのは考え過ぎではないか。何事においても絶対ということはありえない。われわれ人間にとって安全とは、つまるところ危険がないということではなく、危険がより少ないことである。そして、危険とは安全がないということではなく、安全がきわめて少ないことである。われわれがより危険の少ない安全を選ぶのは自然なことである。コロナの感染の警告のあるところにわざわざ行く者はいないだろう。人は他の動物と同じように危険なところへは近づくことはそうあるものではない。自己救済能力が自然に働くからだ。
コロナ禍にあって、われわれが持つべき良識は冷静な態度ではないか。不要な恐怖や不安に脅えないことだ。今は非常事態なので、さまざまなデマや悪いうわさが浮遊する。それらは感情の病的な泡沫のようなものだ。われわれ一人ひとりが、まず自分を守らなければならない。それには知恵が必要だ。知恵は闇の中の光である。信者は信仰をゆらがせにしてはならない。
そこまで思いめぐらした時、彼の思考を中断させるように電話が鳴った。
電話は吉川さんからであった。次回のボランティア開催の時の、炊き出しの件や配る物品などについての確認の電話であった。それは数分とかからなかったが、彼の知人がPCR検査で陽性反応がでたという。彼は興奮した声で、その一部始終を語ったので長電話になった。
ボランティア活動の同志である吉川さんは、赤羽牧師よりも二十も年上で、若い頃から福祉活動をしてきた人である。長い間印刷業を自営してきたが、数年前から会社の経営を息子に任せて、今はいくつかのボランティア活動に加わっていた。
「話は変わるけれど」
吉川さんは電話口で言った。
「ぼくの知人が、コロナに感染したのを知らされて驚きました。ぼくより五つぐらい若い、丈夫な人でね。IT会社に勤めていたが、どうも過労が祟ったらしい」
「お気の毒に」
牧師は言った。
「コロナ禍の中で、会社がとても忙しくなっていたらしい」
「そういうところがあるのですか。会社が暇になって困っているというのに」
「ほら、会社に出勤しないで、家で仕事をする、テレワークとかオンラインとか、そういった通信の需要が急に増加したらしいのです」
「それでその人、 入院したのですか」
「ところが、困ったことに入院手続きがとれず、自宅待機でした」
「容体はどうでした。ひどくはなかったのですか」
「熱はかなりあったらしい。数日してどうも容体がおかしいと言うので、病院に運ばれたそうです。病院では、いろいろと手当がなされたようだが、最後には、人工呼吸器が使用されたが、残念なことに亡くなりました。入院して三週間もしなかった」
「お気の毒に」
牧師は心の中で思った。
「命なんて、はかないものですね」
吉川さんはそう言った。
牧師は受話器を置いた。
テレビでは毎日のようにコロナの感染者と死者の数の増減が報道されていたが、吉川さんの電話で身近なところで不幸が起きているのを知らされて、牧師は改めて新型コロナウイルスの恐ろしさを身に感じた。
ボランティア活動は、緊急事態宣言が出されて以来しばらく取りやめていたのであったが、コロナ禍の中で生活に困窮している人たちが増えていた。赤羽牧師はこんな時にこそボランティア活動が必要なのだと考えて、吉川さんと再開計画を立てていたのだった。
吉川さんがある時、教会の事務机で仕事をしていた牧師のところに来て、苛立つように言った。
「今日日、お互いに接触を控えよ、と言われることがやりきれない。近づくことも、話すことも、遠慮しなければならないのは、実につらいことだ」
吉川さんの口調は興奮気味であった。
「吉川さん、今は試練の時だと、わたしは考えています。われわれは今、未曾有の体験をしているのかもしれません。なぜ新型コロナウイルスが人類を苦しめているのか、わたしには分かりません」
「いつも苦しむのは、身体の弱い人や貧しい人たちです」
と、吉川さんの口調がいつものやさしさに戻った。
「いちばん大切にしてやらなければならない人たちなのに……」
「吉川さんのおっしゃる通りです。生活に困っている人たちに、やさしく手を差し延べてやらなければなりませんね」
「それができなくなっているのが堪らないのです」
吉川さんがそう言って、こんなことまで話した。
十日ほど前のこと。吉川さんが区役所に用事があって、久しぶりに街に出かけた。昼過ぎの時刻だった。商店街の並ぶ駅前通りは、それなりの人出があったが、かつての賑わいはなく、店は開いているが客足が少なく、閑散としていた。通りを往来する人は皆、それぞれのマスクをかけて、その表情はこわばって見えた。互いに近寄らないように間隔を置いて歩いて行くのだった。
