街道を歩く会「西国街道その12~茨木から高槻今城塚まで~」に参加してきました。
伊丹市立ミュージアム主催の表題通りの行事に行って来た報告です。
茨木市の椿の本陣前を13:00に出発し、16:30今城塚古墳で解散の予定になっていました。旧西国街道を歩きつつ、途中の道標等の解説をして頂けるとの事で、願ったり・叶ったりのイベントです。
参加者の写真等を載せると何かと問題になる可能性もある御時世でもあり、人の写っていない写真のみ取り上げておきます。
その前に、この行事は過去に何回か行われているようで、12回目とあります。東に向かい(京に上る)旅する設定であるため、旧道を一部たりとも外さず歩くことになります。年に一回春に行われている様で、来年も続きが有ると、言われていました。
Webの案内では
「当館の前身・(旧)伊丹市立博物館が長く開催してきたイベント。年2回(春・秋)開催し、平成26年(2014)春に須磨(神戸市須磨区)を出発して東へ進み、伊丹市立博物館から市立伊丹ミュージアムにバトンタッチした後も、西国街道の起点・東寺(京都市南区)に向かって各回6~7km程度の距離を進んでいます。」
とある様です。西国街道の起点・終点はよく知りませんが、多分、摂津の国と山城の国の旧道区間ででしょう。西宮辺りは何処を歩いたか興味のあるところです。
大変な事になっていました。建物が有りません。その状況は別項「茨木市急ぎ報告」をご覧いただくとして、当然、道標も無くなっています。多分公の施設であったと思われるので、無暗に破棄される事は無いであろうと、勝手に納得して、現状だけを写真に撮っておきます。
アングルを確認する為に古い写真を見て、同じ位置からと考えたのですが、左右の家も新築になっており、同じ写真が撮れたか心配です。
後日の確認では、ほぼ満足いきましたが、8年も前の写真となっていました。カメラも多分変わっている為、画角が少し一致していません。確か去年あたりは残っていたのですが。
12:30、本陣前まで戻ってくると、受付が始まっていました。400円の会費を払い、今日のマップと資料(以降テキスト)を受け取ります。出発の時間を確認すると予定通り13:00との事だったので、チョットお断わりをしてから、もう一ヶ所、道標の無事を確認する事にしました。
歩いて10分は掛からない所です。
椿の本陣東側に立つ三基の道標にも案内がある「茨木駅」方面に分岐します。三ツ辻から南へ折れ、西国街道を後にすると、すぐに道は東に曲がり、新しい広い道に出てしまいます。茨木駅へはこの道を横切り直進と思われますが、道路を渡り右折して広い道に入ります。
東側の石垣(左手)に沿って40m進みます。マンションの手前に左上に登る階段が有ります。建物への入口かと思いますが、一段上の踊り場に出ると左手へと登るさらに狭い階段がありこれに進みます。竹藪を睨みつつ南に20m程登ると、ようやく道が広くなります。
後は、道なりにこの急坂を直登します。丘の上に出て四辻に目的の「郡山二丁目の道標」が・・・
ありました。これは・ヤハリ・無事です。
ヤハリ、としたのは前に来た時、再建の工事に出くわしていたからです。
2018年2月「道標」を西に見る
何回目かは忘れましたが、工事中の写真も載せておきます。
(東面)
右 かちおう寺道
とあります。
今やって来た椿の本陣へ進む事を示しています。
椿の本陣に戻ります。
渋滞でバスが遅れていた、最後の一人の方も、ほぼ定時に着かれたようで、13:01にオリエンテーリングが始まりました。
お年寄りが多いのは当たり前なのですが、小学生も交ります。総勢40人、関係者が10人ほど、総勢50人強が出発します。
旗の後ろに付いて歩くのは、何となく気恥ずかしいのですが、楽しみです。
いきなり、椿の本陣東側の三基の道標です。写真左より、
1.「宿川原町1北側の道標」
2.「宿川原町1中央の道標」
3.「宿川原町1南側の道標」
「宿川原町1中央の道標」の西面
「宿川原町1中央の道標」、歩く会のテキストには「□西国街道」とあります。□は読めない事を示しています。と解説されました。
私は「及」と読んでいるのですが。如何でしょうか。
(西面)
左 かちをう寺
及西国道
としました。
因みに、最も南に位置する小さい道標には、
(西面)
茨木停車場
右 道
そうぢじ
とあり、「あるく会」開始前に、道標安否確認に行った道を案内しています。
宿河原から中河原にやって来ました。この次は下河原かな?。
テキスト2中河原の道標になります。口頭で、交通の要衝であったと説明が有りましたが、具体的には何を言うのでしょうか。
「要」すべる、まとめる、しめくくる、かなめ、大切なところ、
「衝」大通り、みち、交通の中心となるところ、つく、つきあたる、ぶつかる、
等からすると、「大きな辻」を意味するのでしょう。
要衝に立つこの道標、近い所だけを書き出してみると
東面に
「芥川一里廿町」
南面
「茨木驛丗町」
西面
「箕面山二里」
北への案内が有りません。
明治の地図で見るとこの辻は、亀岡街道とする道が北の福井へ分岐している三ツ辻で、南への道は有りません。?
