昔の広島
太田川の川のせせらぎは清く静かでした。川底を覗くと黒い石ころや瓦が見えていました。川の両岸にはバラックの建物の裏に洗濯物が見えていました。川にかかる路面電車に乗ると眠そうな大人が座っていました。おじさんが顔をあげると顔の半分が潰れていました。電車の窓からは大きなガラス窓の向こうからのどかで緩やかな明るい日差しがさしていました。そしてその向こうには元の広島産業会館、原爆ドームが見えました。その周りの緑の木々には夏の蝉が泣いていました。
そういえば私の父の腕には白い斑点があって普段は隠していました。
私はそれが何だったのか、息子に綴ったあの日の出来事で本当のことを知りました。
あの日広島の空は青かったそうです。広島の街の人はみんなその空を見上げていたそうです。
その日父は田舎の村からバスで広島の街に戻っていたそうです。
父は市内の中学の宿舎にいたそうです。その日の前日に年下の同郷の方がどうしても帰りたいとせがんだので自分が責任者になるので許してやるように学校の許可を取って故郷に戻って一晩だけ過ごして翌朝嫌がる下級生の腕を掴んで学校に帰って学校に戻り戦時下の地方都市でよく見られた学徒動員の仕事で広島駅の南口の方で家屋解体の仕事を手伝っていたそうです。その時父も下級生も市内の誰もが見たピカドンという音を聴き閃光を体に感じたに違いありません。父は気がついたら元いたところから数十メートル飛ばされて下級生の姿が見え無くなっていたので慌てて周りを見てその姿を探したようです。
父は腕から血が流れているのに気づいて驚いたようですが、父はようやく下級生を見つけてに近づいて声をかけると黙って動かなかったそうです。父はしばらく体を揺すったようでしたが息を引き返すことはなかったそうです。父は黙ってその場で手を合わせるしかなかったようです。父は周りを見ても人はみんな倒れたまま動かないのでどうしようかと唖然と突っ立っていたのだと思います。引率の将校も倒れていたので父は自分が学校に知らせるしかないので60キロ離れた廿日市の連絡所に向かうしかないと思い西に歩き始めたそうです。その時父は市内から燃え盛る炎を見て呆然としていたのではないかと思います。他の証言に多く残されているように、皮膚が全身焦げて爛れ落ちて腕をだらりと前に下ろして歩く人が彷徨っていた時間でした。父は道すがら何を思っていたのか後年原稿用紙に鉛筆でしっかりとその日の行動を記録していました。私はそれを見る以前に祖父が中国大陸の戦地で記録した黒い手帳を読んで日本が中国大陸で殺戮を確実に行なっていたことを知り私がその記憶のかけらを背負って行かなければいけないことに戸惑っていた時のことでした。ですから原爆の投下は簡単な歴史として語れないものとも思いました。その頃母が時々言っていた、あなたは人類のモルモットということの意味の深さはまだわかっていませんでした。私は高校を出て初めて平和記念館で当時のことを目の当たりに見てもっと色々と知らなければと思ったのでした。
私は夏にはいつも思い出します。父がその日のことを話してなかったことと広島のだるい日差しとコンクリートの道の暑さです。
私はあるとき父が書いたその日の様子を読んだことについて初めて打ち明けてもっと詳しくその日のことを聞いて初めて父が語ってくれたことがありました。父が命が助かったのは比治山の農家のおかげと語ってくれました、私は初めて父はその日かなりの時間を歩いてようやく横川のバスの運転手に助けられて故郷に戻ることができたのを知ったのです。
私はある夏父がその日のことを原稿用紙にしっかりした文字でしっかり記録を書いている原稿用紙を偶然見つけその後何回か父に当日の広島のことを聞きましたが「お前の同い年の子供も白血病で無くなっているはずだと一言私に言ってくれました。その後は母は私に何度も「お前は人類のモルモット」だというだけでした。
まさか私が核のことを自ら危険にさらされると日が現実なるとは思ってなかったのですが核は今現在も世界の至る所で脅威と恩恵をもたらしているのです。
今も思うのですがロシアもアメリカも核の本当の馬鹿らしさがわからないまま精神を病んでるのだと思っているのです。世界のどこかで目覚める時が来てもいいのでは無いかと思っているのですが、もう二度と人間がモルモットになってはいけないと私は思うのです。
父はその後平和教育のためにその日のことを綴った文章が載る会報を送ってきました。学校の担任の先生はそれを貴重に思ったらしく妻は一冊学校に寄贈したようですが子供達の未来はきっと明るい笑顔に溢れた平和な世界を築いてくれることを切に願っています。
私はこれからも広島の気持ちを大事に伝えたいと思っていおます。「安らかにお休みくださいい、繰り返しませんから」(原爆ドーム記念碑)と。
2022/11/8