樹木葬
鈴木 三郎助
たまたま有給休暇が取れたので、時間にせかされずに、今日は午前中の時間をたっぷり使って君に手紙を書いているところです。
二人の子供は学校に行っているし、会社勤めの妻は一時間ほど前に出かけているし、家の中にいるのはぼくひとり。邪魔するものがいないのは有難いことだ。ぼくは今、二階の書斎で、肘掛椅子に腰かけて、この前の続きを書いている。
この前の手紙で、大学時代の恩師、高橋養先生のお墓をお参りしたことを書いたが、多少書き残したこともあるので、まずはそれを書いてみます。
先生がお亡くなりになって、もう二十五年が経ているのを思うと、光陰矢の如しと、昔の人が言ったことが、しみじみと感じさせられます。先生の奥さまもお亡くなりになり、あとを継ぐ者がいなかったからでしようか、高橋家の墓には、墓石の周りに点々と雑草がはびこり、なにか寒々とした感じを受けたことについては前回書いたが、それについて君からの意外な返答に、少なからずぼくは驚かされた。なぜなら、学生の頃の君は、ぼくとちがって先生に対して、あまり好意を持っているとは思われなかったのに、そんな君がそれではぼくらが行って墓掃除をしようと言ったからです。ぼくがもっと気の利く男だったら、ついでに雑草を抜き取ることくらいはしただろうと悔やまれる。
さて話は変わります。先生の墓をお参りしたその日、特に墓地に関心があったわけではなかったが、ぼくはある墓苑を訪ねてみたのです。樹木葬という新しい墓苑。樹木葬という名前は君も聞いたことがあるだろう。その墓苑が先生の眠る墓地からそう遠くない郊外にあるというのを小耳にはさんでいた。ふとそのことが頭をかすめたこともあって、ぼくはその墓苑に足を延ばしてみました。そのときに、見たことや感じたことなどを、やや詳細に書いてみることにします。
そこはそう遠くないといっても、最寄りの駅からバスで二、三十分はかかる、所々に森林のある丘陵地のなだらかな一画に、新しく造園された墓地です。
もともと、そこはお寺であった。昔風の本堂があり、その裏は墓石の立つ墓地である。その南側のなだらかな斜面に、新しく造られたのが樹木葬の葬苑である。そこは十数か所に区画され、それぞれの区画に、小型の原っぱを思わせるグリーンの芝生がある。その中ほどに樹木が立っている。それを囲むように数十センチの小さな名が刻める金属のプレートがある。
墓石の立つ墓地とは全く雰囲気が違って、まわり全体が明るく、華やかで、カラフルな感じです。丁度、花のシーズンであった。桜の花は散りかけていたが、他の樹木が赤や白の花を咲かせている。訪れる人びとが持参してきた、色とりどりの花束が手向けられている。まるで花園なのだ。
ちょっとした広場に、木製のテーブルとイスが設置してある。それを見て、いいものだなあ、と思った。参拝者がそこに来て、休んだり、軽い食事をしたりして、寛ぎのひと時が持てるように配慮されているのに、ぼくは感心した。 ぼくはその椅子の一つに腰かけた。明るく和やかさのただよう霊園を改めて見渡した。
以前、いつだったか君と、こんな話をしたのを覚えているかい。
地方を離れて都会に人口が集中し、核家族のような世帯が、だんだん増加していくようになったら、その老後はどうなるのだろうと君が言ったことがあった。
戦後の社会改革によって、戦前の家族制度は崩れていった。以前は大家族であった。おじいちゃん、おばあちゃんも同居していた。ところが、それが父と母と子供だけの、いわゆる核家族に縮小し、マイホームと呼ばれるようになった。
仕事を求めて都会に人口が増加する。それにともない都市の郊外に次から次へと集合住宅の団地が造られていった。戦後七十年が過ぎ、子供が育ち、成人し、そして家を出ていく。若かった親たちは、今では年老いて、独居生活者が多くなっている。華やかだった団地は寒々とした光景を呈している。
こんな説明はこれぐらいにして、ぼくが君に伝えたいことは、墓参に訪れた人と知り合い、話を交わしたことだ。
ここ、新しい墓苑はどうしてこんなにも容易に、人と人が語り合えるのだろう。何気ない一言が、相手の心の窓を開いてくれたのです。人間、自分の内密を未知の人にそう容易に語れることではないのに、ここではいとも容易にそれが可能なのは、墓苑という場の不思議さなのだろうか。
