箕面

箕面市の主要な街道として東西に通る西国街道と順礼街道があり、南北の道として大阪方面から勝尾寺参詣を主目的とする道と更に北に抜け妙見山方面に向かう高山道があると出来るでしょう。

モノレール豊川駅南より箕面側を見る

小野原東の常夜灯と道標

小野原東2の道標

箕面市の南部を東西に走る西国街道から始めます。東は茨木市との境の小野原東から、西は池田市との境の瀬川5丁目辺りと思いますが、旧道が市境となっているようです。
東のモノレール豊川駅から出発してみます。駅南西の辻を起点に西に下ります。(坂道は登りで舗装は通常の色に戻ります)。360mで小さな橋を渡り、坂がきつくなって820mの三ツ辻左(南)に「小野原東2の道標」が立ちます。西から来ると眼に付きやすいですが、東から行くと見落としやすい位置になります。
この道標は西から来る人にのみ案内をしており「左、京ふしみ道」とあるのは、西国街道が曲がっていた為であろう。直進すれば多分茨木市の下穂積あたりに出たと思いますが、此処から向かう人は少なく案内はいらないとしたのでしょう。「享和二(
1802)年八月」に立てられたようです。横の常夜灯より6年後になる。

小野原東2道標を東に見る。奥、モノレール豊川駅へ左、電柱奥は春日神社御旅所

寄り道開始点
小野原西2丁目7

小野原西5の道標

西に真っすぐ240mで小野原南交差点を横切り、440mあたり筋違い四辻があります。南西角の電柱には「小野原西二丁目7」とあり北側には「宮崎自治会の広報板」が立ちます。
ここから寄り道をします。筋違い四辻を左(南)へ折れ道なりに230m広い道に突当り前(南)が小野原公園になっています。やや右(西)寄りの入り口から入り、南へ90m、園内三ツ辻の西側民家よりに「小野原西5の道標」が立ちます。この東面に「右、しんでん/左、やまだ 」とあり、「右、豊中市上新田/左、吹田市山田」とすると、元は北向きに立っていたものとおもわれます。

小野原西5の道標を南に見る

右側1本目電柱辺りが高札場か

小野原村の西端辺りか

寄り道開始地点に戻ります。 西に真っすぐ190mあたり小野原西1丁目7-7の三ツ辻北側が高札場ではなかったかと思います。
今はその西30m(小野原東2道標から670m)地点の左(南)側に常夜灯がたっています。明治の地図では「小野原東2道標」が小野原の集落の東端で、その横に「太神宮」常夜灯が立っている。村の西端にはこれと対で建てたものと思える「金比羅大権現」常夜灯がある。東の紀年は「寛政八年…于秋」、西は「寛政八年九月」
(1796年)と少し表現が違うが同時に建てたものでしょう。
天保国絵図では西の新家村までが嶋下郡となっています。また東の豊川辺りに一里塚があったように描かれて、山崎通分間延絵図では高札の位置が読み取れます。

村西の常夜灯から少し下ったあと登り返して新家村集落を通り抜け440mで、右(北)に鳥居のある三ツ辻になります。鳥居の右(東)に二基、左(西)に一基、都合三基あります。鳥居は勝尾寺へのものと思われます。ここから北へは道標・丁石マニアにはたまりませんが別項目にさせて頂きます。

大鳥居の三基の道標

左側の三十六丁石

右側の道標と丁石

右端が丁石、後ろに鳥居解説板

東端の一基は「粟生新家(あおしんけ)1大鳥居南東の丁石」とし
そのすぐ左(西)隣は「粟生新家1大鳥居南東二基の内西側の道標」とし
西側の三基目は「粟生新家1大鳥居南西の丁石」としました。

