妙見山奥ノ院本道丁石

妙見山奥ノ院を北に見る

1.始めに

暫らく手付かずであった、妙見山奥ノ院への参詣道で「本道」と呼ばれている参道の丁石を調べてきました。
 過去に、参道下部の「真如寺」から6丁辺りまでと、上部の奥ノ院から下へ3丁過ぎまでは調べが終わっていたのですが、途中倒木等(本当はシンドかったから)で未調査でした。今回は見つけられなかった「八丁」も含め、「本道」のみに絞り込み、行ってきました。

明治の地図、奥ノ院本道参道(黄緑色)

2.奥ノ院本道へ

「本道」とは何処から始まるのでしょう。取り敢えず真如寺からとし、真如寺へは、多分旧(1997年の)国道477号を野間中から北に進み地黄の豊能警察署前から更に北200mの三ツ辻(実は四辻)を東折れします。辻の北東部は真如寺駐車場となっており、北側には「奥の院」とするバス停もあるが昨今の情勢では無くなる可能性も大でしょう。
 辻南西部に「妙見山奥之院入口」の立看板が電柱に隠れる。この辻を東に折れると後は一本道で迷う事はないでしょう。曲がって直ぐに上り坂となります。
 この辻を参道の入口とするなら、丁石の最初のものが有って良さそうだが見つかりません。辻から30m程の北側に「南無妙法蓮華経」とある題目石が目立ちますが、どうも真如寺関連の石と思われます。

旧国道477号から奥ノ院参道を東に見る。'22/12月撮影

舗装道ですが、かなり急な坂を180m進み右手(南)に機姫神社の入口、290m地点で橋を北側に渡り300m地点に持経寺、350m地点に鳥居が建ちます。

寶林山持経寺を北に見る、参道は右(東)へ登る。この寺は法華宗新門流とある。

鳥居を北東に見る。

鳥居の額は「妙見宮」であったように覚えており、奥ノ院の鳥居とすればここが起点とも考えられるが、周囲に丁石は見当たらなかった。webに「一の鳥居」とするものがある。

左、階段を昇り真如寺へ、
右、奥ノ院参道を東へ

分岐の辻から460mで真如寺への参道階段が北寄りに分かれますが、奥ノ院へは舗装道を直進です。600m地点で左(北側)に七面堂前に出る道が鋭角的に戻る様に分岐しています。奥ノ院本道が真如寺本堂から境内を抜け七面堂に出て参詣する道であるは分からないが、妙見山奥ノ院へは、舗装道が最短です。

七面堂少し下で東を見る。トラックの右に今谷道の木橋に続く道(橋)がある。

七面堂の分岐を西に振返り見る、左を「本道」とした、右に入ると七面堂へ。今回はここを想定「八丁」として出発。都合により'22/12月の写真

七面堂前から東(本道から)の進入口(左の写真)を見る

3.八丁丁石を探す

ここで、『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行、にある「「八丁」丁石は真如寺七面堂下の境内南端にあり」との記述を頼りに、堂南下の舗装道周辺と、七面堂に入り堂の回りの境内とおぼしき場所を探すがやはり見当たらない。前二回も見つけられなかった。
 あきらめて、この先へ進むこととする。同書でこの辺りに八丁が有ったとするので、本日の歩測の起点をここに設定しました。不明の丁石を見つける為には一丁毎の捜索が重要です。

4.あきらめて未踏区間へ

仮の起点「八丁」から30m程で右に分岐する道があり、突き当りには滝修行の場があるようです。帰りに覗いて見る事にします。
 この分岐を過ぎると舗装は無くなり参道の趣が出てきます。

以後、歩測による七丁、六丁、五丁、四丁、と進みますが空しく過ぎるばかりです。その都度マップに現在地をマーキングし四方の写真を撮るが、面白くないので割愛します。途中目を引いた写真のみ載せて置きます。

行場を過ぎ、砂防提を越えた辺りで東を見る。杭に府立北摂自然公園とある。想定八丁から170m辺り

前回、倒木で引き返した地点を西に見る。想定八丁から250m辺り

今回は参道の整備中と思われ、前回来た時の倒木が無くなっていたのと、整備用の資材が各所に置かれていました。関係の方々ご苦労様です。

一つ目の休憩用の石のベンチでしょうか。背面には名前が縦書される。道の反対側(西)には小さな空の祠があった。想定八丁から360m辺りか?

