風に抗して
鈴木 三郎助
一日の勤務が終わって、病院を出た岡本公子は帰りの電車に乗っていた。
混みあう時刻はすでに過ぎていたが、都心から郊外に向かう電車はやや混みあい気味であった。乗客はそれぞれ、マスクをしていたが、不安と警戒を心に秘めながら、たがいに密にならないような気配りが見えた。
岡本公子は左右の男の人に挟まれるようにして車内の中ほどに立ち、過ぎ行く夜景を眺めていたが、頭の奥では別のことを、思い、考えていた。
「岡本さん、来週から新型コロナウイルス感染症病棟に異動してもらいたいの」
昼休みに婦長に呼び出されて、彼女はそう告げられたのだった。
「いま人手が足りなくて、他の病棟からの応援をお願いしているのです。大変な時なのでよろしくね」
前々からコロナ対策として、看護師の異動があることはうわさされていたことだった。だが、癌病棟担当看護師の岡本公子は、自分がその任務に回されるとは思ってもみなかった。それだけにそれは、彼女にとって大きな衝撃だった。だが、業務命令なので嫌だとは言えなかった。
「はい、わかりました」
彼女はそう応えたのであったが、内心は複雑であった。固い重りを心に圧しつけられたように嫌な気持ちだった。
新型コロナウイルスの感染者の数の拡大の兆しが見え出した頃から、病院ではにわかに緊張感が高まり、医師も看護師も、院内感染には強い警戒心を持って臨んでいた。それと同時にコロナ専用の病棟の確保の問題も抱えていたので、病院全体が平常時とは違った空気がただよっていた。
岡本は癌病棟に配属されて四年余り経っていた。その間、彼女はさまざまな癌患者と顔をむき合わせて真心をこめて看護してきた。癌患者特有の生死の命運を肌に感じるようにじかに見てきた。命をくいとめ、徐々に回復に向かっていく患者であれば、共に喜びを味あうことができた。涙を流して笑いあうこともできた。ところが、もう手の施しようのない、いわば医師から半ば見放された患者との別れは切なく、死に向かっていくと思うと涙をこらえるのが辛かった。しかし、そのような人たちと話したり、励ましたりして、苦楽を共有し合えることに、彼女は遣り甲斐や生甲斐を感じていたのだった。
岡本は移り変わる夜景をぼんやりと眺めていたが、頭の中では、そのような癌病棟から離れなければならないと思うと、一抹の懐かしさと寂しさがあった。
新型コロナウイルスの感染病棟がどんなところか、岡本は看護師として理解し、想像をめぐらすことができた。
しかし、この感染症に対して分からないことが多かった。それだけに不安が大きく、自分に務まる仕事なのか、自信が湧いてこなかった。大きな岩のような物が自分の前に転がり込んだような気がして、胸が締めつけられた。悲しさと怖さがこみあげてきて、全身に戦慄が走った。
岡本は心の中にたまって来た墨汁のような黒い影を追い払うように、その問題を切り捨てた。心の転換を図った。そして、いつもの陽気な心をとり戻すと、さっさと電車を降り駅の改札口を出た。
その時、バックの中で携帯電話が鳴った。三木次郎からであった。近くに来たので寄ってもいいか、という電話であった。予期していなかったので、一瞬ためらったが、別に用事もなかったし、彼も食事をしていないと言うので、じゃあ、お鮨でも買っておくわ、と言って電話を切った。
岡本公子はワンルームマンションに住んでいた。そこは駅から徒歩十数分のところにある。急行の止まらない小さい駅のまわりは、丘あり、谷ありの起伏に富んだ地形になっていて、彼女が賃借しているマンションは線路に沿って走る街道を横切った傾斜面にあった。
以前そこら一帯は、竹藪や畑であった。
駅前のスーパで食料品の買い物をした岡本は、マンションの二階の一番奥にある自分の部屋の鍵を開けて中に入った。
独り暮らしの彼女の部屋は、いつもきれいに整えられているとは限らなかった。仕事から疲れて帰ってくると、もう何もかも面倒くさくなって、部屋は乱雑に散らかしていた。
職場では、真面目にてきぱきと働く彼女の姿は好感を持って見られていたが、家では彼女ののんびりした、大まかな性格が出ていた。
三木次郎が来るというので、彼女はややうきうきした気分になりながら、部屋の片づけを始めた。
