前回の「東淀川区菅原1-12の道標か」にある町名「國次町」をwebで検索する内に、『enotetuのblog 東淀川区の歴史雑記帳』№86「豊里小学校にあった石の道標」に出会いました。私がテキストとしている『大阪の街道と道標』等の資料には含まれておらず、是が非でも見に行かなければなりません。
前述のblogには、丁寧な解説がされており、頭が下がる思いですが、残念なことに肝心の「豊里小学校」の位置が分からない。これはグーグルマップで解決し、早速出掛ける事にしました。豊里5丁目14-60とあります。東淀川区でしょう。
内環に近い様で、道に不安はありません。学校北側の正門に問題なく到着しました。
校門に着くと、丁度中から男性の方が出て来られて、お聞きすると、「保護者で分かりません」との事。門内では沢山の児童たちが休憩している様に見えますが、先生は居られないようです。仕方なくインターフォンを押しますが、何の応答もありません。やはり土曜日はダメなのでしょう。外から石の姿だけでも見えないかと覗いていると、工事関係者と思われる方が出て来られました。来意を告げると、「私の責任範囲でなら見学を許します。」と言われ、道標のある場所まで案内していただきました。「悪さ」をしないように監視付き見学となりました。有難い事です。
道標に関するお話も聞かせて頂き、何時ものルーティンワーク、掃除、写真撮影、碑面記録、方向、サイズ測定、をこなします。
後日「東淀川区豊里町5-14の道標」としました。
先の工事関係者の方も、御当所の方らしいので、この石にある「天王寺庄」が一般的に使われているのか、お聞きした所、今では使われないとの事でした。
時間が限られていたので、忙しかったのですが、大満足の調査となりました。帰りには「校門出口のボタンを押して下さい」と言われ、戸惑っていると、親切にも自ら押していただき、開扉用のボタンを押して出ていく事だと納得した。てっきり、インターフォンで終了報告をするものと勘違いしていた。
この後は、行先の確認と、旧道の確認を行います。
次は「野村」の集落中心地を確認しに行きます。南へ下る事にし、交差点まで来ました。『今昔マップ on the web』明治の地図で「野村」の北端になるでしょう。この南が渡しになっていたようで、この道が北へのメイン道路とみてよいでしょう。
北に旧道をトレースしながら元位置の候補辻を探していきます。(この時点で「竹間」公園の確認を忘れています。)
そこへ行ってみました。ここは何遍か来たことがある地点です。又、この一つ北西の辻は「瑞光町2(瑞光寺)の道標」の元位置ともした辻です。辻の同定に大変手こずりました。
建設当時とはマルッキリ様子が変わっていると思いますが、ここ辺りに有ったとして問題はないと思います。
前述のブログにある元位置推定地も当辻を示すと思われる明治の地図が掲載されており、それに赤丸印が付けられている。ただこの位置が少し気になる。元位置の推定地点の写真がないためこの図により、辻の西部に有ったと理解します。
又、参考資料として「小林康夫さんの色紙絵」と「高槻街道支線と豊里への分岐点」の写真を載せており、文中で「(色紙絵)に道標が見つかりました。しかしこの位置ですと、左へ行くと能条ではなく大道村へ行くことになります。」とあり、誤りとしておられます。
しかし、私の考えでは、辻の中の建てる位置と向きを誤った為と想像します。
少し述べてみます。誤りと判定されたのは、現南西面の「右、大坂」「左、能条」を絵にある様に、現四ツ辻南東部に北面させて、置いたとしたからではないでしょうか。確かにこの様に置いた場合、左が東方面になり、能条に向かわず、西大道になってしまう。よってこれを解消すべく、辻西部に移し、東~北東面させたと理解しました。
しかしこれでは、西側になった指差し像の面が通行人に見えなくなります。加えて当時は三ツ辻であったと思われ、最も欠けやすい現東陵(東角)が、当たる恐れのない位置(北西~西)に来てしまう。
小林康夫さんの色紙絵を載せる事が出来ないのでもどかしいのですが、私の意見としては、この絵は正しく、当道標の元位置を示していると思う。但し、道路付替え後の移設された元位置とする。小林さんの絵が昭和63年に60年前を思い出し描いたとするなら、昭和4年修正、昭和7年発行の地図を参照して良いでしょう。色紙絵と地図が一致します。絵にある送電塔も地図の送電線と矛盾しません。
依って、現、東淀川区豊新5丁目9-7の辻南東部となりますが、この道標の建立年を明治41年より古いとするなら、東の西大道村に向う道は60m南東の辻から分岐していたと読み取れるので、ここを元位置とします。
「東淀川区豊里町5-14の道標」では、東淀川区豊新5-2-5の西の四辻(旧くは三ツ辻)
N34.745848 E135.537995
の東部に現南西面を北東面して置かれていた」と書きました。
もう一つの可能性を追加しておきます。色紙絵の石の位置が建立当時から変わっていない、即ち、移設が無かったとするなら、建立年は明治41年以降としなければならない。この時、現東陵(東角)のツルツル感が出来上がるかと、天王寺庄に「平田」が含まてれ居り、淀川付け替え(明治27(1894)年~明治43(1910年))以前と思われる点を、どうするかである。
始めての道標はここまでとし、ここまで来たからは、近辺の道標に変わりがないかを確かめておきます。
瑞光寺への道筋確認も兼ねて寺へ、「瑞光寺境内の道標」は前と変わらないと思う。東に向かい、一番無くなる危険性の高いと思われる「大桐3-9の道標」も無事で、同じ集落東端の東頭(ひがしら)地蔵尊祠横の「大桐3の道標」も変わりなかった。
