丹生山表参道2

1.二日目お断わり

さて、表参道丁石の続き(二日目)です。続けていったのではなく少し日が空いています。使う写真は新旧入り混じるかも知れませんのでお断わりしておきます。

2.宿題

前回の続きなので、8丁から始めればいいのですが、此の日も25丁から登っていますので、前回やり残した事を挙げておきます。
①.25丁の南面右側の写真を撮り直す。が既に忘れて通り過ぎる。帰り際に挑戦する事にする。
②.24丁の紀年銘と思われる部分を、15丁、1丁と同じアングルで撮影する。
 山側になっていて足場の確保が大変な上にカメラを入れる角度が難しい。完全に日陰であり、照明を当てなければ読めない。こんな時もっと高級なカメラであったならと悔やむ。因みに今のカメラはデジカメとしては3台で、マニュアルでピントが合わせられる点と高倍率の焦点距離を持つことが決め手になったo社製のものです。高画質で撮らない為か、jpegで保存する為か気に入らない写りです。今となってはo社はカメラ部門を切り離したように、世間には受け入れられないものであったのでしょう。撮影中の不具合なども頻繁に起きていた所、前回はシャッター、ズーム、撮影モード切替等一切出来なくなり、その上電源ボタンを押しても切れなくて、一度帰ろうとした。思う所があり電池を抜くと復旧した為、調査を続けた経緯もあります。
 グチはこれぐらいにして。
③.16丁北面の再撮影
④.15丁正面以外を再撮影、特に紀年銘部分が良く見える様に。
⑤.12丁下部の写真がピンボケであった。再度
⑥.10丁正面ピンボケ再撮影。

3.再びのグチ

この後、8丁からの初見となります。
 その前にMF(手動合焦点)のカメラにしたのに何でそんなにピンボケが多いの?。
実はこのMF機能使い物にならないのです、ファインダーを覗こうが、モニターを見ようが、焦点リングは無限に回り近接の場合はマズ焦点が合いません。イメージ部分の一部が拡大表示される等不必要な機能を付ける前に、回転角によりピント移動距離を決定すれば良いだけなのに、どんなプログラムを書いているのでしょう。多分開発者が写真機を使い込んでいない結果がこうなるのではないか。リングにリミッターを付けるとコストが高くなるのでしょうか。シャッタースピード、絞り、ピント、フィルム感度が個別に設定出来た昔は「ドコエー!!」

4. 8丁へ

前回の9丁がこの南東尾根の参道中最も南ヨリの転向点であった様で、西、東とジグザグに折れた後尾根筋を北西にほぼ一直線に進む状況になります。8丁は9丁から1丁に足りない距離、左手山側に建っています。少し傾斜が緩くなった部分です。1丁より短い間隔で立つ理由は後に述べますが移設されたものと思います。

8丁を北西に望む

8丁北東面上部

8丁北東面下部

8丁右(北西)面下部、文字かも

8丁は折れた様子も無く綺麗な状態であると思います。ただ裏面の仕上げは少し手を抜いているようです。
 正面は北東をむいていますが、右面(北西面)下部にヒョットすると文字が有るかも知れません。

8丁北西面に心を残し振返りつつ後にする

5. 7丁へ

7丁を西に見る

8丁から1丁に足りず7丁に至る。道は尾根の南側を進むので左手が谷側になる。その左手に上部を無くし、やや左に曲がる基部を見せて7丁石が建つ。現東面下部には文字らしきも見えるが?。

基部が曲がる理由は後述する。

7丁北面上部

7丁東面下部、文字か

7丁東面の基部、左曲り

7丁を南東に振返る

6. 6丁へ

7丁からやはり1丁足らずで6丁に着く、右(北側)尾根側に立つ。

6丁を北西に見る

6丁は木に寄り添うように立つ。裏面はやはり少し粗いが綺麗な感じがする。

6丁丁石の古い石と思われるものが、社務所直下の石垣に立て掛けられており、それに代わり新しく建てられたものであろう。

6丁南面上部

6丁南面下部

6丁旧丁石か

社務所下旧6丁石(左)

6丁を振返り東に見る

6丁過ぎの「丹生山系縦走路」の看板を南に見る。

6丁から30m程先に「丹生山系縦走路」、「←藍那駅」「→丹生山」とする案内板が木に括り付けられていたがこれが現在歩いている参道を示しているのか分からなかった。即ち藍那駅への道を知らないのです。「藍那古道」を案内するものでしょうか。
 ここで参道は尾根筋の南側から北側へと位置を代える。