しばらくして、三木次郎がやって来た。彼はマスクをして、手にコンビニで買った缶ビールとつまみのような物が入った白い袋を提げていた。
岡本と三木は恋人の間柄であった。二人が会うのは数か月ぶりのことであった。新型コロナウイルス禍にあっては、自粛ということもあってなかなか会う機会が持てなかった。
マスクを外した彼は、向かい合った彼女を抱き寄せると、キスをしょうとした。それは二人のいつもの挨拶である。ところが、彼女は彼の顔を抑えて、そっと彼の頬に唇を向けたのである。
「濃密はだめよ」
彼女はささやいた。
「そうか」
彼は苦笑いを浮かべた。その代り彼女の柔らかな体をいつもより強くハグした。
彼は居間のソフアに腰かけた。部屋の取り付けや色模様から女の匂いがただよっているようであった。彼は自分の住んでいる部屋がなんとも殺風景に思った。
岡本は鮨の折詰を二つと彼女の即製の野菜サラダとコップをお盆に乗せて持ってきた。
そして、脚の低いガラスのまるいテーブルの上に置いた。彼女は丸い椅子に座って、彼と向き合った。
彼はコップにビールを注いだ。二人はコップを寄せて、乾杯をした。
「少し痩せたようね」
岡本は眉毛の濃い、面長な彼の顔を見て言った。
「そう見えるか」
「ええ。仕事は家でしているの?」
「テレワークも慣れたけど、どうも味気ないなあ。満員電車に乗らないのはいいけど、こういつまでも家にばかり閉じこもっているのも、体にはよくないなあ。一日の仕事が終わった後、近くの公園に行ってひとりでボールを蹴って遊んでいるがね。君の方はどうなんだい?大変だろう」
「大変も大変、猫の手も借りたいほどよ」
彼女はそう言ったが、自分が今度、担当病棟が変わることを口にはできなかった。
「病院でもクラッタ―が発生しているね」
「そうよ、そのことが一番心配ね。病院はいま戦時体制よ」
看護師の彼女は、コロナ感染患者が急増し始まってから、病院が常とは違う医療体制に変わっていくのを身に感じていた。やがては自分たちもコロナと向き合わなければならない時が来ることを思っていた。
三木は彼女の口から飛び出した言葉に驚いた。テレビなどで医療崩壊のことは聞いていたが、現場にいる岡本からじかに聞くと、重みのある言葉であった。
「そんなに逼迫しているのか」
「みんな必死よ」
「必死か」
彼は彼女の瞳を見つめて、つぶやくように言った。
「そうよ、患者の命を救わなければならない。それには自分の命の危険など考えていられないのよ」
岡本は叫ぶように言った。
「君たちは戦士なんだね」
「そんな言い方はしないで。あたし、正直に言って、コロナが恐いのよ」
「君だけでないよ、だれもが恐い。相手は見えないウイルスだろう。いつ、どこで感染するか全く分からない。こんなことが起こるなんて、思ってもみなかったなあ」
「ほんとうにそうね」
「暇なもんだから、ぼくはこんなことを思ったり、考えたりした」
「どんなこと?」
「人類と恐ろしい感染症との闘いは、今に始まったわけではないんだ。記録によれば百年前には、スペイン風邪が大流行して人類を震え上がらせたし、そのはるか前にはヨーロッパでペストの大流行があった。そのたびに人間は恐ろしい感染症と戦い、生き延びてきた。このようなことはぼくが言うまでもなく広く知られていることだがね。今回の新型コロナウイルスは、感染力が強く、世界の感染者の数が一億人をはるかに超え、二、三億人に達すだろうと予測する学者もいるそうなんだ。恐ろしい数だろう」
「ちょっと信じられない数だわね。世界の人口ってどのぐらいなのかしら」
「およそ七十七億かな」
「それで、どんなことを考えたの?」
岡本は話の先を促した。
