茨木市
二次調査_最後

1.沢良宜浜1加円の曲がりとの道標(遺失)

私の勝手な感想ですが、茨木市の南部は行きにくいのです。二次調査分の最後となります。
 では、モノレールの沢良宜駅からスタートします。
一番目は「沢良宜浜1加円の曲がりとの道標(遺失)」となりますが、『わがまち茨木』にある遺失直前の位置がよく理解できません。「沢良宜浜農業会館」は駅の近くですが、出版時にここであったかは分からない。そこで元位置を勝手に想像しそこから見ていきます。
 駅の東に有る沢良宜公園内を南に下り、府道143号の大きな横江交差点から南に450m程、公園南端ちかくの駐車場南東で東の一般道に出ると、すぐに三ツ辻となる。三ツ辻を左(東)に折れ100mで最初の四辻となり、北東部に墓地があります。ここが元位置候補の一つです。明治の地図ではすぐ東の辻と合わせてHかK字型の様に見え、墓地の記号も確認できます。今は何も無く道標が必要な雰囲気も無い。文中の「加円の曲がりと(現公園か)」はこの西に当たると思います。 

№1. 遺失道標の元位置候補地を南に見る、横江1丁目14か

№2. 農業会館前の石碑と力石、道標は無し

 この四辻を北に折れて、現沢良宜浜農業会館を目指します。北に180mで右にもう一つの墓地、左に公園となり道なりに進むと新聞社の工場北西で筋違いの四辻になり、これを北東の道に入り、府道143号を地下道で越えます。
地下道を出ると急に雰囲気が変わり旧道の趣が感じられます。トンネルから65m北、右手の大きな屋敷の蔵が立つ三ツ辻を右(東)の路地に入り、すぐ正面に見えるお屋敷を北にグルリと廻り込み(路地の距離160m)東の四辻に出ます。この四辻は北東に公園、北への道は自動車進入禁止となっていますが、これを北に折れ40mの右手(東側)に「沢良宜浜農業会館」があります。
 大変遠回りさせてすみません、沢良宜駅からは直線東250m程です。元位置など見たくない人は公園を突き切って60m南に進めばお屋敷西の三ツ辻路地入口に着きます。

2、3番目は中条小学校に移された二基ですが、途中に現況を見ておきたい二基と資料館があります。その為若干回り道をします。古道のトレースにはならないが歩きやすさの為、沢良宜浜農業会館を北に70mのT字路を西に折れ(古道は東折れ)、100m強で公園内に入り、河川跡であろう道を北に進む事にします。桜通りの西側公園を行く方が楽しいでしょう。沢良宜神社前交差点に出たら、交差点を北東に渡り公園東の側道に入ります。徒歩なら北部市場引き込み線の橋脚脇をすり抜けて入れます。ここから北に道なり190mの三ツ辻(玉櫛住宅の北西角)を東に折れ、90mの四辻を左(北)に折れると、10m先で道が無くなるように見えます。その右角に「玉櫛1の道標」が立っていました。
 心配していましたが残っていました。こんな所に立っているのはこの南北の道が旧道なのでしょう。明治の地図で見ると東からややハスに道が交わる三ツ辻であったようです。

№3. 残っていた玉櫛1の道標

次は文化財資料館を目指します。
 又も旧道を離れます。城下へ続く枝切街道は道なりに北へ向いますが、資料館はほぼ西400m程になり、玉櫛1道標の10m北のT字路を西に折れ、100mで桜通りを横断し、公園も抜けて、公園西側道を南へ50mの三ツ辻を西に折れて、道なりに210mで引き込み線下の文化財資料館入口に着きます。資料館の見学はおまかせして、館内展示の一基、西側に回り込むと周辺に四基の道標、北庭園に一基と都合六基が一度に楽しめます。

確認のつもりで寄ったのですが、何と見覚えのある二基の道標が増えていました。
 と云うことは事は、元の場所には無くなった事になります。
 後日確かめに行くとやはり在りません。何れも住居新築に邪魔になったものと思われます。

№10. 本町6-5の道標

№11. 島2-14の道標

枝切街道沿いにもう一件確認します。玉櫛1の道標に引き返しても良いのですが、別の道にしました。
 資料館南の入口から、小川西岸沿いに北に500
m広い道に突当り、東の交差点を北東に渡り、東へ320m突当りT字路を左(北)に折れ110mで水尾公園南西入口の三ツ辻になり、ここに「水尾1の道標」があります。公園内である為当分遺失の心配はないでしょう。

№12. 水尾1の道標

2,3.中条小学校の道標(二基)

さて、大変遅くなりました本日の二番目三番目へ行きます。枝切街道筋から亀岡街道系に移ります。
 公園南西口から110m南に戻ります、この三ツ辻を右(西)に折れ、元来た道を引き返します。上記資料館からやって来た時に越えた交差点を西に過ぎた390m地点で車の通れない阪急京都線の「奈良街道上三番踏切」になります。これを越え踏切から西へ130m進むと広い道に突当り、変則の四辻の北への細道に入ります。奈良の村中への道でしょう。
 150m北の筋違い四辻を道なりに西へ曲がり、100m程の明教寺北西角の筋違い四辻を右(北)に折れ、後は道なり(100m地点で東、150m地点で北)に、北へ230mで中条小学校の南東角に出ます。