7. 表参道の付替え2

6丁から90m高度差30mで5丁に到着する。ここでも1丁より短い。

明治20年地図に表参道(ピンク)を書き込んだ図。
分かり難いが11丁から6丁へ西に直登する道(破線)しか無い。南に回り込む道は今の地図から想像したもの。

さて、ここで図を見て下さい。確か神戸の図書館で手に入れた「明治20年の地図」であったと思いますが、11丁丁石から6丁丁石の手前にかけて表参道が西に直登するように書かれています。私が書いたピンク色の経路は二本で、現行地図の道も載せてみました。何方が参道なのでしょう。現在の地理院地図や、『今昔マップ on the web」の明治43年測図の地図には、11丁から西に向かうジグザグ道が載っていません。依って今の参道は明治中期以降の新しい道と考えられます。
 丁石は少なくともそれ以前から存在すると思われるので、10丁から6丁、場合によれば5丁も含め移設されたものと考えます。先のルート図を見ると直線距離は断然近いのですがこの間に丁石が5ないし6本立っていたとなるとかなりの九十九折れ(ジグザグ)道であった事が分かる。このようにして見ると7丁丁石の基部が曲がっている事実はキツイ傾斜の山側にしっかりと埋め込む為に必然の形態である事が分かる。現状の7丁石の地形ではあまりその必要性を感じない。丁石の数から九十九折れの道の総延長は、現行の道よりも長かったと出来る。

8. 5丁へ

5丁を北西に見る。右は谷となる。

5丁南西面、沢山の折れ痕が分るだろうか。地輪部分だけで3か所も見える。

5丁北東面を見ると基部も折れていて4ヶ所、即ち5分される。

5丁南西面上部、風輪(台形様)の上下に接続痕あり。

5丁丁石は全体が7片に分れ、接着剤で補修されて道の右手(谷側)に立っている。基部の回りに置かれた補助的な石も含め、何んとも異様な丁石である。

5丁を振返り南東を見る

9. 4丁へ

5丁をを過ぎると南東尾根のほぼ平坦な道となり少し下りながらほぼ直線に1丁進むと4丁丁石が左手(山側)に立っている。

4丁を北西に見る

4丁北東面上部

4丁北東面下部

4丁南東面下部の接続部

4丁の下部をよく見ると折れ痕があります。南東面の基部上の左右の隅が少し欠けているだけで綺麗に接がれています。単純につないだだけのものか気になる所です。

4丁を振返り南東を見る

10.義経道合流

4丁から表参道は少し下りながら80m辺りで、左(南)から登ってくる義経道と合流しています。この三ツ辻の左右に現在の案内板等が設置されていますので、挙げておきます。

合流地点手前から3丁丁石を見る。30m程先に見える。左の木の後ろに案内が建つ。

木を回り込んで南を見ると「き2-4-6」の黄色い板を上に載せた木杭が立ち、「→千年家」を案内している。これが義経道と呼ばれる道で、サイクルtターミナル横に繋がっている。

「き2-4-6」地点は4丁からわずかに下り3丁へ少し登る。左(南)住吉道は谷沿いの道を上がって来たもので、この状況は当地点が「たわ」(鞍部)である事が分かる。但し義経道の対向となる北(右)へ下る道がなく三ツ辻である。

「き2-4-6」地点は、義経道探索(この後帰り)の出発点になります。

合流地点北側から3丁を北西に見る。義経道を登って来ると右の案内板が正面に見える。

北東向きに案内板を見る。左(北西)に目的の丹生山神社に進む。義経道も表参道に合流し一本となり進む。

11. 3丁へ

今はすぐ先の3丁を目指します。

3丁から北西を見る。少し登り気味になります。

3丁東面

3丁東面上部

3丁東面下部

旧3丁石

3丁は道左(南)側に置かれ、東寄りやや北向きの面が道に正対する。その為か苔などで汚れている。現状では山側に置かれ日陰側になるので止むを得ないか。

12. もう一つの3丁石

実は3丁丁石はもう一本あるのです。社務所下の石垣に旧6丁丁石と並べて置かれているのです。これには上部が無い為再利用が出来ず新しい石で代替したものと考えられます。「従丹生山…」が追刻である事の証明になるものか。

