萩谷山中の地蔵道標

1.始めに

地蔵を南東に見る

永年気になっていた地蔵道標を探しに行ってきました。近辺までは一二度来たのですが、今日はこれのみに絞り、川を越え山中に分け入る覚悟です。何しろ地図に道が載っていません。果たしてどうなる事か。尚今回写真を余り撮らなかったので、古い写真も使いました。

その前に、何処からアプローチするか検討してみましょう。予め参照した本の資料から大まかな場所は把握できています。前回引き返した沢を越えて行くのが王道ですが、渡れない事を考え事前にその他の経路を検討しました。一点目は萩谷集落の中からいきなり沢の左岸に進入する道を探す。二点目は萩谷総合公園から入り沢を越え登り返す。三点目は摂津峡北部から沢沿いに登る。
 3番目は地図に道が無くシンドそうなので止め。1,2の手段は現地で対応出来そうです。では出発。

順礼橋を南西に見る。右(北)に府道115を進む、目指すは萩谷

2.西国街道から

何時も利用の旧西国街道の宮田町2丁目の順礼橋バス停から北に折れ、府道115号西五百住線に入れば、後は一本道です。名神を潜り奈佐原の殿岡神社を右にやり過ごすと一気に山の中へと進みます。こんな所にも関大がと思いつつ行くと坂は更にキツクなり、関大西門から400m程で道の左(西)側に霊仙寺に下る道が分岐する辻に出ます。ここには「霊仙寺町の道標」が建っており、落款がある珍しさもあり何度か訪れている。

休憩を兼ねて少し見てみましょう。落款は北面です。三ヶ所にあり、これが一般的だそうです。紀年銘も「時寶暦七年歳次丁丑秋九月 蘇洲沈士龍」とありこれが建立年なら1757年となりますが、何かウサンクサイと思ってしまいます。が、東面の道案内は「右、萩谷道」でこれから行く方向を示しています。

「霊仙寺町の道標」を北に見る。奥に登る

「霊仙寺町の道標」東面、「右、萩谷道」

蘇洲沈士龍と落款

4.富田街道記念碑

月見台バス停を北東に見る。左、萩谷へ

富田街道改修記念碑(右)を北に見る。明治34年、富田、萩谷等の銘が背面に有。

萩谷西五百住線の急坂がほぼ終わりました。住宅地に出ます。東側バス停の陰に気になる石が二基建っていました。
 東側の一基には「富田街道記念碑」とあり、北面には漢文調の文字があり、もう少しで道標の機能も持つ、と出来そうですが、進むべき方向が入っおらず道標とはしません。

「萩谷寒天小屋分岐点の道標」を北西に見る。左奥へ「武士自然歩道」らしい

5.後回しにする道標

萩谷月見台のピークを過ぎると、道は大きく西に向きを変え北大阪変電所の南を通り北西に向かいます。前の道標から1.3㎞程の地点に、左へ細い地道が北西に分岐するところです地道左手(西側)に「萩谷寒天小屋分岐点の道標」が建っています。これも「五角柱」と珍しい形状をしているのですが、詳細は帰りに見るとして、北西面の「右萩谷道」に従って、府道を進みます。

6.萩谷総合公園

道標から600m程道なりに進むと、右手(東)に萩谷総合公園の入口に到着します。ここで前述の2点目の経路を検討すべく、公園内に進みました。『今昔マップ on the web』の明治の地図にある点線道を検討する為です。サッカー場の北東部辺りと見当を付け、公園内を下ります。(公園の写真は撮り忘れた。)

一ヶ所それらしい地点を見つけ少し辿ろうとした時、偶然、多分バードウォッチング中の土地の方とお会いし、話を聞くと沢に降り対岸へ渡る道は無いが、少し西の休憩所の所から萩谷集落へ抜ける道なら有る。との事でした。お別れした後、疑うわけではないが少し沢方向へ下ってみたが北へ向わず、東に行きそうに見え引き返す事にします。(行ける可能性は有るのかも知れないと後に思う。)