№13. 中条小南東角

№14. 中条小の道標1

中条小学校南東角にも門が有りますが、その北100m、校舎の東側が正門でしょう。この門内左手すぐの植込み中に一基が置かれ、5m程南にもう一基が置かれています。
 放課後であれば多分ボランティアの受付の方に来意を告げると入構出来ると思います。が草木が有り季節を選ぶ必要を感じました。

亀岡街道を宇野辺で分れ、奈良町を通って茨木に行く道を明治期には高槻街道と呼ぶようです。私説では近世「津門中道」としています。

№15. 中条小の道標2
(右奥)

4.中穂積2私邸内の道標

№16. 中穂積2の道標

二番目、三番目がかたまっていたので、四番目に向かいます。
 校門を出て北に80mの広い道を西へ、何時出来たのか知らないがこのままJRを越えられるようです。800mで府道14号松ヶ本町北交差点に突当り、この筋違い四辻の南側の細い道を西に入ります。50m程で突当る道が明治の頃に亀岡街道と呼ばれた、宇野辺からの道でしょう。
 亀岡街道に入り北に550m、四辻南西部に「中穂積2の道標」が立ちます。これを左(西)に折れ250m地点が四番目のある私邸ではないかと見当をつけた場所です。見つかりませんでした。

№17. 中穂積2私邸の道標を探した辻

5.上穂積4の道標(遺失)

五番目を目指して、未確認の私邸から亀岡街道迄250m程東に戻ります。
旧街道を北に1.1km進むと三ツ辻(Y字路)になり道標の欲しい地点です。そう、ここに有ったらしいものが五番目となります。当然突当りの角にあったと思いますが、『わがまち茨木』に昭和40年頃には立っていたらしいとあり無くなって久しいのでしょう。ただ背後にあった民家の石垣は現在でもほぼ当時のままではないかと思える。

№18 上穂積4の道標(遺失)

六番目に行きますが途中「郡3の道標」に寄ります。
上記写真を左(北西)に進みます。70mの三ツ辻を道なりに右(北)へ、遺失道標から220mで名神高速を潜り、北側側道を京都よりに40m程で郡3丁目の信号になります。これを左(北)に310mの四辻南西角に、ごみ集積場と化した「郡3の道標」が立ちます。
 右の写真では、右(南)から来た事になります。街道はこれを左(北)へ進むと見えますが、古くは、この写真を撮っている位置(西)に折れたと思われます。

№19. 郡3の道標

№20. 道標後ろを右に旧道へ

左は亀岡街道から「郡3の道標」を北西に見た写真です。
電柱の後ろ10m先を右(北)に折れるのが、近世の亀岡(亀山)道であると考えています。明治の地図でもそのように見えます。
左の写真を
北に折れて、50m北の(写真右)手前の辻が、これから行く六番目道標の元位置と推測する辻になります。

№21. 郡小学校の道標の元位置候補地

六番目の元位置地とした辻(№20)から、15m北東に進み、四辻の少し広い道(白い家の前)を、北へ50m進み、最初の三ツ辻を西に折れ(亀岡街道から分道祖本街道へ)170m、四辻を北に曲がり、道なりに270m左手が池の土手でコンクリートブロック積みの三ツ辻を右に分岐し90mで郡小学校の校門前になります。

6.郡小学校の道標

№22. 郡小学校の校門です

六番目、「郡5郡小学校の道標」です。門壁後ろのポンプ室南側の植込み中に立っています。当然移設で、元位置は上記に述べた地点と考えました。
 消防の警鐘台の台石に使われていたと云う事で、痛々しい穴が開いていますが案内部分は残っており、明治43年の銘があります。

№23. 道標を南東に見る

七番目、二次調査分の最後になります。茨木市の西端です、箕面市との境はどのあたりでしょうか。
 
校門西の三ツ辻を北西に進むと道祖本街道を宿川原に続き、西国街道に合流し岡山(現豊川)から上河原(現宿庄)と進む事にしましょう。途中見ることが出来る道標を順にあげておきます。

郡小学校南の辻から600mで「椿本陣東の道標3基」

№24. 椿本陣の東、西国街道に合流部、右から来て手前に進む

椿本陣東三基より西へ330mで「宿川原自治会館の道標4基」に出会う

№25. 左に集会所、右分岐は勝尾寺方面へ

自治会館前の四基より西へ590mで「豊川1の道標」のある三ツ辻へ

№26. 豊川小学校を案内する道標、奥(北)へ、左右は西国街道

7.宿久庄5の道標(遺失)

№27. 宿久庄5の道標(遺失)、奥(南)から来た

「豊川小学校」の案内に従って、北に折れて現国道171に出ますがここから北は旧道が判然とせず、西に清水郵便局前交差点まで進み、北折れし、1.5㎞で豊川小学校北西になります。七番目「宿久庄5の道標(遺失)」の元位置が『わがまち茨木』に添付の地図では、小学校北西ではなく東に川を渡り現府道4号との合流点近くを示しています。

№28. 『わがまち茨木』の示す辺り、右奥へ府道、左豊川小学校へ

以上で茨木市二次調査分を終わります。今回は小学校の2基が確認出来ました。
新たな
道標の発見を願うと共に、既存の道標が無くならない事を祈ります。

おわり