日本における先祖観の研究―古来 の先祖観とその変容―
日本における先祖観の研究―古来 の先祖観とその変容―
ロバート・J・スミスは『現代日本の祖先崇拝―文化人類学からのアプローチ』(前山隆訳、お茶の水書房、一九九六年新版)において、位牌調査に基づき、戦後家族形態の変化により、都市の家族では供養の形態が家の先祖をまつるあり方から近年の死者への愛情表現のあり方へと移行してきていることを指摘しているが、現在、供養の形態の変化に伴い、かつて行われてきた祖先祭祀が顧みられなくなっている傾向がある。しかしながら、祖先祭祀には先祖を大切にするという先祖観があり、その意味をあらためて問いなおす必要があるのではないか。このような疑問から、日本における先祖観をあらためて考察するべく本研究を立ち上げるに至った。
本研究は、戦後の家族形態の変化による先祖に対する意識の変化、各地で行われている先祖供養の行事への過疎による影響、放射性物質の影響により代々の土地から離散せざるを得ない状況に鑑み、日本における先祖のあり方(家にまつわる先祖、共同体における集合的存在としての祖霊)を考察し、現代日本の都市生活において失われつつある先祖とのつながりをあらためて問いなおすことを目的とする。研究のあり方としては、日本古来伝えられてきた先祖観および霊魂観を把握し、また他界観として、先祖の居所の観念を、浄土との関連から探究する。そして、現代日本の先祖観のあり方を北方民族の祖霊観・南方の祖霊観との比較、古来の先祖観との比較、地域社会における先祖供養のあり方から理解する。
研究スタッフ・役割分担は次のとおりである。
研究代表者 役割分担
中里 巧 研究員 研究の総括 北方民族の祖霊信仰を通じての日本の先祖観の把握
研究分担者 役割分担
菊地義裕 研究員 『万葉集』を中心とした上代文学における霊魂観
原田香織 研究員 謡曲にみる霊魂観
川又俊則 客員研究員 地域社会における先祖供養の考察
大鹿勝之 客員研究員 先祖の居所としての常世の研究
次に、今年度の研究経過を報告する。
まず平成二十六年五月三十一日に打合会を開催。出席した研究代表者・研究分担者は、研究分野におけるテーマと研究計画について説明し、相互に研究内容の確認を行った。また、パネルディスカッションの日程と担当者について協議した。
各研究者の研究の概要は以下の通りである。
中里は現代における先祖観の変容に関し、現代に通じる古来の先祖観のリアリティについて、他界と現世とが離反した現代の状況を批判したエンデ(Michael Ende)の考察をもとに探求し、エンデの資料が展示されている、黒姫童話館で、エンデの手紙の調査を行った。
菊地は、「古代における先祖意識」を念頭に、「奈良朝の氏族における先祖意識」を直接的なテーマとして研究を展開している。主たる考察対象は『万葉集』の大伴家持の歌で、①『万葉集』巻18所収の「陸奥国より金(くがね)を出だす詔書を賀(ほ)く歌」(四〇九四~四〇九七)、②巻20所収の「族(うがら)を諭す歌」(四四六五~四四六七)である。いずれも、家持が大伴氏の氏族伝統を前面に押し出して、大伴氏の先祖の顕彰や氏の伝統の継承を主題にして詠まれた作品である。①には「人の子は祖(おや)の名絶たず」(四〇九四)、②には「祖の名絶つな」(四四六五)と、子孫は先祖の「名」を絶やしてはならず、その「名」を継ぐべきものとしてうたわれる。また、①には関連して先祖の墓所を顕彰すべきことがうたわれる。これらの作品は、先祖意識が色濃く示される点に特色があり、本年度の研究では、キーワードとなる「祖の名」(祖名)に注目し、その内容および祖名継承の論理の検討に力点を置いて、用例等関係資料の調査を進める一方、万葉集研究・古代史研究・法制史研究にわたる、各種の先行研究の精査を続けている。原田は、能楽における先祖意識と霊魂観について、能『山姥』を中心に研究を進めた。『山姥』は、山姥の山巡りの曲舞で名声を得た、京都で百万山姥と仇名されていた女芸人が、善光寺参詣の旅の途中、上路(現在の新潟県糸魚川市大字上路)で真の山姥に出会う話だが、京都、上路(山姥の里)、安曇野地区、善光寺を調査し、山姥伝承と実際の地理との相関を確認し、京都から日本海、信州にかけての信仰圏の考察を行った。
川又は、高齢化・人口減少が進む過疎地域において、儀礼としての先祖供養が困難な檀信徒たちに対して、どのような創意工夫をして寺院側が対応しているのか、三重県下の過疎地域の寺院で調査を行った。七月に実施した熊野市紀和町調査では「虫送り」行事をムラおこしとして十年継続し、定着している様子を見ると同時に、熊野市木本町の寺院群において、墓参が頻繁に行われている様子を見た。また、九月に実施した尾鷲市や南牟婁郡紀北町紀伊長島区の墓地でも同様に参拝者が見られ、寺院での住職、教会の牧師インタビューから、檀家・信者らの若い世代へのアプローチも見られた。しかし、人口減少は続き、尾鷲市須賀利地区などでは住居の半数が空き家となっており、まさに、「限界集落」化していく状況のなかで今後の維持はほぼ不可能に近い現実が見られた。すなわち、現住高齢者たちは「先祖供養」を丁寧に実修しているものの、その次の世代の多くは同地にはおらず、身体の自由を失うに至る高齢者たちも同地には住むことができない。したがって、先祖供養は現在ギリギリのところで継続していると見なせることが再確認された。そして、十一月には度会郡南伊勢町で、寺院の住職へのインタビューから地域に対する取り組みを確認し、南伊勢町宿田曽一帯で開催される神祭港まつりの調査を通じて、地域住民の祭りに対する姿勢を把握した。