公園内サッカー場北東部を北に見る

同左50m程先で東を見る。下り始める

野球場北東部の萩谷集落への分岐を西に見る。右萩谷、左摂津峡、東海自然歩道

7.萩谷は府道の下に

公園入口から再スタートです。700mで「下萩谷」バス停になり、バス停北の三ツ辻を右(東)に下ると、前回引き返し点への近道なのですが工事中の様でもあり、1番目の経路も捜したいので、270m先の「中萩谷」バス停の三ツ辻(実は四辻、北に登る細い道がある)に進みます。

下萩谷バス停北の三ツ辻を北東に見る

同左緑フェンスの間より東下を見る

中萩谷バス停を南東に見る

中萩谷バス停北の進入口を東に見る

同左、現道標と地図を東に見る

同左、東海自然歩道地図西面。地蔵道標位置を写真に書き加えてみた。

集落北の二つ目の橋を南に見る。左の山に取り付きたいが、右岸側集落中に進み長賢寺前へ。

8.萩谷集落中に分岐なし

ここを、折り返す様に舗装路を南へ下り集落中へ進みます。折り返してすぐに沢を越す橋があり一旦左岸側を進む事になり、このまま山を巻く様な左側道に分岐する辻が無いか探していきます。即ち1番目ルートの探索です。これが有れば沢を渡らずに済みそうで一番期待するルートなのですが、見つけられない内に二つ目の橋を渡り右岸に移り、車の通れない集落中を進む事になってしまいました。ここから先は前回に調査済みです。
 即ち、代替ルート3候補は全アウトと理解し、残る王道ルートに掛ける事にします。後は何処で沢を越すかを決めるだけです。

9.進入口の道標

その前に「萩谷長賢寺道標」を見ておきましょう。長寺を通り越して集落を抜け出て、コンクリート擁壁に当り少しでX字辻へ。

下萩谷バス停直下のX字辻を南に見る。バス停へは右の道を上がる

同左辻の案内板を西に見る。四辻では無くX字辻である。

X字辻から30m程先で「萩谷長賢寺道標」を南に見る

沢右岸への進入口を南東に見る。右は東海自然歩道、総合公園へ。

道標西面「すぐ柳谷道」、即ちこれから行く道です、東海自然歩道から分岐し沢に下りる

この道標が移動していなければ、ここから繋がる事は疑いの無い事になり迷うことなく進めるのだが。自然歩道から離れて進むべき道はグーグルマップにも無く、地理院地図にも描かれていない道です。唯一明治の地図が頼りです。

後日分かったのですが、高槻市認定路線マップ、路線番号6-14「萩谷14号線」の地図があり、これによると地蔵道標近くまでは一応市道らしいものがあると思われ原に繋がっていますが、尾根近くで現実の道から外れ沢沿いに向かい、明治の地図と大きく異なっています。

10.沢を渡り先へ

分岐点を南東に見る。柳谷道は杖方向下に、右は自然歩道公園へ

道標下の東海自然歩道から左へ分岐します。
 渡渉地点探索です。沢沿いに右岸を100m程進む道は已然に通っているので、それまでに左岸に渡る橋跡が無いかを先に探します。

分岐から10m程で南を見る。左民家下竹藪への入口、沢迄進行は困難

前述の明治の地図を拡大すると、集落の南端まで少し幅のある道が描かれ、南東に破線の道として続く様子から、現在の「萩谷長賢寺道標」のある辺りで沢を越していたと見え、多分橋が有ったのではと想像し、近くを調べる。道標の東下の民家の南側が竹藪になり、やや平坦地である。橋を架けるには良さそう場所に見えたが、竹藪を突っ切れない。仕方なく一度沢に下り、少し沢を登って見ると、両岸に石積み跡がある様に見え、橋が有ったとも見えるが、そこに行き着けません。