吉川さんが駅前の通りから離れた、人の通りの少ない道を歩いて行くと、車の通る道路の向こう側の歩道の脇に、何か黒い塊のようなものが目に入った。吉川さんは一瞬不審に思ったが、嫌な予感がした。そして確かめようと目を凝らしてみると、人が倒れているのだった。それにしても不思議であった。何人かの人が、その傍を気にしないように通り過ぎて行くのであった。
吉川さんは、道路を横断して近づいてみると、酒の臭いがただよっていた。吉川さんはやっぱりとうなずいた。男は当然マスクなどしていなかった。その髪の毛は乱れ、かすかに臭っていた。鬚の剃らない顔は薄黒く、目は閉じていた。
声をかけてみたがなんの反応もなく、ちょっとためらいを覚えたが、勇をこして男の肩をつかんで数回揺さぶってみた。すると、男は夢から覚めたように薄く瞼を開いた。
「どうしました?」と訊ねた。
男が何もしゃべらない。目を閉じようとしたので、すぐ声をかけた。
男は目を開けた。眼光には生気がない。立ち上がる様子もない。吉川さんはとりあいず
警察署に電話を入れた。
しばらくして、やせ細った若い警官がバイクに乗ってやって来た。顔にはマスクをかけている。
「どうしたのですか」
警官は眼鏡越しに訊ねた。
「見れば、お分かりでしょう」と、吉川さんが答えた。
その警官は腰をかがめて、
「あなた、駄目ですよ。こんな道端に寝転んでいては。それになんですか。真っ昼間から酒なんか飲んで、大の字になって寝ているとは。おまけにおへそが丸見えですよ。恥かしくありませんか。さあ、立ちなさい」と、男に呼びかけた。
警官の、三度目の呼びかけに男はやっと目を開くと、ぽかんとした表情の口もとにうすら笑いが見えた。
「お父さん、うちはどこですか。近いのですか。それとも遠いのですか」
若い警官は叫ぶように言った。
男は警官の無邪気そうな童顔を、ぎょっとにらむと、吠えるような声を出した。
「お父さんとは、いったい誰なんだ」
「あなたです。そうではありませんか」
「おれには子供などいねぇ。お父さんなんて馬鹿なことをぬかすな。分かったか」
「すみません」
警官は頭を下げた。
「ところで、家は近いのですか」
「すぐ近くだ」
「送りましょうか」
「余計なことだ」
男はよろよろと歩き出した。
警官はその後ろ姿をしばらく見てから、吉川さんに
「どうもすみませんでした。この頃、こんなことがよくあるので、困っています」と言うと、バイクに乗って去って行った。
牧師は吉川さんの話を聞いて、社会の一端を垣間見たように思った。
今、われわれは戦争でない戦争下にいるようなものだ。次々と感染者の数が増え続けている。病院は野戦病院のようだと言われる。経済活動が抑制されて、失業者が続出している。国民の一人一人が不安を抱えている。そのため社会全体に不安の雲霧が立ち込めているのだ。人の胸の中には疑心暗鬼が巣食っている。まさしく今は、試練の時だ。赤羽牧師は食べたものを、ふたたび噛む反芻動物のように、そんな思いを新たにするのだった。
八月の半ばが過ぎても、暑い日が続いていた。公園の木々は平べったい葉むらをだるそうに下げていたが、蝉の声だけはいつもの年と変わらず賑やかであった。
日曜礼拝が終わって、その日の午後、赤羽牧師は執務室で仕事をしていた。人生問題で悩んでいる若い信者に励ましの手紙を書いたり、重い病気で入院している高齢の信者とその家族のために慰めの返事を書いたりした。そのあと、家族のことで悩みを抱えている婦人が訊ねてきたので、婦人の話に耳を傾けてともに解決の道を考えてやった。その婦人を玄関先まで見送ったあと、彼は執務室に引き返し、再び机に向かって、一日のまだ残っている仕事を始めた。
その日の夕方であった。太陽が西の山に沈むにはまだ半時があった。風がなく、暑さが濃くよどんでいる。教会堂の前を人が通って行く。駅の方に行く者とそちらの方から買物をすませてくる者が行き交っている。自転車が通る。白い小犬を連れた可愛い少女が教会の前を通り過ぎて行く。
そんないつも見られる下町の暮景の中に、一人の男が駅の方から歩いてくるのが見えた。その歩く様子から、男はかなり疲れ切っているのか、それとも重い病気をもっているのか、身をふらつかせ、その足の運びが心もとなく見える。まだ若い。だが、やせ細った男だ。薄黒く汗でにじんだワイシャツに、よれよれの土色のズボンをはいている。黒いリュックを背負った男の顔は青白く、今にも倒れるのではないかと、彼を注視した者なら、そう思っただろう。しかし、通りゆく者は一目で男の風体を見てとり、隔たりをつくって急ぎ足で通り過ぎていくのだった。
