伊丹

辻の石碑
中央上部「従東寺拾里」

伊丹市は摂津の中央

摂津の国の中央をうたう理由は、旧西国街道と多田街道の辻の北にある「辻の碑」に「距関戸七里、距須磨七里、距天王七里、距大小路七里」とあり関戸は西国街道(山崎通)を北東に28kmの島本町山崎で山城境界、同じく西に28km神戸の須磨で播州境界、北へ28km猪名川町天王で丹波境界、南へ28kmの堺市大小路で和泉境界と解釈できるためと思われる。私自身は実測していないので事実は分からないが、googleマップで直線距離を見ると26km、34km、28km、24km程度と思われ国境への主要道が交差する辻として中央がふさわしいのであろう。 上記『五畿内志』享保十九年(1734)時点で「文字多磨滅」とあり、左写真が当時の石であるなら少なくとも江戸期以前に置かれたことになりそうです。名所図会には「陸奥の壺碑に効(ならつ)て石碑あり、高三尺(90cm)横二尺五寸(75cm)、…年暦不詳…」とある。陸奥の壺碑も諸説あり、古くは天平宝字六(762)年の多賀城碑』「京去一千五百里、多賀城…」等とされるようです

行程記、明和元年(1746)頃
萩藩絵図方の有馬喜惣太

文政頃の下河原村絵図

北村の寛文九(1669)年道標(市博物館)
「右、ひやうこ にしのミや」
「左、あまかさき いたみ」

西国街道を西へ

ここも、西国街道を東から下ってみよう。旧街道が多く残り説明板等も整備され歩かれる方もよく見かけます。市域最東端から始めるなら、阪急宝塚線石橋駅の南に踏切があり、この東に道標があります。徒歩ならここから始めるでしょうか、或いはJR北伊丹から猪名川の軍行橋を東に戻り下河原の東端からのスタートとなります。この地点では旧道はR171に飲み込まれており旧道の雰囲気はありません。飛行場を見てからとお考えでしたら箕面川の左(南)岸を下り、エアーフロントオアシス下河原に寄り北軍行橋に戻る。
左図でいえばエンジ色の「西国街道」の右下川を西に越した地点が市境と思います。 中央の太い川が現在の猪名川で軍行橋が架かっている地点とほぼ同じでしょう。図には「池田川、イナ川幅百間(180m)、廿間(36m)陸(かち)渡り」とあります。
越えて橋西詰から土手を南下し350m、西に離れるのが西国街道で太く描かれています。土手下には道標では無いが、石碑が二つ建ちます。土手からこの石めがけて道なき道を下り、正面の三ツ辻を西に進み200m、JR福知山(宝塚)線を越えると道なりに150mでY字路になります。
昔この地点に道標が有りましたが今は博物館にあるが展示はされていないようです。因みにこれを左(南)に向かうと伊丹の町になります。
ここを真っすぐに240m途中駄六川を越えて四辻が
「辻の碑」がある四辻です。右(北)に折れ多田街道に入り10mの右手(東)となります。
又、四辻南東部に道標があり、「多田御社江 一里半」とあり「元禄十四年(1701)辛巳歳十一月」の銘があります。赤穂浪士討ち入りの一年前で、この年三月に刃傷事件が起こり、萱野三平が早駕籠に乗って14日に江戸を出発し、19日寅の下刻に赤穂に着いたとあるので、この道標を見る事が出来なかったと思います。三平の旧宅は東に8km程になります。

猪名川右(西)岸下、旧道の開始点、実質こから西へ
北(左)に軍行橋、堤防上から東に飛行場が見える

北伊丹1の道標、中央やや右、「従是多田御社江 一里半」
正面、辻の石碑(いしふみ)
寛文の道標の元位置は右240m

この辻から西に進みます。50mで現県道尼崎池田線(産業道路)を越えると、急な上り坂(伊丹坂)となり、県道北園1丁目交差点から坂の上迄220mの間に13m(6%)と伊丹では珍しい勾配です。坂ノ途中南に折り返す様に細い道があり、坂の上から60m南の三ツ辻を東に30mの北側に和泉式部の墓もある。
西国街道に戻って、西に進みます。この先は旧道のままで、ネウネト道なりに進みます道を間違えそうになるのは一ヶ所、伊丹坂の上の交差点から320mの五つ辻、これを南西に直進せず、やや左より南への道(左折ではない)を進みます。もし直進しても村中を通り先で西国街道に合流はいます。五つ辻を南へ進むとやがて南西に向きを変え320mで有馬道との四辻に出ます。辻の北東部松の根元に「大鹿村の道標」が建っています。北側は市の大鹿交流センターになっており、ベンチで休憩しても良いかも。