大鹿は、『日本史』で知られるルイス・フロイスが一五六五年二月二十日付のシナおよびインドのイエズス会の司祭および修道士にしたためた書簡に記されている、伊予の堀江で行われた補陀落渡海について、愛媛県松山市堀江町の海岸、周辺の四国八十八所を調査し、また、補陀落山の山号を戴く香川県の長尾寺、志度寺を訪れ、入水という形をとった伊予堀江での補陀落渡海において目指された浄土、補陀落と、補陀落と比定される場所のあり方を検討し、常世信仰と補陀落渡海の関連性から、補陀落と常世の位置について研究を進め、先祖の居所としての常世について考察している。
以上の各研究者の研究は、研究者間で共同討議を重ね、相互に検討されている。
各研究者の研究成果については、公開のパネルディスカッションを開催して、各研究者の発表とパネルディスカッションを行っている。
平成二十六年度は、平成二十六年十一月二十九日および十二月十三日に、公開のパネルディスカッションを開催した。
公開講演会
平成二十七年一月二十四日に、サレジオ工業高等専門学校准教授の山舘順氏を講演者に招き、「祖霊信仰研究の変遷」という題目で公開講演会を開催した。
以下に平成二十六年度に行われた、研究調査、およびパネルディスカッション、公開講演会の概要を示す。
熊野市紀和町および熊野市駅周辺の寺院・神社等の調査、丸山千枚田「虫送り」行事調査、参加者インタビュー
川又 俊則 客員研究員
調査日 平成二十六年七月五日~七月六日
調査地 三重県熊野市紀和町、三重県熊野市木本町
七月五日、紀和町小栗須・大栗須の入鹿八幡宮、曹洞宗慈雲寺、金光教入鹿教会、地区墓地、および同町小川口の地区墓地を見学。神社・寺院はきれいに整備され、参詣者が見られた。地区墓地には墓参者が週一回や毎日通っている。入鹿教会では教会長肥田正男氏と面会し、同氏の約三十年の活動や、同教会の現況や先祖祭祀の実態をお伺いした。同氏はスクールガードなど宗教外の活動も地域住民として行っており、子どもたちを地域で育てる意識が強いことをうかがった。
同日夜、丸山千枚田で復活実施されている「虫送り」行事を見学。熊野古道世界遺産登録十周年を記念した花火もあることから、地方メディアの取材や、県内各地を始め和歌山等隣県からも多数の見学者、アマチュアカメラマン、行事参加者(棚田オーナー等)がいた。地元の入鹿小学校・中学校児童生徒も「虫送り殿のお通りだい」とのかけ声と提灯で練り歩き、豊作を願っていた。このような地元行事を通じ郷土愛の醸成を目指している様子を確認した。見学者にはかつて自らが体験した大きな松明を持って行ったムラ行事とは異なり、安全に配慮しイベント化された同行事を否定的に見る向きもあったが、約一千ある棚田一つ一つにボランティア参加者が小さな灯明を立て、幻想的な景色にたいへん喜ぶ人もいた。今回は夕方からの雨のため、行事は全体的に三十分ほど早く進行。
七月六日。熊野市駅周辺の神社・寺院を見学。昼過ぎから市民会館にて世界遺産登録十周年記念式典・関連行事が行われ、「餅まき」会場の寺院もあり、街全体が準備中の様相だった。そんな中でも、五つの寺院に墓参者が個々あり、先祖供養を大事にしている檀家たちの行動を見てとれた。二つの神社もきれいに整備され、熊野古道の散策者が途中で参詣している様子もあった。
人口減少が進む中、観光イベント等での「ムラおこし」を志しつつ、地元在住の人びとは、従来の先祖供養を維持し、それを次世代に継承しようとする実態を確認できた。
ミヒャエル=エンデの資料調査
中里 巧 研究員
期間 平成二十六年九月一日~九月三日
調査地 黒姫童話館(長野県上水内郡信濃町黒姫高原)
九月一日から九月三日まで、下記の通り黒姫童話館にてミヒャエル=エンデの私文書資料のうち、一九七九~一九八二年までのエンデが書き送った手紙を、子細に精読し、調査した。
九月一日:一九七九~一九八〇年の手紙を精読した。
午前十一時過ぎに黒姫童話館に到着し、学芸員に挨拶等をして、午後五時前までほぼ休みなく、精読した。黒姫童話館には公的機関に保存されているミヒャエル=エンデの大半の資料が保管されており、手紙資料は基本的にコピーされ、ファイル化されている。オリジナルは別個に保管されている。手紙コピーは、一年ごとにファイル化されており、さらにそれぞれのファイルは、プライベートと仕事関連というふうに、区別されている。プライベート資料は大半が、子どもたちからの感想や質問に対する返事の手紙であり、仕事関連は、朗読会・出版社とのやりとり・友人への返事などである。重要な部分はすべてノートした。子どもたちからの質問に対する返答の手紙が、エンデのテキスト解釈上きわめて有益である。
九月二日:午前十時頃から午後五時前まで、ほぼ休みなく、精読と調査をおこなった。