男は教会堂のかたわらの、小さな公園の前で足を止めた。男はちょっと、もの思う様子で公園の中をのぞき見た。いくつかの遊具があり、その奥に緑の垣根を背にしてベンチが二、三脚並んでいる。園内には人影がない。男は中に入り、滑り台の陰のベンチに腰を下した。背のリュックを降ろすと、男は大きく背伸びをし、両肩を数回拳で叩く仕草をしてから、身体を倒してベンチに横になった。
夜の気配が濃くなった。鼠色の闇が家屋や路地にただよい出して、道行く人の顔も見分けがつかなくなった。公園の片隅に立つ外灯にも、明かりが灯った。ベンチに寝転んでいる男の黒い姿を、その光が離れたところから淡く照らしていた。
男はすっかり寝込んでいた。まるで天国に行ったような忘我の眠りに陥っていた。ところが遠くの方から大地の揺れが、初めは弱く、しだいにそれが強まり、大きな揺れとなってきた。その得体のしれぬ恐怖で彼は、目が覚めた。見知らぬ手が、自分の身体を揺さぶっていたのであった。彼は驚き、一瞬身構える恰好をとった。それから、恐る恐る目を上げて、そこに立っている人の影を見つめた。
「いびきをかいて、寝ているところを起こしてすみません」
優しさのこもった、静かな声だった。
男にはその声の主の顔が、外灯の逆光になって、よく見えなかった。だが、こんな優しい声を聞いたのは初めてのことであった。それまでは嫌なことばかり続いていた。夜間に寝ていると、不良少年たちに、おびやかされたり、石を投げられたりした。たびたびお巡りさんから注意されることもあった。男がすぐ脳裏に浮かべたのは警察官の顔であった。
その声の主がわずかに身動きしたので、ぼんやりとその容貌が見えた。
「あなたはどなたですか」
男は喉の奥から声を出した。
「わたしはそこの教会の牧師です。赤羽と申します。こんなところでうたたねをしているのが目に留まりましたもので……」
男はいくらか体がほどけていくような感覚を覚えた。
一日の仕事を終えて、戸締りをして教会を出た赤羽牧師が、公園の前を通りかかった。その時、園内のベンチに人の気配を感じて、近寄ったのだった。
「ここで寝ていてはよくありませんね」
牧師は男の身体をいたわって言った。
「どうしました。どこか悪いのですか」
男はのろのろと上半身を起こした。
「牧師さん、ぼくには帰るところがないのです。家がない。ぼくのような身になった者には、泊めてくれる宿もない。ぼくは一文無しなんです」
男の声は弱かったが、言うことはしっかりしていた。
「お気の毒に」
牧師は心の中でつぶやいた。
男は彼の心を見抜くように言った。
「ぼくは惨めだが、憐れんでもらいたくない。そう言う目が嫌いだ」
いらだった声で男は言った。
「いいえ、わたしはあなたをそうは見ていません。でも、野宿は気になります。何とかしなければ……」
「日が暮れたし、歩き疲れたし、今夜もこんなところで寝ようかとね。文句はありますか。だが、コロナさえなかったら、こんな暮らしはしていなかった」
「あなたも解雇されたのですか」
「会社が倒産した。小さな会社だったが、面倒見のいい会社だった。社員寮もあって、ぼくはそこに五年ほど住まわせてもらっていた。コロナ禍が深刻になって、会社は持ち切れず、七人ほどの仲間が全員解雇された」
「それで、あなたは宿無しに……」
「わずかな蓄えがあったので、しばらくはどうにかやりくりしてきた。でも、仕事は見つからず、食うや食わずの暮らし。どんな因果だろう。呪われているのかね」
男は自嘲するように顔をゆがめた。
牧師は心の中で、深刻な状態になっているのは、あなただけではないと言おうと思ったが、それを抑えて、
「それはいけません」と言った。
男には何がいけないのかよく分からなかった。ぼんやりした明かりの中に浮かぶ牧師の顔を見つめて、男は言った。
「牧師さん、ぼくなんか放っておいて」
「それはいけません」
牧師は同じ言葉を繰り返した。
「なにが困るんだい」
男は声を荒げた。
「あなたはお腹をすかしていませんか」
牧師はやさしく言った。
「ぼくはそれを忘れて寝ていたのだ。それを妨害したのはあなたじゃないですか」
「そうとは知りませんでした。すみません」
牧師は頭を下げ、そして言った。
「どうでしょう?わたしの家はすぐ近くにあります。ご馳走らしいものはありませんが、いらっしゃいませんか」