伊丹坂上より北東を見る
右は和泉式部の墓へ

和泉式部の墓はまゆつば

大鹿村東の五つ辻
西国街道は左前方
青信号は村中への道

大鹿の道標を東に見る
奥(北東)京へ、伊丹坂へ

大鹿村の道標は、尖頭型角柱で高さ72x東面21.5x南面21㎝(頂高10㎝)とごく普通の大きさであるが、主要な辻であるのは行先を見ればわかります。今行こうとする西へは「すぐ 西宮」、反対側は「すぐ 京」、左(南)へは「すぐ 大坂」、北だけは「すぐ 中山/ありま」と二ヶ所をしめしています。四面全てが「すぐ」の表示で大きな町が案内されています。

チョット寄り道

この辻から北へ直線170mには、「後醍醐帝皇子…杖竹之霊地」とする妙宣寺の寺標兼道標と、その杖竹之霊地があ、更に霊地ヲ案内する道標が移設されている。そこへは村中の道をクランク状に何回か曲がらなければならず見通しもかないので、行きにくい。門前の道標は大正の作で大きく、霊地壱丁とする道標は文化八年とあるが小さい。西向かいの霊地はこれまた驚くほど小さい。
歩く順だけを見た場合、上記の間違えやすい交差点を直進して180mを右(北)折れし40m地点の左(
西)が霊地、右が山門となり、こちらを先にすべきかも知れない。

左杖竹霊地壱丁の案内
奥山門右に
妙宣寺の寺標

左端霊地を案内する道標、西国街道はここを右方へ

杖竹の霊地、民家前小祠左(南)に紫竹と石碑
弘法大師等はよく聞くが「大覚大僧正の逸話」

ふたたび街道を西へ

稲野小学校前の道標
昆陽の地にあるが「稲野小」近くに「昆陽里小」もあり注意

大鹿の道標を後にして1.1㎞、途中に西国街道の顕彰碑がいくつかあり、直線でもあるので迷うことはないでしょう。千僧村に入って「天神社」を過ぎ、伊丹警察署前四辻から200m辺りの右手(北側)にいきなり稲野小学校の校門が出てきます。門の西前に立派な道標があり、西隣には能因法師の大きな歌碑が、東には西国街道の解説碑も建ち、足を止めないわけにはいかないでしょう。
道標の案内は西へ「すぐ 西之宮」、東へ
「すぐ 京都」、南へ「すぐ 尼崎/大坂」、北「すぐ 中山/小濱 」とあり前述の大鹿の道標とほぼ同じであり、かなり離れているのに不思議な感じがする。これは大坂から中山(有馬)への道が1km離れて2本あった為です。市博物館では東(大鹿)を「有馬道」、こちら昆陽(西)を「有馬間道」と表現しています。元の位置は西120mの札場の辻に置かれていたものと思います。

猪名野村道路元標を東に見る

札場の辻

大正時代に話はとびますが、道路元標なるものを設置せよとの大正11(1922)年省令により、各市町村が建てた石標が、稲野小学校前道標より120m西の四辻南西部に建てられています。大正12年地図の位置と同じ場所と思われ、移動されていないと思う。

昆陽4東天神社前の道標を北に見る

寄り道2

この四辻を北に折れ「稲野小学校前の道標」の指示「すぐ 中山/小濱 」に150m進むと「東天神社」に突当り鳥居の東、民家(社務所?)の西壁に接して建つ道標があり、「左、中山 三田/小濱 有馬」の案内に矛盾はない。

伊丹警察署前交差点から西70mの三ツ辻、やや南部に有った昆陽旧地名案内
本陣の話が少しある

昆陽宿と本陣

道路元標の辻に戻ります。たぶんここが札場の辻であったと想像しています。
札場があるなら、この辺りが「昆陽宿」の中心であったとしてよいでしょう。東は半町瀬川宿、西は西宮宿となり、本陣も有ったようです。今はその本陣跡もはっきりしないが、上記道路元標から130m西の公園北西部に「長勢橋」の石がありここを川跡として、この西70mにもう一本の川跡が読み取れこの間の南側に本陣があった事が国立博物館「山崎通分間延絵図」文化3(1806)年から読み取ることができる。札場は絵柄から、本陣は文字から判断しました。