表参道から勝尾寺を北に見下ろす

何度か建て直されて平成十五年とある

丁数は無く道標とした

鳥居の額には「勝尾寺」とあり、「于時寛文六年丙午…」とあるが再建されたものであろう。反対側にいきさつが書かれている。
東丁石は「自是山上惣門三十六町」「大坂内淡路町小嶋長左衛門後室」と彫られており、 西丁石には「三十六町」「大坂内淡路町/小嶋屋長左衛門後室」とあり、施主はいずれも長左衛門さんの奥さんであろう。なぜ二基も立てたのであろうか。このあたりのことは、各道標の詳細に書いておりますのでそちらを参照して下さい。結論のみいうと「東は丁石は元位置のままで、西の丁石がここに移設されてきた。」とします。尚、ここから北に勝尾寺までの道を「表参道」と表現しています。参道別の一連の丁石は下記のボタンから参照してみて下さい。
尚、36丁=1里で約3.9㎞となります。ハイキングなら二時間少しだと思いますが、ここから表参道を行くと、三十丁あたりから割とキツイ道になったような記憶が有ります
三基の内の真ん中は「左、勝尾寺二階堂道」とするだけで丁石ではなく普通の
道標としました。施主も異なり同じ場所に立っていても問題はないでしょう。これは近接移設のようであるが今の位置にあったとして、南面に「左、勝尾寺二階堂道」、施主が「大坂」とあり、大坂から来る人を主に案内する目的と考えると、果たして大坂からは西(今宮方面)から来たのか、東(小野原方面)から来たのか、どちらでしょうか。クイズとしておきます。

「今宮2丁目5」の四辻を西に見る
左の電柱裏に住所表示(南)に寄り道する

寄り道、今宮会館前道標

鳥居から道なりに760m(途中アップダウンあり)で、現R171号今宮交差点の南20mの交差点に出ます。交差点としては一つの信号でまかなっているようで、横断歩道も旧道北側に一つしかありません。辻北西部に「柳谷観世音菩薩」の石碑があります。石碑前から160m西地点に四辻があります。なんの特徴もありませんが左手前(南東角)電柱に「今宮2丁目5」とあります。ここで少し寄り道です。先を急ぐ方は読み飛ばしてください。
鳥居からでは道なりに930mの四辻を左(南)に折れ道なりに下っていきます。110mで池の北端に突きあたり右(西)に曲がるしかありません。この右角に今宮会館があり南面して建ちます。この南玄関左(西)に「今宮2今宮会館前の道標」が立っています。南面に「右、大坂/左、の道」とあり、元は北向きに立ち南の大阪方面を案内していたようです。

今宮会館前の道標を北に見る

今宮会館前から100m分岐辻を南に見る
藤色民家を右に折れる

墓地の道標を南に見る
40m南の三ツ辻から府道121号までの旧道が途切れる

寄り道2、今宮墓地の道標

寄り道二つ目です。今宮会館前から南へ池の端を進み100mの三ツ辻(手前20m右に今宮消防団庫あり)を右(南西)に折れ、道なりに270m坂を上ると三ツ辻になり右前(南西)が墓地になっています。この墓地の角に南向きに「西宿3今宮墓地の道標」が立ちます。南面に地蔵座像と「右、かちおうし/左、(い)けた」とあり、寄り道のために歩いてきた道が、勝尾寺への道であったことを示しています。左は川沿いに出て南西に進むのではなく、北西の西国街道の西宿に出る道であったようです。今は道標より40m南に広い道が通っているが、平成7年地図では北へ繋がる道はなかった。尚、明治の地図で墓地と道の位置関係から、道標のあったと思われる分岐点の辻は今より40m南辺りにあったと思われます。

今宮墓地の道標を北に見る
右が勝尾寺への道

南は豊中市上新田2-4-9の道標へと続く

西国街道を再出発

今宮5丁目交差点北西部の柳谷観音碑

千里川西の青面金剛
径1m程の楠が2本

旧道に(520m)戻り再出発です。「今宮2丁目5」の四辻からです。
100mほどで千里川を渡り、380mで左(南)に青面金剛石碑(注)を過ぎ、540mで旧道は今の国道の西宿2丁目交差点で吸収されてしまいます。合流して西へ50mの西宿西交差点を北西に渡ると旧道の痕跡らしい道が北側に分岐しています。振り返ると旧道が一直線であったように見えます。60mほど西に進むと車止めがあり、その先は公園の遊歩道となっています。これを道なりに140m進むと2017年には「西宿1の道標」が立っていたが、現在は北大阪急行線延伸の工事中の壁でふさがれ、確かめようがない。
新御堂と交差する萱野交差点の北東部公園の入り口であった。