手紙は一九八一年のものであり、やはり子どもたちへの返答の手紙が、エンデ思想解釈上、きわめて有益である。とりわけ、魔法・想像力をめぐる理解の要所が明快である。エンデ展示室にあるエンデの著作とも対照しながら、手紙を読み進めて、ノートした。
九月三日:午前十時頃より、午後三時前までほぼ休みなく調査した。一九八二年まで手紙の調査を完了した。
重要な部分は、すべてノートしている。写真撮影やコピーが許されないため、また、その代わりに、自筆でノートすることは許されているためである。手紙は、主としてドイツ語であり、たまにイタリア語である。ドイツ語は、美しい文体であり、読みやすい。イタリア語は私自身がまったくできないため、飛ばしている。エンデの死生観・霊性・精神性・宗教性など、多岐にわたり、まことに有益な成果を得ることができた。
研究調査活動
伊予国堀江(愛媛県松山市堀江町)で行われたとされる補陀落渡海に関する、地勢や風景、周辺の調査、および観音浄土として補陀落山の山号を戴く長尾寺・志度寺の調査
大鹿 勝之 客員研究員
期間 平成二十六年九月五日~九月七日
調査地 松山市立図書館、円明寺、松山市堀江町、長尾寺、志度寺ルイス・フロイスの一五六五年二月二十日付の書簡において、伊予の堀江で行われた補陀落渡海の模様が記されている。男性六名と女性二名が沖に漕ぎ出て入水したことが記されているが、この書簡に示されている行為について、愛媛県松山市堀江町の海岸、周辺の四国八十八所を訪ね、また、補陀落山の山号を戴く香川県の長尾寺、志度寺を見て回った。
九月五日、松山市立中央図書館で『伊予史談』などの資料を調べる。
九月六日、四国八十八所第五十三番札所の円明寺、第五十二番札所の太山寺、堀江町の海岸を訪ねる。円明寺(松山市和気町)は天平年間(七三〇頃)に聖武天皇の勅願で行基が勝岡の地(松山市勝岡町)に開創、後に兵火によって荒廃したが、寛永年間(一六二四~一六四三)に現在の地に再興されたと伝えられている。本尊は阿弥陀如来。マリア観音とおぼしき像が刻まれているキリシタン灯籠がある。また、太山寺(松山市太山寺町)を訪ねた。本尊は十一面観音。太山寺には、真野長者という富者が海難に遭って観音に祈ると、山上より光明が輝いて難を逃れることができたが、その山上には観音像があり、そこに一夜で堂を建立したという伝承が伝えられていて、観音の海難救済という観音信仰がみられる。その後、堀江町の海岸に向かう。海岸から海を見渡すと、沖合は茫洋たる様相を呈していた。補陀落渡海の出帆地として知られる那智の浜や室戸・足摺岬は遙かな海の風景が見られるが、それに共通する風景のあり方をしていた。
九月七日、第八十七番札所の長尾寺(香川県さぬき市長尾西)、第八十六番札所の志度寺(さぬき市志度)に赴く。「補陀落山長尾寺略縁起」には、行基が聖観音菩薩像を彫刻して安置、元禄二年(一六八九)、補陀落山長尾寺観音院と号すとある。「志度寺略縁起」には、志度浦に流れ着いた木を仏師が十一面観音に刻んだところ、虚空から「補陀洛の観音やまします」と呼ぶ音が聞こえ、その後堂を建立して像を安置した伝承が記されている。
補陀落(補陀洛)山とは梵語Potalaka の音写で、観世音(観音)菩薩の居処を表す。日本には補陀落山に比定されているところが各地にあるが、その比定された補陀落山と補陀落渡海との関係、また、観音信仰と補陀落渡海との関係についてはまだまだ検討・考察していく必要がある。しかしながら、今回の調査で実地に見て回ることができたことは大きな収穫であった。
三重県尾鷲市および北牟婁郡紀北町の寺院・教会の調査、住職・牧師へのインタビュー
川又 俊則 客員研究員
調査日 平成二十六年九月八日~九月九日
調査地 日本基督教団尾鷲教会、曹洞宗善光寺、曹洞宗普済寺、日
本基督教団紀伊長島教日本基督教団尾鷲教会鈴木恵子牧師より尾鷲市の現況、および、同教会の信者の様子をうかがう。人口減少の状況が続く同市では、若年層の定着が積年の課題であり、保育園等の統合も進んでいる実態を理解した。同時に、同教会における鈴木牧師の取り組みを確認した。紀北町曹洞宗善光寺にて牧野正人住職より、同寺院の檀家および紀北町海山地区の実態をうかがう。同寺院へ着任し六年目となる牧野住職の東紀州地区他住職たちと連携しながら、年中行事の実施、坐禅や法話などの従来の取り組みを深化させるばかりではなく、地域住民のコミュニティ機能を発現する寺院としての新たな活動(寺カフェ、サロン、コンサートなど)をうかがった。少子化のなか、地域子どもたちが同寺院に来て親しんでいる様子を理解した。尾鷲市須賀利町曹洞宗普済寺にて牧野明徳住職より、同地域の実態をうかがう。すでに半数近くが空き家となった同地域で、同寺院は、高齢者たちの生きがいとしてだけでなく、文化財的存在として三重県内・関西・関東からの来訪者を受け入れ、同地の歴史などを語り継ぐ同住職の活動実態を確認した。葬祭については葬儀社中心の実態がなかで、丁寧な法要も行なっている様子。ただし、小中学生がいない同地域の今後の行く末がたいへん心配であるとのこと。
尾鷲市の日蓮宗妙長寺で住職夫妻に挨拶し、今後の調査依頼を快諾していただく。日本基督教団紀伊長島教会山口英希牧師に、同教会所属信者たちの動向と同教会の近況をうかがう。教会墓地を備えている同教会では信仰を守る地域住民の様子を確認した。