何か怪しくないですか。北への道が無い辻に有ったのかもしれません。現辻の東100mに南に分岐する三ツ辻があるのですが。
この様な解説は有りませんでした。
この道標は明治の建立で、近世の道標を主に楽しむ私には、余り気乗りはしませんが、注目点は
(北面)
明治三十年十月建之 福井村/川端・・・/
一九八ニ年三月(昭和五十七年)事故之為破損シ再建ス
最後の一行です 。
解説にもあるようにこの道標は再建されたものです。尚、オリジナルが存在し、資料館に復元されています。
当然、オリジナルに最後の文言はありません。再建された道標は幾つか見ますが、理由が明記されているのは、珍しいでしょう。
この道標の東辻、府道110号・余野茨木線を過ぎると…としたいのですが、本日一度目のトイレ休憩。適当な場所が無い様で府道に沿って南に向かい、商業施設のトイレをお借りしました。
トイレの後は、交通の要衝の交差点に戻ります。商業施設を北東に進めば、車の通行に気を遣う事も無く旧道に復帰するのですが、100m程未踏査部分が出来てしまいます。主催者さんは。律儀な性格と思われます。
元の交差点に復帰しました。
中河原の道標から400m程、下河原は無かった様で、勝尾寺川か、茨木川か、よく分かりませんが、幣久良橋を渡り、東詰め交差点の北側に来ました。(橋の上流150m程で佐保川が合流している様で、合流後は多分茨木川か。尚、幣久良はタクラと読む)
川を越えると「耳原」これ又難読地名「ミノハラ」らしいが。
「白井河原の合戦場跡」の説明板が立ちます。今日のテキストの3には、足利義昭方と三好三人衆方の戦い、と解説が有りましたが、ここに建つ案内板には「摂津三守護池田方と、和田惟正の織田方の戦いで、池田方の勝利」とある様です。
何れにしろ、私にはよく分かりません。ただ、何方にも『陰徳太平記』の名が出てきており、これを読めば理解できるのでしょうが、この本は史実に忠実かどうか、危ぶまれると、聞いたような気がする。
尚、左の写真の石柱は幣久良橋の親柱と思われますが、何時の物かは分かりません。
茨木川を越えると少し登りになり、次の安威川に向かい下っていく事になります。丁度その中間辺り。
幣久良橋から約600m、テキストの4番目「耳原3法華寺の道標」に来ました。お寺の前です。観光用には開いていないとの事で、お寺の中には入りません。道の南側に一列に並んで、解説を聞きます。肝心の道案内は西面にあり、壁の横に当る為、見難いです。見たい人だけ見て下さいと、次に進みます。
アー残念、この案内が何処の道を指しているのか、説明は有りませんでした。元位置さえ分かればいいのですが、移設かどうかの説明が有りませんでした。
この道標の西面には
「左、そうちじミち」とあるのです。総持寺を案内するものでしょう。
ならば、南へ進む道は何処に有ったのでしょう。明治の地図では、約80m手前(西)に南に分岐する辻が見えるのですが。
法華寺から150m。
テキストの5、阿為神社御旅所、ここから神社迄は1.5㎞以上あると思われます。神社の名前、阿為・阿爲・安威・どれが正解でしょう?