「コロナの発生の原因について人はいろいろな意見を言っているんだ。例えば、ある人は地球温暖化のせいで、地球環境がおかしくなっているからなのではないかと、確かにそうかもしれないし、そうでないかも知れない。またこんな意見もある。人間が自然を壊して文明を過剰に発展させてきたからではないかと。そして天罰ではないかとひそかに思っている人もいるらしい。もしかしたら、そうかもしれないし、そうでないかも知れない。本当のことはだれにも分からない。だが、今は科学の時代。科学的に物事を考える時代なので、感染症の正体は新型コロナウイルスであると突き止められている。それでぼくはこう思ったんだ。この戦いは、人間同士が狂ったように起こす人殺し戦争とは違うんだ。もしも核戦争がおこるものならば、人類はおしまいになるけれど、コロナとの戦争は陰惨な戦争ではないんだ、人類が同胞を守るための戦いなんだ。人間が人間を殺す戦争ではなく、人間を一人でも多く救い出すために、みんなが一つになって戦っている。みんなが連帯意識をもって、このコロナ危機を乗り超えようと精魂を込めて、救助、救援している人たちが大勢いるんだ。これは素晴らしいことではないか。ぼくはそう思うと、この人たちには頭が下がる。なんとかこのコロナ危機から抜け出したい、みんながそう思い、そう願っている、自分も頑張らなければならないと、思ったよ。コロナに感染してはいけない。ぼくは自分のためだけでなく、君のためにもコロナから身を守らなければならないと考えたんだ。どう?」
「ずいぶん真面目だわね」
岡本は笑顔で言った。
「わたしも考えたわ」
「どんなこと?」
「人間が弱いということ。文明が素晴らしく発展しても、人間は強くはないし、命は脆く、はかない」
「ずいぶん悲観的な考えだな」
「もちろん、そうだけれども。病人の世話をしていると、ついそう感じてしまうのよ」
「こんな話はやめよう」
三木はそう言って、話題を変えた。
彼はビールを飲み、お寿司を摘まんだ。
「このお寿司、どう?」
「美味しいよ」
彼女はいつもより高い鮨を買ってきたのだった。
その後、二人はシューベルトの「交響曲・未完成」を、手を握りながら聞いた。二人の好きな曲であった。
岡本公子はコロナ感染症病棟に異動して、三週間ほどが経っていた。新しく入って来た看護師に混じって彼女は研修を受けた。感染症対策についての注意事項。感染患者に対する接触の仕方や自分たちが着衣しなければならない厳密な防備服のこと。医療現場に設置されている機器の取り扱い方。重症患者のいる集中治療室での細かな仕事の仕方などについての研修や勉強会が行われた。
コロナ感染症病棟での仕事は、岡本が思っていたよりもはるかにあわただしいものだった。自分の心の動きが封じ込められるような気がした。まわりの異常な、渦巻く雰囲気に呑みこまれ、独楽鼠のように動く自分があった。それは自分だけではなく、スタッフ一同がそうであった。
患者に当てられるベッドの数には限りがあった。満床になれば、重い患者でも断らなければならなかった。そんなことが話題になっても、お気の毒ねと囁くだけで、看護師にはどうすることもできなかった。
看護師はそれぞれ、自分が分担する患者を看護しなければならなかった。岡本は三人の患者を見守っていた。いずれも男性で、一人は四十代の人、あとの二人は六十代で、重症ではないが、それに近かった。コロナ感染症の患者の特に注意しなければならないのは、病状が急変することであった。大切な呼吸器である肺が菌におかされているので、知らないうちに呼吸困難に陥らないように、たえず看視しなければならないのであった。
患者が呼吸困難に陥ることがあれば、事態は一刻を争うことだ。スタッフの動きが慌ただしくなる。即刻、人工呼吸器を使わなければならない。集中治療室に運ばなければならない。ところが、器具が十分にそろっていないのだ。また、集中治療室はベッドの空きがないのだ。これが一番スタッフの頭を困惑させる問題であった。そのような医療現場の窮状が日に日に増していた。
精力的に働くことになれていた医師も、看護師も、日夜の過度の仕事で、疲労が心にも体にもしみ込んでいった。しかし、次の日になって患者に向かい合うと、スタッフ一同はいつもと変わらない精神状態を持ち直して、患者に接するのだった。
頑張り屋の岡本も、他のスタッフに負けず劣らず心をしきしめて、元気に振る舞っていた。ある時、仲間の看護師が急に過労で倒れるようなことがあった。その人は細身であるが、手際のよい活発な人であった。岡本は同情したが、自分自身の体のことも考えなければならないと思った。自分だってそうなるかもしれない。自分が今後どのくらい耐えられるか、自分に自信が持てなかった。岡本をさらに心細くしたのは、親しくしていた仲間の一人が突然退職するという話を耳にしたことだった。現場ではそんなことが起こっていた。岡本は動揺した。しかし、ここで屈してはならないと、岡本は自分を鼓舞して、この難局に貝のように耐えていた。