北東に向け大きく折り返す地点、二つ目の石のベンチか。補修用材木が用意されている。多分経緯度は
N34.960551 E135.469962

明治の地図では二つ目石のベンチ辺りから北東に直登(九十九折)していた様に見える。現在はこの先で東に大きく迂回している。

三丁丁石を北西に見る。
N34.960708 E135.470832

5.三丁は健在

前回調査済みの「三丁」丁石に着きました。これで未踏査区間は無くなりました。新たな成果は有りません。

北尾根道(倉垣参道(仮称))上から本道折り返し点を南東に見る。
N34.961139 E135.470299

三丁過ぎ(70m)の北尾根道(倉垣参道(仮称))合流点です。北に向かう道がある様に見えます。帰りに進んでみましょう。今はグルリと180度近く折り返します。

6.不思議なもの発見

2丁はやはり見つからず、一丁へ

途中参道右手に木の洞からリスが顔を出しているのかと思いきや、近寄っても逃げず、よく見ると「半魚人」が誕生するところであった。珍しや、珍しや。

2丁辺り谷側

「半魚人」の誕生にしか見えない。

「一丁」丁石を東に見る。
N34.960708 E135.472325

7.一丁も変わらず

「一丁」丁石は谷(南)側に置かれるも、残っています。山側に移設しないと遠からず谷に落ちるでしょう。この前後は勾配が緩く快適に歩けます。

一丁、西面

8.本堂周辺

0丁地点から本道を北西に見る。右階段は奥ノ院へ

「本道」の一丁からすると、ゴール地点になります。今谷道の丁石ではここはゴールでは無く階段上の事務所前が到達地点です。
ここまで来たら、やはり奥ノ院本堂まで参りましょう。「妙見奥之院」の現案内に従い階段を昇ります。確か80段程だったような気がする。

階段を北に見る。登り切って事務所前が、今谷道の0丁。

事務所前から北本堂?を見る。'22/12月

奥ノ院本堂?の額を北西に見る

本堂?西から北の堂を見る。'22/12月

ついでに、頂上部へ進みます。頂上へは本堂?の裏を東に回り込み50m程で着きます。目を引くのは鐘楼と題目石でしょうか。

奥ノ院本堂北上の鐘楼南より北東を見る。

奥ノ院北800m堀越峠の「地黄堀越峠の道標」を南東に見る。右、奥ノ院参道、左、府道732亀岡へ

9.堀越峠道と作業用道路

さて、引き返しますが、確認したい道があります。北堀越峠方面から直接登って来る道が無いか。他に、今谷道の「一丁」丁石から資材搬入用の作業道が奥ノ院事務所に繋がっているかの二点です。

「地黄堀越峠の道標」から奥ノ院北尾根に取り付き最短で登る道があるかも知れないと考え、頂上北側と、本堂上部の東側を見た。この辺りはかなりの勾配で道は付けにくそうです。又、道跡らしきも見つからず、堀越峠からはやはり今谷道と合流した後今谷道の「一丁」丁石が有る、東から登って来ると出来そうです。

事務所裏(東)から北を見る。右奥へ道跡らしいがすぐに人でも滑り落ちそうな急斜面となる。

今谷道「一丁」を西に見る。右奥への道が作業道と推測した。

 一方、作業道は、事務所の裏(東)側に回り込むと、北へ向うある程度の幅がある道らしき跡があります。が、すぐに狭くなり急斜面の一部になってしまい、人でも進みにくいでしょう。ただその先には再び道が続いているようで、今谷道「一丁」丁石の分岐点に繋がっていた可能性は高い。怖いので止めました、以前この下迄来たことがあるので、作業道路が繋がっていたものと考えます。

