萩谷山中の地蔵道標
その前に、何処からアプローチするか検討してみましょう。予め参照した本の資料から大まかな場所は把握できています。前回引き返した沢を越えて行くのが王道ですが、渡れない事を考え事前にその他の経路を検討しました。一点目は萩谷集落の中からいきなり沢の左岸に進入する道を探す。二点目は萩谷総合公園から入り沢を越え登り返す。三点目は摂津峡北部から沢沿いに登る。
3番目は地図に道が無くシンドそうなので止め。1,2の手段は現地で対応出来そうです。では出発。
2.西国街道から
何時も利用の旧西国街道の宮田町2丁目の順礼橋バス停から北に折れ、府道115号西五百住線に入れば、後は一本道です。名神を潜り奈佐原の殿岡神社を右にやり過ごすと一気に山の中へと進みます。こんな所にも関大がと思いつつ行くと坂は更にキツクなり、関大西門から400m程で道の左(西)側に霊仙寺に下る道が分岐する辻に出ます。ここには「霊仙寺町の道標」が建っており、落款がある珍しさもあり何度か訪れている。
休憩を兼ねて少し見てみましょう。落款は北面です。三ヶ所にあり、これが一般的だそうです。紀年銘も「時寶暦七年歳次丁丑秋九月 蘇洲沈士龍」とありこれが建立年なら1757年となりますが、何かウサンクサイと思ってしまいます。が、東面の道案内は「右、萩谷道」でこれから行く方向を示しています。
4.富田街道記念碑
「萩谷寒天小屋分岐点の道標」を北西に見る。左奥へ「武士自然歩道」らしい
5.後回しにする道標
萩谷月見台のピークを過ぎると、道は大きく西に向きを変え北大阪変電所の南を通り北西に向かいます。前の道標から1.3㎞程の地点に、左へ細い地道が北西に分岐するところです。地道左手(西側)に「萩谷寒天小屋分岐点の道標」が建っています。これも「五角柱」と珍しい形状をしているのですが、詳細は帰りに見るとして、北西面の「右、萩谷道」に従って、府道を進みます。
6.萩谷総合公園
道標から600m程道なりに進むと、右手(東)に萩谷総合公園の入口に到着します。ここで前述の2点目の経路を検討すべく、公園内に進みました。『今昔マップ on the web』の明治の地図にある点線道を検討する為です。サッカー場の北東部辺りと見当を付け、公園内を下ります。(公園の写真は撮り忘れた。)
一ヶ所それらしい地点を見つけ少し辿ろうとした時、偶然、多分バードウォッチング中の土地の方とお会いし、話を聞くと沢に降り対岸へ渡る道は無いが、少し西の休憩所の所から萩谷集落へ抜ける道なら有る。との事でした。お別れした後、疑うわけではないが少し沢方向へ下ってみたが北へ向わず、東に行きそうに見え引き返す事にします。(行ける可能性は有るのかも知れないと後に思う。)
7.萩谷は府道の下に
公園入口から再スタートです。700mで「下萩谷」バス停になり、バス停北の三ツ辻を右(東)に下ると、前回引き返し点への近道なのですが工事中の様でもあり、1番目の経路も捜したいので、270m先の「中萩谷」バス停の三ツ辻(実は四辻、北に登る細い道がある)に進みます。
8.萩谷集落中に分岐なし
ここを、折り返す様に舗装路を南へ下り集落中へ進みます。折り返してすぐに沢を越す橋があり一旦左岸側を進む事になり、このまま山を巻く様な左側道に分岐する辻が無いか探していきます。即ち1番目ルートの探索です。これが有れば沢を渡らずに済みそうで一番期待するルートなのですが、見つけられない内に二つ目の橋を渡り右岸に移り、車の通れない集落中を進む事になってしまいました。ここから先は前回に調査済みです。
即ち、代替ルート3候補は全アウトと理解し、残る王道ルートに掛ける事にします。後は何処で沢を越すかを決めるだけです。
9.進入口の道標
その前に「萩谷長賢寺道標」を見ておきましょう。長賢寺を通り越して集落を抜け出て、コンクリート擁壁に当り少しでX字辻へ。