尾鷲市および紀北町紀伊長島地区の墓地を見学し、清掃がなされ供花などの様子から、墓参を熱心に行う地域住民の様子を改めて確認した。同時に同地の幾つかの神社も見学したが、平日にもかかわらず、参拝者が何人もおり、神社・寺院を問わず、同地域の篤信者の存在を確認した。
能『山姥』の舞台となった地域の調査
原田 香織 研究員
期間 平成二十六年十一月一日~十一月三日
調査地 京都市内、新潟県糸魚川市大字上路、善光寺
日本の地形と地域社会と墓所、先祖観から導き出される地獄極楽の観念について考察するため、今回は能『山姥』の舞台となった地域の調査を行った。『山姥』は山姥伝承の広がる層と実際の地理が二重にかさなり、観念体系としての地誌と伝承形成がある。京都を出発し山伏修験道のルートでもある日本海側から、上路(山姥の里)(新潟県糸魚川市大字上路)を経由し長野の善光寺を踏査した。
十一月一日(土)東京出発、京都着、嵯峨野「清涼寺」、女芸能者である百万山姥は、京都嵯峨野の清涼寺の百万であるが、まずはこの地域を調査し、作品の背景である近江八景、琵琶湖を踏査した。
十一月二日(日)再び京都へ戻り富山へ移動する。上路(山姥の里)(新潟県糸魚川市大字上路)までの途上は『平家物語』などに登場する「倶梨伽羅峠」、地獄の描写がされる「砺波山」を踏査し、「親不知・子不知」の難所を通った。現在では舗装道路であるが、当時の景観は道から調査すること可能である。運悪く道路工事が多く山姥の碑や山姥神社のあたりまで入りにくい環境になっていたが、無事にたどりつき山姥神社と十二社と碑と地形の確認を行った。
十一月三日(月)糸魚川から「白馬」経由で長野へ向かう。安曇野地区は神社の神霊分祀が多い。飯森神社・神明社・城嶺神社・子安神社・青鬼神社・菅神社・白馬村護國神社・北野社等を確認した。
作品中地獄の描写となっている場所は、実際に自然が厳しく気候も景観も荒々しいが、そこを抜けると、温暖な自然が広がるという体であり、姫川等は優美であった。山脈沿いは場所ごとに景観が異なり、記紀神話にある日本の神話的風景から、神社と山岳地帯を調査しつつ「中世文学の一大信仰圏でもある「善光寺」へ到着する。善光寺の内陣は極楽浄土ということで、戒壇めぐりをして今回の調査を終え、東京に帰着した。
以上、謡曲『山姥』を通して、京都から日本海文化圏は、まだ発見されるべき民俗事項が多くあるが、特に新潟から長野にかけては、より古代神話、古代の日本人の思想にちかい信仰圏が形成されていたことが理解できた。
三重県度会郡南伊勢町の住職・住民等へのインタビュー、度会郡南伊勢町宿田曽一帯で開催される神祭港まつりの調査
川又 俊則 客員研究員
調査日 平成二十六年十一月七日~十一月八日
調査地 三重県度会郡南伊勢町五ケ所浦、三重県度会郡南伊勢町宿田曽
南伊勢町五ケ所浦にて、曹洞宗正泉寺住職中世古一芳氏、前住職祥道氏へのインタビュー。檀家は旧農家が多い(現在は兼業や若い世代は他市勤務等)。各年中行事を実施し、婦人会旅行も二年に一度行うなど檀家とのつながりを大事にし、住職夫人は劇団ぽんぽこ(小学生の人形劇団)を主宰し三十年以上活動し、住職は愛洲氏顕彰祭・剣祖祭実行委員会事務局も務め、藤見の会(山門脇に藤棚を作り、四月下旬に地域の人びとで集う会、今年七回目)も実施するなど、同寺院は地域ネットワークの中心にもなっていた。墓参等を欠かさぬ檀家も多数いる一方、近年、葬後儀礼の簡略化傾向もあり、墓じまい相談もあるとの現況もうかがった。今回同寺をご紹介いただいた浄土真宗本願寺派医王寺住職藤沢真勝氏からは、同寺院では葬後儀礼の簡略化傾向はないと宗派による違いもお教えいただいた。詳細は、後日調査でと快諾いただいた。同寺院および隣にある臨済宗青龍寺も見学。 夜十八時半~二十時まで宿浦・田曽浦で宵宮祭。両地区から八柱神社までそれぞれ提灯行列。提灯に飾られた山鉾の後を、各辻で待機していた住民が加わって歩き、八柱神社に集まり、お祓い。その後、旧小学校体育館で前夜祭があり、なぶら(魚の群れ)太鼓、南伊勢ソイヤ節、宿田浦音頭等が披露された。翌八日、安全・繁栄を祈願する「神祭・第五十八回港まつり(秋祭り)」を見学。九時~十時まで宿浦(漁協前広場)にて、十時~十一時まで田曽浦(漁村センター前)にて、それぞれ、なぶら太鼓、保育園児による神輿・踊りの披露があった。その後、両地区の寺院(海禅寺・慈眼寺)および隣接する墓地を見学(住民たちはお祭りの日であり、墓地にはいなかった)。帰途バス時間の都合上、午後一時四十五分、三時十五分からそれぞれ行なわれる小中学生・女・大人神輿等は見学できなかったが、その準備の様子を見て、地区住民たちの祭りに対する思いの強さを確認した。
ミヒャエル=エンデの私文書を中心とした資料調査
中里 巧 研究員
期間 平成二十六年十一月二十三日~十一月二十四日
調査地 黒姫童話館(長野県上水内郡信濃町黒姫高原)