その牧師の言葉に、男は一瞬めまいに似た気分になった。そんなことがあるだろうかと自分の耳を疑ったのだ。男は頭がぼうっとして声が出なかった。
「わたしも食事はまだです。一緒になさいませんか」
牧師は言った。
男は身震いした。客人として呼ばれている自分がとても恥ずかしかったのだ。男は解雇になってからというもの、世の中にたいして、また、人の情けにたいして強い不信を抱くようになっていた。ある時は、人恋しくなって忍び泣きをしたこともあった。ある時は、人と関係せずに無視されて生きることの、変な解放感を覚えたりしたものだった。
男は応答をためらっていた。だが、彼はここ数日間、ろくなものを口にしていなかったので、半ば栄養失調になりかかっていた。身体を動かすのも面倒くさかった。
牧師が男の手を取って、立ち上がらせようとした。反射的に男はそれを払いのけた。だが、男の身体がよろよろしたので、牧師は男の身体に腕を回して支えなければならなかった。男は牧師の言葉に素直にしたがって歩き始めた。
牧師の住んでいるマンションはそこから五十メートル先にあった。中古の三階建てのその一階に牧師の家があった。
牧師は男を応接間のソファに座らせた。
水をコップに入れて持ってきて、男にやると全部飲んでしまったので,牧師がもっと飲むかと訊くと、男はいいと首を振った。隣の部屋で物音がしたので、男はほかに人がいるのかと気遣った。
すると、ほどなく隣の部屋から高齢の婦人が出て来た。見知らぬ男を見て、一瞬婦人の顔に驚きの色がさしたが、直ぐ人のよさそうな穏やか表情に戻った。
「お母さんこの人、とてもお腹をすかせているのです」
牧師は親に男を紹介した。
婦人は緊張した面持ちでいる男に、
「いらっしゃい、どうぞお気楽になさい」と、やさしく言った。
男は面食らった。穴があったら入りたい気持ちである。
母と息子が、キチンで低い声で話をしている。
味噌汁の匂いがただよってきた。男は懐かしくなって急にお腹がきゅっとした。
テーブルの上に料理が運ばれてきた。
特別な料理ではなく、普通の家庭と変わらず、むしろそれよりもやや質素な品々であった。皿に盛られた冷奴、レタスとトマトの入ったサラダ、わかめの入った味噌汁、コロッケ、サバの味噌煮などである。
いつもの親子の食卓に、その日は客人が加わったのである。
「こんなものですが、ご飯はたくさんありますから」
牧師はそう言って促した。
食卓の品々をにらむように見ていた男は、おそるおそる食べ始めたが、次第に食べ方に勢いが増した様子で、ご飯をお代りするやら、口を大きくふくらまして呑みこむやら、その食べ方は並みでなかった。
牧師はほほ笑みながら、その母親はやや驚きの表情を浮かべながら眺めていた。その眼差しはうれしそうであった。
しかし、男は飢えが充分に満たされて、満腹の一歩手前で潔く箸を置くと、軽く胸に手を合わせて、合掌の仕草をした。それから牧師と、その母親に向かって感謝の意を告げたのである。
牧師は思いがけない男の振る舞いに驚き、その謙虚な態度に好感を覚えた。
住む家を失った男は、一見、野犬のような印象をあたえたが、実はそうではなかった。
とてもやさしい性格の人のように見えた。
萎れかかった花に水が注がれたように、男の顔に赤みがさしていた。こわばった表情が消えて、安らかな好ましい青年の顔をとり戻していた。
牧師は男の様子を見て喜んだ。
「まだ、お名前をお聞きしていませんね」
牧師はやさしく訊ねた。
男は一瞬眉をひそめたが、小声で田中和夫と名のった。
「田中さんという姓はとても多いですね」
「そうなんですか?」
男は気がのらないようだ。
「わたしは赤羽ですが、小学生の時の綽名が共同募金でした。誰が言い始めたのか、わたしの姿を見ると、共同募金が来た。逃げろと言われましたよ。先生までが『共同募金、立って本を読みなさい』という始末で、教室にどっと笑いの波が立ったものでした。そう言われることが、恥ずかしく嫌でした。ところが今になってみると、その頃のことが懐かしく思い出されるのですね。あの先生は今どうしているだろうかとか、同級生たちはどうしているだろうかと思うことがありますよ」
牧師は笑いながら言った。
男の顔に笑いが浮かんだ。
男はソファから腰をあげようとしたので、牧師はトイレに行くのかと思って、声をかけた。男は頭を振って
「帰らなければ」と、応えた。
「田中さん、今夜はここでお休みなってもいいのですよ」
「お腹が満たされたので、元気が出てきました。これ以上迷惑はかけられないので」