そこから江口村に向かい、「第2江口町会館の道標」は変わらず物置の手前に放置されており、再建はされないのでしょう。最後に新しい「瑞光4の道標」に向かいます。これは場所的に当分安心でしょう。
本日は実質一基のみでしたが、私にとっては初見の道標で、その成果に大満足し帰路に就きました。
めでたし、めでたし。
この記事を書いている途中ですが、東淀川区創設100周年記念事業『東淀川色紙絵展』が区役所3階で開催中(2025年8月18日~24日)と判明。
これから行ってきます。
行ってきました。待望の「南より瑞光寺を眺めて」小林康夫が展示されていました。写真撮影可能、SNS掲載可です。此処に載せます。これまでの記事は、改めたい部分も出てきましたが、そのままとします。
尚、これとは別の道標が描かれた絵が有った。
「30 三番町西より入る道路 駅より菅原町より三宝寺より」昭和63年、豊新4-19-4岡村さんより、とする絵です。
それは、多分下記の写真の突当りの辻、左の絵では一番下部の三ツ辻から西へ240mの四辻東部に建っていたと思える。現、豊新4-9-10のコンビニ駐車場角になると思うが、「着物の袖のある人が指をさし」「右、大阪--左、定専坊」と刻んであったとしているので、当道標との関連が考えられる。【詳細は下記参照】
絵の裏書と思われる文書があったのでそれを載せて置きます。
「70 南より瑞光寺を見て
今より六十年ほど前、小生十才頃以前と記憶している。通称カブト道と言っていたこの辻
が、カブトの角(つの)の様に成って二ツに分かれて居たからか?と想っている???昔
の人がそう言っていた。三宝寺の西の方、現在ダイエーの東の方に小さい橋が有って西大
門と言っていた。門の有った事は知らない。瑞光寺は今も有るが、今上陛下が大演習の時
お立寄になった記念の松の木と碑が有る。大阪大空襲で焼け(た)あと、六十一年に新し
く今の瑞光寺(が)再建されたもので有る。私の子供の頃は狸の居る藪(やぶ)笹生で
有った。ゴイサギや白鳶(鷺?)が沢山居た。表門の松の木も表門も昭和9年の室戸台風
で倒れてしまったのである。唐崎行の小さいバスが通る様に成った
昭和六十二年二月一日書く
小林 康夫
六十六才
大正十年一月丗一日生
現在地番 豊新四丁目九ノ十一 北東に向かって」
とあり、道標の記述は無く、当道標と出来る明確な資料とはなりません。
私の推定元位置を、小林さんの絵に加筆してみました。紫の線で書いた位置が元位置を示します。
右上に貼り付けた東から見た時の道標写真は、絵にすると裏面となり、左右を反転して見る必要があります。
下側に貼り付けた写真は、絵に描かれた場合にはこの様になると思う。右面になる、指差し像の方向が「天王寺庄」である事が分かり易いと思います。尚、赤破線で書いた「明治の地図の道」は明治17~23年頃の地図に基づきます。『今昔マップ on the web』明治44年地図では「×」印の直線化された道が見えてきます。
【参考】
№70の絵に描かれた電柱下の描画が、道標であるかを見る為、別に明確に道標として描いた色紙絵を載せておきます。絵の裏書にハッキリと道標を書いたことが説明されています。上が南で、道標は現、豊新4-9-10のコンビニ駐車場の西角になると思う。辻の西側二階に「居酒屋しま田」の看板が見える。
40 三番町西より入る道路 駅より菅原
町より三宝寺より
この絵は今より六0年ほど前の冑(かぶと)道の三番西端れの唯一の入口と成る四ツ辻で
有ります。東隅に有る道標は着物の袖のある人が指をさしています。右大阪――左定専坊
と刻(ん)で有りました。古い物だなあと子供の頃思いました。右上部の集落は豊里菅原
町であります。左隅の方に淀川堤が有ります。現在上部左の方附近に新しい淀川に架かる
橋が出来ます。
左一寸(ちょっと)中央の場所に三番町の火葬場の有るお墓が有りました。
手前の家は中島住宅といった貸家で十二・三軒有りました。一部今も残っています。電柱
が有っても外灯など一灯も有りませんでした。上の方の水溜のところに現在島田の米屋さ
んが有ります。子供の頃の記憶より絵書きました。
昭和六十三年四月一日え書
小林 康夫 六十七才
大正十年一月丗一日生
現在地番 豊新4丁目十九ノ四 岡村さ(ん)より
さて、後は前回の忘れ物を撮影しに行きます。
明治の地図で西大道(東)からの道が、北西に続く間道に突当る三ツ辻と思われる場所に来ました。現在は四辻になっています。白い建物は豊新5-2-5の「北陸…淀川ハイツ」とあったようです。
元位置を南東に見る。小林康夫の「南より瑞光寺を眺めて」の鋭角的な辻では無いが、正面の白い建物の北面が道に沿っていると想像すると直角に突当るのではなく、少し角度を付けて交わる辻であったように、思い起こさせる気がする。
この辻南東部に、現南東面「すぐ 天王寺庄」が北西に面して建っていたとしました。この時南西面となる、指差し像は南東を指し、天王寺庄の方向を示す。東(ハイツの北側)から来た人には北東面となった「右、大坂」「左(南東)、能条(天王寺庄)」が見える。南東の天王寺庄から来た人には、「すぐ、瑞光寺」が見え、「大坂」とする道を進む事になる。
ブログとの出会い、小林さんの絵の展示、幸運が二つも重なり、最高の道標でした。ただ小林さんの絵の裏書に、道標に関する記述が載っていなかった事が唯一悔やまれます。新しい資料が得られることを期待します。
以上で豊里小学校に移設された道標の、元位置の考察をおえます。