十一月二十三日日曜日:二十二日夜半長野県北部震度六強の地震のため、新幹線・信越本線が全面運休したので、二十三日の出張が危ぶまれたが、二十三日は新幹線・信越本線ともに、予定どおりに運行し、黒姫童話館へ、予定どおり黒姫駅に到着することができた。午前十一時半過ぎに黒姫童話館に着き、担当職員に挨拶を済ませて、一九八二年のエンデ自身の手紙(すべてドイツ語)を読み始める。二十三日の作業で、一九八二年は読了して、一九八三年へ読み進めることができた。地震について職員の方に聞いたところ、かなりの揺れであり、道によってはアスファルトが盛り上がったところもあるとのことだった。また、学芸員の山原さんともお会いしたが、月曜日は、地震後の救済活動などに派遣されるとのことで、月曜日に調べる資料についても、あらじめお伝えして、日曜日中に準備しておいていただくことにした。重要な箇所はすべて、ノートに手書きして写した。写真撮影やコピーは全面禁止されているためもあり、ノート記録が中心となる。マルケスに対する評価やエンデ自身との文学理解の違いなどが記述されている手紙があり、大変参考になる。また、往復書簡という別ファイルがあることも、職員の方から伺い、閲覧した。往復書簡については後日、調査することにする。閉館は午後五時であり、職員の方の片付ける時間を考慮して、午後四時四十分頃に作業を終える。
十一月二十四日月曜日:二十四日月曜日は、一九八三年の手紙を読み進める。NO.20近辺まで読み進めた。すべてドイツ語である。エンデが筋金入りのキリスト教信徒であるというエンデ自身の言葉や、キリスト教信仰についてはキルケゴールの著作を読むように薦めている文面を発見する。これまであまり知られていなかったエンデのキリスト教理解が手紙ではまれに記述されており、ひとつの大きな発見と思う。パネルディスカッション
平成二十六年十一月二十九日 東洋大学白山キャンパス 五三〇九教室
発表者
大鹿 勝之 客員研究員
川又 俊則 客員研究員
中里 巧 研究員
研究発表 常世と海中の浄土 ―補陀落渡海と常世―
大鹿 勝之 客員研究員
〔発表要旨〕フロイスの一五六五年二月二十日付の書簡において、伊予の堀江で行われた補陀落渡海、男性六名と女性二名が沖に漕ぎ出て入水した模様が記されている。彼らは数日前から勧進をして歩き、勧進が終わると、親類縁者に別れを告げ、一艘の船に乗り込む。彼らは頸をはじめ、腕、腰、脛、足に大きな石を縛り付け、沖合に出たところ、一人ずつ海の底へ身を投じる。
日葡辞書の“Fudaracu”(補陀落)の項には、異教徒が南国にあると言っている観音の天国、“Fudaracuni vataru”(補陀落に渡る)の項には、坊主が上述の天国に行くために、石を積んだ船に乗り込み、その船から身を投じることが書かれていて、補陀落浄土に行くための入水行為が補陀落に渡ることとして解されているが、このような行為はただの宗教的な熱狂として片付けることができるのだろうか。堺市発の一五六二年のヴィレラ書簡には、欣求されている天国は海底にあり、そこには観音と称する聖人がいることが記されている。このように海底に観音浄土があるとされ、そこに向かって入水するのであるならば、目指すべき浄土が観念されていたわけで、ただの宗教的な熱狂の所産として、フロイスが記した補陀落渡海を理解することはできない。
では、海中の浄土についての観念はどのように形成されたのだろうか。補陀落渡海には常世信仰との習合が指摘されているが、常世とは、この世に豊饒と幸福をもたらす国であり、死者の赴く国であると理解されている。この常世について、浦島伝説についていえば、『万葉集』巻第九水江の浦島子を詠む一首において常世に至る様、『丹後風土記』逸文において描かれる水江の浦の嶼子が常世(「蓬とこよのくに山」)に行く様には、常世が海中にあることは示されていない。浦島が亀に連れられてゆく世界を竜宮とするのは中世の『御伽草子』以降に見られる形態であることが指摘されているが(金沢英之「平安期における竜宮―『三宝絵』精進波羅蜜の例話を中心に―」、『比較文化論叢(札幌大学文化学部紀要)』二一)、『御伽草子』後期の作品に到って竜宮の存在が海底であることが確立するといわれている(竹田旦『東アジアの比較民俗論考―龍宮・家族・村落をめぐって―』)。
常世と同一のものとして語ることには問題があるが、『日本書紀』巻第二の、火闌降命と彦火火出見尊、豊玉姫について述べられているところでは、無目籠を作って彦火火出見尊を籠の中に入れて、海に沈み、美しい浜辺があるということが語られている。そこにおいて、海中の世界を浮かべることができるが、彦火火出見尊と豊玉姫が契りを結び、身ごもった豊玉姫がお産の時に覗かないようにといったにもかかわらず、彦火火出見尊が覗いてしまったところ、豊玉姫はお産の時に龍に化身していたと述べられているところで、谷川士清は『日本書紀通證』七で、豊玉姫が龍に化身していた箇所に、『大唐西域記』の藍勃盧山嶺龍池の記事との類似性を指摘している。このことについてはなお検討する必要があるが、綿津見宮の世界の描写は仏教の影響を受けていることも考えられる。そして、竜宮という観念が『法華経』に由来しているとするならば、そこから海中の観音浄土の観念が形成されていったと考えることもできる。
また本発表では、龍燈信仰について取り上げ、龍燈信仰についての説明と霊物出現譚から、観音、竜宮、補陀落の関係について検討した。
研究発表 第二の人生としての住職 ―三重県の事例より―
川又 俊則 客員研究員