作業道を示す本道の0丁地点の案内板、下が北となる。奥之院左(東)の破線の道が事務所に繋がっていたと想像。

10.もう一つの参道へ

3丁石上の北尾根道分岐点を北西に見る。’23/1月撮影
一丁丁石から180m、
N34.961139 E135.470299

引き返して、宿題の北尾根分岐点(登りは合流点とした)から、倉垣参道(仮称)を調べてみます。
 この道を調べたいのは、北西の倉垣交差点の南にある薬師堂から登って来る道に繋がっていそうだからです。明治の地図には明確に描かれており、現在の地理院地図にもあります。そこで勝手に「倉垣参道」と名前を付けました。園部方面からは最短が亀岡からは遠く需要は少ないか。

明治の地図、上部「西村(倉垣)」から、ほぼ南へ向う破線(小径)の道が「奥院」西で参道に合流している

分岐点から15m程の境界石柱を北西に見る

倉垣参道出発点の薬師堂より南東を見るN34.970339 E135.465656

取敢えず道らしきものが有るので辿ります。少し行くと境界表示と思われる柱があり有望だと思われました。暫らく進むと下りつつ北西に向かうので予定通りの道だと嬉しくなりましたが、分岐から80m程で崖崩れにより道が無くなっていました。又その先には道らしきものが見えなかったので強引に渡る事はせず引き返しました。
 この倉垣への道は今後の宿題とはしません。登り口らしき点(薬師堂)は押さえているのですが、繋がる事は証明できませんでした。又、あわよくば丁石が残っているかも、と考えたのですがあきらめる事にします。

分岐点まで戻り、本道を下る事にします。その前に境界柱辺りから、尾根筋の背の陵部分に迂廻路がないか確認だけをしました。まばらに木が生えるだけで強引に行けば下れそうですが、踏み跡がないので止めました。

倉垣参道(仮称)の崩落地点を北西に見る。左が尾根側、右(東)が谷側
一丁丁石から260m、分岐から80m
N34.961571 E135.470002

三丁まで下ってきました。先の分岐からは80m程度でしょう
一丁丁石からは370m、
N34.960708 E135.4708326

11.成果なく下山

下りは「一丁」丁石から歩測を始め、「三丁」は想定地点より少し先(30m程遠い)になっていると思われる、丁石が移動したとするより、参道が長くなっている様に感じた。

後は、一気に下ります。滝修行場を通り越し、上りの時に想定した八丁地点は九丁を少し過ぎた地点になりました。
丁石は施主の住所表示から「1889(明治22)年4月1日~1925(大正14)年4月1日」と考えられ、当時より今の参詣道は道筋が長くなっているようです。

想定八丁の手前の、滝修行場に行ってみました。脱衣場やトイレが設置され事務所の様な建物も有りましたが人は見当たりません。奥の正面突当りが滝の落ち口になっており、かなりの水量がありました。妙見山北にある本瀧寺の滝よりも低いものの、水量はこちらの勝ちとみました。

行場を東に見る。滝は真如寺の修行場の様です。

12.「八丁」丁石発見!

真如寺参拝口の地点迄戻った所で、一応寺内を見ておくことにしました。石段を登り山門を潜ります。本堂前を反時計回りにグルリと回り境内に目ぼしいものが無いかと物色します。お詣りの人が見たら怪しいと思うでしょうね。でもお寺の人はこちらが頭を下げると同じく挨拶していただけます。

七面山標柱右の鳥居を東に見る。潜り奥へ。

山門前に戻り、北東方向へ更に登ります。題目石や、供養塔等が沢山ありますが興味はありません。七面山とある鳥居を潜り、七面堂へ向います。
 階段を昇り七面堂がもう一つ先の階段の上に見える所に来た時、右(南)側の玉垣(献金・奉献石柱)の切れ目に、何やら石が見えます。「これだ」と思わず叫んでいたかも知れません。慌てて駆け寄ります。南西面を見ると「八丁」とあります。

七面堂を東に見る。

七面堂一段下の境内南端を見る。中央に「八丁」丁石が小さくある。

「八丁」丁石を東に見る。

「八丁」丁石を西に見る。左下に舗装道(本道)が通っている。

アハハ、ついに見つけたぞ。『能勢の道しるべ』にあった「丁石は真如寺七面堂下の境内南端にあり」の意味が今始めて分かりました。「七面堂境内の南崖下を通る参道の南端」と誤って解釈していた事に始めて気が付きました。即ち、七面堂の西前の狭い境内ではなく、更に一段西下の境内(踊り場風)の南端、を言っておられたのである。前回も、前々回も、今日の登りのも見ていた場所です。
上からは見え難い状態です。