(注)、青面(しょうめん)金剛は「庚申信仰」の本尊とされ、中国道教の「三尸(さんし)説」にからめた信仰らしく、「庚申」の日には、今で言う徹夜の飲み会の要素を持っていたようで、近世においては人の集まるなじみ深い場所であったようです。

旧道合流地点から西宿西交差点を見る
正面水色の右に旧道

①西宿1の道標2015年8月

②2017年11月

③2021年9月

④2021年9月
残っているのを確認

横に有った説明板

西宿1の道標

大変きれいな道標で西面に「み乃於山能入(口)」とあり、南面「寛文拾貮(1672)年壬子五月」東面「天保十一(1840)庚子春(追修)」とあり箕面市では古いもののようだ。「もとは萱野小学校東側、西国街道から箕面に向う三叉路にあった」と説明板にあり、これとは別に農協前とする資料もあり、何度か移設されたようである。2021年9月中旬、工事現場が少し片づけられたようで残っているのが確認出来ました。

萱野交差点西の旧道復活地点から

旧道復帰点を西に見る
50m先の突当りから
左奥は向畑公園

さて、旧道の続きですが、上でも述べたように「西宿1の道標」が何度も移設されたように、ここから西への道は大きく変わっています。
とりあえず、ほぼここからなら旧道であろうと思われる地点へ向う事とします。上記写真の③から左(南)へ20m進むと現R171の北側歩道にでます。萱野交差点の北東角にあたりますが、これを南西角に渡ります。R171に沿って西に20m萱野西交差点を左(南)折れし、110mの四辻を右(西)折すると正面50mにガードレールが見え行止りに見えます(向畑公園北西角)。ここが旧道の復活点と思われます。明治の地図では「
西宿1の道標」から南西のここへ、ほぼ直線的に道がつながっています。の道の一部は残っていそうですが、案内が複雑になるのでやめました。企業敷地内に地蔵の祠らしきものが見えるのが、唯一の旧道の痕跡と出来る程度です。

萱野三平邸趾碑を西に見る。入口は先の辻左

萱野3の道標

向畑公園北西角の突き当りから始めます。
小さな川が正面に有り左(南)に曲がるだけです。20mほどでこの川を越え西に向きを変えて道なりに進みます。この辺りでは川の名称も橋の名前も分りません。向畑公園西の橋から140mの左手(南側)に「萱野三平記念館」への入口四辻があり、越えて30mの三ツ辻左手前(南東部)に「萱野3の道標(三平の墓を案内)」が立ちます。
三平の墓がある墓地入口までは道標の示す南へ道なりに千里川を越えて360m程です。興味のある方は寄ってみてください。

萱野3の道標を南西に見る

芝村高札場説明板(加工済)

「萱野3の道標」から20m西の左手(南側)に芝村の高札場を示す案内板が立ちます。『山崎通分間延絵図』でも高札場とすぐ西の池や橋が確認できます。また、一里塚も絵から想像すると高札場のすぐ後ろにあったようです。絵図にある寺は今ものこっているようですが木下天王とある多分神社と思うのですが、これが見当たらないようです。

山崎通分間延絵図
芝村あたり

旧道再開地点から西250mの三ツ辻を西に見る
左、旧道へ

「牧落2の大きい道標」

牧落2の道標二基

芝集落をぬけ旧道再開地点から250mで三ツ辻に出てこれを左(南)側にとります(右はR171へ)。530mで「萱野(かやの)3丁目南交差点」を過ぎ、稻(いな)の集落を越て1.3㎞で現R171に合流します。合流後150mで「牧落交差点」となり、これを北西に渡ります。交差点北西から西へ90m地点で旧道は北寄りに分岐しますが、ここには歩道橋がかかり「箕面市牧落」と書かれておりこれを渡ってもいいでしょう。分岐点から西へ230m地点に筋違い四辻があり、右手前(北東)角に道標が二基たっています。「牧落2の大道標」と「牧落2の小道標」としました。