風情のある道後半

本陣を後にして西に下りましょう。いくつ目かの旧道顕彰碑と庚申堂のある広場を右手にして過ぎる事140mで現R171の広い道に合流します。旧道は西に横切り西天神社の参道に続いていたと思うが、ここを横切るのはゆうきがいります。30m西に歩道橋が有りますが…。北西側に渡り参道から80m南西に進むと、歩道が少し曲がっています。旧道にこだわるなら、歩道を行かずに真っすぐ寺本市場?の中を抜けましょう。抜けても道なりに進みます。市場を出てから130mで、表現のできない辻に出ます。寺本4丁目交差点とgoogleマップにはあるのですが、ここを南にR171を横断するとだけします。(交差点の進み方は説明出来ません。地下道も有りますが。)

庚申堂前から旧西国街道を北西に見る。背後140mでR171と合流

「寺本2丁目の大師道道標」を南西に見る。後ろは昆陽寺、背後は墓地入口

ためらいがちに寄り道

寺本4丁目交差点を渡る前に、見ておきたい道標が二基あります。何れも昆陽寺(ぎょうぎさん)がらみです。交差点を北西に90m進むと左手(西)に墓地があります。墓地入口から西に延びる墓道を50m進み左手(南)フェンス角に立ちます。
この道標には「大師道 惣講中」とあるだけで案内先も元位置も分りません。「天保辛卯 年」や世話人などの名前はよく読め調査の手助けにはなるかと思います。

昆陽寺山門前常夜灯の道標、二本の二本の松の間、右現R171

観光気分の寄り道

お墓を出て墓ぞいの道を寺本4丁目交差点の北側まで戻りましょう。交差点を南に渡らず歩道を南西に進みます。150mの右(北)側に石灯籠が建っています。この西面竿部(くびれた柱)に「行基古跡/西野宮通里/奴声道あり」とするおもしろい(珍しい)案内があります。意味はよくわかりませんので、後ろの仁王さまが怒っていらっしゃるように見えます。多分「昆陽寺へ寄っていきなさい、こちらからも西宮に抜ける事ができますよ。」ではないか。

竿部西面
「…ぬけ道」

寺本4丁目交差点を南に越へ、北を振返って見る

村を迂回する街道(寺域をさけたか)

昆陽寺の見学が終わったら、寺本4丁目交差点に戻り、R171を越えてください。南への細い道を進みます。170mの三ツ辻を右折(西)し道なりに100mで四辻になります。一見五つ辻に見えるこれを右(西)の折れてすぐ右手(北)に「閼伽井(あかい)公園 」があり、ここから道なりに200mで三ツ辻が出てきます。辻北西部の民家壁際に「寺本1丁目158の道標」道標があります。

「寺本1丁目158の道標」を北東に見る。奥から手前に旧西国街道
左に中山道

西端の道標

この道標を三ツ辻としたが西15mに南行きの道が有り、古くは筋違いの四辻であったと思う。現在の向きで「左、中山」は西宮方面となるので、元は西面していて北への道を案内したものとおもいます。ただ、北に200m、R171を越えた「寺本2丁目の道標」では「左 妙見道」と案内先が変わってしまいますが、いいでしょう。

寺本2丁目の妙見道標
街道筋からは北に外れる
見慣れぬ紋と住所が見れる

西国街道、伊丹市域の道標としてはここまでですが、此処から西140mでR171の大きな昆陽里交差点に出て、北西に横断歩道を二度渡り国道北側歩道を30m南西に進むと「師直塚」があります。
さらに、旧国道を南西に600m右側歩道橋下に「武庫村道路元標」、元標から180m旧国道から右に折れ堤防上の道に出て、それを渡り武庫川左岸(東岸)に下りれば、西国街道「髭の渡し」趾となるが、道路元標、渡し趾は尼崎市となる。

高師直塚
大正四年の作

武庫村道路元標

街道の北側

髭の渡し趾

左岸(東)堤防を東に見る。街道は堤防向うへ下る

従来のホームページ「伊丹市の道標」へ

青線は文中の経路と異なることがあります。

2021/8/3 この項終り。