3丁左面、文字なし

3丁右面、文字なし

旧3丁、「自丹生山三

3丁を振返り南東を見る

13. 自と従

「自」と「従」について、
 いづれも、「より」と読むようで漢文の様に下から返って読む。「時間や場所の起点を示す。」(『現代漢和辞典』大修館)とあり使い方の説明はない。Web上で「「従」は「自」と比べると「それからずっと」という意味合いが強い」とする記述があったが良く分りません。私としては使用時代のヒントになればの思いが有ったのですがどうも無理なようです。又「従」に旧字「從」が有るので最近かと考えるも、当丁石に使われる「従」当用漢字(1946年)制定以前からも使われており字形では判断できないでしょう。

14. 2丁へ

さて、3丁から2丁を目指しましょう。3丁からほんの少し登りがキツク成りますが、直に平らになり1丁の距離に2丁が立ちます。
実は2丁丁石までは以前来たことがあります。

2丁を北西に見る

2丁の20m程手前に「き2-4-7」119通報プレートが立っていました。林が終わり竹藪になる地点ですが、直前の標識から近すぎる点が気になります。辻が有ったのでしょうか。

2丁を北西に、2022/4の写真

前回は竹藪が整備され道のまん中にまるでさえぎる様に建っていたのですが、今日は北側の藪が迫出し道は左(南)側を通過しているように見えます。中央に立つのは三ツ辻であった可能性があると考えていたのですが?。

2丁左面

2丁南西面

2丁右面

2丁南西面の根元と台石

2丁が他の丁石と変わっている点があります。上部を失った丁石を除き高さがやけに低いのです。「丹生山」と「二丁」の間で折れてはいるが、失った部分は無いようにみえ元々低いようです。又足元を見ると台石に嵌め込まれて立っている様に見えるので、台石が環状になっていて地輪部分が深く埋っている為かも知れません。
 基部の見える丁石から察すると単純に地中に埋め込まれただけ(周囲に補強石を持つものもある)の丁石が多い中で、丁寧な仕事ぶりがうかがわれる石である。
 尚、左右・裏面に「自丹生山…」とする文字は無いと思われる。

2丁北東(裏)面文字みえず

15. 1丁へ

2丁を過ぎ南東を振り返る

2丁を過ぎると道はほぼ西向きになり、80mで右手石垣の上に「丹生山城/丹生山明要寺」史蹟碑が見える。

史蹟碑を西に見る。明要寺の位置は知らない、石垣の端に進む

石垣の南西角に置かれる1丁を北西に見る

終点となる丁石の場合他と異なる様式を持つ場合が多いが、この石にはその特徴が無い。この石を見る限り自立しているというより、石垣に立掛けてある感じが強い。

16. 1丁の紀年銘

1丁北西(左)面、「自丹生…」

1丁南西面、「従丹生…」

丁数的にはこの石が最後となるのであるが、上にも述べた特別感は無い。ただ北西面には例の「自丹生山一丁」とする文字と下部に紀年らしい銘を持っている。

17.なんと永徳三年

『新兵庫史を歩く2』NHK神戸放送局編2013年刊では、多分この北西面下部を指すであろう記述中に「永徳三年(1383)の銘」とあり、これが正しければ、多分摂津国内で最古の丁石になると思うのだが如何でしょう。なんとも読めそうで読めない字です。永の二画目が右に出っ張たものか、一字なら、未、朱、耒(スキ)、来の別字、等がよく似るが。
 又、「永徳」とした場合「徳」の部分が似ていないのと、もし「徳」とするなら字のバランスが悪い様に思う。或は「三」と読み、永と三で永徳三年としたものかも知れない。私は当初「未年(みとし)」等とも思っていた。詳しくは「神戸市丹生山丁石一覧」を参照下さい。
 是非皆さんも挑戦してみてください。
因みに永徳は室町時代の北朝の年号で1381/2/24~1384/2/27になります。

1丁北西面下部

同左、年号部分「永…」か

同左、その下「十一月十六日」か

同、一文字目

同、二文字目

その下は月日が読める。こちらは「十一月十六日と読みました。気になる点として、年号、月日が一直線に並んでいない点です。この事も上に見える二文字が年号とし難い点でもあるのです。