墓苑には家族で訪れる人もいれば、ひとりで花を手向けにくる人もいる。男の人もいれば、女の人もいる。墓の前にひざまずき、お線香をあげ、どこか謙虚な姿勢で黙想をしている。そんな光景があちらこちらに見える。
そこにどんな方が、どんなゆかりの人が眠っているのだろうと、ぼくは勝手に空想を巡らしたりしながら、長閑な気持ちになっている。ここには、そんな雰囲気がただよっている。からっと乾いた空気が、清らかに澄んでいるように、ここにくる人の亡き人を思慕する優しい、一途な心が感じられるのだ。
故人が現われて、会話でも交わしているかのようにも思われる。そんなことを思い描いているうちに、何か親近感のような気持ちが湧き起ってくるのは妙なことだ。
そんなことを思いつつ、煙草を吹かしていると、ある男の人の姿が目に留まった。数メートル離れたところで、男の人が芝生の縁につくられた小さな墓にひざまずいて、花を手向けて、故人に何やら語りかけているように見えたのである。
ぼくはしばらくその男の様子を、まわりに気づかれないように気をつかいながら、静かに眺めていた。
水色のジャンパーに、作業着のようなズボンをはいたその人は、背は並みで、やややせ気味な感じで、歳の頃六十前後だろうか。ぼくはその顔の色と、刻まれた皺などから勝手に推測した。だが、そんなことよりもぼくの心を引いたのは、しきしまった顔、涼しげな眼差し、どこか哀しみのこもった、その男の表情であった。
その男は十数分間、そこに留まっていた。
故人と面会しているかのように会話を交わしているようだったが、それが終わったのか、彼は帰り支度を始めた。彼は頭を下げ、なにやらつぶやいた後、歩きだしてぼくのいるところの、ベンチに来て腰を下したのである。そして彼は墓の方に視線を向けたまま、ポケットから煙草を取り出して火をつけて口にくわえた。
ぼくは、その男と木造のテーブルをはさんだ位置に座っていた。ぼくはテーブルに向かって座り、彼は斜めの姿勢で椅子に腰かけていたので、彼の煙草を吸う横顔が見えた。
「よく来られるのですか」
ぼくは気軽に声をかけてみた。
すると、彼は顔をぼくの方に向けて、そうです、と言うような表情をした。いかにも実直そうな顔である。
以下は彼との交わした会話の記述です。君には退屈な話かもしれないが、ぼくには珍しい、とても印象深い話の内容だった。
「暇だから毎日のように来ています」
その返事から、彼はぼくが思っていたよりも、かなり実直な人に思われた。
「どなたなのですか」
ぼくは臆することなく訊ねた。
「女房の墓なのです。今年は女房の七回忌に当たります」
彼の語り口は落ち着いていた。
「いい奥さんでしたのでしょう」。
こんな問いかけは、余計なことと思ったが自ずとぼくの口から飛び出した。
「わたしから申すのもおかしいですが、とてもいい女房でした。亡くなられてみて、一層そう思います。わたしには出来過ぎた女房でした」
「仲がよかったんですね」
やや羨みの混じった気持ちで、ぼくは言った。
彼は腕を伸ばして、テーブルの上の灰皿に吸殻をもみつぶすと、一、二分考えるようなそぶりをしたあと、口を開いた。
「わたしには出来過ぎた女房でした。もっと可愛がってやるべきだったと、後悔しています」
「奥さんはどんな方でした」
そう訊いたのは、ぼくの好奇心だった。
このようなぼくを、君はどう思うだろうと書きながら思う。君は他人の私生活に立ち入るようなことはしないだろう。ぼくはその人が嫌がるのではないかと思った。だが、それは杞憂だった。
彼はいとも自然に、臆することなく、自分のことや妻のことを話してくれました。こんなことは世に数少ないことなので、ぼくが聞いたことをここに記します。こんなふうに彼は語り始めた。
「わたしも家内も東北の、北の外れの、田舎町で育ちました」
少し訛りのある声でした。
「わたしの家は農家でしたが、三男坊のわたしは工業高校を卒業すると、直ぐ地元の建設会社に仕事を見つけ、働きだしました。社員が五、六人くらいの会社でしたが、社長がいい人でしたので、そこで十年ほど勤めました。その間に家内と結婚しました。家内は駅前のスーパーストアの店員をしていました。わたしと四歳違いで、美人ではないが、体のしっかりした、感じのいい女で、一目ぼれではなかったけれど、好きになりました。わたしは内気な性格で、口下手な男だったので、親しい友だちもできず、独りぼっちの生活をしていました」