民家薮下南から北を見る。中央、左岸の橋脚石垣跡らしきが見えるが行けない。

右岸を下り渡渉地点を南東に見る。

沢右岸の道に戻り、前回引き返し地点に進みます。道の状態は悪くなっているが、何んとか沢に行き当たりました。川の水は前より減っており、石伝いに渡れそうです。この辺りから先は「萩谷山中地蔵道標」に詳しく書いていますのでそちらも参照下さい。

2018年撮影。前回退却地点。写真で見ると余り水量は変わらないか

左岸に渡り下流を窺う、沢沿いに道は無さそう。中央竹方向に倒木の下を進む。

渡った沢を振返る。右、萩谷集落へ

一部重複しますが、ストーリーだけ書いて置きます。

沢を渡ると、進む方向に悩みましたが、地図の読みから沢沿いでは無いとし、左岸上に上ると道が続いている様に見えます。

渡渉後沢を離れ、開けた地点に出て西を振返る。左上に送電鉄塔が見えた。

渡渉後の道、所々倒木が邪魔をする。帰路の為、左の写真と前後関係を忘れる。

やや下りかけた尾根筋林を南東に見る。中央やや左に地蔵が見える。

大きな倒木があり心配しましたがそれを過ぎると一気に快適になります。ほぼ同じ高度を保つように進むと谷が開け右下の沢に下れるような地点になりますが、そのまま高さを保ち進みます。

所々倒木が有ったり、笹で踏み跡が分かり難くなったり等するが道なりに進むと、道は広くなり、正面に植林地がありその中へと入っていきます。多分林に入る手前から地蔵が見えてくると思います。

走り出したい気持ちを抑え、「何も考えず沢を越してくれば良かったものを」と時間の無駄を気にする体で近付きます。

でも、この写真を撮る時は「へへへ!」と漏らしていたと思います。先ずは掃除に掛かります。

地蔵を南東に見る

地蔵道標と確認出来た

地蔵を東に見る。右光背に道案内

一通りのルーチンワークを済ませ、この後続く道を調べてみます。
 ここは三ツ辻に成っており、北西から今やって来た道は尾根筋を越えほぼ水平に北東方向に道なり進むように見え、地蔵から分岐の尾根筋の道は南東へ下りにかかる、状況です。地蔵は北西に顔を向け、やってっ来た私を迎えて、「右、やなぎ谷道」と案内しています。即ち南東へ下れと仰っています。

12.柳谷道は

では、右に分れ、この南東に延びる尾根筋を下る事にしてみましょう。

道標を南に見る。現案内では「右柳谷」が奥を示す。暫くは緩やかな道。

道標を北東に見る。奥、水平な道が続く

道標を北西に見る。奥、来た道を萩谷へ

地蔵北西面拡大。案内に従い右に下ります。

少し下ると傾斜は一気に急になりそのまま下る事が出来なくなります。西よりに折り返し下っていきます。上からのぞくと折返し道の下では二手に分かれるようです。勿論地理院地図には何方の道も載っていません。地蔵の有る道も載っていないのだから仕方ありません。登り返すのが辛そうなので、引き返します。

この道は、あきらめます。

南尾根筋を下ると急傾斜と成り先には進めず、右手へ九十九折れに下り始める

この先北向きの道で引き返し点の写真を撮り忘れる。

13.もう一方の道は

地蔵の辻に戻りました。最初に来た道から地蔵で右に分岐せず、尾根を廻り込むように北東に水平に進む道を行ってみましょう。こちらの方はすぐ北に向かい暫らくは続くようですが100m程進み引き返しました。

『今昔マップ on the web』の明治の地図で見る限り、こちらの道が「柳谷」への道に相応しい気がします。そうなると地蔵の向きがほぼ反転していると思われ、その気で見ると地蔵の置かれている位置も谷側に置かれ、何時落ちてもおかしくない谷側で、常識にはそぐわない。

