2024/5/17、以前から耳にしていた、五月山の丁石を探しに行きました。さて見つかったでしょうか。
丁石と言うからは、神社か寺でしょう。公園の東にお寺があるのは知っていますが、丁石を建てる程の距離はなく、山の上の愛宕神社と目星をつける。では開始位置はどこか、愛宕神社=火の用心=大文字焼き、として「大文字コース」を選びます。前に道標を探した折に「ウォンバットコース」なるルートをトレースしたことが有りますが、その時に丁石は見なかった。現地に案内図があったと事を思い出し、有料道路の料金所を目指す事にしました。勿論、地理院地図を最大に拡大印刷した上で、一丁毎に印を付けた紙も持っていきます。
7丁手前で、南に10m程外れると「公園事務所西の道標」となります。久しぶりに写真を撮って元に復帰します。
橋手前辺りが7丁になります。この辺りにはありません。
「六丁」の下に、歌がかかれており、作者も入っています。一応読み下して載せて置きますが、あてには出来ません。
「愛宕火の松明散らす町下向、白舟」
歌の意味となると、なお一層です。五月山の「がんがら火祭り」は図書館のhpに「愛宕火は、城山町と建石町によって現在まで守られてきました。毎年8月24日に愛宕神社の御神火を頂き、大松明に移し麓を練り歩く(大意)」とありました。
これから察すると、山の上から麓の町を見下した様子を詠ったものと思われ、その場で詠んだものなら日にちも確定出来そうです。
又、web上で林田松三郎(安平、炭翁、1873~1955年、明治43年池田町町長)が昭和初期に参道改修時に当時の俳人に呼びかけ建てたものの一部とする資料がありました。尚、その記事には「白舟」を「大谷白船」としており、「舟」の誤りがあり、その他の記事部分にも誤りが無いか気に掛かる。
さて、案内板を左に回り込んで、ドライブウェイに出ますが、ここにも歩道は無く舗装路を歩き東に向かいます。南のガードレール外を歩けなくもないと思いますが、通りません。(帰路には歩いてみたが道では無さそうでした。)二丁丁石から1丁程来ると、石段北に建つ愛宕神社標石の30m程西(手前)の車道上になります。
境内を一周したが、丁石に関する石は無い様である。丁石を再建した時に経緯等を記した石を建てることが多いのであるが遺失したものか。前述のweb記事が正しいなら「炭翁」さんの一句と共に「昭和…再建」等とある石が見たかった。
展望台の南西直下辺りに「池田市木部町3の丁石」が見えないかと期待したがダメで、北端まで進み北を見ると、以前調べた横山峠から、東に延びる旧妙見道の通る尾根筋が一望です。此処から見ると低い位置に見え、山中の難路で無い事が良く分ります。
木部の三丁丁石は目的地が不明です。梵字があり、距離も3丁と少なく、愛宕神社と無関係と思うが、転げ落ちる可能性も見ておきたかった為です。
遠くに何か見えます。走ります。一丁丁石が有りました。
この後、この道が参道であったかを確認する為、この先を再び愛宕神社に向け進みます。
昭和の初め頃として、『今昔マップ on the web』昭和4年修正地図を見ると、参道はほぼ直線的に北東に進んでいる。二丁辺りがやや急峻に見えるが神社との距離を二分する地点を一丁とすれば、現在のドライブウェイの上辺りなりそうです。依ってドライブウェイ建設により、邪魔にならないよう北の現在地に移設されたのではないかと想像します。
但し、昭和4年の地図の様に参道は直線でなく、九十九折れであったのは間違いないでしょう。
一基しかないと思っていた丁石が4基も見つかり大満足な一日でした。出発が遅く、帰りに時間があれば見ようと思っていたウォンバットも丁度閉園時間となり会えませんでした。今回の丁石は、郷土史などを丹念に調べればもっと詳しい事が分かりそうな気がしますが、一応完とします。
まとめとして詳細は「池田市愛宕神社の丁石一覧」を参照下さい。