そう話したあと、彼は彼女と結婚するまでの、恋人同士であった時の思い出を懐かしそうに語ってくれました。その話を聞いて、ぼくは涙ぐみました。こう言うと、君は笑うかもしれない。しかし、その涙は悲しみから出たものではなかった。感動の涙だった。
君もぼくも都会育ちなので、何事も都会風に考えてしまう、料簡の狭さがあります。例えば、恋愛は男と女のかけひきだとか。恋愛は遊びのようなものだとか、そんな風に恋心を多少蔑んだ見方をするところがあります。そして、長閑な恋などは、この世から消えてなくなったと思い込んでいます。
ところが、その男の話を聞いて、牧歌的な美しい恋が存在するものだと驚きました。都会と田舎とでは吹く風が違うと、君はたぶん言うだろう。それはそうなのだが、たがいに信じあう心の美しさに、ぼくは強く心を打たれました。
いま、ぼくはこのように書いているけれども、二人の結婚後の生活は、二人が思い描いた、楽しい幸せなものではなかった。二人の愛が冷めてしまったとか、あるいは性格の違いがあらわになったとか、そんなことで夫婦の中に、ほころびが出来たというわけではなかった。
もちろん、新婚生活は幸せであった。特に彼には、好きな人と共に過ごすのは、それまでのひとり暮らしのわびしさを忘れさせた。やがて初めての子が生まれた。女の子であった。その二年後に男の双子が生まれた。これには彼も妻も驚いた。予期せずに三人の子持ちになったからです。妻は子育てのために仕事をやめざるをえなかった。
家計は苦しくなった。五人家族が生活するためには、彼の給料は余りにも少なかった。
彼はアルバイトをして家計をやりくりした。
「下の双子の児が三歳になった頃でした」彼はそう言って、話を続けた。
「勤めていた建築会社が火災を起こして、倒産してしまったのです。これには困りました。次の仕事が見つかれば、それほどのことではなかったのですが、そうはいかなかったのです。とりあえずアルバイトを掛け持ちして凌ぐことにしました。三人の子供と妻のために怠けてはいられません。その後数年間は体の許す限りいろいろな仕事に就きました。しかし、生活は少しも楽になりません。それに双子の一人が虚弱体質だったものですからよく病気をしていました。子供たちが学校に通い始めれば、またお金がかかります。子供たちにはひもじい思いをさせたくないし、ひけ目を感じさせないように、着るものや持ち物や靴も気をつかいました。嫌な思いを子供にさせたくなかったからです。これは親の見栄ではありません。親としてやらなければならないことだと思っていました。子の母である妻もそう思っていました。とても生活が苦しかった時期でした。ある時妻と語り合ったことを思い出します」
彼はそう言って、一服するように煙草に火をつけた。そして、鼻の穴から煙を出しながら、妻の眠る墓苑の青い芝生の方に視線を向けていたが、ぼくの方へ向きを変えると、話を始めた。
「ある夜のことでした。子供たちはすでに寝て、夢でも見ている時刻でした。外は弱い雨が降っていました。わたしは茶の間で会社の書類の整理をしていると、家事を終えた妻がそこに来て、いつものようにお茶を出してくれた。わたしはお茶を飲みながら、言ったのです。『いつまでこんな苦しい生活が続くのだろうかね。働いても、働いても、暮らしがよくならない。一体どうしたらいいのだろうね』そうしたら、妻は言いました。『わたしはお金がなくて、苦しいのは全然かまわないわよ。ふたりで頑張れば何とかなるから』と言いました。そんなことは嘘だろうとわたしは思ったが、妻がそう言ってくれたのが、何よりの救いでした」
「健気な奥さんだったのですね」
ぼくは胸が熱くなった。
「わたしは仕事運があまり良くなかったのです。十年余り勤めた建設会社を辞めたのを境にして、仕事運がひどくなりました。仕事先は転々と変わりました。自らそうしたわけでは、けっしてなかったのですが。勤めていた会社が倒産したとか、勤め先で人間関係のトラブルに巻き込まれたとか、そんなことがよくありました。会社が首になり、落胆して家に帰って、そのことを恐る恐る妻に告げたことも、なんどかありました。妻はわたしの話を嫌な顔を一つ見せずに、うなずきながら聞いてくれました。そして、いつもこう言って励ましてくれるのでした。