14.地図に無いので帰る

疑問を残したまま引き返すことになりました。

帰りは、来た道を引き返すだけで気楽なものです。念のために反対向けの写真を撮りながら、急ぎます。

15.総合公園にも続く

帰りには、「萩谷長賢寺道標」地点から現在の標識に有る「至、萩谷総合公園、白滝」方向を調べてみます。150m行くと、萩谷総合公園から下萩谷バス停に繋がる舗装路に出て、来るときにお聞きした方が言われていた道である事が確認出来ました。そちらから来る場合は「萩谷分校跡」を目安に分岐するとよいでしょう。ここで又「萩谷長賢寺道標」に戻ります。

東海自然歩道が舗装路と合流する辻を北に見る。左は下萩谷バス停南へ、右は自然歩道をX字辻へ。

X字辻上部の通行止め」を北西に見る。左奥、下萩谷バス停へ

16.下萩谷バス停へ

「萩谷長賢寺道標」を10m北に戻り、X字の辻に出て左斜め上(南)に、これがなぜ舗装道なのかと疑いつつよじ登りすぐに北に折り返すと、「下萩谷」バス停の北に出ました。往路の時の工事も終わっており通行可能?した。前にも通った事が有るので何の工事か見たかっただけです。道路工事では無く崖の補強工事でした。

17.寒天小屋分岐道標

府道に戻り、後は帰るだけですが、行に約束していました「萩谷寒天小屋分岐点の道標」を見に行きます。

「萩谷寒天小屋分岐点の道標」北西面。「萩谷」は現府道を示すと思う。

この道標の北面にある「左、車作・妙見道」が示す道が車作に出るか確認したかったのです。現行で「左」となれば府道を変電所の方に戻る事になり、設置の向きがおかしい事は「萩谷寒天小屋分岐点の道標」詳細中に述べていますが、ここは西へ分岐する地道である事は明確です。しかしこの道が本当に車作に行けるか見る為です。

尚、寒天小屋とは建物ではなく地名の様で、現茨木市車作の南部で安威川左岸辺りと思われます。ダム完成後は多分水没すると思われます。

道標から北西を見る。中央細道を車作へ

18.車作へもギブアップ

茨木市の武士自然歩道の標識が有りました

分岐した地道を80m程進むと三ツ辻になります。道なりであろうと直進するも200m程進み右手崖下が見えると府道が見え慌てて引き返します。三ツ辻まで戻り、今度は道標から来た場合の左(西)に分かれます。すぐに下り道となり南へと方向も変わります。見晴らしがよくなり新しいダムが見えれば車作へ繋がると出来るのであるが、一向に見えず、且つ谷筋に向かう様なので諦めました。結果、最初の200m地点までの道を進み、東の府道から登って来る現「林道車作線」に出たならば、名前の通り車作に行けそうだ。

南西に下る道、確認出来ず引き返す

ただ、妙見に進みたい場合、車作に出るか、途中分かれて寒天小屋に出るかは定かで有りません。現在はダム工事中で、多分妙見への旧道と思われる道は寒天小屋に出ず、ゴルフ打ちっ放し場辺りから北に曲がるものと思われ、完成後も生き延びることを期待します。
 尚、茨木市が武士自然歩道とする道の内、最初を除くと南西には下らず北に向かい、大部分は旧道では無いようです。この程度しか分かりません。

19.終りに

今回道標を見つけられて嬉しかったのですが、何時もと同じくその後の経路をつかみ切れなかった。毎度のことながら恥ずかしい思いです。時間が無い為としておきます。

【参考】蘇洲沈士龍

蘇洲沈士龍をwebで検索すると慶応大学の学術情報リポリトジに「『津逮秘書』所収の『秘冊彙函』版について」とする劉斯倫の論文?に出合い、それによると、
字は汝納、嘉興県の人。万暦朝の名臣沈思考の息子。万暦25年(1597)に挙人になり、40年(1612)死去。夭折した為名声は世に知られず、『秘冊彙函』所載の序跋文数編のみ。
『秘冊彙函』は所収の書物二十二種、計百四十三巻。とあり、22種中に『佛国記』、『山海経図賛』等の名がある事等から地理に詳しい方であったのかも知れない。