右の解説板によりますと、「五月三・四日、阿為神社の神輿とふとん太鼓が安威・耳原地区を回り、ここで休息をとる」とあります。
阿爲神社に行くと、道標が有りますが「鎌足公古墳」を案内するものの様で、御旅所へのルートには関係なさそうです。
府道46号茨木亀岡線を渡り、御旅所から100m。
ここも、車がよく通る上に、溝があり、危険個所という事で、道端一列聴講方式でした。
明治の地図で見ると、亀岡に向う道は当所を通過しており、ここに道標が有るのが納得できます。
尚、この北すぐにも道標があり、更にその北にももう一基、それらの案内と絡めて、説明が欲しかったのですが。残念。北二基の道標では、「総持寺」「穴太・妙見」が案内されており、巡礼の為の用途に多く使われたと想像できます。東西・西国街道、南北・巡礼用とあれば、此処こそ、交通の要衝であったと思うのですが。この道標は明治42年の大阪府建立のもので、
西面
「右、茨木停車場・大阪…」
南面
「右、芥川・高槻…」
の様に、味も素っ気も有りません。
太田橋東詰めより500m程でしょうか、この道標、解説では、テキストでは西面の左側「三しま」の下が読めないとし□になっていますが、多分「江」であろう、との事。又、少し移動しているとの事でしたが、旧道の位置と、案内する方向との関係について説明される事が有りませんでした。
もう少し、何か足りないように感じました。
私見を書いておきます。最初に見た記憶は2007年であったようで、写真を探したが見つけられなかった。
当時(2007年(現在2018年))は、道をはさんで南 側に建っていたと記憶するが、その移動を除くとして、ほぼ元の位置であるとしてもおかしくない。
明治の地図で見ると、当地は四辻(七のような形状)で、富田へ行くには、ここで南へ曲がらなければならない。
町名に名を残す工場が出来るまでは、南東への道は残っていたと想像でき、東太田二丁目5からは現在もその道が続いている。
その辻の、南東部に、現在の向きのままか、反時計回りに45°廻して立っていたなら、案内の方向はピタリとあう。
南東部としたのは、道標の基礎部分の南東側がワザと削り残されている事に依る。これは、道標の南東角が土手状に高くなった地勢を活かし、埋設した時により安定させる為と思われ、今も東に向け高くなる地形に合致している。
依って、現在の位置は、道路の南側、辻の東側からの近接移動(多分10m程度)としたい。)
今、改めて西面を見ると「右、とん田/三しま江」としていたが、「三しま渡」としても良いかも知れない。
尚、北面は「左、京/伏見」とあり、西国街道を東進で問題ないでしょう。
又、ここから北に向うと太田神社に突当り、その先へは道が有りません。一度行ってみましたが、天皇陵も見えず、参詣以外に行く事も無い為、案内は不要と思われます。
さて、ドンドン坂を上ります。結構な坂であり、雲の様子を見るには最適な場所と言われれば納得してしまいます。安威川の河岸段丘を上り切って少しの所に来ました。道標からは250m程でしょう、左手に陵が見えます。気を付けなければ通り過ぎてしまいますが、駐車場の様にも感じられます。北に進入すると、「太田茶臼山古墳」「継体天皇陵」があります。
旧西国街道に戻り、東に400m進み藍野大学の東の小さな水路を渡ると、高槻市になります。以前市境に何かないか探りに来たことを思い出しますが、この細い水路以外目ぼしいものが無かったことを思い出します。天保摂津国絵図でも嶋上郡・嶋下郡の境であるかと思われます。境界から40m東の信号のある交差点で一度南に旧街道を離れ、二度目のトイレ休憩をし、再びこの交差点から再開します。ウネウネとでは有りますが旧道を700m強ほど進むと、「巡礼橋バス停」の北側の交差点に出ますが、右側通行を守っていたため、横断歩道が無く、南の春日神社角の信号まで迂回する事になりました。ここまで右側通行を遵守せずとも、「北5mの横断歩道を渡れば済むものを」と思わず叫んでしまったのは私一人では無かったと思う。
歩道も無い、府道115号萩谷西五百住線の春日神社前を北に戻り、旧道に復帰。と思ったのですが、川の南側の道を進みます。いつも気にはなっていたのですが、この川の両側(即ち南北)に道があります。明治の地図では北側しか描いていません。案内役の人が道を間違えたのではないかと心配しますが、250m程で小さな橋を越えると、旧道に復帰します。橋の名前も川の名前も知りません。
橋を越え200m強、終点に近付いてきました。この地点こそ、妙見山への道が分岐する重要な辻で有ると思われるのですが、行先の説明はあっさりしたものです。
テキストでは「妙見道を示す道標」となっています。
まあ疲れもあるし、時間も無いので、仕方ない所でしょう。
この道標の案内する所「妙見山」への道は、この後どう続くのでしょうか。参加者の多くが伊丹市の方と思われ、「ここから、妙見山、どう行くの」と声が上がっていました。同感です。どう進んだのでしょう。
答えられる方は、相当の「ツウ」の方と思います。現行の府道を繫いでみても???の気がします。
何時もお世話になっている『大阪の街道と道標』に「枝切街道」なるものがあります。これの北端が、「忍頂寺を経て清坂街道に接する。」としています。これに出る事を示したのであれば、高槻市塚原の西部、安威川左岸への道となるでしょう。その後は最近出来た「ダムパークいばきた」で道は付け変わっていますが、忍頂寺西迄は特に問題無さそうなのですが、その後が良く分りません。
手前味噌ですが、「妙見山を案内する道標(グーグルマップ)」を参考にして頂ければと思います。
この後、この道標が示す妙見山への道を進み、分岐して今城塚古墳へ入りました。環濠の土手上に集合し解散です。
後日談になりますが、歴史資料館に行って確認した所。
宿河原西会場は、個人の建物であったようで、公共物では無いとの事。依って再建されるか等は不明であるらしい。道標については個人の方が引き取られたとの、話しも聞くが詳細は分かりません。
ということで、今後見れない可能性が高い気がします。
残念です。 2026/3/27日