男は立ち上がって、自分のリュックの方へ目を注いだ。
「田中さん、遠慮はご無用です。あなたのための部屋がありますから」
男は自分の耳を疑った。なぜ、おれの部屋がここにあるのか、その言葉にひっかかった。
「ほんとうに遠慮なさらないでください。空いた部屋があります」
そのような牧師の好意を聞くと、男は野宿のわびしさが身に染みた。暗闇の物騒な公園のベンチに行く気が萎えたのである。男はいったんもちあげた腰を下した。
「お言葉に甘えて、お願いします」
男は頭を下げた。
牧師は心の中で、遠くに離れていた息子が戻って来きたように喜んだ。
「田中さんは、お酒はいけるんですか」
牧師は寛いだ気持ちで訊ねた。
「嫌いではありません。でも、多く飲める体質でないです」
先ほどまであった気の重みが無くなったようである。男の口調は平静であった。
「わたしは、若い頃は酒飲みでしたよ。飲み過ぎがたたって、肝臓を悪くしました。このまま飲み続ければ死にますよ、早く死にたいですか、とお医者さんに言われまして、酒はやめました。命と酒、どちらが大切ですか。酒飲みには酒は命と同じ位必要だ、と思っていたのだから、若い頃は困ったものでした」
牧師は陽気にしゃべっていたが、心の中では、男の身の上を気遣っていた。
牧師は彼の身内について、ちょっと訊ねてみたかった。彼が不快な顔をするかと案じたが、話してみると、思いの外素直に応じてくれた。彼は次のようなことを話した。
彼は東北の小都市に生まれた。
母子家庭で、彼が生まれる前に、父と母は離婚していた。彼は父の顔を知らず、一度も父に会ったことはなかった。母は幼稚園の先生をしていた。彼は高校を卒業して上京した。母は一昨年乳がんで亡くなった。母の身体に癌が見つかった時には手遅れで、半年もしないうちに亡くなった。彼には頼りとする身内も、友だちもいなかった。
牧師は聞いているうちに目頭が熱くなってきた。
しばらく黙っていた男が、
「牧師さん、神様っているのですかね」
と言ったので、牧師は驚いた。
牧師は落ち着いて言った。
「あなたはどう思っていますか」
「実は小さい頃、母がぼくを連れて、教会に通っていたことがありました。子供の頃は神という言葉が身近に感じていたようです。でも、社会に出て働くようになって、悲惨な出来事を見るたびに、暗い気持ちになりました。神様が本当にいるのかな、と疑ってしまうのです。世の中が余りに悲しいことや不公平なことが多過ぎるのです」
男はそう言った。
「お母さまはクリスチャンでしたか」
「ええ」
「あなたがそう思うのは当然かもしれませんね」
赤羽牧師は答えた。
牧師は神の存在に関して、信者からも質問を受けることがあった。理論的に神の存在を証明することは困難であること。神が存在するのか否か、実は人間には不可解なのではないか。だが、人間の科学的思考にとって、不可解であるものは存在しないと決めつけるのは、人間の傲慢ではないかとも考えた。彼は謙虚にイエス・キリストの言葉を語って、何よりも重要なことは信仰であることを静かに語るのであった。
牧師はそれに加えて、自分の生い立ちのことや自分が牧師になったことの経緯をかいつまんで、目の前の青年に話した。
田中は質問をしたりしないで、牧師の話に聞き入っていた。牧師は彼がどう理解したかは問わなかった。
牧師は席を立って、再び戻って来た。
「田中さん、お風呂はいかがです? ちょうどいい湯加減ですよ」
牧師は言った。
田中はちょっと戸惑った。先に入るのは自分ではないと思った。そのことを言うと、牧師は、
「自分はシャワーを浴びるだけだから」と言って浴室に案内された。
浴室は狭く、四角の湯船だった。田中は湯船にとっぷりつかり、身体が温まっていく快感を覚えた。香りの豊かな花の匂いをかいでいるような気分になっていた。
その夜、田中青年は夜半に目が覚めた。恐ろしい夢を見たわけでも、トイレに行きたくなったわけでもなかった。彼はすっかり寝込んでいた。池の泥の中に埋められたような深い眠りに陥っていたのだった。ところが、夜半に目が覚めたのである。
彼が寝ていたのは四畳半ほどの部屋で、畳に敷かれた夏用の蒲団の中に体を横たえている自分に気づいた時、彼は一瞬、なぜ自分がここにいるのか妙な感覚に襲われた。だがすぐここは、牧師の家なんだと分かった。
窓のレースのカーテンを透かして、月明かりが射し込んでいた。部屋の隅にある机と書棚のようなものが暗がりの中にかすかに見える。空調の微小なひびきがしている。