ところが、彼女の決意をさらに大きく揺るがすようなことが起こった。他の病棟で看護師の一人が、新型コロナウイルスに感染していることが判明したのである。そのことで院内は騒然となった。感染症病棟のスタッフ一同もPCR検査を受けることになった。たが、スタッフには陽性者がいなかったので、岡本は安心した。しかし、これまで以上に神経をとがらせるようになった。
岡本はもう一つ別の悩みを抱えていた。それは三木との関係であった。それまで内密にしていたコロナ感染症病棟に異動になったことを、岡本は三木になにげなくしゃべったことにあった。
三木はそれを聞いて、顔色を変えた。
「癌病棟ではなかったのか」
「そうなの」
「それはやばいな」
三木は嘆息するようにつぶやいた。
「そんなところにどうして回されたんだい」
「人手がたりなかったからでしょう」
「それにしても、なぜ君が選ばれなければならないんだ」
三木は声高に言った。
「わからないわ」
岡本は応えた。
岡本は異動のことを話せば、三木が心配することはわきまえているつもりであったが、ひょいと言葉に出したことを後悔した。しかし、三木がそのことに異常な反応を示したことは、さらなる驚きであった。
「君がコロナにかかったら、どうするんだい」
と言われたとき、岡本は直ぐには返す言葉が出なかった。
「そうなったら、しかたがないわね」
「困るのは、君だけではないんだ」
「それは分かっているわよ」
数分の沈黙の後、
「仕事をやめたら?」
三木はぽつりとつぶやくように言った。
「やめてどうするの」
岡本は彼の沈痛な顔を見つめた。
「別の仕事をすれば」
それはあまりにも月並みな言葉でしかなかった。この人はわたしのことをどう思っているのかしらと、彼女は少し不安になった。
岡本は職場の緊迫した状況に耐えられなくなって、何度か辞めたいと思ったりすると、そんな自分に鞭打って頑張って来たので、彼の言葉が冷ややかに感じられて、不快であった。
二人はそれ以上のことは語ることをしなかったが、二人の間に今までなかった、霧のようなものが漂ったことを、岡本は心のアンテナに感じた。
「とにかく、コロナにかからないように祈っているよ」
と、声をかけられて別れたものの、岡本の心には、一抹の不安の影を残したのであった。
彼と別れたその日の夜、岡本は部屋のソファに座って、長い間、もの思いにふけっていた。
今の看護師の仕事のことや彼とのことを改めて思いめぐらして考えた。だが、いくら考えても、解決の糸口は見つからなかった。
問題は新型コロナウイルス感染症の、世界的な発生にあるのは分かっているのだが、彼女にとってそれが恨めしいことであった。自分が感染症病棟の前線に立って働かなければならないことになるとは、全く思いもよらないことであったからだ。でも、彼女は自分をもっと深く考えてみた。自分が看護師の仕事を選んだ、そもそもの動機はなんだったのか、彼女は振り返った。その動機はまったく単純なものだった。
それは岡本が八歳の頃だった。自分を可愛がってくれていた母が乳癌になったのだった。数年後、母の病状が悪化して、母の最後の入院となった数週間、父が自分と弟を連れて、母のいる病室に見舞いに訪れていた。母は陽気で、顔立ちのよいひとで、自分はそんな母が大好きであった。ところが、その美しい母の顔がやせ細っていき、優しいほほ笑みも、しだいに苦痛になっていく、その母の姿がとても可哀想に思われて、自分は泣いていた。
そんな自分を慰め、元気づけてくれたのが一人の女の看護師であった。母よりも若い、とてもやさしい、思いやりの深い、感じのいい人であった。母もその看護師さんとは気が合っているように見えた。その人が来ると、部屋に明かりがともったようであった。少女の自分は、その看護師さんを憧れの気持ちで眺めていた。自分が看護師を志した理由の中に、その体験が心の底に種となって残っていたのだった。