18. 1丁横の丁石

1丁左に転がる?丁石を南東に見る

?丁の右面

悩みを残したまま、北西面から左に3m程目を移してみましょう。同じような石が草の中に転がっています。何時ものように様に草刈りをしてみると、1丁丁石に近い側(南西)を上部として右面に見覚えのある「自丹生山」と見えます。丁数は読めませんが多分調子の残欠として間違いないと思います。場所からすれば1丁が疑わしいが、右横に同じ「自…」の1丁があるのでどう考えればよいか悩みます。

?丁石「山」の下は何丁

19.二の鳥居前石

1丁からゴールの北西を見る。50m程先に鳥居の足が見える

いよいよゴール0丁を目指し1丁から北西に進みます。右手(北)は広場風になっていて小さな祠があったりするが、50m程先に石作の鳥居が見えます。麓の鳥居から二番目なので、二の鳥居とします。

鳥居の手前10m程が三ツ辻になり、右(北西)に平らな道を進むと、北参道に繋がる道になります。此の道はしばらくは帝釈山への登山道と共通ですが、西に分れシビレ山方向に向かう道が丁石や道標が残る北参道です。
 そちらには向かわず、二の鳥居へと直進します。

北参道合流点より二の鳥居を北西に見る

丁だけ石から1丁を振返る

二の鳥居前の丁のみ石北面

二の鳥居の手前10mで道が北方向に分岐している、神社へは真っすぐ北西に鳥居を潜って進みますが、鳥居右手前、石垣の角に折れた石が立ちます。気になったので一応覗いてみると、「丁」が見えます。丁石でしょう。0丁でしょうか。近世に0(零)丁の概念はないと思うので、「半丁」等とあれば面白いのですが、取り敢えず写真だけ載せて鳥居を通過して1丁の距離まで進む事にします。尚、断面の大きさが21x21㎝なので、表参道系統の石であろう。もしここから1丁ならば拝殿前の距離になりそうです。

20.旧6,3丁石

社務所下石垣を西に見る

旧丁石二基を北東に見る

左六丁

右三丁

21.目標到達地点は空

1丁丁石から80m程来たでしょうか、石垣の間に社務所に登る階段があります。この階段の手前の石垣に二本の石が立掛けられています。
 右側(東寄り)が「自丹生山三丁…」、左が「自丹生山六丁…」と読め、下部にも文字が見えます。既に3,6丁は見てきたのでこれの代替であるとすれば説明が着くと思います。即ちこちらの石の方が古い事になります。これの他の三面が確認出来なのですが「従丹生山…」の記述が見えないことから、現丁石の「従丹生山…」が追刻である事は疑いないでしょう。両方の記述を持つものは旧丁石を流用し、新たに建てたものには「従丹生山…」のみが刻まれているとしますが、旧の刻字が完全に摩滅した可能性も考えられる。

0丁地点で社務所を北に見る。写真は加工しています、数取器の数字は2歩で1を示し2,175となっていた。25丁石の北50m登山口からの累積です。25.6丁程になる。

本殿前境内より、0丁を東に見下ろす。

現1丁丁石から推定した目的地点です。上の二基の旧丁石から階段を北に登った地点になりそうです。社務所が正面にあり、右手に相撲の土俵と思われる盛土があります。ここが丁石の到達点を示す社標や縁起の石等はありません。25丁が出発点に相応しい石なので、ここにもぜひ欲しいものです。或は、すぐ下に有った二の鳥居前の「丁」だけ石がそれだったかもしれません。

0丁より本殿への階段を西に見る

拝殿を西に見る、奥に本殿

参拝してきましょう。神社はまだ西のようです。階段を登ると正面に拝殿がみえます。奥に本殿があり回り込む事も出来ました。

拝殿前境内南東部より出発点の鳥居を望む。右から1/4辺りになるが?

これで一応、丹生山表参道25丁丁石探訪は終わりました。延二日も掛かってしまいましたが、ハイキングなら半日程度と思います。
 境内から見下ろすと、県道の出発点にある鳥居が見え、遠く多分、鈴蘭台やつくしが丘までみえました。
丁石道を幾つか見てきていますが、出発点が見えるのは唯一ここだけではないかと思います。ただ途中の展望は良くありません。
 清盛が歩いたかもしれない福原への古藍那道も歩いてみたいものです。しらんけど。

表参道はここで終ります。この後3丁迄戻り、義経道を下りますが別項とします。