彼は目を閉じ、再び眠ろうとしたが、頭が妙に冴えて眠られなかった。いろんなことが脈絡なく頭の中に浮かんでくるのだった。
公園のベンチに寝ているところを牧師に起こされたこと、五年ほど働いていた製作工場の主人や働き仲間のこと、そうかと思うと自分の子供の頃や母のことを思ったり、顔を見たことのない父のことを思ったりした。
彼は自分の生い立ちについて、意識的に考えることを避けてきた。父のいない、母と二人だけの家庭を懐かしく思うことができなかった。母はひとり息子を母鳥が雛を育てるように可愛がり、大事に育ててくれていたが、彼には理由の分からない不満のようなものがあって、まわりにとても気難しい少年だった。
地元の高校を卒業して、東京に行くと言った時、母は反対しなかった。大学の進学を考えていなかった彼に、母は勉強の大切さを言って聞かせた。
「大学に行って勉強をするかどうかはおまえ次第だよ。しかし、社会に出て就職する前に、自分の時間を自由に持つことは人生にとって悪いことではない。おまえは無駄なことだと思うかもしれないけれど、母さんはそうは思わない。学費のことはなんとかなるわよ。母さんはそのつもりで貯金をしてきたんだから」
彼は母の勧めで大学に入った。だが、それが彼に良かったのか、どうなのかよく分からなかった。とくに悔いということもなかったが、母が言うようによかったというわけでもなかった。正直なところ、いい加減な大学生活だった。
母が学費と生活費を仕送りしてくれたことに、彼はあまり有難みを感じていなかった。母に憎しみをもっていたわけではないが、どことなくよそよそしい態度をとっていた。ときどき母から手紙が来ても、返事を書くことも電話をかけることもしなかった。
そんな彼が二年前に、母の危篤の知らせを入院先の病院から受けた時は、是が非でも駆けつけないわけにはいかなかった。ところが、彼が病院に駆けつけた時には、すでに母は亡くなっていた。ベッドに身を横たえた、母の静かな白い顔を、彼は眺め見つめた。
その時だった。彼の身に異変が起きたのである。体が突然震えだし、足元がよろめき転倒しそうになった。彼はベッドの縁に両手をつき、しばらくそうしていると、年配の女の看護師が入ってきて、彼に簡易の椅子に掛けるように語りかけた。彼は椅子に腰かけた。その顔は眉をひそめ、涙で汚れていた。半身をそぎ落とされたような深い喪失感に、彼は襲われていたのだった。
その後、母の死は少なからず彼の心に重くのしかかった。自立心の強い母だった。歳老いても、息子にやっかいをかけないように生きてきた。そんなしっかりした母であったからなのだろう。彼は母を他人のような感覚で軽く見てきたきらいがあった。だが、母のこの世での不在は、自分の唯一の味方の喪失であることを、彼に痛く感じさせたのだった。
彼は母のことを思い起こして、目を潤ませているようであった。
彼はもう一度、ホームレスになった自分に思いを馳せた。
おれがホームレスになるなんて思ってもみなかったことだ、と改めて彼は慨嘆した。勤めていた会社が経営難に陥り、立ちいかなくなるなんて、おれの頭に思い浮かんだことがあったろうか。年甲斐もなく、おれは自分の人生をいい加減にしてきたのではないか。世の中を甘く考えていたのではないか……。
彼は会社を辞め、住むアパートを見つけたが、数か月で追い出された。家賃が支払えなかったからだった。仕事を探し回ったが、無駄だった。彼に残されたのは路上の生活であった。ホームレスがどんなものなのか、彼は身をもって、それを体験したのだった。
夜になれば、寝るところを探さなければならない。しばらくの間、彼は河川敷を寝床にしていた。そこには同じような境遇の先住者がいた。彼らは新米の彼に生活のイロハを教えてくれた。彼らはこう言った。今は新型コロナの時なので、食べ物がなかなか手に入らなくなっている。前はよく分けてもらっていたものだった。今はちょっとした銭稼ぎもできなくなったと。彼らは一様に体の肉が落ちて,骨ばっていた。目だけがばかに大きかった。
彼はそこが嫌になると、河川敷から離れて単独行動を始めた。主に公園などを寝床にした。公園も安全なようで、安全でなかった。自分の存在が人の目には、異様に見えるらしい。警戒感を起こさせるのだろう。大人は見て見ぬ振りをして関わらない。ところが、不良少年たちには格好の標的になる。彼らは飢えた野犬なんだ。嫌がらせをして、悪態をついて風のように去って行く。