〔発表要旨〕他職で活躍したのち、セカンドキャリアとして住職を選んだ人がいる。彼らは着任した寺院で、年中行事を行い、個人や家族の悩みに応じ、葬式や年回法要をつとめている。それ以前のキャリ
アを活かし、僧侶として懸命に努力を続ける姿がある。本報告は、三
重県各地での宗教調査で出会った住職の例から、超高齢社会のなかで
見出される先祖供養に関わる人びとのある側面を描いた。
在家出身の方は、継ぐ寺院の檀家から請われ、自らの決断で前職を
辞め、住職となった。住職資格を得る研修等に、前職のときから準備
し、家族の反対も説得し、僧侶となった。寺院出身の方は、後継まで
他職に就いていた。それまで棚経等、何らかの形で寺院と関わってい
た。寺院出身者で東京・大阪等で働いていた人が定年前後に戻る「U
ターン住職」は、三重県内の調査で何人もいた。檀家の立場で考えれ
ば、寺院や地域住民をよく知っている人に後継者になってもらいたい
思いもあろう。
他職を経験した高齢宗教指導者は、他宗教でも活躍している。全国
紙では、商社マンから転身したある牧師が紹介され、筆者自身の調査
でも、「××さんは会社員を辞め、神学校を経て牧師になった」、「○○さんは公務員として務めた後、神職の資格を得た」等の例はよく耳
にした。宗教界以外の世界を知る社会経験豊富な高齢宗教者が、外部
的視点を導入し、多様なネットワークを活かして内部を活性化させ、
高い事務処理能力を発揮し、法人責任者として信者・檀家等からの期
待に応えている様子がうかがえた。檀家・信者等の、多様な要求すべ
てに応じるのは困難だろうが、できるかぎりの対応は宗教指導者とし
て目指すべきところでもあろう。
これ以外に、今年度の調査概況一部も、写真にて紹介した。「熊野
市紀和町・木本町」「尾鷲市・北牟婁郡紀北町」「南伊勢町五ケ所浦・
宿浦・田曽浦」である。地
域住民がムラ活性化のため
に様々な試み(虫送り、み
なと祭り他)をなしてい
る。転出者への帰省を促す
ものあれば、外部から新た
な観光者を呼ぶものもあ
る。しかし各地域で人口減
少の流れは止まらず、現
在、墓参他、先祖祭祀に関
する行事がかろうじて維持
できても、現在の遂行者た
ちの後を継ぐ者の存在は、それぞれ曖昧だった。
寺院の継続性を考えると、過疎地域にある寺院に解決の道筋が立っ
ているとは言い難い。しかし、過疎地域で高齢者が多いことを考える
と、同世代の高齢宗教指導者の存在意義は大きく、「第二の人生」と
して住職になった人びとが現在のニーズに応えているのも、間違いな
い事実であった。
研究発表 知の現況から聖愚者へ
中里 巧 研究員
〔発表要旨〕本プロジェクトの研究で、昨年より長野県黒姫高原に
ある黒姫童話館に所蔵されている膨大なミヒャエル=エンデ関連の資
料のうち、昨年は第三者による研究論文、今年はエンデ自身の手紙を
調査している。エンデ自身の書いた読者への応答としての手紙には、
エンデ作品や思想について理解するうえで、重要な手掛かりが多数発
見できる。たとえば、エンデは読者の子どもたちへの手紙で、作品中
の意味について非常に丁寧に説明しており、こうした手紙から、作品
において何をいおうとしているかが確認できるわけである。
ヨーロッパ的知性には、二つの思想潮流が古代から現代にいたるま
で一貫して流れ続けており、この二つの思想潮流はいまなお命脈を
保っている。一つは知識の流れであり、もう一つは知恵の流れであ
る。現代という時代状況に限っていえば、知識の流れが近代的知性を生み出したのであり、知恵
の流れが教養主義を支えて
きた。教養主義というの
は、現代において例えば文
芸から取り上げるなら、カ
フカ・ホッケ・ボルヘス・
エンデといった思想潮流で
あり、知識の流れが一義
性・一様性・普遍性といっ
た特徴を有するのに対し、
智恵の流れには多義性・多
様性・個別性といった特徴
がある。エンデは、智恵の流れに位置づけることができる。
智恵の流れにおいて、注目すべき事象が聖愚者である。聖愚者は、
狭義には、AD三~四世紀の最初期キリスト教時代、アレクサンドリ
ア近郊の岩窟で終日神への祈りを捧げていた砂漠の父祖たちを発端と
する求道者のことであり、キリスト教正教とりわけロシア正教におい
て、正規の修道者の形のひとつであった。聖愚者は、家も私有物もな
く、ほとんど裸のまま放浪し、この世の権威に対して一切恐れず、
ツァーリに対してさえ、忠言や苦言を呈した。聖愚者は、貴族と大衆
双方から尊敬を得ていた。
エンデは、『モモ』や『はてしない物語』といった作品群、調査し
た手紙からわかるように、現代批判を最大の特徴としており、また、
間違いなく聖愚者として描かれている人物が『モモ』や『はてしない
物語』といった作品に登場するので、エンデの現代批判を通じて、エ
ンデの語っている言葉の意味を一つ一つ丹念に追うことにより、聖愚
者へと智恵の流れを遡ることができるではないかと考えている。
そこで、多くの読者から寄せられる質問に対するエンデの回答に注
目してみよう。『はてしない物語』の各章には、一人の人物、あるい
は何人かの人物が登場するが、ほとんどの章では、そうした人物はそ
の章にしか登場せず、次の章では、また新しい人物が登場する。そし