「牧落2の小さい道標」

大きい方の道標の西面に、(右指差像) 「大坂四リ半/はっとり二リ/天神道」は両方とも天神さんへの道案内で参詣用と思われ、北面の「刀根山御坊從是南十五丁」も勿論参詣用です。小さい方の道標は西面「みのをみち」としており「箕面山」又は「箕面寺」への道(北への)案内と理解して良いでしょう。
いずれも東西の道(西国街道)は案内する必要が無く南北への案内で十分だとしたと思います。南への道を明治の地図で見ますと「豊中市春日町2丁目の道標」のあるやや北辺り(野畑)につながっており、その道標が「右、かちをうし/左、みの於」としているのを見ると、豊中方面から勝尾寺を目指す人はこの地を通ることはなかったと思います。さらに南をみますと、小路の南で分岐しやや西へ進めば豊中で能勢街道に、東寄りに南行すれば長興寺南で能勢街道に合流します。この東寄りの道を明治の地図では「箕面街道」としています。(上記クイズのヒント)
なお、山崎通分間延絵図では高札場より南へ「是ヨリ大坂江道法凡五里」とし、北へは多分「是ヨリ
平尾村陣屋迄道法凡十八丁/箕面山迄道法凡二十四丁」としています。平尾陣屋跡が屋敷山稲荷とすると距離がピタリと一致し、後の「箕面山」は龍安寺になるのではないでしょうか。

今の豊中市春日町2丁目の道標

瀬川本陣跡

「牧落2の道標」二基から西へ350mで南から来る広い道と合流し40mで阪急箕面線の踏切を渡ります。西行する場合は問題ないでしょうが、東に上る場合は細い道へ直進してください。渡って870m地点が阪急桜井駅北側の四辻となり、この西から道が狭くなります。1.5㎞地点右(北)側自動車教習所前に「瀬川・半町(はんじょう)…本陣趾説明板」が立っています

瀬川・半町本陣趾説明板より東を見る

その西10mに今の案内があり、西「昆陽(こや)宿約7.5㎞」、東「郡山(こおりやま)宿約9㎞」と表示している。250mで「瀬川2丁目交差点」を過ぎ、430m地点で大きく南へ曲がる三ツ辻となる。ここから南へ方向を変える西国街道の東側は箕面市であるが、少し進むと西側は池田市になると思います。よってこの辻迄の案内としました。

瀬川2丁目12三ツ辻(今井橋東30m)を西に見る。箕面市西端とした

クイズ:大坂(例えば船場)から勝尾寺へ表参道鳥居を通過して参詣する場合、西(今宮方面)から来たのか、東(小野原方面)から来たのか、どちらでしょうか。この質問は能勢街道を来たか、吹田から山田街道を利用したかと同じ質問になります。
私なりの答えです。「西の今宮から来た。」
総延長では能勢街道が短かく、北浜辺りから船を使い江口又は吹田へ、或いは鳥飼で下船すれば、歩行距離は山田街道経由が短くなるでしょう。落語の「池田のしし買い」にあるように庶民は徒歩が基本と思われますので、「能勢街道」経由、三国から豊中市の三屋(庄内東町)で街道と分かれ、熊野田(又は下新田)、上新田、中環で道は途切れますがその後現府道121号沿いに進み、箕面市今宮に出て東折れし鳥居前であったと思う。現在この経路で府道121号が三ツ辻で北東に折れる地点(豊中市新千里北町2丁目)から北の箕面市今宮町4丁目10のコンビニの三ツ辻までの間が途切れているが昭和42年以前の地図では道が確認できる。この道筋を確認出来る道標が、移設はされているものの要所要所に確認できます。

青線は文中の経路と異なることがあります。

2021/9/10 作成

おわり