『あなたに落ち度があったのなら、ともかく、でもわたしは、あなたを責める気持ちはさらさらないわ。あなたが悪いのではなく、運が悪いだけではないのかしら。わたしはそう思います。わたしは、貧乏な暮らしには慣れています。苦しい生活でも、あなたと一緒に働いて行くなら、きっと良い日が来ると信じています。子供たちが大学に進学し、一人前になるまでは、お金がなくて苦しいのはいいのよ』と言ってくれるのでした。わたしは妻のそのような言葉に、いつも救われたような気分になりました」
ぼくは話を聞いているうちに、目頭が熱くなりました。
「こんな話をしてしまい、すみなせん。ついつい妻の話をしてしまうのです」
その人はぼくの顔を見ないように、視線をそらして言った。
「話がまだ続くのですが、話を続けてもいいでしょうか」
「ええ」
と、ぼくは相槌を打った。
この人が、妻を樹木葬にしたのは、そこにどんな事情があったのか、ぼくは知りたかったのです。
彼は、その後も安定した職業に就くことができなかった。彼の話ですと、三十五、六を過ぎると、会社の社員になることが困難で、日雇いの仕事をしながら、子供たちのために学費を稼いでいたと言う。しかし、地方の田舎町にいてもさっぱり埒があかないと、四十二の時に一大決心をして東京に出て来た。東京に行けば、もっと人間らしい暮らしができるのではないかと、若者のように夢を描いて東京に来た。そして、彼は仕事を選ばずにどんな仕事も厭わずしたと言う。生活は田舎町にいた時よりもよくなった。しかし、仕事に追われることには変わりがなかった。子供たちは大学を卒業し、それぞれに自立して、家を出ていった。
「息子たちが親元から離れて、新たな自分たちの道を行くのは、自然なことで喜ばしいことだと思っていましたが、いざそうなった時は、さすがにさびしく、もの悲しいことでした。とくに、子供たちを育てることが一つの生甲斐のように思い込んでいた妻にとっては、胸に空洞ができたように感じたようでした。ぼくは励ますように言いました。『子育てという任務は終わった、これからはぼくら二人の生活が始まる。今まで望みながらもやれなかったこともやれるようになる』妻は言いました。『あなたの言うとおりだよ。将来キャンピングカーを買って、日本全国をめぐる旅をしてみたいわね』妻は都会生活が好きでなかったようです。ぼくも住んでみて都会は肌に合わないと感じていたので、老後は郷里にでも帰って、のんびりした暮らしを、妻と送りたいと心の中で考えていました」
その人はそう言って、話を中断した。煙草でも吸うのかと、ぼくは思った。ところが、そうではなかった。彼の顔が少し歪んだように見えた。だが、すぐにもとの穏やかな表情になった。そして、話し始めた。
「ところが、妻が五十五歳になった時でした。それまで病気らしい病気をしたことのない妻が、ときどき咳をするようになったのです。その症状は風邪のせいだと思っていました。妻は医者嫌いでしたので、半年ほど放っていました。それがいけなかったのです。実は、肺癌にかかっていたのです。しかも、末期の癌でした。直ぐ入院させましたが、余命三か月と宣告されました。妻の容体は日に日に悪くなり、やせ細って行きました。自分の命が助からないことを、妻は自覚していました。亡くなる十日ほど前でした。わたしにこんなことを言いました。『あなたには申し訳ないけど、わたしもうだめだわ。わたしの命 はあといくばくもないわ。もっとこの世の息が欲しいが、だめだわ。あなたには感謝しています。子供たちを愛してきたことが何よりの幸福でした。それでお願いですが、わたしのお骨は、粉にして太平洋の海に散布してもらいたいの。わたしには墓などいりませんから」そう言って、妻は十日後に息をひき取りました」
「奥さんの遺言どおりになさらなかったのですか」
ぼくは訊いた。
「そのことに関しては、子供たちとも相談しましたが、何も残らなくなるから、海への散骨は無理だと考えました。そこでここの樹木葬の墓苑を見つけました、妻は今年七周忌です。わたしは毎週一回、ここに来ては妻と会い、いつも会話を交わすのです」
樹木葬には、人々のそれぞれの思い出が刻みこまれているのを知りました。
そのことを君にぜひとも知ってもらいたかったのです。人生にこのような出逢いということがあるのですね。
長い手紙になったが、ぜひ君に伝えたかったのです。
お体に気を付けてください。
ではまた、よろしく。
(おわり)