彼は不良少年たちの襲撃を数回受けた。さほどの被害に遭わなかったけれども、怖かった。彼らは多勢なのだ。自分に武器でもあったら、どんなによかっただろうと、彼は思った。いや、必要なのは武器なんかではない、安らかに眠れる家なのだ。
ある夜、彼はいつもの公園の片隅で寝ていた。暑苦しい夜であった。その日はいくらかお金が入ったので、お酒を飲んで酔い心地で寝たのだが、夜半過ぎに目が覚めた。彼は体を仰向きに直して、なにげなく空を見上げた。その目はなにかを探そうとしている眼差しであった。天空は真っ黒の闇の空間であった。少年の頃の彼はよく夜空を見上げて、星のきらめきに心を躍らせたものだった。都会の夜空には星がないなぁ、とつぶやいた。満天にダイヤモンドがちりばめられたように見えるというモンゴルの放牧民の生活を羨ましく思った。都会の夜空には光るものがなに一つなく、むしろ恐ろしい暗闇に閉ざされているのだった。
また、ある夜のことであった。その日はよくないことがいくつも重なって、彼は心身ともに疲労困憊気味であった。神経がいら立ち異常であった。彼は愚痴を吐いた。
お金が必要なのに、それを得るための仕事がない。なぜなんだ。
お腹が空いているのに食べる一かけらのパンさえない。なぜなんだ。
休むべきところが欲しいのに、その居場所となる家がない。なぜなんだ。
コミュニケーションをしたいのに、相手となる人がいない。なぜなんだ。なぜなんだ
彼は絶対的な孤独感に襲われるのだった。そんな時、彼は自己を追い詰めて、生きていることにどんな意味があるのだろうか、と自問自答するのだった。こんな状況でも生きなければならない理由があるだろうか。
一日を生きるためにはパンが必要だ。ところが、自分にはそれが与えられていない。万引きをすれば得られるだろう。しかし、それはできない。必要なのはお金だと思う。人の金を盗むことだ。空き巣狙いになるのにはかなり覚悟が必要だ。見つかれば、人を殺めてしまうことだってありうる。自分が殺人者になるかもしれない。そうまでして生きなければならない理由があるのだろうか。彼はそう考えて、人から物を奪わないためにも、人殺しを犯さないためにも、自分は野垂れ死にするか、それとも自死するしかないのではないかと、本気に思うのだった。
それがいつ、自分の身に起こるのか不透明である。
もしかしたら、明日にでもそれが起こるかもしれない。そう思うと、彼の存在が崩れていくのだった。不安と恐怖の暗黒の渦の中に自分の全存在が巻き上げられていく悪夢を見ているような思いになるのだった。
彼は、月光のさす窓辺の部屋でもの思いに耽っている自分を不思議に思いつつ、そのうちにいつしか、深い眠りに陥っていった。
赤羽牧師は翌朝、いつもの時刻に起き、母の用意した朝食を済ますと、自分の書斎に行き、そこで一時間ほど日課の読書をした。彼が今読んでいるのは、キリスト教の教会史に関する書物である。キリスト教がその時々において、社会や人々にどんな関わりようをしてきたのか、また、地域の人々とどんな関わり方をしていたのか、その歴史的な経緯をじっくり確かめて知っておきたかった。
彼は読書を終えると、日記帳を開いて、一日のスケジュールに目を通し、しばらく目を閉じ、新たにメモを付け加えた。そしてそれらをカバンにしまうと部屋を出た。
外出着に着替えた彼は玄関先で、
「田中さんのことはよろしく頼みますよ」と、母に告げて外へ出た。
もう路上は灼熱の太陽に照らされていた。
婦人は日傘をさして歩いていく。
赤羽牧師は教会堂の扉を開き、いつものよ
うに執務室に入った。しばらく田中さんのことを考えていた。それから、彼は信者宛の返信の手紙を数通書き始めた。
それが終わりかけた頃に、吉川さんが車でやって来た。
「今日も暑くなりますなぁ」
吉川さんが、そう言って執務室のまるい椅子に腰を下した。
白い半袖のシャツを着た彼は、やや小太り気味の赤羽牧師より脚が長く、ほっそりとした身体つきをしている。
赤羽牧師は封筒に宛名を書き、切手を貼りおえると、上背のある体躯を吉川さんに向けた。牧師はやや小太りに見えるが、学生の時にサッカーをしていたので、身体は丈夫である。多少白髪の混じった髪の毛はふさふさして多い。額が広く、どっしりした獅子鼻の顔は芯の強そうな印象を与えた。だが、人に向けられる眼鏡越しの目はやさしい。
牧師はそのやさしい目を吉川さんの日焼けした面長な顔に向けて言った。
「ボランティアが予定通り行われて安心しました」
牧師は改めて謝意を述べた。
吉川さんは他のボランティア団体と協力して、五日前に飲食に困っている人のために食料品などを配る行事をしたのである。炊き出しは行われなかったが、弁当などが配られたのだった。