10.沢を渡り先へ
沢右岸の道に戻り、前回引き返し地点に進みます。道の状態は悪くなっているが、何んとか沢に行き当たりました。川の水は前より減っており、石伝いに渡れそうです。この辺りから先は「萩谷山中地蔵道標」に詳しく書いていますのでそちらも参照下さい。
一部重複しますが、ストーリーだけ書いて置きます。
沢を渡ると、進む方向に悩みましたが、地図の読みから沢沿いでは無いとし、左岸上に上ると道が続いている様に見えます。
大きな倒木があり心配しましたがそれを過ぎると一気に快適になります。ほぼ同じ高度を保つように進むと谷が開け右下の沢に下れるような地点になりますが、そのまま高さを保ち進みます。
所々倒木が有ったり、笹で踏み跡が分かり難くなったり等するが道なりに進むと、道は広くなり、正面に植林地がありその中へと入っていきます。多分林に入る手前から地蔵が見えてくると思います。
走り出したい気持ちを抑え、「何も考えず沢を越してくれば良かったものを」と時間の無駄を気にする体で近付きます。
でも、この写真を撮る時は「へへへ!」と漏らしていたと思います。先ずは掃除に掛かります。
一通りのルーチンワークを済ませ、この後続く道を調べてみます。
ここは三ツ辻に成っており、北西から今やって来た道は尾根筋を越えほぼ水平に北東方向に道なり進むように見え、地蔵から分岐の尾根筋の道は南東へ下りにかかる、状況です。地蔵は北西に顔を向け、やってっ来た私を迎えて、「右、やなぎ谷道」と案内しています。即ち南東へ下れと仰っています。
12.柳谷道は
では、右に分れ、この南東に延びる尾根筋を下る事にしてみましょう。
13.もう一方の道は
地蔵の辻に戻りました。最初に来た道から地蔵で右に分岐せず、尾根を廻り込むように北東に水平に進む道を行ってみましょう。こちらの方はすぐ北に向かい暫らくは続くようですが100m程進み引き返しました。
『今昔マップ on the web』の明治の地図で見る限り、こちらの道が「柳谷」への道に相応しい気がします。そうなると地蔵の向きがほぼ反転していると思われ、その気で見ると地蔵の置かれている位置も谷側に置かれ、何時落ちてもおかしくない谷側で、常識にはそぐわない。
14.地図に無いので帰る
疑問を残したまま引き返すことになりました。
帰りは、来た道を引き返すだけで気楽なものです。念のために反対向けの写真を撮りながら、急ぎます。
17.寒天小屋分岐道標
府道に戻り、後は帰るだけですが、行に約束していました「萩谷寒天小屋分岐点の道標」を見に行きます。
18.車作へもギブアップ
ただ、妙見に進みたい場合、車作に出るか、途中分かれて寒天小屋に出るかは定かで有りません。現在はダム工事中で、多分妙見への旧道と思われる道は寒天小屋に出ず、ゴルフ打ちっ放し場辺りから北に曲がるものと思われ、完成後も生き延びることを期待します。
尚、茨木市が武士自然歩道とする道の内、最初を除くと南西には下らず北に向かい、大部分は旧道では無いようです。この程度しか分かりません。
19.終りに
今回道標を見つけられて嬉しかったのですが、何時もと同じくその後の経路をつかみ切れなかった。毎度のことながら恥ずかしい思いです。時間が無い為としておきます。
【参考】蘇洲沈士龍
蘇洲沈士龍をwebで検索すると慶応大学の学術情報リポリトジに「『津逮秘書』所収の『秘冊彙函』版について」とする劉斯倫の論文?に出合い、それによると、
字は汝納、嘉興県の人。万暦朝の名臣沈思考の息子。万暦25年(1597)に挙人になり、40年(1612)死去。夭折した為名声は世に知られず、『秘冊彙函』所載の序跋文数編のみ。
『秘冊彙函』は所収の書物二十二種、計百四十三巻。とあり、22種中に『佛国記』、『山海経図賛』等の名がある事等から地理に詳しい方であったのかも知れない。