そんな素朴な念願を思い浮かべて、
「そうだ、そうだわ。初心に戻ればいいんだ。そこには純な、熱情のような思いがあったはずだ」
岡本は自分に呼びかけた。
「今は自分のことよりも、感染症にかかった人たちへの思いやりの方が大事なことなんだわ」
それは看護師の基本中の、基本の心構えであった。岡本はコロナ禍の中で、その意識が薄らいでいたのだった。
岡本の心の中にあったもやもやしていたものが、一陣の風に吹きとばされたように消えていった。彼女は自分を新たに見出したような快活な気分になった。
恋人の三木が自分を心配してくれるのは有難かった。彼のやさしさが身に染みた。しかし、彼女はもう仕事のことで迷うことはなかった。コロナから逃げ出してはならないと決心したのだ。今、自分に与えられているのは感染症の人たちに、心をこめて看護することだと納得したのだった。
その夜、彼女の睡眠はいつもよりもはるかに深かく、安らかであった。
翌日、目が覚めたとき自分がいつもと違うことに岡本は気づいた。それまでずっと身にへばりつくようにあったものが洗い流されたようになくなっていた。さわやかな解放感が全身にみなぎっているようであった。しかし、その思いはそう長くは続かなかった。
彼女はコロナ禍の現実を頭に描いた時、再び不安と恐怖のようなものが彼女をとらえた。
彼女は身震いをした。しかし、もう怯むようなことはなかった。彼女は、落着き、冷静であった。
どこの病院もそれ相応に、コロナ患者を受け入れるかどうかで頭を悩ましていた。東京では一日の感染者の数が三千を超え、五千人に届くほどの増加の勢いであった。
岡本の勤める感染症病棟においても同じであった。多忙の日が続く。医師も岡本も他のスタッフも防具服を身にまとって、黙々と立ち働く毎日であった。重症者に対する細やかな対応が看護師に絶えず求められた。
そうして、一か月、また一か月と月日が過ぎて行った。岡本は自分のことを考えずに、下着に汗をにじませて看護に励んだ。
暑い夏は遠ざかり、街路樹の葉が色づき出していた。岡本は朝の通勤電車の窓から、沿線のところどころに現われてくる木々の葉の茂みに深まりいく秋を眺めていた。その時であった。何か言いようもないわびしさを感じた。そして、いつもと違う重々しい疲労感に全身が襲われたのだった。
「あら、どうしたのかしら」
彼女は心の中でつぶやいた。
彼女は二日前にも、身体のだるさを感じて、それがちょっと気にしたことがあった。
「体に異変が起こっているでは」
そう思ったとき、彼女の背筋に冷や汗がにじみ出た。
病院に着くと岡本は、臆することなく自分の体の異変を医師に話した。医師からコロナ感染症の疑いがあると指摘されて、PCR検査を受けると、その結果が陽性と出た。岡本はコロナ感染症と診断されたのだ。そのことがひそかに伝わると、地震の大きな揺れのような驚きと恐怖が、スタッフ一同の胸を襲った。だが、その心の動揺の波立ちは、すぐ収まって、再びふだんの沈着冷静な心に戻った。そして、すぐ事態の処理にとりかかった。
岡本と密に接触した者は、直ちに検査を受けることになった。その結果は全員が陰性と出たことで、深刻な事態はひとまず避けられたのが、なによりありがたかった。医師も看護師も、これまで以上に気をしきしめて、医療活動にとりかからなければならなかった。
一方、岡本は隔離病棟に入院することとなった。彼女は軽症から中症程度の症状と診断された。熱が高く、身体の節々に疲れのようなものが感じられたが、岡本はそれほどのことではなさそうだと、自己判断した。
病室は、各ベッドが適切な間隔で並べられて、カーテンで仕切られていた。そこに岡本はコロナ感染者のひとりとして、わが身を置くことになった。
彼女はここ数日間、言いようのない心の状態に落ち込んでいた。高熱でうなされる日が続いた。彼女の脳の奥では、闇夜の海が荒々しく波立っていた。夢うつつに誰かが自分に毒矢を向けて射ようとしていたので、身を隠そうともがき苦しんでいた。他方で自分への怒りの炎が、うねりとなって腹の方から込み上げてくる。その怒涛の中で彼女の意識は朦朧となり、失われていくのだった。数時間後、深い暗黒の眠りから解放されて、彼女の意識がしだいに蘇えってくる。彼女は瞬きをする。目を前後左右に動かす。息を吸い、はき出す。まだ息が苦しい。彼女の視線がなにかを探すように天井に注がれている。自分を顧みているようだ。どうしてこんなことになったのだろう、と彼女はつぶやいているようだった。
