結果から先に言いますと、①江戸の道の痕跡らしき物はありました。が、峠の南で、③昭和の道が西から北に廻りこむ辺り、谷筋で言うと下から二つ目の砂防堰堤手前で一度①②が合流し、すぐに②明治の道が分岐し、①は直進する。しかし①は数十メートルで途切れ、②も③の道直下迄は行き着くものの、共に③に合流することなく、途切れてしまう。
地形に特徴のある点では、グーグルマップ現在地点をスクリーンショットとして残しておきます。今日は現在地が受信できるようなのですが、スクリーンショットが上手くいかないのです。私のスマホは、音量小と電源ボタンを同時に押すのですが、ほとんど音が小さくなるだけです。これを考えた人、何とかならんのですか。
『ひだる神』
この石像は、妙見大士です。ここは、ハラガタワ峠の道があり、昔このあたりで、ひだる神が旅人にとりつかれ、
死人が出たので、ここに馬頭観音と妙見大士を祀りました。
(天保の大飢饉があり、この地で旅人が空腹で多くの人が亡くなり、その人たちの魂が、この地に留まり、ひだ
る神となって旅人を悩ましていた。)
馬頭観音は丹波・福住の人が、妙見大士は能勢の天王・山辺の人が出し合って慶応元年(1865)ここに石堂
を作り祀りましたが、その後、新しい道が横にでき、通行する人が無くなったので、福住の馬頭観音は持ち帰っ
たらしく。今は妙見大士だけが残っています。
石堂が壊れ、妙見大士が押しつぶされそうになったので、そこから引き出して、石堂近くに単独で祀っています。
森本 弌著『能勢の昔と今』を参考
「ひだる神」の横の説明板(全文は上記参照)に「石像は妙見大士、別にもう一体馬頭観音と共に、慶応元(1865)年に建てられたが、新しい道が出来た後、ここを通行する人がいなくなった為、馬頭観音は施主の福住に持ち帰えられた。」とし、施主が天王・山辺の妙見大士像は近年、埋没・損壊を避ける為外置きされたと書かれている。この「ひだる神」を守られたFさんによると、この時、道も有る程度整備したとお聞きしている。
三ツ辻を少し進むと②明治の道の小さなピークに成ります。説明の都合上G地点と名付けます。
前回はここG地点から第二砂防堰堤の下部へ下り、左岸(北)の堰堤上に登り、その先少し進んだ地点で引き返しました。その帰り際に、②明治の道を目指さず、堰堤から上部③昭和の道を目がけて、斜面を強引に登り、③に合流する地点を探したものでした。
さて今日はどうするか、①江戸の道を辿って来たのですから、その道の延長上を行きたいのです。でも②明治の道に飲み込まれた様に思え、この②の道から分岐する道はありませんでした。
この先道なりに進むと前回同様、砂防提下に向かいます。これは多分砂防提工事の為の道として新しく付けた道と思われ、再び下る必要は無いとする。
即ち、このG地点から上部に行くか、水平に進む痕跡があれば、それが①江戸、又は②明治の道であろう。
赤杭から10m程先で道跡が無くなります。取敢えず、水平方向に進んでみよう。道跡ではないが、人が着けた踏み跡があります。ザレザレで滑り落ちそうな場所では、手も使い進むが、見覚えのある前回と同じ場所に出てしまい、砂防提の上部に続くことが分かりました。滑り落ちそうでもあり、先へ進むのは止める事にします。
この踏み跡はダメ(①江戸の道ではない)と結論し、同じルートを引き返します。
赤杭の地点に戻り上部に向かう痕跡を探します。前回と同じく、道跡ではないが登れそうな所を進む、ゴミだらけですが、道の脇に捨てられたものでなく、③昭和の道から投げ落とされたものが散乱しているだけです。ここは道ではありません。
この時点で①江戸の道、②明治の道が合体した道は、G地点で行止りと結論します。この赤杭迄とすれば10mは伸びますが、さほど変わらないでしょう。
①②合流地点直後の道のG地点に戻り、帰ります。帰りは出来るだけ①江戸の道を外さないようトレースするつもりです。
「豊能郡の道標」に、今回の①江戸の道(近世の道)、と②明治の道、のチェックポイントを☆印で追加しました。
尚、文中に掲げるスクリーンショットには踏査前の想定位置が示され、調査後(現地図)の位置とは異なります。又、精度に関しては余り望めないので、山行時等に使われる場合はご注意ください。