てそれぞれの章の最後で、この人物たちの今後の出来事については、
「これはまた別の物語で」という言葉で終わっている。多くの読者か
らは、あの人物はその後どうなったのか、という質問が寄せられてく
るが、エンデは、『はてしない物語』の続きは書きません、このよう
な終わり方をしているのは、読者の皆さんが自分なりの物語を思い描
いてもらうためで、皆さん一人一人だけのストーリーを思い描いても
らうこと希望しています、とほとんどの場合答えている。その回答に
は、ドイツ語で「一人だけ」「唯一の」という、“einzig”という言葉が
よく使われている。
『モモ』は金銭を批判した作品であるが、この“einzig”という言葉
を金銭との関わりからみると、金銭は誰にとっての価値のある、代替可能なものであるが、人間存在は代替不可能なものであり、“einzig”
なものである。現代社会は金銭が浸透して、すべてが金銭によって換
算されるような時代を迎えているが、そのような時代にあっては、す
べてが代替可能となり、代替不可能なもの、エンデのいう“einzig”
「自分だけの」もの、「自分にしか」意味のないものは、お金にならな
い、無価値だということになる。しかし、エンデは代替可能性から見
ると無価値なもの、代替不可能なものの重要性を説くために、“einzig”
という言葉を使い、皆さん一人一人だけのストーリーを思い描いても
らうこと希望していると答えていたのではないだろうか。『モモ』に
登場する掃除人は聖愚者としてとらえることができるが、“einzig”の
重要性を説くエンデの姿勢に一つの聖愚者像を見ることができる。
パネルディスカッション
平成二十六年十二月十三日 東洋大学白山キャンパス 六三〇一教室
発表者
原田 香織 研究員
菊地 義裕 研究員
研究発表 能楽に見る先祖意識と霊魂観
原田 香織 研究員
〔発表要旨〕長野県から新潟県にかけての山岳部における独自の先
祖観は『山姥』(新潟県糸魚川市大字上路(市振)や『姥捨』(長野県
千曲市と東筑摩郡境の姥捨山)など謡曲にかかわる作品群に確認でき
る。日本における姥捨て伝承は、実際には『大和物語』第一五六段
「信濃の國に更級といふところ」の話として著名であり「わが心なぐ
さめかねつ更級や姨捨山に照る月をみて」という和歌も広く伝承され
ている。また『山姥』は、堕ちた山神というイメージもあるが、棄て
られた山の老女が山姥へと変化したというイメージが強い。
虚構でありながらも、伝承として残る点は「棄老」という習俗の問
題や山に棄てられた老人はどうなるか、或いは山という豊穣な場にお
いて生き続けて神仏、または妖
怪変化など別の存在になるの
か、当事者である罪悪感から共
同体には様々な幻想が生まれ
た。『姥捨』は残る人生を全う
できずに寿命が人為的に絶たれ
てしまうことを問題にしてお
り、共同体から社会性を剝奪さ
れ人権を侵害され遺棄される
が、一方で浄土信仰、死への回
路、神々への回帰という視点も
ある。『山姥』は禅の思想が強いが、山姥伝承が日本全国へ分布している点からも山へ棄てられた老
女が変化となり仕返しをするという「棄老」説話は根深く存在したの
であろう。
ここには老齢者に対する社会的な問題がある。日本中世社会には、
現実としては深刻な内容をもつ「棄老説話」と、倫理的に優れた「養
老説話」との両方の系譜が存在する。孝子譚の系譜を引く場合に、儒
教倫理との関連から「本朝二十四孝」などの親孝行譚が存在し当然
「養老」という概念へとつながっていく。
また老齢なものは神仏の化身として「翁」伝承に関わる。翁という
存在は『伊勢物語』にも早く用例が見られるが、土地土地を来訪し祝
福する神として機能し、神格という点では位置づけが難しいが、民俗
信仰としての土着の「翁」思想は、民俗芸能「翁」として日本全国に
分布する。能の姥と尉という存在も、同様に「神」の化身としての機
能を果たし、老齢者の智恵や経験が、価値あるものとして看做されて
いる例となっている。実際に歴史資料を確認すると知的な能力や特殊
な才能をもつ場合には老齢者が必ずしも否定されているわけではな
い。
老齢まで生きる場合には、さらに死後土に帰るという霊魂観や代々
家が続いていくという祖霊意識・転生する先祖観が思想として流れて
いる。今回は実際の調査をもとに、墓と信仰の問題、中世文学の死生
観およびこの地区の善光寺の極楽浄土志向についても考えた結果、地
域社会に根強くある霊魂観は、共同体としてその土地において持続的
に機能していることが予見されるのである。
研究発表 祖名の継承 ―家持歌に見る先祖意識―
菊地 義裕 研究員
〔発表要旨〕『万葉集』に収められる、大伴家持の天平勝宝八年(七
五六)の「族を喩す歌」(巻
20
)、および天平勝宝元年(七四九)の
「陸奥国より金を出だせる詔書を賀く歌」(巻
18
)を対象に、八世紀中
頃の奈良朝氏族の先祖意識を探るとともに、その分析を踏まえて、先
祖観の変容にともなって措定される現代的問題を提起した。
対象とした二作品は、朝廷に軍事的伴造として奉仕した大伴氏の氏
族伝統を前面に押し出した作品である。作品ではどちらも朝廷への奉