幸いなことに、岡本の病状は深刻にはならなかった。予想外に回復が速かったので、十日足らずに退院できた。その後、岡本は自宅療養を課せられた。
それは監禁されたような生活であった。実際そうであった。外出は厳禁。もちろん、他者との接触は論外である。飲食などの必需品は当局から配達されたので、食べることには心配しなかった。
しかし、生活していくうちに岡本は、自分が無人島に島流しにされたようなわびしい気に何度も悩まされた。そんなとき岡本は感染症に罹った人たちに思いを寄せるのだった。
世界中の感染者が一億人を超えている。その数の多さに驚くのだった。そして、新型コロナウイルスの猛威にさらに驚愕せずにはいられなかった。多くの感染者は今、どんな境遇にあるのだろうか。どんな生活を強いられているのだろうか。どんな気持ちで生活しているのだろうか。そう思うと胸の中がさまざまな感情で一杯になるのであった。
彼女の病状は一進一退であった。気分が良い日もあれば、すぐれない日もあった。健康になったと思い、なにかと元気に動き回った次の日は、必ずその仕返しが来た。そんな時には、終日ベッドで静かに読書したりして過ごすのだった。
格別に心が慰められたのは、宮沢賢治の童話であった。賢治の作品は高校の時に、文庫本で読んでひどく胸を打たれたものだった。その文庫本が本棚の隅っこにあったので、彼女は懐かしく思って読み始めてみた。すると妙なことにもやもやした、うっとうしい気持ちが、洗われるように消えていった。そして賢治のつくりだした童話の世界に吸い込まれていくのだった。「よだかの星」には涙が込み上げてきた。「銀河鉄道の夜」には夢のような、不思議な思いにさせられた。そして、「グスコーブドリの伝記」を読んだ時は、ブドリの数奇な運命とその勇気ある行動に深く心を揺さぶられたのだった。
賢治の作品が岡本に良薬になったようだ。縮まってへこんでしまっていた心をふくらませてくれたのである。すれきれそうになっていた精神に光が射してきて、体に活力がわき立つのを感じたのだった。
岡本の孤独な魂は賢治の魂に触れ、癒やされ、励まされた。病の力は日に日に弱まっていくにつれて、彼女の体は日に日に健康を取り戻していった。
再度PCR検査をした。異常が無いとの診断であった。岡本は安堵した。現場復帰も近いと思うと、うれしさが胸に込み上げてきた。彼女は外出して、ちょっとした買い物もできるようになった。
穏やかな小春日和の日であった。
彼女はマスクをかけて、駅前のスーパに出かけた。
部屋にこもりきりの生活が長く続いていたので、彼女の目には、外界の風光がまぶしく輝いて映った。見上げれば、雲一つない空であった。紺碧に澄みわたった空だった。それがまるで波立たない海面のように静謐であった。その底のないような色彩の深さに吸いこまれていきそうな妙な気がした。空がこんなに美しかったかと、彼女は感嘆せずにはいられなかった。
木々は地面にしっかり根を張って、たくましく生きているように感じられた。銀杏や欅やカエデなどの広葉樹は、赤や褐色に濃く変色して、大半は落ち葉となって道端に散在していた。初冬のもの静かな、落ち着いた雰囲気がまわり一帯にただよっていた。それが彼女の肌にひしひしと伝わってきた。
会う人はだれもがマスク姿で、顔をこわばらせて歩いていた。地面に孤独の足跡を残しながら歩いていた。
スーパの中は、正午前なので人ごみはなかった。買い物客が物静かに品物を選び、手にした籠に入れていた。レジのところにはいつもより少ない列ができていた。
買い物をすませた彼女は、帰りの道をわざと遠回りして、自宅に戻った。久しぶりの散歩であった。肌に汗がにじんでいた。
岡本はソファにもたれるように腰を下して軽く目を閉じた。瞼の奥に晴れやかな残像があった。下肢に疲労感を覚えたが、それがむしろ心地よく感じられるのであった。
おわり