「八丁」丁石を南東に見る

八丁、北面

三丁、南面

「下の境内南端」が分かった所で、「八丁」丁石を見てみましょう。
 他の二基と同じ系統である事は一目瞭然です。これより下に丁石が無ければ、最初の丁石として中間の丁石に無い特徴が有るはずなのですが、「三丁」と同じです。そうすると、これより下にまだ丁石が続いていたと考えられそうです。
 一丁丁石からは920m、経緯度は
N34.958983 E135.466683
辺りと思われます。

「八丁」丁石を七面堂から南西に見下ろす

一丁、西面

一丁、西面下部

参考のために一丁丁石も載せて置きます。
 丁石の最初と、最後が中間と異なるという特徴からすると、この石の施主が2名になっており、他の二基が1名である。という些細な違いがあります。

施主の住所に「大阪市外…」とあり、大阪市の成立が明治22(1889)年4月、十三市域編入と西成郡上津町編入が大正14(1925)年4月、と市のhpに有るので、建立はこの間に絞り込めると思います。他の参道の石と比べても摩耗は少ない。

「八丁」が「一丁」と同じく、境内とはいえ谷側に置かれるのは不自然である。

「八丁」丁石の崖下参道?を西に見る。丁石は排水パイプの上にある。

「八丁」丁石は真如寺本堂から七面堂に参詣する道に面して立っている。これが奥ノ院への参詣道なら問題はないのですが、明治の地図では確認出来ません。ただ南側崖の近くに置かれるのは不自然で移設された可能性は高いと思われます。
 又、現在の地理院地図上の水平距離で、一丁丁石から八丁丁石まで920mと思われ、坂道の考慮を除いても0丁からは1,030m(9.4丁)となり、移設の思いを高める。ただ、戦後の地図を見ると道が付け替わっていると思われ、現三丁丁石を通らず倉垣参道(仮称)合流点に九十九折れで直登していたと考えると50m(0.5丁)は短かったと出来るが、これを考慮しても「9丁」丁石の位置になりそうで、移設としたい。

但し、現在「八丁」丁石の崖下を通る舗装道(本道とした)は、車が通行できるように改良された道であることは明白ですが、やはり元参道の跡ではないかと思います。

今谷道木橋の辻に向かう橋上より「八丁」丁石崖下を北東に見る。中央木々の向うに七面堂があり、道路右下は沢。

機姫神社の鳥居を南に見

13.本道起点を考える

帰路に何か(起点丁石)を期待して、機姫神社を訪ねてみたが、得るものは無かった。
 そこで、丁石の出発点に相応しい地点に戻り、探してみる事にしました。旧国道の「バス停のある三ツ辻か?」と言われるかもしれませんが、そうではありません。
 前にも書きましたがそこは本来四辻で、西に下る道は草が生えて道には見えませんが、一気に突っ切って下さい。70mで細い南北の道に出ます。その右手(辻の北東部)に石が立っています。残念ながらその石が丁石で無い事は知っていますが、近世なら、ここが丁石の起点に相応しいと思います。この狭い南北の道が、旧幹線道である事は、南に400m下ると、ゴミ捨て場三ツ辻に「地黄南町集会所東の道標」が隠れている事で納得出来るでしょう。

旧国道477の三ツ辻を西に見る。実は四辻で真っすぐ奥(西)に道が続く。

旧国道の辻を直進し70mで出て来る三ツ辻を東に見る。奥ノ院本道の起点か。

三ツ辻北東部に立つ石、西面に「真如寺寶塔舊趾」と書かれる。

「真如寺寶塔舊趾」昭和7(1932)年の石を北東に見る。'19/3月撮影

三ツ辻から明治の旧道を南に進むと地黄南町集会所東の三ツ辻に出る。

三ツ辻「地黄南町集会所東の道標」は現西面に「すぐ妙見道」とあるが、移設の可能性も含め、東の奥ノ院を示すものでは無く、野間中経由妙見山であろう。

集会所東の道標を南に見る、’18/12月の写真、今回の写真は逆光で没にした。

本日は大満足で帰途に着く。
めでたし、めでたし。