仕を内容とする「祖の職」(先祖の職務)を顕彰し、これを受けて
「祖の名」を絶やしてはならないことがうたわれる。作品を通してみ
ると、「祖の名」は氏の由来、およびその伝統と解され、祖名の継承
は先祖以来の「職」の伝統を負って朝廷に奉仕することと解される。
氏における先祖意識はこうした祖名の継承意識において形成されたと
考えられる。それは自分たちが「いまここにあること」の由縁であ
り、氏や氏人のアイデンティティーに深くかかわるものであった。氏
の伝統は一族が集まる機会に折に触れて回顧されたと考えられるが、
そうした機会の一つとして氏神祭りがあったと考えられる。『万葉集』には、天平五年(七三三)十一月、大伴氏の氏神祭りの折に大伴
坂上郎女によってうたわれた「神を祭る歌」(巻3)が伝わる。作品
からは故人は他界後先祖に連なり、やがて祖霊化するという道筋や氏
神祭りが故人への追悼・追憶の場であったことが窺われる。こうした
場は氏人たちが「いまここにある」ことの由縁を実感する機会でも
あったろう。このように氏における先祖意識は、祖名の継承意識とし
て把握できる。奈良朝とはいえ、家職・家名の継承意識は、日本の先
祖観に深くかかわる伝統的なものでもあろう。
こうした先祖意識を一つの祖型として現代を考えてみると、先祖祭
祀の現代への継承例として仏教
における年忌供養などが考えら
れる。年忌は故人の先祖化、祖
霊化の過程であり、残された者
にとっては故人を通して家の由
縁を確認する機会ともなる。し
かし生活の都市化が進む現在、
生まれ育った土地からの移住、
代々受け継がれてきた生業から
の離職など、かつて自身を位置
づけていた由縁なるものからの
解離が希ではなくなっている。
こうした動向は、自身が「いまここにあること」、すなわちかつて日
本人が一元的に有していた自身の存在根拠を希薄化させ、個人を個の
意識へと収斂させることになろう。先祖意識の希薄化が進む傾向のな
かで「自己」を何によってどう位置づけるのか、現在的問題として考
えるべき事柄ではなかろうか。
公開講演会
平成二十七年一月二十四日 東洋大学白山キャンパス 五三〇五教室
祖霊信仰研究の変遷
山舘 順 氏
(サレジオ工業高等専門学校准教授)
〔講演要旨〕民俗学者柳田国男は「風位考」と「先祖の話」におい
てタマカゼ、タバカゼなどと呼ばれ各地にみられる北西の風位と地
名、また民俗慣習の比較を通じ、従来より凶方とされている艮(北
東)について、これを陰陽道等中国文化の影響以降のものとし、それ
以前の原始・古代に遡って日本文化の基層に存在する祖霊方位観とし
て乾(北西)を主張した。
柳田の主張は彼に影響を受けた桜井徳太郎らに受け継がれ、屋敷神
研究を初めとする民俗学の諸研究に結実した。
本講演ではこれらを紹介したのち、一九八〇年代の社会史研究の中
から乾方位を軸として中世都市見付宿(現静岡県磐田市見付)とその背後に存在した一の谷中世墳墓
群に関する空間論を取り上げ、
北西の祖霊方位観の顕著な事例
を提示した。
中世都市見付宿では北西部か
ら市街地へと降りてくる舌状台
地周辺に千を超える鎌倉・室町
の墓域である一の谷遺跡が広が
り、乾に他界を想定した中世人
のコスモロジーを示している。
これら先行研究を踏まえ、乾
の祖霊方位はどの程度確認でき
るか、筆者が専門とする歴史学の立場から幕末から明治初年の史料「河
野清助日記」をてがかりに若干のコメントを試みた。
対象には講演者の地元である都内日野・八王子周辺を択び、二〇一
一年の金野啓史による日野市高幡不動尊における茶湯石に関する論考
を紹介、死者の百ケ日供養として茶を灌ぐ慣習があった茶湯石と、不
動尊背後の丘である高幡山が祖霊鎮留の地であることを示した。
そして幕末、明治初年に日野宿において富裕な農家だった「河野清
助日記一―三」を史料とし、慶応二年―明治十一年の十三年間につい
て日記に登場する霊山参詣の記事から参詣の回数を取り出した。
日野・八王子周辺で祖霊の坐ます地とされ、代参講の盛んだった丹
沢大山、八王子今熊山、奥多摩の武州御嶽山、上州榛名山(南西か
ら)の参詣回数を数えると、多い順に武州御嶽山(十三回)、上州榛
名山(十二回)、丹沢大山(七回)、今熊山(六回)となり、日野・八
王子方面より見て北西方位の山が上位を占めた。
また日野市史民俗編(一九八三年)から、同市内における屋敷神六
百五十六について母屋より見て未申(南西)方位に祀られたもの
31・
8%、
乾
(
北
西
)
26 ・
7%、
艮
(
北
東
)
20 ・
3%、
他
9%で
あ
り
、
南西、北東などと併存して乾祖霊方位観の存在をほぼ推測できた。
さらに文化文政期に江戸で評判となり、平田篤胤が取り上げた八王
子市東中野の農民男児勝五郎の胎内記憶の記録である「勝五郎再生記
聞」において、「程久保小僧」勝五郎(六才)の異界記事に登場する
「御嶽様」なる存在が、柳田国男の述べるように「うっかり証拠に引
くわけには行かぬが」、当時周辺の人々の間に存在した「心理の素地
とも名づくべきもの」即ちフランスのアナール派社会史における「集
合心性」に近いものとして検討の余地があり、その呼称から武州御岳
山信仰に関わる何ごとかである可能性を指摘した。