「ホームレスの人はもちろんだが、仕事を失った学生や母子家庭の子供たちも来ていました。事態は深刻になっていますね」
吉川さんがそう言って、言葉を継いだ。
「解雇された人たちは仕事がなくて、生活苦に追い込まれている状況です。自殺者が多いのが気になります。特に若い女性の自殺者が増えています。悲しいことです」
牧師は言葉を発することはしなかったが、心の中で考えていた。
コロナ禍の中で人々は動きが取れず、たがいに語り合うこともできずにいる。このような窒息状態に置かれていることが何よりも問題なのだ。感染は怖いことだが、それを恐れてばかりいるわけにはいかない。人々が襲われている心の飢えにも、光が与えられなければならない。一滴でもいい。その希望が欲しい……。
「吉川さん、自ら命を落とすなんてむごいことですね」
牧師は言った。
「こちらの心も痛みます。ボランティアの活動がどのくらい当人たちに役に立っているのか疑わしくなってしまう」
吉川さんがつぶやいた。
「コロナは人と人を引き離し、人々を孤立させ、孤独にさせます。その中で、藁にもすがる思いの人がたくさんいるのではないでしょうか。善意はその人たちに有難いことなのです。われわれの行っているボランティアは必要なことです。どんな状況にあっても、善意の行為は尊ばれるべきだと、わたしは確信しております」
牧師はそう言って、吉川さんを励ました。
二人は、今後の活動予定のことを語り合った。そして、このコロナ禍の中で、心を一つにして活動を継続していくことを誓った。
その日の夕方、職務を終えた赤羽牧師は、田中さんがどうしているかと案じながら帰宅に着いた。
玄関先に出たのは田中さんであった。彼の元気そうな様子を見て、牧師は笑みを浮かべた。母もいつものように和やかな表情をしていた。
牧師は浴室に行ってシャワーを浴び、普段着に着替えて居間に戻って来た。田中さんはソフアに座っていた。彼に向かい合って、牧師は腰を下した。
「今日、一日どうでした? ゆっくりしましたか」
牧師は友にしゃべるように訊いた。
田中さんは軽く頭を下げて頷いた。
彼の一日はこうであった。
彼は今朝、目を覚まして起きたのが十時過ぎであった。十分に満ち足りた眠りであった。こんな眠りは数か月ぶりのことであった。
牧師の母は外出したのか居なかった。
テーブルにはメモが添えられて、彼の朝食が用意されていた。
食事を終えると、彼はソフアに座って新聞を広げて読んでいた。しばらくして牧師の母が買い物から戻って来た。
午後のひと時を、彼は牧師の母とおしゃべりをして過ごした。彼女は話し好きで、しかも物知りであった。彼は少しかしこまって耳を傾けていた。
彼女は白髪の面長な老婦人であるが、その表情は晴れやかで、その声は若々しく,彼の耳の底に快く響くのであった。
話がコロナに触れた時、彼は自分の身の上のことを語った。そして、自分がどう生きて行ったらよいか分からないことを訴えるように打ち明けた。彼女は彼の不安そうな目を見つめ、優しく言った。
「ここに泊まっていらっしゃい。仕事を見つけるには、住所が不明なのは困りますよ。息子もあなたを快く受け入れると思います」
彼はその言葉にしびれるような感覚を持った。自分がそんなに大事に扱われているのがどうも不可解であった。心の底から熱いものがこみあげてきた。
彼は今、とても落ち着いた気持ちで牧師と向かい合っていたのだった。
「いろいろ考えてみたのですが……」
牧師がそう言って続けた。
「今はコロナ禍の中にあって、世界中が大変な状況になっています。日本においても、その被害にあっている人たちがたくさんいます。あなたも大きな打撃を受けた一人です。こんな時にこそ、われわれは力を合わせてこの人類に向けられた試練を体験し、乗り越えなければならないと、わたしは思っているのです。そこで、今のあなたの身の上を考えたとき、しばらくここで休まれた方がいいのではないかと思っているのですが、田中さん、どうでしょうか?」
田中さんはその言葉を有難く受け止めた。そして、素直にその意を伝いた。
牧師は話が順調に成就したことを喜んだ。
夕飯の支度をしていた牧師の母が、食卓の上に料理の品々を並べていた。
今夜の食卓には、三人が席をとって座っていた。
特に変わった料理ではなかたが、食卓にはトンカツが皿にのっかってあった。トンカツは牧師の好物だった。田中さんにとっても、半年ぶりに巡り合う好物であった。
おわり